「ここか。噂の建物は」
カメラを構え、遠目から一枚写真を撮る。データを確認し、落葉した木々に囲まれるレンガ造りの建物がはっきりと写っているのを見て、思わず感嘆の溜息が溢れた。
美しい建物だ。戦前からあるものとは思えない程だ。
況してやあんな噂話があるとは、とても信じられない。
噂を思い出してしまい、小さく体が震えた。気温の低さだけでない薄ら寒いものを感じて、慌てて首を振って気持ちを切り替え、建物の近くへ歩み寄った。
――戦前から建つ、レンガ造りの廃墟がある。
その情報を知ったのはまったくの偶然だった。暇つぶしに見ていたネットの掲示板に乗っていた噂話に出てくる廃墟。
噂話自体はよくあるものだ。誰もいないはずの建物に明かりが点いていただの、夜中に男の話し声がするだの。
そんなあからさまな怪談話よりも、建物事態に興味を引かれた。レンガ造りの、しかも戦前から建つ建物など、古い建築物――取り分け人の絶えた廃墟を好む自分にとって、多少目をつぶっても実際にお目に掛かりたいものだった。
場所が然程自宅から離れていない事も幸いした。廃墟の場所を書き留め、カレンダーで次の休みを確認し。
そして今日。こうして朝から電車を乗り継いで、こんな山奥まで来てしまった。
はぁ、とかじかむ手に息を吹きかけながら、建物を見上げる。近くで見ても尚美しいその姿に、時間を忘れ只管に魅入る。一枚でも多く写真を残そうと、カメラを構えシャッターを切った。
「何用か?」
不意に声をかけられ、飛び上がる。反射的に声がした方へ視線を向けると、建物の入口に男の人が一人、立っているのが見て取れた。
びくり、と肩が跳ねる。この建物の噂話を思い出した。
「ぁ、その。あの…ここって」
「ここは私の屋敷だ。何用だろうか」
え、と思わず声が出た。ネットではここは大分昔に廃墟になったとあった。それは間違いだったのか。
困惑する自分を一瞥して、男の人は僅かに表情を綻ばせた。
「長く屋敷を空けていたので無人だと思われていたか。まあ、態々こんな山奥まで来てくれたのだ。今は家内が不在のため茶ぐらいしか出せる物はないが、少し休んで行くといい」
噂話を思い出した時以上に、体が強張る。
つまり自分は廃墟だと思い込んで人様の敷地内に許可なく入り込み、自分勝手に写真を撮っていたという事になる。
これは立派な犯罪だ。廃墟だと思い込んでいたという言い訳は通用しない。ネットの情報を鵜呑みにせず、しっかりと調べてから訪れるべきだったのだ。
大変な事をしてしまったと血の気が引く。慌てて深く頭を下げ、必死に謝罪をした。
「あ、あの。すみません。勝手に写真を撮ってしまって。その、本当にごめんなさい」
「そんなに謝らないでくれ。私は気にしてはいない」
予想していたより大分穏やかな声に、怖ず怖ずと顔を上げる。特に気分を害したような様子はないようだった。
「気にしないでくれ。長く不在にしたこちらに責はある。家内も今は不在だしな」
苦笑する男の人に、強張っていた肩の力が抜ける。ネットの情報を鵜呑みにしたこちらが悪いというのに、咎める様子のないその優しさに、さらに申し訳なさが込み上げた。
「何もない所だが、ゆっくりしていくといい。久方振りの客人だ。私の話し相手になってくれると助かるな」
そう言われてしまえば、断る理由もない。失礼します、と男の人に告げて、建物へと足を踏み入れた。
玄関を抜け、リビングに通される。大きな窓から降り注ぐ光が室内の美しさを際立たせていた。
