小さく切ったちりめんを折ってボンドで固定して、いくつもの花片を作る。花弁を土台に固定して、大輪の花を形作る。
ただ一人のためだけの、一輪だけの花。出来上がった髪飾りを乾かすため、棚の上に乗せる。
新しく咲いた花を見ながら、彼女を想う。髪飾りを付けて笑う彼女を夢想し、馬鹿らしい、と軽く頭を振ってその姿を掻き消した。
――彼女がこの家を訪れる事は二度とない。
自嘲して、出来たばかりの髪飾りの隣に置かれた、別の髪飾りを手に取る。崩れがないか確認して、飾りを手にしたまま部屋を出る。
彼女はいない。心の内で繰り返す。
彼女は死んだ。
残酷なほどに甘く優しい夢だけを残して、あの日彼女は死んでしまったのだ。
「るぅちゃん」
寝室のドアを開ける音に気づいて、彼女の姿を模した人形が声をかける。
「起きてたんだ」
「今起きたとこ。るぅちゃん、また何か作ってたの?」
「新しい髪飾り。昨日作ったのが完成したから持ってきた」
笑みを浮かべ、人形の元へと歩み寄る。手にした髪飾りを見せれば、人形は髪飾りに視線を向け目を瞬かせた。
「最近よく作るね。大学生ってヒマなの?」
「日真理《ひまり》と違って、要領はいいから。日真理と違って」
「なんで二回も言うかなぁ。るぅちゃんが見てた時は、本気を出してなかっただけだもん。本気になればわたしだって何でも出来るはず」
不服だと言わんばかりの声音。だがその表情に殆ど変化はない。
気づかれないようさりげなく人形の顔から視線を逸らし、頑張って、と適当な相づちを打つ。幼い子供の背丈しかない人形を抱き上げて、鏡台の前へ座らせた。
「髪が少し乱れてるね。髪飾りを変えるついでに、整えておこう」
人形の髪に触れ、付けていた髪飾りを外す。櫛で髪を梳いていれば、人形は何かを言いたげに口を開き、しかし何も言わずに口を閉ざしてしまう。
彼女によく似た黒の瞳が、何かを迷うように揺れている。それに敢えて何も気づいていない振りをして、新しい髪飾りを付け直した。
「日真理に似合ってるよ」
「――ねぇ、るぅちゃん」
「何?気に入らない?」
違う、と首を振り、鏡越しに人形はこちらに視線を向ける。
真っ直ぐな眼だ。彼女と同じ眼だった。
「わたし、ちゃんとここにいるよ」
彼女と同じ声音で、人形は告げる。
知ってる、と答える声は酷く震えて、泣いているみたいだと、どこか他人事のように思った。
「るぅちゃん」
「分かってる。日真理はここにいるって…だって俺がそうした。叔父さん達に分骨をお願いして、その骨を人形の中に埋めたのは俺なんだから」
「留叶《るか》」
「分かってるんだ。でも怖いんだよ。何で日真理がここにいてくれるのかが分からない。分からないから、いつこの夢が覚めるのか、魔法が解けるのかって不安で仕方がない」
いっそこんな奇跡が起こらなければ。
何度も思った。そうすれば、彼女に恨まれていると思い込んだまま疾うの昔に彼女の後を追う事が出来たのに、と。
「ごめんね、るぅちゃん」
彼女の声で、人形が囁く。
「ごめんね、また明日って言ったのに約束破って。また明日って、もう言えなくて…でもその時が来るまでは、わたしはるぅちゃんの側にいるからね」
彼女の眼をして、微かに微笑みを浮かべた。
「――ごめん。少し取り乱した。頭冷やしてくる」
人形を抱き上げ、元のベッドに戻す。引き止める言葉を無視して部屋を出た。
深く息を吐く。ドアに凭れ、そのまましゃがみ込んだ。
彼女と会った最後の日を思い返す。
あの日、彼女に一つの呪いをした。
――なりたい人の指を彩ったマニキュアを、その人に塗ってもらえばその人になれる。
よくあるおまじないの一種だ。本気で信じてはいなかった。
だが彼女は死んだ。呪いをしたその帰りに、駅のホームで電車に轢かれ、亡くなった。
突き飛ばされたらしい。同級生の女子に。
前から気に入らなかったのだと、その女子は語ったのだという。殺す気はなかった、少し怖い目を見ればと思っていただけだった、とも。
その真偽は分からない。どちらにしても彼女が戻ってこない事だけは唯一変わらない真実だった。
「バカだな、俺」
手を上げて爪を見る。あの日塗られた下手くそな赤は、時と共に完全に剥げてしまっていた。
あの日、呪いをした事を後悔している。しかし今も縋るように新しい呪いを繰り返す事を止める事が出来ないでいる。
視線を爪から、手にしている髪飾りへと移す。一昨日作ったばかりの、先ほどまでは色鮮やかだったそれは、花が枯れるように色あせ朽ちてしまっていた。
「ごめんな。日真理」
くしゃり、と髪飾りだったものを握り潰し、目を閉じる。
耐えきれなかった滴が、閉じた瞼から一筋零れ落ちていった。
こん、と音がした。
目を開ける。ドアから離れ、振り向いた。
こん、こん、とドアの向こうから音がして、慌てて立ち上がりドアを開けた。
