「お誕生日、おめでと」
控えめに微笑んで、彼は小さな包みを差し出した。
黄金色のふさふさとしたしっぽが、ゆらゆらと揺れている。期待に煌めく瞳が、包みを受け取られるのを待っている。
それだけで、まだ受け取っていないというのに嬉しくなってしまった。
「ありがとう。嬉しい」
「ほんと!?喜んでもらえてよかった」
にぱっ、とお日様みたいな笑顔で、彼は激しくしっぽを振る。感情が抑えきれなくなったのか、わたしの周りをくるくると回り出すのを笑いながら眺め、そっと受け取った包みを指先で撫でた。
小さな包みだ。可愛らしい花柄のちりめんで出来た包み。
「開けてみてもいい?」
「いいよ!開けて開けて」
ぴょこ、と茶色の癖毛の間から黄金色の耳を出し、彼は言う。二本足で歩き回っていたのが、段々と四本足で駆けだして。可愛らしかった男の子の顔が、格好いい狐の顔に変わっていく。
完全に元の狐に戻った彼の前で、包みの紐を解いた。
「――わぁ。きれい」
「それね。ボクが作ったんだよ。絶対、似合うと思ったの」
包みの中に入っていたのは、桜の花びらを模った髪飾り。白に近い薄桃色が光を反射して、とても綺麗だった。
「これ、ガラス?」
「そう!火を出してね。えいやっ、てしてね、作ったの」
肝心のえいやの部分は全く分からなかったけれど、彼の気持ちが嬉しくて、髪飾りを抱きしめありがとう、とお礼を言う。大切な友達にもらう贈り物ほど嬉しいものはないな、とふわふわとした気持ちで笑った。
「つけてあげるよ。座って」
促されて座り、髪飾りを人の姿になった彼に手渡す。
「じっとしててね」
そう言って、彼は真剣な顔をして、わたしの髪に触れる。可愛い男の子の格好いい表情に驚いて、とくん、と心臓が大きく跳ねた。
顔が熱い。俯いてしまいたいのに、じっとしてと言われた以上動けなくて、益々熱が上がっていく。
「はい、出来た。可愛いね。よく似合うよ」
「――っ、あ、りがと」
彼の笑顔がまともに見れない。ちょっと前までは、大切な友達だと思っていたはずなのに。
これじゃあ、まるで。
――彼の事が好き。みたいではないか。
「もうすぐ春が来るね。緑が芽吹いて蕾になって、花が咲く。そうしたら、一緒に花見に行こうか」
わたしの気持ちにお構いなしに、彼は太陽のように笑う。
楽しみで仕方がないと、しっぽを揺らし。絶対行こう、と顔を覗き込んで念を押される。
「分かった。分かったから。ねぇ、ちょっと離れてよ」
「なんで?いつもと変わらないじゃん。ねぇ、どうして?」
「ち、近い、から。とにかく、離れてっ」
小首を傾げる彼の顔を押しのける。悪気はないのだろうけれど、だからこそ余計に質が悪い。
「いいじゃん。いつもと一緒。変わらないでしょ」
ずきり、と胸が痛みを訴える。心臓が動きすぎて、どこかにぶつけてしまったのだろう。
きっとそうだ。変わらない、という言葉のせいではない。
彼のせいでは決してない。
そう言い聞かせる。痛みに泣きそうになるのを、唇を噛んで必死に耐えた。
「――ごめん。もう帰る。髪飾り、ありがとうね」
無理矢理笑みを浮かべてみせて、彼の横を通り過ぎる。
家に帰るまでの辛抱だと。逸る足は、けれど彼の手に腕を掴まれた事で止まった。
「ちょっと、離して」
「だぁめ。もうちょっとで芽吹きそうなんだから」
「なに、言って」
芽吹く意味が分からず、手を振りほどく事も忘れて彼を見る。
あ、と小さく声を上げた彼は、少し恥ずかしそうな顔をする。やっちゃった、と小さく呟いて首を振ると、何かが吹っ切れたように笑みを浮かべた。
太陽のような暖かな笑顔ではない。にやり、と意地の悪そうな顔だ。
鼓動が速くなる。軽やかに踊り出し始める。
「そろそろボクの事、意識してくれたでしょ」
「意識って、そんなこと」
「そんなことあるよ。だってずっと待ってたんだから。友達という種を撒いて。大好きって気持ちのお水をあげて、ようやく芽が出たんだよ」
何を言っているんだろうか。
彼とは友達で。大好きは友達としての大好きって意味のはずで。
「狐はね、頭がいいんだよ。狙った獲物は逃がさないの。だからね、狐のボクに好かれちゃったらもう逃げられないの」
にやにやと彼は笑う。その笑顔にすらどきどきしながら視線を彷徨わせていると、不意に気づく。
彼の耳もしっぽも垂れてしまっている。とても不安そうだった。
「あの、ね。取りあえず、手を離してくれる?」
「やだ。逃がさないって言ったでしょ」
「逃げないから。信じてよ、お願い」
彼の目を真っ直ぐに見る。恥ずかしいし、心臓は煩くなるし。何だかぐちゃぐちゃだけれども、それを耐えて掴まれていない方の手で彼の腕に触れた。
「――分かった」
眉を下げて彼は手を離す。ごめん、と小さく謝る彼の耳としっぽはすっかりしょげてしまっていた。