ほぅ、と息が漏れる。白いテーブルと椅子が二脚。飾り棚に置かれた品の良い小物は、男の人のいう奥さんのものだろうか。
深い赤の色をしたカーテンがふわり、と風に揺れる。窓際に置かれたテーブルとソファは、晴れた午後に読書をするのに最適だろうな、と促されて椅子に座りながら、不躾ながら室内を見回した。
「どうぞ。茶を入れる事もなかったから、美味いかは分からないが」
「あ、ありがとうございます」
白のティーカップを渡され、礼を言って口を付ける。仄かに甘い香りとさっぱりとした味に、口元が緩んだ。
「あの。長く家を空けていたのは、どこかに行かれていたのですか」
ふと、気になった事を目の前に座った男の人に尋ねる。どこまでも不躾ではあるが、男の人は気にする様子はなく、どこか寂しげな目をして微笑んだ。
「そうだな。色々な場所へ行ったよ。この国だけじゃなく、外の国へも。それが正義だと信じていたからな」
「正義…」
「だが、それが本当に正しかったのか、今となっては分からん…驚いたよ。ようやく戻って来たと思ったら、誰もいなかったのだから」
穏やかに男の人は語る。棚に飾られたフォトフレームに飾られた寄り添う男女の写真を見ながら、左手の薬指に嵌められた銀の指輪にそっと触れた。
「あの写真って、もしかして」
「今まで待たせてばかりだった。いつも何か言いたげに俺を見ているのに、何一つ言ってはくれなかったな。否、俺が言わせなかったのか。思えば気の利いた言葉一つかけてやれなかった」
静かな声音には後悔が滲んでいる。写真に向けられている視線は、けれどどこか別の何かを見ているようで、忍びなさに目を伏せた。
「一人でいると、この屋敷がやけに広く感じるな。ずっとこんな思いをさせていたのだろう…すまなかったな」
「…愛して、いたんですね」
「疲れただろう。こんな山奥だ。それにもう日が暮れかけている…少し休むといい」
言われて顔を上げ、窓を見る。気づけば空は朱から紺へと色を変え、夜が近い事を示していた。
いつの間に、時間が経っていたのだろう。
体感では一時間にも満たないと思っていたというのに。手にしたカップもすっかり冷えてしまっている。その氷のような冷たさに、再び口を付ける気にはならなかった。
「おいで。部屋に行こう」
男の人が徐に立ち上がる。手を差し出されて、戸惑いながらもその手を取り立ち上がった。
歩き出そうとして、ふらつく。自覚はないだけで、大分疲れが溜まっていたようだ。そんな自分に男の人はさりげなく肩を抱いて支えるようにして歩き出す。
「すみません。何から何まで」
あまりの申し訳なさに身を縮めて謝るが、男の人の返答はない。ただ僅かに目を見開いて、そして柔らかく笑み。自分が倒れてしまわぬよう、肩を抱く腕に力を込めた。
リビングを出て、廊下を男の人に支えられながら歩く。大分日も落ちて来たのか、薄暗い廊下はどこか不気味で冷たい空気を漂わせているようだ。先を進む事に僅かな不安を覚えて、身が竦む。
「暖かいな、お前は…懐かしいよ」
微かな呟く声に、そっと男の人を見上げる。淡く微笑むその表情は泣いているようにも見えて、酷く胸がざわついた。
「さあ、ここだ。そのまま一眠りしてしまいなさい」
廊下の奥。黒い扉を開けた先のベッドまで男の人に連れられて、横になる。
とても疲れた。すぐにでも眠ってしまいそうだ。
閉じかけた瞼をこじ開け、男の人を見る。動く力もない自分のために布団をかけて、その手が頭に触れる。
「ゆっくりとお休み。起きたら食事にしよう。その後は、お前の話を聞かせてくれ。――」