「っ、日真理!?」
目の前の光景に目を見張る。自力で歩けないはずの人形が、ドアの前で仁王立ちしているのを、信じられない面持ちで見つめた。
「やっと開いた。ちょっとるぅちゃん、閉じ込めないでよ」
「な、んで。歩けないんじゃ」
「だから本気を出してないだけなの。わたしが本気を出せばこれくらい」
にやり、とはっきり笑みを浮かべる。
言葉を失って立ち尽くしていると、てちてちと人形は――彼女はこちらに歩み寄り、足に抱きついた。
「日真理」
「るぅちゃん。留叶はわたしにどうしてほしいの?」
「何、言って」
意味が分からない。彼女を抱き上げながら今までとはまったく様子の違う彼女を見つめる。
「良い魔法使いのるぅちゃんのために、何かしてあげたいと思っただけだよ。いいから、望みをいいなさい」
「何それ…って、分かった。言うから髪を引っ張らないでよ」
焦れた彼女に髪を引かれ、半ば自棄になりながら答えると、彼女は手を離し、無言で視線を合わせられる。
真っ直ぐな視線は逸らす事を許さず、誤魔化しもききそうにはなかった。
小さく息を呑む。彼女に望む事など、最初から彼女も気づいているだろうに。
「――日真理。俺とずっと一緒にいてよ。日真理だけなんだよ、俺を認めてくれるのは。だから俺から離れていかないで」
彼女を抱きしめ、望む。くすり、と彼女が笑った声がした。
「うん。いいよ。ずっと一緒にいる。お人形さんになっちゃったけど、それでもいいならね」
「人形でもいい。日真理がいてくれるなら、もう何でもいい」
「分かった。るぅちゃんの側にいるよ」
穏やかな声に、少しだけ体を離し彼女を見る。
優しく微笑う彼女は、そっと小さな手を上げ小指を差し出した。
「約束しよう。一緒にいるっておまじない」
その小指に恐る恐る自らの小指を絡める。
彼女の歌う声を聞きながら、細い糸が小指に絡みつく幻を見て目を瞬く。
それは、最初の呪いに使ったマニキュアのような、目の覚めるような深紅の色をしていた。
20250225 『一輪の花』
「また髪の毛乱れてる。おいで、直してあげるから」
呆れたようないとこの言葉に肩をすくめてみせる。手招かれておとなしくいとこの前に座り、可愛げの欠片もない黒の髪ゴムを解いた。
「女の子なんだから、もっと身だしなみに気をつけなよ」
「だって、頑張っても上手くいかないんだもん」
「そうやってすぐに諦めるから、上達しないんだ」
溜息を吐きながらも、いとこの手はわたしの髪に優しく触れる。櫛に梳かれる感覚に、目を細めて密かに笑った。
いとこの手で魔法をかけられている。冴えない小娘が、綺麗なお姫様になるこの瞬間が、大好きだ。
今日はシンプルに、一つに結ぶようだ。手慣れた指が髪を掬い、まとめてゴムで結ぶ。ちらりと見えた髪ゴムには、淡い桃色の花飾りがついていた。
この前来た時に、本を見ながら欲しいとぼやいたつまみ細工の花飾りを、いとこは作ってくれていたのだろう。
「はい。出来た。特別におまけもつけといたから」
「ありがと…るぅちゃんって、なんだか魔法使いさんみたいだねぇ」
片付けをするいとこを見ながら、思った事がつい口から溢れ落ちてしまった。
「何それ。がさつな女の子から出る言葉とは思えないね」
怪訝な顔をするいとこに態とらしく溜息を吐かれ、眉が寄る。分かってはいたが、こうして面と向かって呆れられるのは、とても気分が良くないものだ。
「酷い。わたしをなんだと思ってるの」
「もうすぐ高校生になるのに、一人でまともに髪も結べない、不器用でがさつな女の子」
「失礼だなっ。今は本気を出してないだけなんだもん。本気を出せば、るぅちゃんよりも凄くなれるもん…たぶん」
勢い余って言い返すも、次第に勢いはなくなり。最後に小さく、たぶんと溢したのは、いとこに勝てる部分がまったくなかったからだ。
ヘアアレンジも、つまみ細工を始めとした小物を作るのも。料理だっていとこの方がとても上手だ。テレビで見るようなきらきらしたお菓子を作れるいとこに、ようやく目玉焼きを焦がさないようになったわたしが追いつけるはずもない。
膝を抱えてうずくまる。しばらく黙っていると、いとこが立ち上がる音がした。小さな笑いを含んだ声が、宥めるみたいに静かに尋ねてくる。
「前に食べたがってたフルーツタルト。作ってみたけど、食べる?」
「………食べる」
わたしの返事を聞いてキッチンへ向かう足音に、ちらりと顔を上げて大きないとこの背を見る。
結局最後にはわたしを甘やかしてくれるいとこは、やっぱり魔法使いに違いない。口は悪いがとても優しい、良い魔法使いだ。
何かが聞こえた気がして、目を開ける。
辺りは暗く、見えるものはない。耳を澄ませても、風の音一つしなかった。
ここはどこだろうか。何故、こんな暗い静かな場所にいるのだろう。
