sairo

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2/20/2025, 11:19:12 PM

しん、と静まり返った夜。
眠りに落ちる前の微睡の中で、誰かが頭を撫でた気がした。
そっと、優しく。夜のように静かに。
その心地良さに微笑んで、ふと気になって目を開ける。
枕元。暗がりを駆け抜ける小さな影を目で追って、体を起こした。

「だあれ?」

問いかけても答える声はない。静かな室内には、起きる前の小さな影はどこにも見当たらない。

「誰か、いるの?」

もう一度、問いかける。
やはり、答えはない。
釈然としない思いを抱えながらも、影を探す事を諦めて横になる。暗闇にぼんやりと浮かび上がるデジタル時計は、すでに日付が変わってしまった事を示していた。
目を閉じる。
今度は頭を撫でる感覚はしなかった。



あれから数日が経ち。
時折現れる頭を撫でる手に、どうしたものかと頭を悩ませていた。
手が現れるのは決まって嫌な事があり、とても疲れた日の夜だ。疲れて寝入る前の僅かな時間。優しく触れる手は沈んだ気持ちを解き、穏やかな眠りを誘う。しかしその手が誰なのかを気にして目覚めると、小さな影を残してその手は消えてしまうのだ。
消える手が惜しくて眠った振りをすれば、手は頭だけでなく、顔に触れ出す。頭や頬を撫でられて、心地良さにそのまま眠ってしまった次の朝は、いつも感じる寂しさも哀しさもなく、穏やかな気持ちで目覚められる。

「どうしようかな」

ベッドの上。サイドテーブルの上に置かれたライトの灯りを見ながら考える。そろそろ眠った方がいいのは分かっているが、如何するべきかを決められずにいた。
このまま気づかない振りをして、その優しさを享受し続けるか。それとも、正体を暴いてしまうのか。
はぁ、と重苦しい溜息を吐いて、ライトに手を伸ばす。灯りを消して訪れた暗闇に、また一つ溜息を吐きながら横になった。



頭を撫でる感覚に、意識が浮上する。
優しい手。嫌な事を全て解かしてくれる、懐かしい手。
眠った振りをしながら悩み、考える。
この手を失うのが怖かった。しかしこのまま何も知らないでいるのも、同じくらいに怖ろしい。
悩み迷う間に手は額に触れ、瞼をなぞり頬を撫で始める。こそばゆい感覚にふふ、と思わず笑みが溢れた。
それがいけなかったのだろう。弾かれたように手が離れ。
それを嫌だと思った瞬間に、気づけばその手を掴んでいた。
目を開ける。黒い小さな影を認め、目を瞬いた。
暗闇に目が慣れてくる。影の姿が次第に浮かび上がってくる。
驚いたように目を見開きこちらを見つめるその影は、小さな老人だった。和服を着たどこか懐かしさを感じる老人は、しばらく微動だにしなかったが、掴まれた手を見て、そしてこちらを見て、困ったように微笑んだ。

「やれ、捕まってしまったか。今まですまなかったな」
「ま、待って!」

まるで別れのような言葉に、握った手に僅かに力が籠もる。
首を振って嫌だと、行かないで欲しいと必死に訴えれば、眉を寄せながらも老人は掴まれていない方の手で、頭を撫でた。
優しい手だ。ここ数日、哀しい時や苦しい時に、慰めるように撫でてくれていた手だ。

「あなたは誰?」

目を細め、その手に擦り寄りながら問いかける。

「この辺りに住むモノだよ。久方ぶりに帰って来た子の成長が嬉しくてなあ。つい通ってしまった。怖がらせてしまってすまないね」
「怖くないっ。怖くなんてなかったよ。寂しかったり哀しかったりした時に撫でてくれたから、次の朝も頑張れたんだよ」
「良い子だね。離れている間に、健やかに成長してくれていたようだ」

目に慈しみを浮かべて穏やかに笑む老人は、頭を撫でる手は止めぬまま、掴まれた手に視線を向ける。そこで大分強く握ってしまっていた事に気づき、慌てて手を離した。

「ごめんなさいっ」
「気に病む事ではないぞ。寂しかったのだろう。今宵もおまえが眠るまでここに居る故、安心して眠ると良い」
「ありがとう」

促されて横になる。目を閉じて頭を撫でる手を感じながら、眠りに落ちていく。

「ねぇ、あなたは誰?」

最初にした問いを繰り返す。この手を懐かしいと思ってしまうのは、きっと気のせいではないのだろう。

「おまえの眼が見ていた妖らの中の一人さ。池がなくなり寄る辺を失いながらも、語り継がれる事で消える事も出来ずに彷徨う我をその眼で見て、怖れず触れてくれたあの優しさを後生大事にしている、水の精の名残だよ」

