友達と話しをしながら、ちらり、と窓際の席を見る。
前から二番目。友達数人と楽しそうに笑いながら話す彼を視界に入れる。途端に跳ねる心臓に慌てて、けれど回りにバレないようにさりげなく抑えた。
「どうしたの?」
不思議そうに尋ねる友達に、何でもないと首を振る。少しだけ眉を下げて、笑ってみせた。
「また雪が降りそうだな、って。積もらないといいんだけど」
「あぁ。今日は部活で遅くなるんだっけ…確か、天気予報ではそこまで積もらないって言ってたけど。多分、がっちがちに凍るよ」
「やだな。あの坂道、融雪剤を撒かないんだよね」
誤魔化すための話題だったけれど、思わぬ情報を聞いて溜息を吐く。家の前の長い坂道は細い上に急で、今年に入ってからすでに三回も雪で滑って転んでしまった事を思いだした。
窓越しに重苦しい空を見る。さっきとは正反対の憂鬱な気分に、やだなぁ、と繰り返す。
視界の隅で、彼がこちらを見ている気がしたけれど、きっと気のせいなのだろう。
暗い坂道を、慎重に上っていく。少しでも気を抜けばその瞬間に足を取られ、坂道を転がり落ちてしまいかねない。
一歩一歩、ゆっくりと。滑ってしまわないように、慎重に。
けれど凍った坂道は、警戒心など意味がないと言うように容赦なく足を滑らせる。
「痛っ」
転がり落ちる事はなかったが、強かに尻餅をつく。痛みですぐに立てないでいれば、不意に目の前に影が掛かった。
「相変わらず、ドジな奴。ほら、手ぇ貸してやるからさっさと立てよ」
聞こえた声に弾かれたように顔を上げる。面倒くさいといった顔をして、彼が手を差し伸べていた。
「早くしろよ。寒いんだけど」
不機嫌な声に、慌てて彼の手を取り立ち上がる。硬くて大きな男の人の手に、心臓が忙しなく鼓動を刻み始める。じわじわと熱を持ち出す頬に、気づかれないようにと軽く俯いた。
「いくぞ。ぼさっとすんな」
彼に手を繋がれたまま歩き出す。私の歩調に合わせて歩く彼の優しさに、さらに心臓が跳ね出した。どくどくと、煩い鼓動が手を伝って彼に届くのではないかと不安になる。
バレてはいけない。彼にだけは、絶対に。
近所の幼なじみ。家族ぐるみで仲が良く、物心ついた時にはすでに隣にいて、いつも遊ぶような近しい仲。
それが彼だった。
お互いの家を行き来するくらいの親しい関係が変化したのは、いつからだっただろう。中学生になって、気づけば疎遠になっていた。
学校では一言も言葉を交わす事はなく。家の前で会ってもせいぜいが挨拶を交わすのみだ。ここ数年は、遊ぶ事もしていない。
「お前、本当にトロいな。いつまでものそのそ歩いてんなよ」
「ご、ごめん」
余計な事を考えていたせいで、彼の機嫌がみるみるうちに悪くなっていく。小さく謝ってから、少しだけ歩くペースを速めた。
最近の彼はいつも、私の前では不機嫌な顔をする。幼い頃からドジで泣き虫だった私の面倒を見てくれていたから、きっと嫌いになってしまったのだろう。
分かっている。手遅れなんだと。期待なんかしてはいけないと。私に出来るのは、これ以上彼に嫌われないようにするくらいだ。
「もう、ここでいいよ。ありがとう」
彼の家の前まで来て、手を離す。
何も言わなければこのまま私の家の前まで連れていってくれる彼の優しさに、甘える訳にはいかない。
「は?お前の家はまだ先だろ」
「大丈夫だから。すぐそこだし、私一人で帰れるから」
納得していない顔をする彼に大丈夫だと、もう一度告げる。実際に数軒先が私の家だったし、正直な所、彼とこれ以上手を繋いでいるのが苦しかった。
彼の側にいられる事がとても嬉しいのに、それと同じくらいに悲しい。欠片も好かれてはいないだろう彼の態度に、泣いてしまいそうだ。
「ばいばい。また明日ね」
笑みを貼り付け、別れを告げて。何も言わない彼に悲しくなりながら、ゆっくりと家の前まで歩いて行く。
ふぅ、と息を吐いて。彼の家の方へと視線を向けた。
そこに彼の姿はない。家の中に戻ってしまったのだろう。
胸に手を押し当てる。胸の痛みを、きつく目を瞑る事で必死に耐える。
――彼が好き。
ひそかなその想いが、報われる事は決してない。
一つ深呼吸をしてから、目を開けた。家の中に入ろうと、一歩足を踏み出す。その瞬間――。
聞こえたのは、タイヤが空回りした時の嫌な音。そして雪道を滑る音。
音のする方を見れば、視界が真っ白に染まる。車のヘッドライトの眩しさに、思わず目を細めて。
最後に思ったのは、やはり彼の事だった。
目を開ける。
深々と降り積もる雪を眺めながら、深く息を吐いた。
少しばかり夢を見ていたようだ。おそらくは、自分の過去の夢を。
思い出せぬそれに苦笑して、地に下りる。肉体を失ったこの身が実際に地に足を付ける事はない。しかし人としての意識は、宙を漂うよりもこうして人と同じ目線で在る事を好んだ。
過ぎゆく人を横目に、当てもなく歩く。記憶のない自分には、ここが何処であるのかは分からない。何か思い出せるものはないかと空高く昇っても、結局は何も分からないままであった。