随分と意識がはっきりしない。朧気に霞んだ記憶を手繰り寄せる。
いとこの家からの帰り道。手には可愛らしくラッピングされた、お菓子の袋。中身は確か、マフィンだったはず。
いつものように駅のホームで電車を待つ。爪が赤い。いとこに塗ってもらった初めてのマニキュア。目の覚めるような赤に目を奪われて。
それから――。
「日真理《ひまり》」
「るぅ、ちゃん?」
聞こえた声に視線を向ける。姿は見えなかったけれど、いとこの声を間違えるはずはない。
一つ遅れて明かりが点く。急な眩しさに目が眩んだ。
「おはよう。ねぼすけさんだね」
「わたし、寝てたの?」
「寝てたよ。ずっと、何日も」
こちらに歩み寄るいとこの言葉に混乱する。
それなら、この記憶はなんだというのだろう。
駅のアナウンス。電車の音。
浮遊感。振り返って見えたのは、広げた手のひら。
まるで誰かの背を押した後のような。
明るさに慣れてきた目でいとこを見る。普段とはかけ離れた、表情のない冷たい目に見下ろされ、ひゅっと喉が鳴った。
「――わたし、死んだんじゃ、ないの」
問いかけた言葉は、笑えるほどに掠れていた。
けれどいとこには伝わったのだろう。そうだね、と呟いて、ふわり、と笑った。
「死んだよ。とっくの昔に葬式も終わった」
「じゃあ、なんで」
「おまじないをしたから」
そう言って、いとこは爪を見せる。剥げてぼろぼろになった赤は、あの日わたしがお返しに塗ったマニキュアだ。
「日真理が俺の所に戻って来ますように。だからここにいる」
「……なんで」
込み上げる疑問に、いとこは笑みを浮かべたまま、目には正反対の感情を乗せて、答えた。
「日真理にずっと言いたい事があったんだ」
膝をついて、手を取られる。綺麗に整えられた小さな爪の赤が、いとこの剥げた赤に囚われるようにして、指を絡ませ繋がれる。
「今まで黙ってたけど、俺。本当は日真理の事が嫌いだった。憎んでたって言った方が近いかな」
穏やかな口調で、優しい笑みを浮かべて。目だけは言葉通りに鋭くわたしを睨み付けて、いとこは呪いにも似た言葉を囁き続ける。
「周りからずっと馬鹿にされてた。お菓子を作ったり、可愛い小物を作るのが、女みたいだって。父さんも母さんも、何度も止めさせようとした。男のくせにって、殴られたりもした。それでも止めなかったら、最後には家から追い出すみたいに一人暮らしをさせられて…誰も俺を認めてくれなかった」
淡々とした声が、恨み言を呟く。今まで溜め込んできたいとこの想いが繋いだ手から伝わる感覚がして、漏れ出そうとする悲鳴を必死で押し殺す。
「日真理はいいよな。料理一つまともに出来ないし、まったく女らしくないのに、誰にもそれを言われないんだから。女の子ってだけで皆に優しくされて、そのままを受け入れてもらえて…誰からも愛されてさ。本当にいいよな」
「る、ちゃん」
「俺が日真理だったら良かったのにって、何度も思ってた。反対だったら全部正しい気がして、日真理の側にいるだけでずっと苦しかった」
いとこの表情は変わらない。口元は笑みを浮かべて、目は睨み付ける。
何を言えばいいだろう。いとこの目を見ながら考える。
ごめんなさい、は絶対に違う。共感の言葉も、況してや否定する言葉も、すべてが違う気がした。
流れ込む感情に、上手く息が出来ない。ぼんやりとする意識で、ふとあの手を思い出す。
「――だから、背中を、押したの?」
言葉にしてから、失敗したと思った。これは一番言ってはいけない事だ。
いとこの表情が変わる。目を見開いて、何かを耐えるように唇を噛む。
「うん。きっと、俺の手だ。信じてなかったけど、おまじないをした帰りに、日真理は死んだ。だから、俺が殺したんだ」
繋いだ手を額に押し当て、いとこは目を閉じる。その姿は、まるで懺悔をしているみたいだった。
「日真理が死んだって、叔母さんから連絡が来た。おまじないが成功したんだって思ったよ。これで俺は日真理になれる。あの優しい叔父さんと叔母さんの子供になれるんだって…でも日真理を見て、そんな馬鹿げた考え、すぐに消えてった」
声が震える。いとこの目から零れ落ちた滴が、ベッドに染みを作っていくのを、ただ眺める事しか出来なかった。
「見ない方がいい、って言われた。それでもって無理を言って、ぼろぼろの日真理を見て…後悔、してるんだ。今になって、全部終わってしまった後になって、気づいた」
目を開けて、いとこは微笑う。傷ついた、今にも消えてしまいそうな苦しい色をした目をして、馬鹿だよね、と小さく呟いた。
「日真理だけだったのに。俺を認めて、褒めて…凄いって、魔法みたいだって、笑ってくれたのは日真理だけなのに」
「るぅちゃん」
「ごめんな。痛かったよな。俺、自分の事ばっかりで、ちゃんと日真理を見てなかった。魔法使いみたいだって言われて、本当は嬉しかったんだ。それなのに、全部奪って、壊して」