離れた彼の手を、今度はわたしが握る。驚く彼を、きっと睨み付けて、深く息を吸い込んで心のままに叫んだ。
「芽吹いたとか、逃がさないとか。そんな言葉で誤魔化さないでよ!ちゃんと、はっきり、言葉にして!言葉で伝えて、わたしをきれいに花咲かせてよっ!」
肩で息をする。自覚したばかりの――芽吹いたばかりの気持ちと今までの気持ちが混じり合ってくらくらする。
もう涙目だ。滲む視界の先で、彼がえ、だの、その。だのと混乱している様子が見えた。
彼の顔が赤くなる。
握った手を強く引かれて彼の方へと倒れ込み、そのまま強く抱きしめられた。
「キミの事が好きです!友達じゃなくて、恋人になってください!」
わたしにも負けないくらいの声で彼は叫ぶ。
耳が痛くなるほどの声量が、何故だか嬉しくてたまらない。
「喜んで!わたしの恋狐になってください!」
負けじと声を張り上げる。
彼を好きと自覚してから、あっという間の出来事ではあったが、彼のしっぽが元気よく振られているのを見れば、まあいいかという気持ちになってしまう。
くすくすと笑う。
爽やかな風の吹き抜ける青空の下。互いに抱き合いながら、しばらく笑い続けていた。
20250301 『芽吹きのとき』
「ここか。噂の建物は」
カメラを構え、遠目から一枚写真を撮る。データを確認し、落葉した木々に囲まれるレンガ造りの建物がはっきりと写っているのを見て、思わず感嘆の溜息が溢れた。
美しい建物だ。戦前からあるものとは思えない程だ。
況してやあんな噂話があるとは、とても信じられない。
噂を思い出してしまい、小さく体が震えた。気温の低さだけでない薄ら寒いものを感じて、慌てて首を振って気持ちを切り替え、建物の近くへ歩み寄った。
――戦前から建つ、レンガ造りの廃墟がある。
その情報を知ったのはまったくの偶然だった。暇つぶしに見ていたネットの掲示板に乗っていた噂話に出てくる廃墟。
噂話自体はよくあるものだ。誰もいないはずの建物に明かりが点いていただの、夜中に男の話し声がするだの。
そんなあからさまな怪談話よりも、建物事態に興味を引かれた。レンガ造りの、しかも戦前から建つ建物など、古い建築物――取り分け人の絶えた廃墟を好む自分にとって、多少目をつぶっても実際にお目に掛かりたいものだった。
場所が然程自宅から離れていない事も幸いした。廃墟の場所を書き留め、カレンダーで次の休みを確認し。
そして今日。こうして朝から電車を乗り継いで、こんな山奥まで来てしまった。
はぁ、とかじかむ手に息を吹きかけながら、建物を見上げる。近くで見ても尚美しいその姿に、時間を忘れ只管に魅入る。一枚でも多く写真を残そうと、カメラを構えシャッターを切った。
「何用か?」
不意に声をかけられ、飛び上がる。反射的に声がした方へ視線を向けると、建物の入口に男の人が一人、立っているのが見て取れた。
びくり、と肩が跳ねる。この建物の噂話を思い出した。
「ぁ、その。あの…ここって」
「ここは私の屋敷だ。何用だろうか」
え、と思わず声が出た。ネットではここは大分昔に廃墟になったとあった。それは間違いだったのか。
困惑する自分を一瞥して、男の人は僅かに表情を綻ばせた。
「長く屋敷を空けていたので無人だと思われていたか。まあ、態々こんな山奥まで来てくれたのだ。今は家内が不在のため茶ぐらいしか出せる物はないが、少し休んで行くといい」
噂話を思い出した時以上に、体が強張る。
つまり自分は廃墟だと思い込んで人様の敷地内に許可なく入り込み、自分勝手に写真を撮っていたという事になる。
これは立派な犯罪だ。廃墟だと思い込んでいたという言い訳は通用しない。ネットの情報を鵜呑みにせず、しっかりと調べてから訪れるべきだったのだ。
大変な事をしてしまったと血の気が引く。慌てて深く頭を下げ、必死に謝罪をした。
「あ、あの。すみません。勝手に写真を撮ってしまって。その、本当にごめんなさい」
「そんなに謝らないでくれ。私は気にしてはいない」
予想していたより大分穏やかな声に、怖ず怖ずと顔を上げる。特に気分を害したような様子はないようだった。
「気にしないでくれ。長く不在にしたこちらに責はある。家内も今は不在だしな」
苦笑する男の人に、強張っていた肩の力が抜ける。ネットの情報を鵜呑みにしたこちらが悪いというのに、咎める様子のないその優しさに、さらに申し訳なさが込み上げた。
「何もない所だが、ゆっくりしていくといい。久方振りの客人だ。私の話し相手になってくれると助かるな」
そう言われてしまえば、断る理由もない。失礼します、と男の人に告げて、建物へと足を踏み入れた。
玄関を抜け、リビングに通される。大きな窓から降り注ぐ光が室内の美しさを際立たせていた。