あぁ、そうだ。夢うつつに思い出す。
幼い頃、体が弱く外に出られない自分の話し相手になってくれた、優しい妖達の中の一人が老人だった。退屈だとぼやく自分に、彼はよく昔の話をしてくれたのだ。
遠い昔にこの付近には池があった事。浮き草や菖蒲に覆われたその池に戻れなくなって、困ってしまった事。人に捕まってしまい、何とか逃げ出せた話など。
池がなくなってしまった事で、彼は水の精から妖に成ったと話してくれた。幼い頃は全く分からなかった事は、思い出した今も分からない。

「おかえり、可愛い子。元気になって戻って来てくれた事を、皆とても嬉しく思っているよ」

その言葉に頬が緩む。
療養のためにこの都会から離れ、田舎の祖父母の家に預けられた。青春時代のほとんどをあちらで過ごし、彼らをすっかり忘れてしまっていたのに。
彼らが忘れず、帰りを待っていてくれた事が嬉しくてたまらない。

「ただいま」

彼らに会いに行こう。
明日を待ち遠しく思いながら、小さく呟いた。



20250220 『あなたは誰』

2/20/2025, 4:22:53 AM

「何をなさっておられるのですか?」

空に燻る一筋の煙を辿り、着いた先の光景に、水色の振袖を纏う少女は首を傾げて問いかける。
河の畔で男が一人、焚き火をしていた。叺《かます》から紙の束を取り出しては、それを火に焼《く》べている。

「何って、手紙を燃やしてんだよ。お焚き上げってやつだ」

火を怖れているものの、焼べられた手紙が気になるのだろう。少女は火の粉が爆ぜる度に肩を跳ねさせながら恐る恐る男に近づき、その手元を覗き込んだ。

「呪、ですのね。恨み、嫉み。誰かの不幸を望む、悪意に満ちた手紙」

顔を顰め、少女は忌々しいと言わんばかりに紙の束――少女曰く、悪意の手紙を睨めつける。男の傍らに置かれた叺に未だ残る手紙を躊躇なく鷲掴み、苛立つ感情と共に火の中へと投げ入れた。
炎が上がる。勢いを増す黒い火に、きゃあと悲鳴を上げ、少女は慌てて焚き火から距離を取った。

「もう、吃驚させないでくださいまし」
「おひぃさんが焼べたからだろうに。なぁに言ってやがる」
「わたくしが火を苦手とする事も、呪う手紙を厭う事も知っておいででしょう」
「その割には…まぁ、いいか。それより、何か用かい?」

肩を竦め、男は少女に問いかける。言いたい事はいくつかあれど、少女の妖としての質を思えば仕方がない事なのだろう。何せ恋文に対する女の情念が形を取って応えたのが少女だ。火気も手紙に込められた悪意も、少女にとっては禁忌である。
男の問いに、しかし少女は眉尻を下げ首を振る。要件など特にはないのだと、申し訳なさそうに男に告げた。

「煙が見えたので、散策の序でに辿っただけです」
「珍しい事もあるもんだ」

妖としては珍しく、人間の望みに応えるために現世いるよりも、少女は己が掻き集めた物語を収めた書庫に籠もる事を好む。故に、こうして外で言葉を交わす事は、少女が何か要件がある時だけであった。

「失礼ですね。常に書庫に籠もっている訳ではありませんよ」
「そりゃあ、すまなかった」

頬を膨らませる少女に、男は気のない謝罪を返す。
勢いが落ち着いて来た火の中に手紙を焼べながら、男はふと手紙に視線を落とした。
悪意の手紙。現世にある木の洞に入れられていた、いくつもの呪の塊。
願いを叶えるという、歪んだ認識で出来た呪《まじな》いの手紙もあるが、結局はその大半も誰かを呪う手紙だ。
少女はこの手紙の想いに引き摺られてきたのだろうか。

「なぁ。この手紙を、おひぃさんはどう思う?」

男の問いかけに、少女は目を瞬き。次いで眉を顰め、叺の中に手を入れる。手紙を取り出し広げると、そこに書かれた赤黒い死の文字を男に突きつけ、ふん、と鼻を鳴らす。

「美しくありませんね。手紙とは、相手を想い書くものです。それを妬み、憎しみを抱いて。剰え相手に死を望むなど、醜さすら感じますね…そも、手紙の作法を無視したものを、わたくしは手紙と認めたくありません」