「留叶《るか》!」
今出せる精一杯の声で、名前を呼ぶ。びくり、と肩を震わせて、いとこは涙で濡れた目でわたしを見た。
「もういいよ。もういい。わたし、ここにいるよ。るぅちゃんの側に、ちゃんといるから」
「日真理」
「ごめんね。ここに、いるからね」
繋がれていない方の手を伸ばす。涙を拭って、ここにいる、と何度も伝える。
それしか出来ない事が歯痒い。何も気づかない馬鹿なわたしのせいでずっと傷ついていた、優しいいとこに何も出来ない事がただ苦しい。
「大丈夫だよ。きっとね、るぅちゃんのおまじないは、悪い魔法使いさんにのろいに変えられちゃったんだよ。だから、良い魔法使いさんのるぅちゃんは、何も悪くないんだよ」
「日真理」
きっとそうだ。人を傷つけるものがおまじないであるはずがない。それはのろいなのだと伝えれば、いとこは馬鹿だね、と小さく呟く。
「俺が良い魔法使いな訳あるか。俺が悪い魔法使いなんだよ」
「そんな事ない。るぅちゃんはわたしにとって、良い魔法使いさんなんだから。いつもわたしを幸せにする魔法をかけてくれる、優しい最高の魔法使いさんだよ」
「馬鹿。日真理は本当に馬鹿だ」
泣きながら、いとこは馬鹿だ、馬鹿だと繰り返す。涙を拭う手も取られ、強い力で引き寄せられた。
「ごめん…ありがとう」
帰ってきてくれて、と続く言葉を聞こえない振りをして、目を閉じる。
どうしてわたしはここにいるのだろう。
どうして人形の体で動いて話しているのだろう。
これからもこのままなのだろうか。それともこれは一時的な夢のようなものなのだろうか。
何も分からない。いとこがしたおまじないすら、それが何であるのかわたしは知らない。
ただ、いとこの涙を拭える腕と、ここにいると伝えられる声があるから。
今は先を考えず。暖かくて大きな腕の中で、大丈夫だよ、と泣き止まないいとこに、声をかけ続けていた。
20250224 『魔法』
ざあざあと、音を立てて雨が降り頻る。
誰もいない教室に、雨の音だけが響き渡る。
いつもは居残り話を咲かせるクラスメイト達も、暗い空に雨を察して、早々に帰って行ってしまった。
窓越しに空を見上げる。けれど空はどこまでも厚い雲に覆われて、一筋の青も見えなかった。
俯いて手を強く握り締める。ぎり、と歯を食いしばり、泣かないようにと只管に耐えた。
――やっぱり、断ればよかったんだ。
最初からこうなる事は予想が出来ていた。何か予定が出来ると、必ずと言っていいほどに雨が降る。
それが楽しみにしていればしているほど、雨の勢いは激しくなる。指折り数えて楽しみにしていた私を嘲笑うように、前日から雨は降り続く。
楽しみにしていたのだ。雨が降るから、と尻込みする私を、友人達は皆大丈夫だと笑って誘ってくれた旅行だったのに。
一回しかない、大切な卒業旅行なのに。
――今から断れば、もしかしたら。
私がいなければ空は晴れる。
根拠はないけれど、そう思った。
深く息を吸って、吐く。滲む涙を乱暴に拭って顔を上げた。
楽しみにしていたのは、私だけではないのだから。
雨が降っても構わないと皆は言ってくれていたけれど。折角の旅行なのだから、からりと晴れた青空の下で思う存分に楽しんでもらいたい。
大好きな皆と雨に煙る冷たい卒業旅行をするくらいならば、降り注ぐ暖かな日差しの中で楽しい思い出を皆から聞く方がよっぽどいい。
一つ頷いて、スマホを取り出そうと鞄に手を伸ばす。
鞄を開ける音とほぼ同時、がらり、と教室のドアが開く音がした。
「あの、すみません」
視線を向けると、そこには男子生徒が一人。
見知った顔に、目を瞬く。彼は委員会の後輩だ。
俯きがちな視線が迷うように教室内を彷徨う。私よりも大きいのに、丸まった背中はとても小さく見えてしまう。
「どうしたの?ごめんね。皆、もう帰っちゃったんだ」
「あ、いえ。天笠《あまかさ》先輩に、その…渡したい、ものがあって」
渡したいものがある。そう言いながらも、彼が教室内に入ってくる様子はない。
彼はいつもそうだ。許可なく教室に入ろうとしない。そこが彼の言い所ではあるのだけれど。
気づかれないように小さく苦笑して、彼の元に歩み寄る。
「渡したいものって何?」
「えっと。あの、ですね。先輩、明日から卒業旅行に行くって、話してたから」
ずきり、と胸が痛む。苦しくて息が出来なくなる。
けれも彼にいらぬ心配をかける訳にはいかないと、笑顔を貼り付け口を開く。
「ごめんね。その事なんだけど」
「だから、その。これを作ってきましたっ!」
ずい、と手に持った何かを前に出され、行かない事にした、の言葉が掻き消える。
彼の手の中の小さなそれに視線を落とす。大きな彼の手にちょこん、と乗っているのは、ちりめんで出来た可愛らしいてるてる坊主のストラップだった。