ほぅ、と息が漏れる。白いテーブルと椅子が二脚。飾り棚に置かれた品の良い小物は、男の人のいう奥さんのものだろうか。
深い赤の色をしたカーテンがふわり、と風に揺れる。窓際に置かれたテーブルとソファは、晴れた午後に読書をするのに最適だろうな、と促されて椅子に座りながら、不躾ながら室内を見回した。
「どうぞ。茶を入れる事もなかったから、美味いかは分からないが」
「あ、ありがとうございます」
白のティーカップを渡され、礼を言って口を付ける。仄かに甘い香りとさっぱりとした味に、口元が緩んだ。
「あの。長く家を空けていたのは、どこかに行かれていたのですか」
ふと、気になった事を目の前に座った男の人に尋ねる。どこまでも不躾ではあるが、男の人は気にする様子はなく、どこか寂しげな目をして微笑んだ。
「そうだな。色々な場所へ行ったよ。この国だけじゃなく、外の国へも。それが正義だと信じていたからな」
「正義…」
「だが、それが本当に正しかったのか、今となっては分からん…驚いたよ。ようやく戻って来たと思ったら、誰もいなかったのだから」
穏やかに男の人は語る。棚に飾られたフォトフレームに飾られた寄り添う男女の写真を見ながら、左手の薬指に嵌められた銀の指輪にそっと触れた。
「あの写真って、もしかして」
「今まで待たせてばかりだった。いつも何か言いたげに俺を見ているのに、何一つ言ってはくれなかったな。否、俺が言わせなかったのか。思えば気の利いた言葉一つかけてやれなかった」
静かな声音には後悔が滲んでいる。写真に向けられている視線は、けれどどこか別の何かを見ているようで、忍びなさに目を伏せた。
「一人でいると、この屋敷がやけに広く感じるな。ずっとこんな思いをさせていたのだろう…すまなかったな」
「…愛して、いたんですね」
「疲れただろう。こんな山奥だ。それにもう日が暮れかけている…少し休むといい」
言われて顔を上げ、窓を見る。気づけば空は朱から紺へと色を変え、夜が近い事を示していた。
いつの間に、時間が経っていたのだろう。
体感では一時間にも満たないと思っていたというのに。手にしたカップもすっかり冷えてしまっている。その氷のような冷たさに、再び口を付ける気にはならなかった。
「おいで。部屋に行こう」
男の人が徐に立ち上がる。手を差し出されて、戸惑いながらもその手を取り立ち上がった。
歩き出そうとして、ふらつく。自覚はないだけで、大分疲れが溜まっていたようだ。そんな自分に男の人はさりげなく肩を抱いて支えるようにして歩き出す。
「すみません。何から何まで」
あまりの申し訳なさに身を縮めて謝るが、男の人の返答はない。ただ僅かに目を見開いて、そして柔らかく笑み。自分が倒れてしまわぬよう、肩を抱く腕に力を込めた。
リビングを出て、廊下を男の人に支えられながら歩く。大分日も落ちて来たのか、薄暗い廊下はどこか不気味で冷たい空気を漂わせているようだ。先を進む事に僅かな不安を覚えて、身が竦む。
「暖かいな、お前は…懐かしいよ」
微かな呟く声に、そっと男の人を見上げる。淡く微笑むその表情は泣いているようにも見えて、酷く胸がざわついた。
「さあ、ここだ。そのまま一眠りしてしまいなさい」
廊下の奥。黒い扉を開けた先のベッドまで男の人に連れられて、横になる。
とても疲れた。すぐにでも眠ってしまいそうだ。
閉じかけた瞼をこじ開け、男の人を見る。動く力もない自分のために布団をかけて、その手が頭に触れる。
「ゆっくりとお休み。起きたら食事にしよう。その後は、お前の話を聞かせてくれ。――」
そっと一撫でして、男の人は身を起こし部屋を出て行く。
はぁ、と息を吐いて、力なく瞼を閉じた。
眠たくて仕方がない。それなのに、何か引っかかりを覚えて眠る事を脳が拒んでいる。
目を閉じたまま、耳を澄ます。風が吹き抜ける音。遠くで獣が鳴く声。枯れ草を踏み締める音。
微かに違和感を感じた。それが何か考えながら、無意識に深く呼吸をする。
きん、と冷えた空気が肺を満たす。鼻腔を掠める匂いに、眉を寄せた。
土の匂いだ。水を含んだ冷たい土の匂いがする。
緩やかに脈打つ鼓動とは裏腹に、思考は目まぐるしく働く。背筋が冷える感覚に、瞼をこじ開けカメラを手繰り寄せた。
悴む指で、データを開く。眠りに落ちる前の朦朧とする意識を手繰り寄せて、撮ったばかりのデータを確認する。
「――っ」
息を呑む。理解が追いつかず、目を逸らす事が出来ない。
何が起こっているのか。どこからが偽りで、どこまでが真実なのか。
昼間目にしていたものとは全く異なる、廃墟が映し出されていた。
外壁は割れて傾き、崩れ落ちている。木々が窓硝子を割って浸食し、建物を飲み込んでいた。
カメラから目を離し、周囲を見渡す。崩れた壁と木枠だけが残った窓から、青白い月の光が差し込んでいた。
