sairo

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「やあ、可愛らしいお嬢さん。綺麗な星の降る夜だというのに、俯いてばかりでは実にもったいないものだよ」

不思議な抑揚の声が聞こえ、俯く顔を上げる。
膝を抱えた自分と同じ目線。夜の色をした美しい毛並みの猫は、目が合うと恭しくお辞儀をした。

「Good evening《こんばんは》、お嬢さん。今宵はまた一段と星が美しい。ワタクシと共に夜の散歩に行かないかい?」
「でも。わたし」

差し出される手を、首を振って拒絶する。涙の滲む視界で。猫の月のような眼がきらり、と煌めき、瞬いた。

「ごめんなさい。でも、壊してしまうから。わたしが触れるもの全部、壊してしまったの」

煌めく眼から逃げ出すように俯く。手首に絡みついた友人の優しさの残骸が、視界の隅で責めるように小さく音を立てた。


「お嬢さん」

静かな声に呼ばれて、肩が跳ねる。膝を抱える手に温かな肉球が触れて、その温かさに少しだけ顔を上げてそのしなやかな前足を見た。

「あれだね。これは友達からのPresent《贈り物》というやつだね。しかも手作りときた。壊してしまったのかい?」
「ごめん、なさい」
「責めている訳ではないよ、可愛いお嬢さん。ただ一つだけQuestion《質問》に答えてくれるかな」

顔を上げて、猫を見る。そっと体を寄せる猫から、花のような甘い香りがして、無意識に深く呼吸をする。
しばらく悩み、頷きを一つ。小さくいいよ、と呟いた。

「Thank《ありがとう》.お嬢さんは昔から、こうして物を壊すのかい?」

首を振る。物を壊し始めたのは、一週間前の事だ。
切っ掛けは分からない。悪夢を見てから触れるもの全てを壊し始めた気もするが、それがどんな内容だったのか思い出せもしない。
そうかそうか、と猫は呟いて。器用に前足でブレスレットの残骸を取り外し、目の前にかざしてみせる。

「可愛いお嬢さん。Suggestion《提案》があるのだがどうだろうか。お嬢さんのその余分な力を、ワタクシに頂けないかい?」
「余分な、力?」
「もちろんそのReward《報酬》は支払うよ。このBraceletを元の通りに直してあげよう。それでどうかな?」

小首を傾げて、猫は問う。
文字通り余分なものを対価に、大切なブレスレットが元に戻るなら。それはとても素晴らしい事のように思えた。

「――直せるの?」

猫の眼を見つめ、確認する。

「もちろんだとも!ワタクシに出来ない事などないのだよ。任せてくれたまえ…それでは、返答はYesでいいのかな?」
「うん。こんな壊す力はいらない。だからブレスレットを元に戻して」

月のような眼が歪む。
にんまりと、妖しく煌めいて。その輝きに、意識が揺れた。

「では頂くとしよう」

人のような赤い舌が口の周りを舐める。
大きく開いた口から、鋭い牙が覗いているのが見えたのを最後に。
ぶつり、と。意識が途絶えた。





満ち足りた顔をして毛繕いをしながら、二足歩行の猫は傍らで眠る少女に視線を向ける。
今時珍しい、純粋な少女だ。無知故ではなく、全てを知ってそれでも尚、相手に手を差し出せる。それは聖女の在り方によく似ていた。
妬まれるのも仕方がない。とはいえ、不幸を願い呪いをかける行為は、さすがに度を超しているが。
前足で顔を、特に口周りを猫は丁寧に拭う。先ほど喰らった呪いの残り滓を舐め取り、痺れるような舌先の刺激に喉を鳴らす。
悪食。仲間から眉を潜められるほど、猫の食の好みは偏っていた。
妬み嫉み、怒り憎しみなど、人間の負の感情は猫に取って最高の馳走だった。泥のような粘り気の強い舌触りと、舌を刺す痺れる感覚が堪らない。特に呪詛の類いは怨嗟の念が凝縮され、嗅覚や聴覚でも猫を満たす。刺激的でどこか甘ったるい腐敗臭に似た香りと、耳につく恨みの声。それが良いスパイスになるのだと、恍惚とした表情で語る猫の扱いに仲間は困り、故郷から遠く離れたこの地へ猫を追い出した。故郷から離れた場所で、さすがの猫の悪食も収まるだろうとの思惑があったが、数十の年月を過ぎて猫は変わらなかった。
毛繕いを終えて、少女の側に擦り寄る。仲間にすら忌避されるほどの悪食でありながら、猫は可愛らしいものを好んだ。
無垢な少女はこの先も、周囲に愛され、妬まれるのだろう。少女の側にいれば存分に腹は満たされ、可愛らしい少女を愛でる事が存分に出来る。
今更、猫は故郷に戻るつもりなどはなかった。
体を丸め規則正しい寝息を立てる少女のその頬に涙の跡を認め、体を寄せて頬を舐めた。
ざらり、とした猫の舌の感覚に、少女の眉が寄る。徐に瞼が開き、焦点の合わぬ黒い瞳が猫を見て瞬いた。

「Good Morning《おはよう》!可愛いお嬢さん。ご機嫌は如何かな?」

少女の瞳を覗き込むようにして、猫は囁く。

「少し、変な感じ。力が抜けた、みたいな」
「それは良かった。本当に余分な力がなくなったのか確かめるためにも、ワタクシと夜の散歩に行かないかい?」

戸惑う少女に、猫は大仰な仕草で前足を差し出す。片膝をつき、ゆるりと尾を揺らして少女を誘う。
ウインクをすれば、少女は堪らずに小さく笑い声を上げた。
前足に手を重ね、ゆっくりと立ち上がる。少女に合わせて猫も静かに立ち上がった。

「それでは行こうか。可愛いお嬢さん。Escortは任せてくれたまえ」
「あの…私、そんなに可愛くなんてない、から。その」

何度も言わないで、と言外に頼まれ、猫は小首を傾げて少女を見つめる。幼さの抜けきらない白い頬や小さな耳までもがほんのりと赤く色づいている事に気づき、猫は喉を鳴らして笑った。

「可愛いさ。お嬢さんは今まで出会ったどの人間よりも可愛らしい。このまま浚っていってしまいたいくらいだよ」
「そんな、こと。ないから…猫さんの方が、かわいいと思う」
「おや、それは嬉しいな。可愛いお嬢さんと、可愛いワタクシで、so cute《とても可愛い》というわけか…うん。実に良い」

少女の言葉に気を良くして、猫は少女の手に擦り寄った。
擽ったいよ、と笑う少女に月のような眼を歪ませて笑い、手を引いて歩き出す。

「行こうか、可愛いお嬢さん。夜が明けてはもったいない。夜の終わりには家に帰らなければならないからね」

軽く手を揺らしながら誘う猫の言葉に、少女は今度は何も言わず猫と共に歩き出す。

歩く度に少女の手首から、しゃらと微かな音が鳴る。二つのブレスレットが、月明かりを反射して煌めいた。



20250228 『cute!』

2/28/2025, 10:52:12 AM