「えっと。これを、私に?」
「はい。雨が降るって心配していたので…大丈夫です。ばあちゃんのお墨付きなので、必ず晴れます」
彼の目はさっきまでと違い、真っ直ぐだ。
必ず晴れる。本気で信じているのだろう。
受け取るべきかを迷う。ざあざあと、音はまだ聞こえている。雨が止む様子は見えない。
「大丈夫です。明日は晴れますから」
ぎこちなく笑って、彼は私の手を取るとストラップを乗せる。ちりん、とストラップに付けられた金の鈴が、澄んだ音色を響かせた。
「可愛い…ありがとう。日和《ひより》くん」
「あ、いえ。その、こちらこそすみません。勝手に、押しつけるように、して。それに、せ、先輩の手を、掴んだりしてっ」
言いながら、自分がまだ私の手を掴んだままだと気づいたのだろう。ひゃぁ、と声を上げて飛び上がるようにして手を離す。
真っ直ぐだった視線は、再び周囲を落ち着きなく彷徨い出し。あぁとか、うぅとか、意味を伴わない呻きが彼の唇から溢れ落ちていく。
「とりあえず、落ち着いて。というか、私がいつまでも迷ってたから悪いんだよね。ごめんね」
「そ、そんな事ないです!晴れるからって、ただの後輩に手作りのストラップを渡されそうになったら、誰だって困ると思いますしっ。本当に、すみませんでした」
土下座しそうな勢いで頭を下げる彼に、気にしないで、と声をかけながら、確かに、とも思う。
彼から何かをもらう事が嫌な訳ではない。そこに付随するものの扱いに困るのだ。
私が呼ぶ雨は、偶然を超えてしまっている。晴れると信じていたのに雨が止まない事を、優しい彼は気に病むだろう。
きっと自身を責めるだろう彼を思い、気分が沈む。今も止まない雨に、彼は――。
そこまで考えて、不意に気づく。
雨の音が、消えていた。
「――え?」
恐る恐る振り返る。
雲越しに差し込む光が信じられず、目を見張る。
「晴れ、た?」
手にしたストラップを――てるてる坊主を見て、彼を見る。
びくり、小さく肩を揺らした彼は、眉を下げて笑った。
「ばあちゃんが言ってました。天笠先輩は、きっと雨に近いんだろうって」
「雨に、近い?」
「はい。時々いるらしいです。天気とか、自然とか。そういったナニかに、近い人が」
俺もそうです、と頬を掻きながら彼は言う。
「俺は晴れに近いから、先輩の雨と中和できるかなって思ったんです。最低でも曇りになればいいかと思ってたんですけど…いいものが見れましたね」
「いいもの?」
首を傾げる私に、彼は窓の外を指差した。
彼が指し示す方へ視線を向け、息を呑む。
雲の切れ間から差し込む光を背に、大きくて鮮やかな虹が架かっていた。途切れる事なく美しいアーチを描く虹は今まで見たどの虹よりも綺麗で、思わず魅入ってしまう。
「天笠先輩」
どれほどの間、虹を見ていたのだろう。呼ばれた事ではっとなり、視線を彼に向ける。
穏やかに微笑む彼を見て、どきり、と鼓動が軽やかに跳ねた。
「卒業旅行、楽しんで下さいね」
「――うん。日和くん、本当にありがとう」
彼の言葉に、何故か無性に泣きたくなった。
さっきまでの悲しい気持ちは少しもない。彼の優しさが泣きたいくらいに嬉しかった。
「ありがとう。楽しんでくるからね」
「はい。いってらっしゃい」
てるてる坊主。虹。
彼のくれた優しさは、とても暖かい。
まるで陽だまりみたいだと思って、そう言えば彼は晴れに近いのだと言っていた事を思い出した。
手の中のてるてる坊主を胸元で抱きしめる。
とくとく、と跳ねる自分の鼓動を聞きながら、泣くように微笑った。
「せ、先輩っ!?」
途端に慌て出す彼に、ありがとう、と囁いて。
初めての晴れの日の旅行に、心を躍らせた。
20250222 『君と見た虹』
風を従え、男は夜空を駆け抜ける。
背の翼は夜に解けてしまいそうなほどに黒く、けれど男の姿は朔の暗い夜でも鮮やかだ。
遠く山の向こうへ消えていく男の背をぼんやりと眺めながら、自分の背の翼に意識を向ける。
風の声を聞きながら、翼を動かし空を飛ぶ。風に励まされながら飛ぶ自分の姿は、あの男の飛ぶ様には程遠い。
はぁ、と溜息を吐き、地に降りる。風に礼を言いながら、空を仰ぎ見た。
「随分と元気がないね。何か困り事かい」
聞こえた声に別に、と答え。声を気にせずに後ろでをついて座り込んだ。
今宵は星がよく見える。流れる星を探して彷徨う視線は、けれども上から覗き込む影に遮られ、眉が寄る。
「別に、という顔ではないな。話したくないのかい」
しなやかな尾を揺らし、逆さまに除く影が問いかける。月の色をした翼が夜の闇にぼんやりと浮かび上がった。
話したくないと言われれば、それは正しくはない。そも、困っているのともまた違う。それを伝えようとするも適切な言葉は思い浮かばず。悩み口をついて出たのは、別に、の言葉だった。