体が震える。それは恐怖からか、それとも寒さからなのかは、もう分からない。
眠い。眠るな、逃げろと、脳は警告しているが、もう指先一つ動かす力はない。
瞼が落ちていく。黒く染まる意識の片隅で、不意に去り際の男の人の言葉が脳裏に響いた。
――おかえり。
今も待っているのか。妻の帰りを。
はぁ、と息を吐き出す。瞼は凍り付いたように開けない。手足の感覚もない。
鼓動が弱い。消えかけた蝋燭の火の揺らめきのように一つ、また一つとゆっくりと鼓動の間隔が開いていき――。
鼓動が、止まる。
「違ったのか」
無感情に男は呟き、眠る骸の頬に指を滑らせた。
硬く、冷たい。骸を起こし腕に抱いても、眠る前に触れた温もりは欠片も感じ取れなかった。
目を閉じ、記憶を手繰る。けれども愛しい妻の温もりは思い出す事は出来なかった。
忘れていく。何もかも。今では声もその姿でさえも、男は忘れてしまった。
目を開ける。腕の中には誰かの骸が一つ。
それは男の妻ではなく、知らない誰かだ。
「いつ、戻ってくるのだろうか」
骸を手放し、立ち上がる。
いっそ探しに行きたいが、男は妻の居場所に心当たりはない。
この屋敷が妻の居場所だと男は思っていた。兵役に就く男に、いつまでも帰りを待つと言っていたのは妻であったのだから。
しかし長い兵役を終えて屋敷に戻った時、妻は何処にもいなかった。寂れた屋敷が、ここが長く無人であった事を示していた。
「寒いな。一人はとても寒い」
呟いて、部屋を出る。朽ちた廊下を進み、リビングに入ると、椅子に腰掛けた。
窓の外へと視線を向ける。擦り切れ破れたカーテンの残骸が、瓦礫の隙間から風に揺らぐのを気にも留めず、ただ妻の姿を探している。
「俺の戻りを驚くだろうか。俺を出迎えぬ事を気に病まねばいいが」
優しい妻を想い、男は苦笑する。掠れた記憶を辿りながら、男は妻を待つ。
男は気づかない。
男が視線を向けている窓の側に置かれた、テーブルとソファに。
テーブルに伏した格好で事切れた、骸の存在に。その左手の薬指に掛かる銀の指輪の鈍い燦めきに。
「いつ帰ってくるだろうか」
窓の外を眺める男は気づかない。
遠い過去に亡くした、在りし日の温もりを求め。
今日も男は、妻を待ち続ける。
20250301 『あの日の温もり』
「やあ、可愛らしいお嬢さん。綺麗な星の降る夜だというのに、俯いてばかりでは実にもったいないものだよ」
不思議な抑揚の声が聞こえ、俯く顔を上げる。
膝を抱えた自分と同じ目線。夜の色をした美しい毛並みの猫は、目が合うと恭しくお辞儀をした。
「Good evening《こんばんは》、お嬢さん。今宵はまた一段と星が美しい。ワタクシと共に夜の散歩に行かないかい?」
「でも。わたし」
差し出される手を、首を振って拒絶する。涙の滲む視界で。猫の月のような眼がきらり、と煌めき、瞬いた。
「ごめんなさい。でも、壊してしまうから。わたしが触れるもの全部、壊してしまったの」
煌めく眼から逃げ出すように俯く。手首に絡みついた友人の優しさの残骸が、視界の隅で責めるように小さく音を立てた。
「お嬢さん」
静かな声に呼ばれて、肩が跳ねる。膝を抱える手に温かな肉球が触れて、その温かさに少しだけ顔を上げてそのしなやかな前足を見た。
「あれだね。これは友達からのPresent《贈り物》というやつだね。しかも手作りときた。壊してしまったのかい?」
「ごめん、なさい」
「責めている訳ではないよ、可愛いお嬢さん。ただ一つだけQuestion《質問》に答えてくれるかな」
顔を上げて、猫を見る。そっと体を寄せる猫から、花のような甘い香りがして、無意識に深く呼吸をする。
しばらく悩み、頷きを一つ。小さくいいよ、と呟いた。
「Thank《ありがとう》.お嬢さんは昔から、こうして物を壊すのかい?」
首を振る。物を壊し始めたのは、一週間前の事だ。
切っ掛けは分からない。悪夢を見てから触れるもの全てを壊し始めた気もするが、それがどんな内容だったのか思い出せもしない。
そうかそうか、と猫は呟いて。器用に前足でブレスレットの残骸を取り外し、目の前にかざしてみせる。
「可愛いお嬢さん。Suggestion《提案》があるのだがどうだろうか。お嬢さんのその余分な力を、ワタクシに頂けないかい?」
「余分な、力?」
「もちろんそのReward《報酬》は支払うよ。このBraceletを元の通りに直してあげよう。それでどうかな?」
小首を傾げて、猫は問う。
文字通り余分なものを対価に、大切なブレスレットが元に戻るなら。それはとても素晴らしい事のように思えた。
「――直せるの?」
猫の眼を見つめ、確認する。
「もちろんだとも!ワタクシに出来ない事などないのだよ。任せてくれたまえ…それでは、返答はYesでいいのかな?」