そっと一撫でして、男の人は身を起こし部屋を出て行く。
はぁ、と息を吐いて、力なく瞼を閉じた。
眠たくて仕方がない。それなのに、何か引っかかりを覚えて眠る事を脳が拒んでいる。
目を閉じたまま、耳を澄ます。風が吹き抜ける音。遠くで獣が鳴く声。枯れ草を踏み締める音。
微かに違和感を感じた。それが何か考えながら、無意識に深く呼吸をする。
きん、と冷えた空気が肺を満たす。鼻腔を掠める匂いに、眉を寄せた。
土の匂いだ。水を含んだ冷たい土の匂いがする。
緩やかに脈打つ鼓動とは裏腹に、思考は目まぐるしく働く。背筋が冷える感覚に、瞼をこじ開けカメラを手繰り寄せた。
悴む指で、データを開く。眠りに落ちる前の朦朧とする意識を手繰り寄せて、撮ったばかりのデータを確認する。
「――っ」
息を呑む。理解が追いつかず、目を逸らす事が出来ない。
何が起こっているのか。どこからが偽りで、どこまでが真実なのか。
昼間目にしていたものとは全く異なる、廃墟が映し出されていた。
外壁は割れて傾き、崩れ落ちている。木々が窓硝子を割って浸食し、建物を飲み込んでいた。
カメラから目を離し、周囲を見渡す。崩れた壁と木枠だけが残った窓から、青白い月の光が差し込んでいた。
体が震える。それは恐怖からか、それとも寒さからなのかは、もう分からない。
眠い。眠るな、逃げろと、脳は警告しているが、もう指先一つ動かす力はない。
瞼が落ちていく。黒く染まる意識の片隅で、不意に去り際の男の人の言葉が脳裏に響いた。
――おかえり。
今も待っているのか。妻の帰りを。
はぁ、と息を吐き出す。瞼は凍り付いたように開けない。手足の感覚もない。
鼓動が弱い。消えかけた蝋燭の火の揺らめきのように一つ、また一つとゆっくりと鼓動の間隔が開いていき――。
鼓動が、止まる。
「違ったのか」
無感情に男は呟き、眠る骸の頬に指を滑らせた。
硬く、冷たい。骸を起こし腕に抱いても、眠る前に触れた温もりは欠片も感じ取れなかった。
目を閉じ、記憶を手繰る。けれども愛しい妻の温もりは思い出す事は出来なかった。
忘れていく。何もかも。今では声もその姿でさえも、男は忘れてしまった。
目を開ける。腕の中には誰かの骸が一つ。
それは男の妻ではなく、知らない誰かだ。
「いつ、戻ってくるのだろうか」
骸を手放し、立ち上がる。
いっそ探しに行きたいが、男は妻の居場所に心当たりはない。
この屋敷が妻の居場所だと男は思っていた。兵役に就く男に、いつまでも帰りを待つと言っていたのは妻であったのだから。
しかし長い兵役を終えて屋敷に戻った時、妻は何処にもいなかった。寂れた屋敷が、ここが長く無人であった事を示していた。
「寒いな。一人はとても寒い」
呟いて、部屋を出る。朽ちた廊下を進み、リビングに入ると、椅子に腰掛けた。
窓の外へと視線を向ける。擦り切れ破れたカーテンの残骸が、瓦礫の隙間から風に揺らぐのを気にも留めず、ただ妻の姿を探している。
「俺の戻りを驚くだろうか。俺を出迎えぬ事を気に病まねばいいが」
優しい妻を想い、男は苦笑する。掠れた記憶を辿りながら、男は妻を待つ。
男は気づかない。
男が視線を向けている窓の側に置かれた、テーブルとソファに。
テーブルに伏した格好で事切れた、骸の存在に。その左手の薬指に掛かる銀の指輪の鈍い燦めきに。
「いつ帰ってくるだろうか」
窓の外を眺める男は気づかない。
遠い過去に亡くした、在りし日の温もりを求め。
今日も男は、妻を待ち続ける。
20250301 『あの日の温もり』
3/1/2025, 11:57:57 AM