「だから別に、という顔をしていないだろうに。まあ、大方予測はついているがね。適切な言葉が分からないのだろう」
その言葉に頷いて、肯定する。やはりね、と笑う逆さまの影――翼のある猫は背の翼を羽ばたかせ、くるりと向きを変えて顔を近づけてきた。
「では、質問をしよう。――彼が嫌いかい」
彼。山の向こうへ飛んで消えた男を思い出す。
「嫌いじゃ、ない。むかつく事もあるけど、なんだかんだ言って最後には助けてくれるし。あいつの飛び方は…好きだし、憧れる」
「そうか。じゃあ、彼自身はどうだい。好きかな」
好き、の言葉に困惑した。
男の飛び方は好きだ。風を従えて自由に空を駆ける男の姿は、とても綺麗だと思う。
だがいくら飛び方が好きだと言っても、男が好きかと問われれば素直に肯定する事が出来ない。
「あいつの言い方は好きじゃない。俺の事をいつまでも半人前扱いして。すぐにあれは駄目だとか、お前にはまだ早いだとか…認められないのが、気に入らない」
愚痴混じりに答えれば、猫は目を細めてにんまりと笑った。
「それは仕方がない。彼にとって、君は飛び始めたばかりの赤子のようなモノだから。何かにつけて心配になるのだろう。君はうっかりさんな所があるみたいだしね」
何も言い返せずに、視線を逸らす。
男に軽率だと注意をされた事を思い出した。
行動する前に考えろ。後先考えずに突っ走るな。
何度も言われた事だ。自覚はあるため反論は出来ない。
「それだけ大事にされているって事だよ。風にも好かれている事だし、良い事だと僕は思うがね」
「でも…少しくらいは、認めてほしい」
言葉にして。すとん、と胸につかえたような気持ちがなくなった。
――ああ、そうか。
自分はあの男に認めてほしいのか。
「もっとあいつに近づきたい。背中じゃなくて、横顔を見ながら飛びたいのに。いつになったら――」
「複雑だね。素直でないとも言える」
にやり、と猫の深い緑の目が笑みに歪む。自分の周囲を一回りして正面に戻ると、音もなく地に降りた。
「彼に認めてもらったとして。それが彼の隣にいる理由に繋がるかと言えば、それは否だ。認めてもらう事はつまり、独り立ちを意味するからね」
「それは、分かってる、けど」
「どうだかね。独り立ちをする事と、近づきたい事は正反対ではないのかな」
膝の上に飛び乗って、猫は小首を傾げる。おそらくは全てを察して、あえて言葉を紡ぐのだろう。
自分に、気づかせるために。
「――あいつと、対等の立場になりたい。隣を飛んで、同じ景色を見てみたい」
小さく溢れ落ちた言葉が、形に出来なかった想いの全てだった。
その為には、後どれだけの人間の望みに応えればいいのだろうか。
猫を見る。猫は何も言わず、お互い無言で見つめ合う。
ふと、風が吹き抜けた。猫の羽根を揺らし、自分の背の翼に、戯れるように纏わり付く。
――飛べ、と風が話しかける。
「そうだね。風の言うとおりだ。難しく考えず、目の前にある出来る事をこなしていけばいい」
まずは飛ぶ所から、と猫は翼を広げて飛び上がる。
おいで、と風が呼ぶ。
導かれるまま立ち上がり、翼を広げた。
風の声を聞く。大きく翼を羽ばたかせ、風を纏い猫の元まで飛び立った。
「そうだ。君はそれでいい。彼を意識して風を従えるのではなく、風の声を聞くんだ」
「風の、声」
「それだけで風に愛される君は、何処へだって飛んで行ける」
猫を追い、さらに高く飛ぶ。
猫の月の色をした翼がはためいて、暗い夜空に朧月のように浮かび上がる。
猫を追う。
追いかけて、そして追い抜いて先を駆ける。
彼のように、夜空を流れる星のように駆け抜けていく。
「行っておいで。彼と話をするといい。一緒にいたいと、素直に話す事だ」
背後で猫が楽しげに声をかける。
そんな事言えるか、と内心で文句を言いながらも、振り返る事はない。さらに速く、駆け抜ける。
くすくすと風の笑い声。
何を話すかくらいは考えたら、と揶揄われて、思わず止まりそうになる背を風が強く押した。
――後先考えずに突っ走るな。
男の忠告を思い出す。今まで、聞き流していた言葉を噛みしめる。
風は止まらない。男の元まで行くのだろう。
只管に夜空を駆け抜けながら。
緊張と気恥ずかしさと、僅かばかりの後悔を胸に、男を見送った時とは正反対の思い出し、深く溜息を吐いた。
20250222 『夜空を駆ける』
友達と話しをしながら、ちらり、と窓際の席を見る。
前から二番目。友達数人と楽しそうに笑いながら話す彼を視界に入れる。途端に跳ねる心臓に慌てて、けれど回りにバレないようにさりげなく抑えた。
「どうしたの?」
不思議そうに尋ねる友達に、何でもないと首を振る。少しだけ眉を下げて、笑ってみせた。
「また雪が降りそうだな、って。積もらないといいんだけど」