突きつけた手紙を、少女は容赦なく破り捨てる。手紙だった紙くずを火に焼べるその様に、男は何も言えず引き攣った笑みを浮かべた。

「おっかねぇな」

小さく呟いて、手にしたままの手紙を火に焼べる。
その言葉に眦をつり上げる少女に、すまん、と謝罪をして、男は短く息を吐く。どうやら少女はこの手紙に引かれた訳ではなさそうであった。ならばやはり、少女の言うようにただ散策の序でだったのだろうと、懐に手を当てつつ男は片手を叺に入れ手紙を出す。
叺に残る手紙を火に焼べる。こうして全て燃やしても、それで終わりにはならない。現世では呪いを信じた人間達が、今も木の洞に手紙を隠しているのだ。

「ったく。めんどくせぇな」
「如何しました?」
「こんな面倒事に、なんで俺が取り込まれちまったんだろうな」

残る手紙全てを取り出して、火に焼べる。黒々と燃え盛る焚き火を前に、男は愚痴を溢す。この火が消えれば、また現世に行き、手紙を回収しなければならない。

「それは仕方がない事です。貴方様を見立てて、人間は呪いをしたのですから」

男は元々、泣く子供を叺に入れて連れて行くという話が形を取り応えた妖だった。泣きわめく子供を隠す男の質を、子供を隠す、と呪いを始めた人間は解釈し。そこに手紙に書かれた人間を隠す、と解釈を広げ、呪いは広まった。

「なんで広まっちまうかね。手紙に応えた事は一度もねぇってのに」
「偶然とは怖ろしいものですわ。偶然の結果を、その原因が手紙を書いたからだと結びつければ、一瞬ですもの」
「偶然、ねぇ。勘弁してもらいてぇもんだな」

はぁ、と溜息を溢しながら、男は勢いの弱まった焚き火を木の枝で浚い、中から何かを引き出した。
所々が黒く焦げた紙の内側から除く紫色のそれは、どうやらさつまいもであるらしかった。まだ熱いそれを手に取り、紙を剥いて割ると黒に近い紫の果肉が露わになり、少女は眉を潜める。

「おひぃさんも食うかい?」
「悪意に満ちた手紙を焼べた火で芋を焼くのは貴方様くらいでしょうね。とても嫌な色をされておりますが、問題はないのですか」
「あぁ。これは元々こんな色だ。人間の努力の結晶だよ」

うめぇぞ、と手にした片方に齧り付きながら、男はもう片方を少女に差し出す。訝しげにしながらもさつまいもを受け取り、恐る恐る口にする。控えめな甘さに、驚いたように男を見た。

「おいしい、ですね」
「だろう?楽しみがなけりゃ、やってけねぇからな」

空になった叺を一瞥し、さつまいもを囓る。疲れた様子の男を見ながら同じようにさつまいもを口にして、少女は小首を傾げ疑問を口にする。

「手紙に応えるつもりがないのでしたら、そのままにしておけばよいでしょうに」

面倒だと言いながら、律儀に手紙を回収する男の意図が分からない。いっそそのままでも、男にとって支障はないだろうに。
そう問えば、男は決まりが悪そうに視線を逸らした。

「あのままにしておいたら、人間に障りが出るだろうが。ごく稀にだが、純粋な願いを書く奴もいるからな」
「それは貴方様の懐に大切にしまってある、手紙の事でしょうか?」

その言葉に、男は盛大に咽せた。

「申し訳ありませんっ。わたくし、そんなつもりではなかったのです。焼べた手紙とは違い、暖かな想いが感じられまして、それで」
「っ、いい。それ以上言わんでくれ」

必死に息を整えながら、男は少女を止める。申し訳なさそうな少女を横目に、叺を背負い上げ立ち上がる。
気づけば、火は一筋の煙を残し消えていた。

「感謝の言葉でしょうか。短い言葉であれど想いははっきりと伝わる、とても素晴らしい手紙ですわね」
「勘弁してくれ」

嬉々として語り出す少女に、男は何とも言えぬ顔をする。残ったさつまいもを全て平らげ焚き火の後始末をしながら、そっと懐に手を当てた。
ありがとう。ただ一言だけだ。それを火に焼べず後生大事にしまってあるのは、手紙を書いただろう娘の事を男が少なからず気にかけているからだろう。
娘の消えた母は戻れたのだろうか。願いを叶える質の妖に声はかけたが、その後の事を男は知らない。以前よりも足繁く通うようになったが、それきり娘と会う事はなかった