「うん。こんな壊す力はいらない。だからブレスレットを元に戻して」
月のような眼が歪む。
にんまりと、妖しく煌めいて。その輝きに、意識が揺れた。
「では頂くとしよう」
人のような赤い舌が口の周りを舐める。
大きく開いた口から、鋭い牙が覗いているのが見えたのを最後に。
ぶつり、と。意識が途絶えた。
満ち足りた顔をして毛繕いをしながら、二足歩行の猫は傍らで眠る少女に視線を向ける。
今時珍しい、純粋な少女だ。無知故ではなく、全てを知ってそれでも尚、相手に手を差し出せる。それは聖女の在り方によく似ていた。
妬まれるのも仕方がない。とはいえ、不幸を願い呪いをかける行為は、さすがに度を超しているが。
前足で顔を、特に口周りを猫は丁寧に拭う。先ほど喰らった呪いの残り滓を舐め取り、痺れるような舌先の刺激に喉を鳴らす。
悪食。仲間から眉を潜められるほど、猫の食の好みは偏っていた。
妬み嫉み、怒り憎しみなど、人間の負の感情は猫に取って最高の馳走だった。泥のような粘り気の強い舌触りと、舌を刺す痺れる感覚が堪らない。特に呪詛の類いは怨嗟の念が凝縮され、嗅覚や聴覚でも猫を満たす。刺激的でどこか甘ったるい腐敗臭に似た香りと、耳につく恨みの声。それが良いスパイスになるのだと、恍惚とした表情で語る猫の扱いに仲間は困り、故郷から遠く離れたこの地へ猫を追い出した。故郷から離れた場所で、さすがの猫の悪食も収まるだろうとの思惑があったが、数十の年月を過ぎて猫は変わらなかった。
毛繕いを終えて、少女の側に擦り寄る。仲間にすら忌避されるほどの悪食でありながら、猫は可愛らしいものを好んだ。
無垢な少女はこの先も、周囲に愛され、妬まれるのだろう。少女の側にいれば存分に腹は満たされ、可愛らしい少女を愛でる事が存分に出来る。
今更、猫は故郷に戻るつもりなどはなかった。
体を丸め規則正しい寝息を立てる少女のその頬に涙の跡を認め、体を寄せて頬を舐めた。
ざらり、とした猫の舌の感覚に、少女の眉が寄る。徐に瞼が開き、焦点の合わぬ黒い瞳が猫を見て瞬いた。
「Good Morning《おはよう》!可愛いお嬢さん。ご機嫌は如何かな?」
少女の瞳を覗き込むようにして、猫は囁く。
「少し、変な感じ。力が抜けた、みたいな」
「それは良かった。本当に余分な力がなくなったのか確かめるためにも、ワタクシと夜の散歩に行かないかい?」
戸惑う少女に、猫は大仰な仕草で前足を差し出す。片膝をつき、ゆるりと尾を揺らして少女を誘う。
ウインクをすれば、少女は堪らずに小さく笑い声を上げた。
前足に手を重ね、ゆっくりと立ち上がる。少女に合わせて猫も静かに立ち上がった。
「それでは行こうか。可愛いお嬢さん。Escortは任せてくれたまえ」
「あの…私、そんなに可愛くなんてない、から。その」
何度も言わないで、と言外に頼まれ、猫は小首を傾げて少女を見つめる。幼さの抜けきらない白い頬や小さな耳までもがほんのりと赤く色づいている事に気づき、猫は喉を鳴らして笑った。
「可愛いさ。お嬢さんは今まで出会ったどの人間よりも可愛らしい。このまま浚っていってしまいたいくらいだよ」
「そんな、こと。ないから…猫さんの方が、かわいいと思う」
「おや、それは嬉しいな。可愛いお嬢さんと、可愛いワタクシで、so cute《とても可愛い》というわけか…うん。実に良い」
少女の言葉に気を良くして、猫は少女の手に擦り寄った。
擽ったいよ、と笑う少女に月のような眼を歪ませて笑い、手を引いて歩き出す。
「行こうか、可愛いお嬢さん。夜が明けてはもったいない。夜の終わりには家に帰らなければならないからね」
軽く手を揺らしながら誘う猫の言葉に、少女は今度は何も言わず猫と共に歩き出す。
歩く度に少女の手首から、しゃらと微かな音が鳴る。二つのブレスレットが、月明かりを反射して煌めいた。
20250228 『cute!』
その家は、良くない家だと密かに噂されていた。
木造二階の一軒家。周囲の家と然程変わりのないそこは、借家として売りに出されて数年。もう何人もの人が入れ替わり、住んでは出て行く事を繰り返している。
過去にその家で不幸があったという訳ではない。それこそ幽霊が出るとか、呪われてしまうだとかの噂も一切出てきた事はなかった。ただそこに住んだ人は数ヶ月、もっと一年ほどで家を出る。
――この家は、良くない家だ。
家を出る際に、そこの住人決まって言う言葉だ。何がどう良くないのか何一つ語る事もなく、それに対して怯えている訳でもない。普段と変わらぬ表情で、別れの挨拶代わりにそれだけを告げて家を出て行く。
それが十年以上続き。最後の住人が家を出て、一度全体的な改修工事が行われてから今まで、その家に住む者は誰もいなかった。
玄関の鍵を開けて、中へと入る。