「あぁ。今日は部活で遅くなるんだっけ…確か、天気予報ではそこまで積もらないって言ってたけど。多分、がっちがちに凍るよ」
「やだな。あの坂道、融雪剤を撒かないんだよね」
誤魔化すための話題だったけれど、思わぬ情報を聞いて溜息を吐く。家の前の長い坂道は細い上に急で、今年に入ってからすでに三回も雪で滑って転んでしまった事を思いだした。
窓越しに重苦しい空を見る。さっきとは正反対の憂鬱な気分に、やだなぁ、と繰り返す。
視界の隅で、彼がこちらを見ている気がしたけれど、きっと気のせいなのだろう。
暗い坂道を、慎重に上っていく。少しでも気を抜けばその瞬間に足を取られ、坂道を転がり落ちてしまいかねない。
一歩一歩、ゆっくりと。滑ってしまわないように、慎重に。
けれど凍った坂道は、警戒心など意味がないと言うように容赦なく足を滑らせる。
「痛っ」
転がり落ちる事はなかったが、強かに尻餅をつく。痛みですぐに立てないでいれば、不意に目の前に影が掛かった。
「相変わらず、ドジな奴。ほら、手ぇ貸してやるからさっさと立てよ」
聞こえた声に弾かれたように顔を上げる。面倒くさいといった顔をして、彼が手を差し伸べていた。
「早くしろよ。寒いんだけど」
不機嫌な声に、慌てて彼の手を取り立ち上がる。硬くて大きな男の人の手に、心臓が忙しなく鼓動を刻み始める。じわじわと熱を持ち出す頬に、気づかれないようにと軽く俯いた。
「いくぞ。ぼさっとすんな」
彼に手を繋がれたまま歩き出す。私の歩調に合わせて歩く彼の優しさに、さらに心臓が跳ね出した。どくどくと、煩い鼓動が手を伝って彼に届くのではないかと不安になる。
バレてはいけない。彼にだけは、絶対に。
近所の幼なじみ。家族ぐるみで仲が良く、物心ついた時にはすでに隣にいて、いつも遊ぶような近しい仲。
それが彼だった。
お互いの家を行き来するくらいの親しい関係が変化したのは、いつからだっただろう。中学生になって、気づけば疎遠になっていた。
学校では一言も言葉を交わす事はなく。家の前で会ってもせいぜいが挨拶を交わすのみだ。ここ数年は、遊ぶ事もしていない。
「お前、本当にトロいな。いつまでものそのそ歩いてんなよ」
「ご、ごめん」
余計な事を考えていたせいで、彼の機嫌がみるみるうちに悪くなっていく。小さく謝ってから、少しだけ歩くペースを速めた。
最近の彼はいつも、私の前では不機嫌な顔をする。幼い頃からドジで泣き虫だった私の面倒を見てくれていたから、きっと嫌いになってしまったのだろう。
分かっている。手遅れなんだと。期待なんかしてはいけないと。私に出来るのは、これ以上彼に嫌われないようにするくらいだ。
「もう、ここでいいよ。ありがとう」
彼の家の前まで来て、手を離す。
何も言わなければこのまま私の家の前まで連れていってくれる彼の優しさに、甘える訳にはいかない。
「は?お前の家はまだ先だろ」
「大丈夫だから。すぐそこだし、私一人で帰れるから」
納得していない顔をする彼に大丈夫だと、もう一度告げる。実際に数軒先が私の家だったし、正直な所、彼とこれ以上手を繋いでいるのが苦しかった。
彼の側にいられる事がとても嬉しいのに、それと同じくらいに悲しい。欠片も好かれてはいないだろう彼の態度に、泣いてしまいそうだ。
「ばいばい。また明日ね」
笑みを貼り付け、別れを告げて。何も言わない彼に悲しくなりながら、ゆっくりと家の前まで歩いて行く。
ふぅ、と息を吐いて。彼の家の方へと視線を向けた。
そこに彼の姿はない。家の中に戻ってしまったのだろう。
胸に手を押し当てる。胸の痛みを、きつく目を瞑る事で必死に耐える。
――彼が好き。
ひそかなその想いが、報われる事は決してない。
一つ深呼吸をしてから、目を開けた。家の中に入ろうと、一歩足を踏み出す。その瞬間――。
聞こえたのは、タイヤが空回りした時の嫌な音。そして雪道を滑る音。
音のする方を見れば、視界が真っ白に染まる。車のヘッドライトの眩しさに、思わず目を細めて。
最後に思ったのは、やはり彼の事だった。
目を開ける。
深々と降り積もる雪を眺めながら、深く息を吐いた。
少しばかり夢を見ていたようだ。おそらくは、自分の過去の夢を。
思い出せぬそれに苦笑して、地に下りる。肉体を失ったこの身が実際に地に足を付ける事はない。しかし人としての意識は、宙を漂うよりもこうして人と同じ目線で在る事を好んだ。
過ぎゆく人を横目に、当てもなく歩く。記憶のない自分には、ここが何処であるのかは分からない。何か思い出せるものはないかと空高く昇っても、結局は何も分からないままであった。
思い出せぬのであれば仕方がない。風の赴くままに旅をするもの一強だろう。
緩く首を振って前を向く。丁度通りがかる青年と目が合い、会釈をした。