「行かれるのですか」
「あぁ、おひぃさんも気ぃつけて戻れよ」

後ろ手を振り、男は歩き出す。
その背を見送りながら、少女は淡く微笑んだ。

「彼方側で良き便りに相見えますよう、想っております」

深く一礼し、男とは反対の方向へ少女もまた歩き出す。
誰もいなくなったその場所を、名残惜しげに風が吹き抜けた。



現世にて。
男は木の洞に隠された手紙の中に、呪ではない一通の封筒を見つけた。
淡い薄浅黄色の封筒の中に、同じ色の便箋が一枚。
母が戻って来たという報告の最後には、感謝の言葉が綴られていた。
男の口元が僅かに緩む。便箋を丁寧に封筒に戻し、己の懐にいれた。
その後、手紙がどうなったのか。
その行方を知るのは、男だけだ。



20250219 『手紙の行方』

2/18/2025, 10:47:49 PM

まただ。クラスメイトの表情を横目に、少女は僅かに眉を寄せる。
彼女は確か昨日、好きな人に告白して付き合えたのだと嬉しそうにしていたのではなかったか。それが表情もなく、静かに席に座っている。
ちらり、と視線だけを動かし少女は教室内を見回す。大半のクラスメイトが彼女のように無表情で席についているのを見て、薄ら寒さにふるり、と肩を震わせた。

――無感情症候群。

正確な病名はない。原因不明のこの症状に誰かが名付け、それが広まった。
ある日突然に、感情を失ってしまう病。一度感染すると会話や行動に制限はないが、そこに感情が伴わない。ただ機械的に行動し、求められる答えを返すようになってしまう。数ヶ月前から急速に、この学校内で流行りだした。
感染源や感染経路、予後すら何一つ分からず。噂では、初期に感染した生徒は次第に動く事も話す事もなくなり、今では昏睡状態に陥っているのだとか。


「ホームルーム始めるぞ…って、また増えたのか」

入ってきた担任が、彼女を一瞥し眉を潜める。しかしすぐに表情を取り繕うと、教卓の前で何事もないようにホームルームを始めた。
担任の話を聞くともなしに聞きながら、少女はもう一度教室内に視線を巡らせる。虚ろな目をして前を見る感染したクラスメイトと、どこか怯えを滲ませる未感染のクラスメイトを見て。
ぼんやりと、学校外や教師達には感染者がいないのは何故なのかを考えていた。



「――ねえ」

無感情な声に、机に伏していた顔を上げる。
声と同じく無表情の友人が、静かに机の前に佇んでいるのを見て、弾かれたように少女は体を起こした。

「ど、どうしたの?」

早鐘を打つ心臓を落ち着かせるように胸の前で手を握り、少女は笑みを浮かべてみせる。大分引き攣ってしまっているのは、感染した人が自分から声をかける事が今までなかったからだ。
視界の隅で少女と同じ未感染のクラスメイトが、目を見開いてこちらの様子を伺っている。不自然に静まりかえった教室内で、目の前の友人が口を開くのを待った。

「星が綺麗だから、見に行こう」

え、と思わず溢れた声が教室内に広がる。慌てて口を閉じ、困惑して周囲を見回すが、僅かに残っている未感染のクラスメイトは皆、少女と同じように困惑を顔に浮かべていた。
窓の外を見る。当然のように空高く太陽は輝き、青空のどこにも星は見えない。

「えっと…放課後、って事?」
「星を見に行こう」

問いかける言葉は、同じ言葉によって返される。益々困惑する少女を気にかける事もなく、友人は少女の手を取り歩き出す。

「えっ?…ちょっと。待って、どこに…」
「星を見に行こう」

強い力で引かれ、手を振りほどく事が出来ない。半ば引き摺られる形で廊下を歩きながらちらり、と振り返った視線の先で誰かが職員室に駆けていくのが見えた。
担任に報告しにいったのだろう。しばらくすれば助けが来るだろう期待に少しだけ気持ちに余裕が持て、少女は歩き続ける友人を覗い見た。
前だけを見る友人の足取りには迷いがない。階段を下り、昇降口を靴も履き替えずに出て、向かう先はどうやら旧校舎らしかった。
木造二階建ての古い校舎は今は使われておらず、立ち入り禁止となっている。そのため昇降口には普段から鍵がかかっているはずであるが、今日に限って鍵は開いていたらしい。引き戸は何の抵抗もなく開き、その隙間を友人はすり抜けていく。手を繋がれたままの少女もまた校舎内に入り、その瞬間に鼻腔を掠める埃と古くさい匂いに顔を顰めた。