がらんとした無人の室内に、扉が閉まる音が響く。見える範囲には埃つなく、数年人が住んでいないとは思えぬほど痛みは見られなかった。
靴を脱いで室内に入る。狭い廊下を進み、突き当たりの居間の戸を開けた。
おや、と眉を潜める。数年前にリフォームを行っているという話であったが、居間の床は畳敷きの和室のままであった。リフォームとは言っても、改修が必要だった部分に手を入れたのみだったようだ。
室内を一瞥して、足を踏み入れる。い草の匂いが鼻腔を掠め、思わず深く息をした。十畳ほどの室内には戸が三つと戸のない開口部が一つ。入って正面奥の一面は障子が張られ、障子を通して淡い光が入り込んでいる。おそらくは縁側かサンルームのような部屋があるのだろう。向かって右には襖で区切られた部屋があり、美しい桜の襖絵が何もなく寒々しい居間に唯一彩りを与えている。入ってきた戸の隣の開口部を除けば、そこはどうやら台所のようであった。
室内を今一度見渡して、障子戸へ歩み寄る。破れた所のない、真白い障子を見つつ戸に手をかけ、開く。抵抗なく開いたその先は一面が硝子窓の、サンルームのような部屋だった。
横に長い部屋に入り、だが視界に入るものに足が止まる。
明るい日差しが降り注ぐその部屋の隅。白く煙のように不定型なナニかが、時折揺らめきながら佇んでいた。
見つめる視線に気づいたのか、ナニかは一度大きく揺らめいて静止する。
此方を見た。そんな気配がした。
「珍しい事もあったものだ。ワタシが見えるようだね」
低い声がした。淡々とした抑揚の薄い声音は、祖父のものとよく似ている。無言で立ち尽くす自分の前で、ナニかは人の形を形取っていく。
足と手と。そして首、頭。色彩が白のみである事を除けば、それは以前写真で見た事のある祖父、そのものであった。
「ワタシはあの男ではないが、男以外をワタシはよく知らない故に、この姿で失礼させてもらおうか」
笑みを湛え、男の形を取ったナニかが近づく。
表情も所作も人と変わらぬ事に、半ば感心しつつ。傍に来た男を見据え問いかけた。
「あんたは、何だ?」
「難しい質問だな。近い表現としては、あの男の実験結果といったところか。或いは、噂が形になったモノ」
眉を下げ、それでも笑みは浮かべたまま男は語る。
「抽象的な言葉一つで、成るモノはあるのか…その結果がワタシだ」
「実験結果…この家の噂は嘘で作られた偽物という訳か」
「正確には違う。ここを訪れる者は誰も嘘を言ってはいないよ。実際に彼らに取ってここは『良くない家』なのだろう。畳の上での生活は、今を生きる人間には不便な事も多いだろう。ここを訪れる者の大半は、費用の安さを理由に不便を受け入れていた。だがそれも半年だけだ。半年過ぎれば賃料は周囲と変わらない契約で、男は家を貸していた。そうなれば不便を受け入れる理由がない」
だからこの家に人は居着かず、良くない家と言われるのか。
納得し、新たな疑問が湧き起こる。それを言葉にするよりも早く、男はさらに語り続ける。
「男が行った実験は簡単なものだ。家を貸す際に『良くない家』だと相手に伝えるだけ」
――ここはあまり良くない家ですから。設備も古いし、建物も特に頑丈だと言う訳でもない。半年は半値でお貸ししますが、それ以上はどうしても…。
男は祖父の実験の始まりから、終わりまでを朗々と語る。詳細な過去の記録に祖父の執念をみて、薄ら寒いものを感じふるり、と肩を震わせた。
最初は当然の事ではあるが、定着はしなかったようだ。
住人達は皆『不便な家』と周囲に話した。それが数年経つ頃から祖父の思惑通りに『良くない家』と話す住人が、ぽつりぽつりと現れ出す。退居理由を賃料が上がるため、と説明する事を恥じて、咄嗟に契約を交わした時に男が言っていた『良くない家』という言葉を口にする。
それが年月と共に家の周りに浸透し。そして噂は語られ出す。
この家は良くない家だ、と。何がどう良くないのか、その理由を人は知らぬまま、噂だけが広がって形を成していく。
長い実験の語り終わりに、ほぅと息が漏れた。
「この実験の結果がワタシという訳だ。抽象的な人間の認識故に上手く形をもてないのが残念ではあるがね」
そう締め括り、そこで男は何かに気づいて、すまない、と謝罪する。
「長々と立ち話に付き合わせてしまった。少し座ろうか」
手を取られ、促されるまま部屋の奥へと歩く。さっきまで何もなかった空間に置かれた藤椅子に座らされ、男もまたその向かいの椅子に腰をかけた。
「さて。ワタシの記録が確かならば、ここでの実験は終わったと男が言っていたのだが。キミは何用でここを訪れたのかな」
「――じいさんに言われて。ここに俺の望むものがあるって、それで」
言葉尻にかぶせるように、くぅ、と腹が鳴る。眉を寄せ腹をさすれば、余計に腹が鳴り出した。