思い出せぬのであれば仕方がない。風の赴くままに旅をするもの一強だろう。
緩く首を振って前を向く。丁度通りがかる青年と目が合い、会釈をした。
それを疑問に思ったのも一瞬。
目を見開いて、青年は大股でこちらに歩み寄り。有無を言わさずに、腕を掴まれた。
「なに、やってんだ。こんなとこでっ!」
首を傾げる。何故見知らぬ青年に怒鳴られているのかが理解できない。
「急いで戻るぞ。早くしないと本当に手遅れになる」
手遅れ。それが何を意味するのか分からぬが、腕を掴まれている以上、自分に否の選択肢はない。おとなしく青年についていく。
目的地はどうやら病院のようだ。
迷いのない青年の足は、ある病室で止まる。
ノックをして、部屋に入る。中は個室のようで、ベッドの上で様々な管に繋がれた少女が一人、眠っていた。
一目見ただけで分かる。この少女は長くはない。魂はなく、体は近い内に死を迎えるのだろう。
他人事のように考えていれば、青年に腕を引かれ少女の側まで近づく。そして有無を言わさず、少女の中へと押し込まれた。
「さっさと戻れ!このバカっ」
バカとはなんだ、バカとは。
内心で文句を言いつつ、意識が呑まれていく。この少女の体は自分の体だったらしい事に、ここでようやく気づいた。
目を、開けた。
体が重い。息をするのさえ億劫だ。
視線を動かし、彼を見る。泣きそうな――否、すでに泣きながら様子を伺っていた彼と目が合い、不格好に微笑まれる。
心臓が跳ねる。痛みを伴う鼓動に顔を顰めれば、彼は慌てたようにナースコールを押した。
それから慌ただしくやってきた医者や看護師に問診やら診察をされ。
連絡を受けて駆けつけた、両親らしき人達に泣きながら喜ばれて。
疲れた。いつの間にか姿を消していた彼は、結局誰だったのか。疑問を抱えながらも、目を閉じる。
医者の話では、凍った坂道でスリップした車に跳ねられ、長く昏睡状態にあったとの事だ。二度と歩く事は出来ないとも話していた。
両親は酷く悲しんだが、当の本人である自分は、特に感じるものはなかった。そうか、これから生活していく上で不便になるな、くらいである。長くを宙を彷徨っていた自分には、足があった所で上手く使える自信はない。
不意に扉の開く音がした。両親は少し前に帰っていったはずであるから、看護師が来たのだろうか。
目を再び開ける気力はもうない。様子を伺っていれば、ベッド脇においてある椅子が音を立て、そこに誰かが座った気配がした。見舞いに誰かが訪れたのだろうか。
見られている。無言の視線が刺さるようで、居心地が悪い。
「――生きてる。間に合ったんだ」
静かな、安堵を滲ませた声がした。彼の声だった。
「お前は本当に、バカだよ。どうしようもないくらいの大バカだ」
バカだ、バカだと言いながら、彼の声は次第に嗚咽が混じり始める。
頬に何かが触れた。暖かなそれは彼の指だ。生きている事を確かめでもしているのか、頬に触れていた指は首筋へと移動する。
彼の指を通して、自分の鼓動を感じる。規則正しい鼓動に、どこか違和感を覚えて、気づく。
事故に会う前。自分は彼が好きだったのだろう。だから体に戻り彼を見て、心臓が跳ねた。今目を開けて彼を見てしまえば、鼓動は早くなるに違いない。
「お前の事、鬱陶しいと思った事もあったけどさ。だからって、勝手にいなくなろうとするなよ」
青春だな、と他人事なのは、記憶がないからだ。体に残る僅かな残り滓では到底足りない。
なくした記憶は、今頃雪の下にでも埋まっているのだろうか。自分が何一つ覚えていないのは、意図的に埋めて隠しているからかもしれない。叶わぬ恋は忘れてしまうのが一番だ。
「認める。認めてやるよ。鬱陶しい何て思ってない。恥ずかしかったんだ。けどそれでお前が離れていくのが許せなかった。あの時も、俺を見ようともしないし、早く離れたいみたいに…好きなんだよ。もう離れていこうとしないでくれ」
思いもしなかった言葉に、心臓が跳ねる。
叶わぬ訳ではなさそうだ。それならば、と少し悩み、体を抜け出した。
報われるのであれば密かに隠し続けてきた想いごと、雪の下に埋まるものを掘り起こしても良いだろう。
「おいっ。どこ行こうとしてんだ。このバカ」
しかしそれは彼に腕を掴まれて、終わる。
忘れていた。彼は自分の事が見えて、触れられるのだった。誤魔化すように笑えば、彼の目がきつく険しくなる。
「そんなに俺が嫌いかよ」
違うのだと首を振り、彼に引き戻されるままに体に戻る。
掘り起こすよりも先に、彼を説得しなければならないようだ。
この時は、まだ知らなかった。
この先、彼が自分の側から離れなくなる事を。
記憶を思い出した自分が羞恥に耐えきれなくなり、彼の目を盗んでは体を抜け出す事を。
何度も捕まり戻されて、最後には何もかもを受け入れて、終の先も彼と共に在る事を選択する事を。
何も知らず、今はただ軽やかに跳ねる鼓動を楽しみ、彼を出し抜く方法を呑気に考えていた。
20250221 『ひそかな想い』
2/21/2025, 9:48:41 PM