「かび臭っ。ねえ、どこまで行くの?」

繋がれていない方の袖口で口と鼻を覆う。一向に止まる気配のない友人に声をかけるも返る言葉はなく、繋がれた手も離れる様子はなかった。

昇降口を出て向かって右側。その奥へと友人は歩みを進める。その足取りに、迷いはやはりない。
そして辿り着いた一番奥の教室の前で、ようやく友人は立ち止まる。
――視聴覚室。
古ぼけ、掠れたプレートから読み取れた文字。星を見ると言っていた友人の目的地に、少女は首を傾げて不安げに友人を見た。

「ここ、なの?」
「星を見に行くよ」

迷いなく引き戸に手をかけ、開ける。ぽっかりと口を開いた暗闇に少女は臆するものの、友人は気にせずに足を踏み入れる。手を引き少女を中へと引き入れて、戸を閉めた。
黒いカーテンで作られた暗闇を怖れ、少女は強く手を引く。
「っ、うわっ」

思っていたよりも簡単に手が離れ、その反動で少女の体が傾いだ。
倒れ込まないようにふらつきながらも耐えた少女が安堵の息を吐くとほぼ同時。その頭上で灯りがついた。

「え?」

天井を見上げる。そこで見たものに少女は思わず息を呑んだ。

星だ。満点の空が、そこにはあった。
きらきらと輝き、瞬いて。本物と見紛うほどの星空を、少女は呆けたように見上げていた。


「――ん?何か言った?」

微かに声が聞こえた気がして、少女は視線を友人へと向ける。変わらず無表情で佇む友人を見て、では外からか、と戸を見て近づくために足を踏み出した。
その瞬間に、また声がした。今度ははっきりと、頭上から。

「違う。これって…星からだ」

呟いて、もう一度天井を見上げる。耳を澄ませば、聞こえるのは少年や少女の声音だった。

――嬉しい。彼と付き合えるなんて夢みたい。

聞き覚えのある声がした。今日感染したクラスメイトの声だった。

「まさか。これって」

嫌な予感に、背筋が寒くなる。
見たくないはずであるのに、目を凝らして少女は星を見た。

そして、気づく。
星だと思っていたものが、本当は感染した生徒達の感情である事に。

「きれい?星、きれい」

友人の声がして、恐る恐る視線を向ける。
笑っている。感染してから今まで表情をなくしていた友人が、無邪気に微笑んでいた。
ひゅっと、喉がなる。恐怖に後退る少女を見つめ、友人は徐に腕を上げる。

「いかないで。きれいだよ」

友人の声に別の誰かの声が重なる。かたかたと震え動けなくなってしまった少女の目の前で、友人の背後に影が出来る。
それは子供の描いた落書きのような、かろうじて人だと分かる歪な形をしていた。友人の背後にぴたりと寄り添い、友人の口が開くのに合わせ、影の顔の部分に口が現れ開く。

「きらきら。かがやいて、きれい」
「ひっ」
「だから、ここにいよう?ねえ、そうしようね」

友人と影の混ざり合った耳障りな声が響く。ゆったりと近づくその様に、少女は恐怖に耐えられず引き攣った悲鳴を上げて引き戸に駆け寄った。
戸を開けようとして、躊躇する。今ここから逃げ出したとして、友人は果たしてどうなってしまうのだろうか。
迷い、振り返ろうとして――。

「ぁ。ぅぐっ!?」

最初に少女が感じたのは強い衝撃だった。
痛みはない。痛覚の代わりに感じた意味の分からない多幸感に、少女は混乱して崩れ落ちた。
その間にも絶え間なく背中に強い衝撃を感じ、その度に様々な感情が流れ込んでくる。感情の奔流に息も出来ないほどの苦しさを覚えながら、少女は必死に背後を見た。

「あ、あぁ」

星が、流れていた。
少女に向けて、無数の星が流れ続けていた。
輝きを纏った星が少女の中に入り込む度に、知らない誰かの感情が流れ込んでくる。
嬉しい。楽しい。幸せ。
苦しい。悲しい。寂しい。憎い。

「ぜんぶ、あげる。うれしいね」

いつの間にか友人から離れた影が、少女の傍らに膝をつく。子供の落書きのようであった影は、今ははっきりとした輪郭を持ち。少女を見つめ、瞼のない黒の目と唇が笑みを形作る。