はぁ、と溜息を吐けば、男はあぁ、と何かに気づいたかのように声を上げた。
「妖…否、化生喰いか。これまた随分とやっかいな呪に侵されているな」
「っ!分かるのか」
身を乗り出して、男に問う。
祖父の研究に巻き込まれる形で刻まれたこの呪は、原因となった祖父ですら分からないものであったはずだというのに。
必死になる自分を宥めながら、男は頷き肯定する。その答えに力なく体を戻し、分かるのか、と小さく繰り返した。
「分かる。川から流れて来た記憶を留めているからな。大概の事は知っている」
退屈だったものでな、と言いながら、男は窓の外を指差した。
眼下に流れる川が、光を反射し煌めいている。いくつもの煌めきを、腹の音から意識を逸らすために眺めていれば、良かったな、と静かな声が告げた。
「ここに来るのが正解だ。さすがに呪の解き方までは知らないが、解ける者がいる事と、見つけるまでの間食に丁度いい化生の場所は教える事が出来る」
「解ける者がいるのか?」
「いる。場所は定かではないが、いずれ川から記憶が流れてくるだろう。あとは、その餓えをどうするかだが」
笑って男は上を見る。同じように視線を向ければ、天井から一枚の紙が降ってきた。
思わず紙を手に取る。見ればそれは、この付近の地図であるらしかった。いくつか赤く丸で囲まれており、ご丁寧に番号まで振っている。
「その順番で化生を狩り、喰えばいい。そうすれば餓えは満たされる。ワタシも付き合おう」
「なんで」
地図から顔を上げ、男を見る。訝しげな視線に、だが男は自分のよく知る祖父がするような、にやり、とした笑みを浮かべた。
「退屈だからな。月に一度手入れはされるものの、ここに訪れる者などなかったんだ。長い付き合いになるだろうし、仲良くやろうじゃないか」
「長い付き合いって」
「キミは家《ワタシ》をあの男から受け継いだのだろう。実験も終わった事だ。長く住んでくれ」
手を差し伸べられる。
その白い手を、そして男の白い顔を見比べる。迷う心を急かすように腹が鳴り。
戸惑いながらも、その手を取った。
20250227 『記録』
冒険に必要なのはなんだろう。
地図とコンパス。あと、お弁当も。
丈夫な靴を履いて。寒くないように、しっかりと厚手の上着を着て。
でも、それより何より大切なのは――。
裏門に手をかけて、周囲を覗う。
辺りに動く姿はない。耳を澄ませても、遠く微かに鳥の声が聞こえるくらいだ。
そっと、音を立てないようにしながら、通り抜けられるくらいに戸を押し開く。きぃ、と軋む蝶番の音に思わず手を止め辺りを見回す。
誰もいない。なんの音も聞こえない。ふぅ、と短く息を吐いて、もう一度戸に手をかけた。。
「どこに行くの?」
不意にかけられた静かな言葉に、飛び上がる。慌てて口を押さえて悲鳴を殺し、恐る恐る振り返った。
「夜も遅いのに、どこに行くの?」
月明かりの中でも鮮やかに映える、赤の振り袖を着た少女が小首を傾げて立っていた。抱えたままの本を認めると、困ったように眉を寄せて微笑んだ。
「星が見たいのなら、庭でもいいと思うけれど」
「そうだけど。でも」
「夜の森は危ないわ。どうしてもというのなら、誰かと一緒に行った方がいい」
誰か、と言いながら、少女の中では私のお守り役は決まっているのだろう。少し待ってて、と屋敷に戻ろうとする少女に慌てて掛け寄り、その手を掴んだ。
「待って!あのね、一人で行きたいの」
「それは、どうして?」
問いかけられて、何と返せば良いのか分からず俯いた。
「お屋敷が嫌になった?」
「嫌じゃない」
「わたしたちが嫌いになった?」
「嫌いになんかならないっ!」
叫ぶように声を上げる。首を振って、必死に違うのだと訴えた。
「違う。違うの。でも、分かんないけど、一人で行きたいの。行きたくて仕方ない」
ただ夜の外に行きたかった。
屋敷を抜け出して。それこそ夜の冒険に憧れるように。
理由は分からない。分からないからこそ、言葉に出来なくて。でもそれで少女を悲しませるのが嫌で、形の整わないその場の思いつきのような言葉が溢れていく。
「――何か、思い出した?」
静かな声に、口を噤み少女を見る。怒っている訳でも、悲しんでいる訳でもなく。あくまで穏やかに、言葉が目が問いかけてくる。
空っぽの私の中を満たす記憶は戻ったのか、と。
「何も。誰の事も思い出してない、よ」
ごめん、と呟けば、優しい手が頭を撫でる。
その温もりを、少女を何一つ覚えていない事が苦しい。
少女だけではない。この屋敷にいる皆の事を誰一人、私は覚えていなかった。
屋敷で目覚めてから大分経つのに、まだ何も思い出せてはいない。空っぽな私を満たすように降り注ぐ皆の優しさを本当に受け取っていいのか、時々不安になる。
だからだろうか。
