ざあざあと、音を立てて雨が降り頻る。
誰もいない教室に、雨の音だけが響き渡る。
いつもは居残り話を咲かせるクラスメイト達も、暗い空に雨を察して、早々に帰って行ってしまった。
窓越しに空を見上げる。けれど空はどこまでも厚い雲に覆われて、一筋の青も見えなかった。
俯いて手を強く握り締める。ぎり、と歯を食いしばり、泣かないようにと只管に耐えた。
――やっぱり、断ればよかったんだ。
最初からこうなる事は予想が出来ていた。何か予定が出来ると、必ずと言っていいほどに雨が降る。
それが楽しみにしていればしているほど、雨の勢いは激しくなる。指折り数えて楽しみにしていた私を嘲笑うように、前日から雨は降り続く。
楽しみにしていたのだ。雨が降るから、と尻込みする私を、友人達は皆大丈夫だと笑って誘ってくれた旅行だったのに。
一回しかない、大切な卒業旅行なのに。
――今から断れば、もしかしたら。
私がいなければ空は晴れる。
根拠はないけれど、そう思った。
深く息を吸って、吐く。滲む涙を乱暴に拭って顔を上げた。
楽しみにしていたのは、私だけではないのだから。
雨が降っても構わないと皆は言ってくれていたけれど。折角の旅行なのだから、からりと晴れた青空の下で思う存分に楽しんでもらいたい。
大好きな皆と雨に煙る冷たい卒業旅行をするくらいならば、降り注ぐ暖かな日差しの中で楽しい思い出を皆から聞く方がよっぽどいい。
一つ頷いて、スマホを取り出そうと鞄に手を伸ばす。
鞄を開ける音とほぼ同時、がらり、と教室のドアが開く音がした。
「あの、すみません」
視線を向けると、そこには男子生徒が一人。
見知った顔に、目を瞬く。彼は委員会の後輩だ。
俯きがちな視線が迷うように教室内を彷徨う。私よりも大きいのに、丸まった背中はとても小さく見えてしまう。
「どうしたの?ごめんね。皆、もう帰っちゃったんだ」
「あ、いえ。天笠《あまかさ》先輩に、その…渡したい、ものがあって」
渡したいものがある。そう言いながらも、彼が教室内に入ってくる様子はない。
彼はいつもそうだ。許可なく教室に入ろうとしない。そこが彼の言い所ではあるのだけれど。
気づかれないように小さく苦笑して、彼の元に歩み寄る。
「渡したいものって何?」
「えっと。あの、ですね。先輩、明日から卒業旅行に行くって、話してたから」
ずきり、と胸が痛む。苦しくて息が出来なくなる。
けれも彼にいらぬ心配をかける訳にはいかないと、笑顔を貼り付け口を開く。
「ごめんね。その事なんだけど」
「だから、その。これを作ってきましたっ!」
ずい、と手に持った何かを前に出され、行かない事にした、の言葉が掻き消える。
彼の手の中の小さなそれに視線を落とす。大きな彼の手にちょこん、と乗っているのは、ちりめんで出来た可愛らしいてるてる坊主のストラップだった。
「えっと。これを、私に?」
「はい。雨が降るって心配していたので…大丈夫です。ばあちゃんのお墨付きなので、必ず晴れます」
彼の目はさっきまでと違い、真っ直ぐだ。
必ず晴れる。本気で信じているのだろう。
受け取るべきかを迷う。ざあざあと、音はまだ聞こえている。雨が止む様子は見えない。
「大丈夫です。明日は晴れますから」
ぎこちなく笑って、彼は私の手を取るとストラップを乗せる。ちりん、とストラップに付けられた金の鈴が、澄んだ音色を響かせた。
「可愛い…ありがとう。日和《ひより》くん」
「あ、いえ。その、こちらこそすみません。勝手に、押しつけるように、して。それに、せ、先輩の手を、掴んだりしてっ」
言いながら、自分がまだ私の手を掴んだままだと気づいたのだろう。ひゃぁ、と声を上げて飛び上がるようにして手を離す。
真っ直ぐだった視線は、再び周囲を落ち着きなく彷徨い出し。あぁとか、うぅとか、意味を伴わない呻きが彼の唇から溢れ落ちていく。
「とりあえず、落ち着いて。というか、私がいつまでも迷ってたから悪いんだよね。ごめんね」
「そ、そんな事ないです!晴れるからって、ただの後輩に手作りのストラップを渡されそうになったら、誰だって困ると思いますしっ。本当に、すみませんでした」
土下座しそうな勢いで頭を下げる彼に、気にしないで、と声をかけながら、確かに、とも思う。
彼から何かをもらう事が嫌な訳ではない。そこに付随するものの扱いに困るのだ。
私が呼ぶ雨は、偶然を超えてしまっている。晴れると信じていたのに雨が止まない事を、優しい彼は気に病むだろう。
きっと自身を責めるだろう彼を思い、気分が沈む。今も止まない雨に、彼は――。
そこまで考えて、不意に気づく。
雨の音が、消えていた。
「――え?」
恐る恐る振り返る。
雲越しに差し込む光が信じられず、目を見張る。
「晴れ、た?」
手にしたストラップを――てるてる坊主を見て、彼を見る。
びくり、小さく肩を揺らした彼は、眉を下げて笑った。
「ばあちゃんが言ってました。天笠先輩は、きっと雨に近いんだろうって」
「雨に、近い?」
「はい。時々いるらしいです。天気とか、自然とか。そういったナニかに、近い人が」
俺もそうです、と頬を掻きながら彼は言う。
「俺は晴れに近いから、先輩の雨と中和できるかなって思ったんです。最低でも曇りになればいいかと思ってたんですけど…いいものが見れましたね」
「いいもの?」
首を傾げる私に、彼は窓の外を指差した。
彼が指し示す方へ視線を向け、息を呑む。
雲の切れ間から差し込む光を背に、大きくて鮮やかな虹が架かっていた。途切れる事なく美しいアーチを描く虹は今まで見たどの虹よりも綺麗で、思わず魅入ってしまう。
「天笠先輩」
どれほどの間、虹を見ていたのだろう。呼ばれた事ではっとなり、視線を彼に向ける。
穏やかに微笑む彼を見て、どきり、と鼓動が軽やかに跳ねた。
「卒業旅行、楽しんで下さいね」
「――うん。日和くん、本当にありがとう」
彼の言葉に、何故か無性に泣きたくなった。
さっきまでの悲しい気持ちは少しもない。彼の優しさが泣きたいくらいに嬉しかった。
「ありがとう。楽しんでくるからね」
「はい。いってらっしゃい」
てるてる坊主。虹。
彼のくれた優しさは、とても暖かい。
まるで陽だまりみたいだと思って、そう言えば彼は晴れに近いのだと言っていた事を思い出した。
手の中のてるてる坊主を胸元で抱きしめる。
とくとく、と跳ねる自分の鼓動を聞きながら、泣くように微笑った。
「せ、先輩っ!?」
途端に慌て出す彼に、ありがとう、と囁いて。
初めての晴れの日の旅行に、心を躍らせた。
20250222 『君と見た虹』
2/23/2025, 1:06:17 PM