「かがやき。きれいで、しあわせ」
「ぃや。たすけ。やだっ」

泣きながら少女は首を振る。
一度に与えられた感情は、人の限界を容易く超えている。少女の精神を灼き切り、脳を破壊した。

「あぁあああぁああ!」

輝く感情で出来た、最後の星が流れる様を見て。
少女の意識は黒く塗りつぶされた。





少女が友人と旧校舎へと向かい、姿を消してから数週間後。
教室の中では、今日も噂話があちらこちらで聞こえていた。

――聞いた?あの子、目を覚ましたんだって。
――聞いた聞いた。でも廃人同然なんだって?感情が戻ってないってさ。
――怖いね。連れていかれたあの子の友人も、結局見つかってないんでしょ?先生が旧校舎の視聴覚室に行った時には、倒れてるあの子しかいなかったらしいし。
――結局、無感情症候群って何だったんだろうね。
――怖かったんだからね。でも戻ってくれて良かった。

数日前に戻ってきた日常を、生徒達は謳歌していた。二つ空いたままの席を時折見てはすぐに視線を逸らし、噂話の話題に上げるも、その生徒の名すら呼ぼうとしない。
皆、戻らぬ少女達を心配する気持ちはあれど、ようやく戻ってきた日常を失う事をそれ以上に怖れていた。


「そろそろホームルーム始めるぞ」

教室に入って来た担任が二つの空席を認め、僅かに表情を曇らせる。しかし誰かにそれを指摘される前に表情を元に戻し、いつものようにホームルームを始めた。


少女は今も行方が分からないまま。
しかし、あの旧校舎では夜になると、少女によく似た等身大の人形を抱えて歩き回る人影が現れるのだという。



20250218 『輝き』

2/18/2025, 6:18:23 AM

「時間が止まらないものか」

ぽつり、と溢れ落ちた呟きに、鬼灯のような赤い顔をした子供は眉を潜めて視線を巡らせた。
六畳の和室の端、文机に伏す草臥れた男の背に、溜息を吐く。

「先生。今度はどうしたんです?」
「筆が乗らん」

深い溜息と共に男は徐に身を起こす。隅に避けていた原稿を手元に引き寄せるが、そこに文字は一文字も書かれておらず、白いままであった。
白い原稿をしばらく睨めつけ。だがやはり何も浮かばぬのだろう。重苦しい溜息を吐くと、原稿を押しのけ再び文机に伏した。

「ああ。先日来た仕事ならば、手前がお断りしておきやしたよ」
「――は?」

常と変わらぬ声音で告げられたその内容に、男は伏したまま視線だけを子供に向ける。柔らかな笑みを浮かべて小首を傾げる子供の姿に、男の眉が寄る。

「先生はここ最近、机に向かいっぱなしでしたからねぃ。それに短編とはいえ、恋愛小説は先生には書けやしませんて。ですからね。暫くはお休みですよ」
「今の担当は妖が見えないはずだが…どんな手を使った?」

苦虫を噛み潰したような顔をして、男は子供に問いかける。口調がどこか険しく感じられるのは、おそらく言いたい事を飲み込んでいるからだろう。
例えば、恋愛ものを書けないと断じられるのは不本意であるとか。世話女房めいてきているのは何故だとか。
そんな男の内心を見透かしたのだろうか。子供は伏せたままの男の背に羽織り物を掛けながら、疲れたように息を吐いてみせた。

「先生が悪いんですよ。当然のように手前共を受け入れる。ここに在る事を当然とし、認識が固まってこの屋敷の中では徒人にも見えるようになってしまったんでさぁ」
「……そうか」

少し間を開けて、男は神妙に頷いた。
意味を半分も理解してはいないのだろう。子供の目に憐みが浮かぶ。

「見たものを詳細に語れば、語った相手にもそれが見えてくる…暗い夜道で柳の枝が揺れるのを女と見間違えた人間がいて。女がいたと伝えた所で、相手には同じ女は見えやせん。ですが、腰まである艶やかな黒髪の、白装束を身に纏った憂い顔の女が佇んでいた、と語ればどうですかね。暗闇にその女の幻を見るのは、容易い事で御座いやす」