屋敷も皆の事も大好きだ。それでもこうして外に行きたくなるのは、不安から逃げ出したいのだろうか。
「記憶を辿ろうとしているのか」
すぐ後ろから声がした。
「記憶はないのに?」
「残るものがあるのだろう。その欠片を寄せ集め形にしようと踠くのは、記憶がない故に当然だ」
ゆっくりと顔を上げる。見下ろす彼の顔は影になって見えない。それでもその鮮やかな緑色とはっきりと目が合い、その瞬間に動けなくなってしまう。
「琥珀《こはく》」
静かな声が、私の名前を呼ぶ。
皆が考えて与えてくれた、私の新しい名前。まだ慣れないのか、呼ばれる度に何故だか落ち着かなくなる。
「そのまま受け入れていればいいものを。人間として生きた頃の記憶など、妖に成った今は何の価値もない」
「でも。皆が」
「すぐ不安になるのは、変わらないな…仕方がない。記憶の再現に付き合ってやろう。千代《ちよ》も皆につたえておいてくれ」
「分かったわ」
そう言って、少女は掴んだままだった私の手を解く。それが寂しくて追いかけようとする手を両手で包み込んで、少女は微笑む。
どこか悲しげな笑みだった。
「可哀想に。あの記憶を再現しようなんて。また泣かせてしまうのね」
「……え?」
「また後で。ごめんなさいね」
不穏な言葉に固まる私の手を離し、少女は屋敷へと戻っていく。いつの間にか誰もいなくなり、嫌な予感にどうしようと屋敷と裏門を見比べた。
「――行くか。冒険に必要なのは、覚悟と度胸だって。何だかそんな気がする」
呟いて、一つ深呼吸をする。目を閉じ、開いて。裏門へと歩き出す。
手にした、地図代わりの本を強く胸に抱いて。
いつかの冒険を、また始めるために戸を開いた。
昔。まだ屋敷が現世にあった頃の話。
本で読んだ冒険譚に憧れて、幼い少女が一人屋敷を抜け出した。
手には古ぼけた地図を抱いて。肩にかけた鞄の中にはコンパスと、こっそり釜から拝借したご飯を握った、不格好なおにぎりが二つ。
裏門を抜け、辺りを見渡し気になる方へと進む。月明かりだけでは地図が見えず、それに気づいて鞄の中に早々にしまった。
「何処へ行くんだ。良い子はもう寝る時間だぞ」
呆れた声と共に感じた浮遊感に、少女は驚いて暴れ出す。しかし、幼い子供のか弱い抵抗など気にも留めず、少女を抱えた男は屋敷へと戻って行く。。
「やだっ。離してよ。冒険に行くんだから!」
「明日にしろ。夜の森は危険だ」
「やだやだ。今行くの!悪いおばけを倒して、パパとママを助けるんだから」
少女の言葉に男は立ち止まる。少女を下ろし目線を合わせると、静かな声で問いかけた。
「両親に会いたいのか」
「会うんじゃなくて、助けに行くの!きっとおばけに捕まってるから、パパもママも私に会いに来てくれないんだよ。だから私ががんばらなきゃ」
真剣な、ともすれば泣いてしまいそうな少女に視線を合わせたまま、男は暫し考える。そして一つ息を吐くと、軽々と少女を抱き上げ、屋敷とは正反対の方へと歩き出した。
「仕方がない。付き合おう。どこへ向かうんだ」
「うんとね。たぶんあっち!」
無邪気に指を差す少女が望む方へ、男は駆け出す。森を抜け、川を飛び越え。途中、少女のおにぎりを一緒に食べ、取り留めのない話をしながら、男と少女は夜を駆け抜けていく。
そして、夜も大分更け。
少女が眠そうに目を擦り出す頃合いを見計らって、屋敷へと戻っていく。
「帰っちゃうの?」
「そうだな。もう寝る時間は疾うに過ぎている」
「――楽しかった。おばけは見つからなかったけど、でも楽しかったの。ありがとう」
「楽しめたのなら何よりだ。俺も心置きなく説教が出来る」
こてり。首を傾げ、少女は夢うつつに男の言葉の意味を考える。
男は説教をすると言った。それは、つまり――。
「なんで!?私、お説教やだよっ!」
「悪い子には説教をしなければ駄目だろう。お前は今日、夜に屋敷を抜け出した。そして楽しく遊び歩いた…ほら、立派な悪い子だ」
「お説教されるなら、おとなしく戻ったもん!槐《えんじゅ》のいじわる!」
説教をされると聞いて少女の眠気は一瞬で消え去り、逃げようと暴れ出す。しかし、悲しいかな。やはり幼い子供の力では、男の腕から逃れる事は不可能だった。
「心配するな。寝て起きて、朝食が済んだらにしてやるから。睡眠も食事も休憩も与えてやる。お前が夜遊びをした事を叱りたいモノらで順に説教するつもりであるから、何日掛かるか分からんが」
「やだぁあぁぁ!」
少女の悲痛な叫びが夜の森に響く。
その叫びは、日を追うごとに弱くなり。最後には泣き声に事を。男ら妖の前で、泣きながらもうしませんと誓わされる事を。
そして遠い未来で、記憶の再現として繰り返されてしまう事を。
暴れ疲れて眠ってしまった少女は、まだ知らない。
20250226 『さぁ冒険だ』