それを疑問に思ったのも一瞬。
目を見開いて、青年は大股でこちらに歩み寄り。有無を言わさずに、腕を掴まれた。
「なに、やってんだ。こんなとこでっ!」
首を傾げる。何故見知らぬ青年に怒鳴られているのかが理解できない。
「急いで戻るぞ。早くしないと本当に手遅れになる」
手遅れ。それが何を意味するのか分からぬが、腕を掴まれている以上、自分に否の選択肢はない。おとなしく青年についていく。
目的地はどうやら病院のようだ。
迷いのない青年の足は、ある病室で止まる。
ノックをして、部屋に入る。中は個室のようで、ベッドの上で様々な管に繋がれた少女が一人、眠っていた。
一目見ただけで分かる。この少女は長くはない。魂はなく、体は近い内に死を迎えるのだろう。
他人事のように考えていれば、青年に腕を引かれ少女の側まで近づく。そして有無を言わさず、少女の中へと押し込まれた。
「さっさと戻れ!このバカっ」
バカとはなんだ、バカとは。
内心で文句を言いつつ、意識が呑まれていく。この少女の体は自分の体だったらしい事に、ここでようやく気づいた。
目を、開けた。
体が重い。息をするのさえ億劫だ。
視線を動かし、彼を見る。泣きそうな――否、すでに泣きながら様子を伺っていた彼と目が合い、不格好に微笑まれる。
心臓が跳ねる。痛みを伴う鼓動に顔を顰めれば、彼は慌てたようにナースコールを押した。
それから慌ただしくやってきた医者や看護師に問診やら診察をされ。
連絡を受けて駆けつけた、両親らしき人達に泣きながら喜ばれて。
疲れた。いつの間にか姿を消していた彼は、結局誰だったのか。疑問を抱えながらも、目を閉じる。
医者の話では、凍った坂道でスリップした車に跳ねられ、長く昏睡状態にあったとの事だ。二度と歩く事は出来ないとも話していた。
両親は酷く悲しんだが、当の本人である自分は、特に感じるものはなかった。そうか、これから生活していく上で不便になるな、くらいである。長くを宙を彷徨っていた自分には、足があった所で上手く使える自信はない。
不意に扉の開く音がした。両親は少し前に帰っていったはずであるから、看護師が来たのだろうか。
目を再び開ける気力はもうない。様子を伺っていれば、ベッド脇においてある椅子が音を立て、そこに誰かが座った気配がした。見舞いに誰かが訪れたのだろうか。
見られている。無言の視線が刺さるようで、居心地が悪い。
「――生きてる。間に合ったんだ」
静かな、安堵を滲ませた声がした。彼の声だった。
「お前は本当に、バカだよ。どうしようもないくらいの大バカだ」
バカだ、バカだと言いながら、彼の声は次第に嗚咽が混じり始める。
頬に何かが触れた。暖かなそれは彼の指だ。生きている事を確かめでもしているのか、頬に触れていた指は首筋へと移動する。
彼の指を通して、自分の鼓動を感じる。規則正しい鼓動に、どこか違和感を覚えて、気づく。
事故に会う前。自分は彼が好きだったのだろう。だから体に戻り彼を見て、心臓が跳ねた。今目を開けて彼を見てしまえば、鼓動は早くなるに違いない。
「お前の事、鬱陶しいと思った事もあったけどさ。だからって、勝手にいなくなろうとするなよ」
青春だな、と他人事なのは、記憶がないからだ。体に残る僅かな残り滓では到底足りない。
なくした記憶は、今頃雪の下にでも埋まっているのだろうか。自分が何一つ覚えていないのは、意図的に埋めて隠しているからかもしれない。叶わぬ恋は忘れてしまうのが一番だ。
「認める。認めてやるよ。鬱陶しい何て思ってない。恥ずかしかったんだ。けどそれでお前が離れていくのが許せなかった。あの時も、俺を見ようともしないし、早く離れたいみたいに…好きなんだよ。もう離れていこうとしないでくれ」
思いもしなかった言葉に、心臓が跳ねる。
叶わぬ訳ではなさそうだ。それならば、と少し悩み、体を抜け出した。
報われるのであれば密かに隠し続けてきた想いごと、雪の下に埋まるものを掘り起こしても良いだろう。
「おいっ。どこ行こうとしてんだ。このバカ」
しかしそれは彼に腕を掴まれて、終わる。
忘れていた。彼は自分の事が見えて、触れられるのだった。誤魔化すように笑えば、彼の目がきつく険しくなる。
「そんなに俺が嫌いかよ」
違うのだと首を振り、彼に引き戻されるままに体に戻る。
掘り起こすよりも先に、彼を説得しなければならないようだ。
この時は、まだ知らなかった。
この先、彼が自分の側から離れなくなる事を。
記憶を思い出した自分が羞恥に耐えきれなくなり、彼の目を盗んでは体を抜け出す事を。
何度も捕まり戻されて、最後には何もかもを受け入れて、終の先も彼と共に在る事を選択する事を。
何も知らず、今はただ軽やかに跳ねる鼓動を楽しみ、彼を出し抜く方法を呑気に考えていた。
20250221 『ひそかな想い』