手際よく文机の上を片付ける子供を見ながら、男は想像する。
暗い道。風に揺れる柳の枝。談笑しながらその横を通りかかる二人。
さぞ怖ろしかったのだろう。引き攣った声を上げて取り乱す連れに如何したと問えば、震える指が柳を指差す。
女がいた、と連れは震える声で告げる。だが柳に視線を向けれど、女は居らず。女などいないと答えれば、連れはそんなはずはない、と声を荒げ、語るのだ。
長く艶やかな黒髪の女がいた。白装束を身に纏い、袖から伸びる手は死人のように青白く細い。女の顔もまた白く、憂いた表情で己を見つめていたのだ。と。
もう一度、柳に視線を向ける。揺れる柳の枝の先、ぼんやりと白く浮かび上がるものがあり、目を凝らす。
女だ。連れの語る白装束の女が此方を見ている。憂い顔で、言葉もなくただ見ている。
二人は悲鳴を上げ、その場を去る。そして後日。周囲に語るのだ。
柳の下に、女の幽霊が出たのだと。
噂は広がる。夜道に通りがかる人は、柳が気になり視線を向ける。思い描くのは、噂の女の幽霊。長い黒髪の白装束を纏った――。
見えてしまうだろう。木目を人の顔のようだと誰かが言えばそう見えてしまうように、人の脳は見たいものを見てしまう。そうして見えた居ないはずの女は、形を持って柳の下に佇むのだ。
時が止まったかのように。人の噂が消えるまで、永遠に。


「先生は随分とお疲れのようで。陽も落ちてはいやせんが、床の用意をしましょうか」

片付けを終えた子供が、音もなく立ち上がる。瞼の閉じかけた男を見て小さく笑い、ゆっくりと部屋を出る。
とん、と微かに障子戸が閉まる音を聞きながら、男は目を閉じる。仕事がない事で気が緩んだのか、空腹を訴え腹がなる。しかし、気怠い体は今更起き上がる事を良しとはせず、伏せたまま切なげに鳴る腹をさすった。

「腹が、減ったな」
「豆腐ならあるよ。食べるかい、先生?」

聞こえた声に目を開ける。重怠い体を何とか起こし視線を向ければ、戸の入口から少年が二人、覗いている事に気づく。背丈は先ほど部屋を出た子供と然程変わらない。双子のように同じ顔をした二人の妖は一つだけの目で男を見つめ、どうかな、と問いかけた。
豆腐、と呟き男は眉を下げる。寒い日に冷たいものを食す事を苦手とする男を知る二人は、そんな男の渋い顔を見て楽しそうにくすくすと笑った。

「先生のために、湯豆腐にしたよ。食べる?」

男の向かって右の少年が手にした鍋を掲げてみせる。鍋から立ち上がる暖かな湯気に、男の腹がまた小さく主張した。

「食べる。腹が減った」
「そう来なくっちゃ」
「準備をするから、少しだけ待っていてくれ」

男の言葉に破顔して、二人は部屋へと入り男の元に近づく。左の少年が手際よく文机に鍋敷きを置いて、右の少年がその上に鍋を置く。器に豆腐や薬味をよそい、箸と共に器を男に手渡せば、すまん、と一言男は呟き豆腐を口にする。

「うまい」
「良かったな。左目」
「うん。手伝ってくれてありがとう。右目」

笑い合う二人を横目に、男は次々と豆腐を口に運ぶ。素朴でありながら、味わい深い豆腐のうま味を堪能して、口元が僅かに緩んだ。


「おかわりあるからね。どんどん食べてよ」
「そういや先生。時間を止めてほしいのか?」

空の器に新しく豆腐と薬味をよそわれながら、男は右目と呼ばれた少年に視線だけを向ける。
一つ遅れて子供とした会話を思い出し、緩く首を振る。

「仕事がないという事は、締め切りもない。時間を止める意味がなくなった」
「何だ。残念」
「望んでくれるのなら、すぐにでも先生の時間を止めてやるのに」

至極残念だと肩を竦め、二人は囁く。
豆腐を食す手は止めぬまま、男は胡乱なものでも見るように、二人を一瞥した。

「死にたい訳ではないのだが」

男の言葉に、二人はきょとり、と一つだけの目を瞬かせ。互いを見つめ、男を見て声を上げて笑い出した。
男の眉間に皺が寄る。二人から視線を逸らし、無言で豆腐を食べ続ける男の不機嫌な様子に、笑っていた二人は慌てて違うのだと手を振った。

「ごめんね、先生。だって僕らが先生を殺したいなんて思う訳ないのにって思ったら可笑しくて」
「俺らは先生が好きなんだから。物騒な事を言わないでくれよ、先生」
「不老不死にするって事だよ、先生」
「これ以上老いて体の節々の痛みが強くなる前に、その時間を止めたらいいじゃないか」

二人の言葉に、男の眉間の皺が益々深く刻まれていく。二人の言いたい事を正しく理解して、深く息を吐いた。
二人の言葉に悪意はない。体の節々の痛みにぼやく事の多くなった男のためにと、純粋に思っての事だろう。
だがしかし。男がこれ以上老いる前に時を止める事はつまり――。

「俺は永遠に、今のこの腰痛やら肩こりに悩む事になる訳だが。それは御免被るな」

身も蓋もない言葉にぴしり、と二人が固まる。時が止まったかのように微動だにしない二人を余所に、男は黙々と残った豆腐を平らげていった。


「先生。床の用意が出来ましたんで、少しお休みになってくだせぇ…どうしたんですかい。この二人は」

戸を開けて部屋に足を踏み入れた子供は、止まったままの二人を視界に入れて、訝しげに眉を潜める。
男は気にする事なく最後の一口を飲み込んで、ごちそうさま、と手を合わせて器と箸を置いた。

「俺の肩こりと腰痛を永遠にしようとして、衝撃を受けている所だ」
「――はい?」

さらに困惑しながらも、子供は男の説明になっていない言葉と部屋を出る前の会話を思い返し、嘆息する。いつもの男の愚痴に部屋を訪れた二人が応えようかと提案し、それに対して男が駄々をこねたのだろう。そう当たりを付けて、それならば放っておいても構うまいと二人に声をかける事はせず男の側へ歩み寄る。
腹が満たされた事で、余計に睡魔に襲われているのだろう。ともすればすぐにでも寝入ってしまいそうに頭が揺れる男の手を取り立ち上がらせると、手を引いて歩き出す。

「寝るなら寝所へ行きましょうね、先生。ほら、ちゃんと歩いてくだせぇ」
「分かって、いる。子供、扱いするな」

ゆらゆらと、覚束ない足取りの男が倒れてしまわぬよう手を引きながら、子供は困ったものだと男を見る。
何度忠告しても変わらぬ男の妖への態度に、無駄だと知りながらも言葉をかけた。

「先生。何度も言っていますがね。手前共を甘やかしすぎると、堕ちてしまいやすよ」

永遠を口にし出す妖は、総じて堕ちてしまいやすい。何度も男に告げた事だ。けれども男は問題ない、と変わらず当然のように訪れる妖を受け入れ続けている。
危機感のない男に今回も無駄だろうと、半ば諦める子供の耳にふふ、と小さな笑い声が響く。

「大丈夫、だ。お前が、いる」

穏やかな声に、男の顔を見上げる。
眠そうに目を瞬かせながらも緩く微笑む、初めて見る男の表情に、思わず息を呑んだ。

「お前は、堕ちない。堕ちさせる、事もさせない。だから、問題、ない」

微睡む意識で紡がれる男の言葉は、絶対的な信頼だ。子供を妖として留め、他の妖を堕ちさせる事を許さない。
確固とした認識に、子供は思わず足を止め、男を正面から見据えた。
言葉なく男と目を合わせ、笑う。

「先生がその在り方を手前に望むのでしたなら、手前は喜んで応えましょう」

ぼんやりと、緩慢に頷く男を見て、子供は再び男の手を引いて歩き出す。
いいなあ、とどこからか聞こえる声を、寝所の戸を開ける音で掻き消し。
男を伴い部屋に入ると、音を立てずに戸を閉めた。



20250217 『時間よ止まれ』

2/16/2025, 4:23:13 PM

風一つない、夕暮れ時。
魔の前の朱い鳥居を、睨み付けるようにして見上げた。
一歩足を踏み出す。ゆっくりと鳥居を潜り抜ける。

「…駄目か」

変わらぬ鳥居の先の光景に、舌打ちして小さく吐き捨てた。

鳥居は境界だ。現世と狭間を区切る、一種の扉。
戻れるはずなのだ。彼方側に。人が住む現世の世界に。
だが何度繰り返しても、一向に戻れる気配はなく。もどかしさに、表情が険しくなる。


「無駄よ。今日は風がないから、彼方側に繋がる事はないわ」
「可能性はゼロじゃない。私は戻らなくちゃいけないの」

聞こえた声にすら腹立たしさを覚え、眦を決して振り返った。

「あの子が待ってる。一人きりで泣いている声がするの。だから早く戻らないと」
「最初だけよ。その内、皆日常に戻っていくわ…三十年も経てば人も老い、世代も変わる。例え人の記憶に残れど、想いは風化してしまう。覚えていてくれる人も皆いなくなるの」

憂いを帯びた表情と、諦め凪いだ声音にぎり、と歯を食いしばる。
皆いなくなる、と繰り返す女性は、遠い過去を思い返しているのだろう。その目には悲哀が浮かんでいる。
女性もまた、遠い昔にこの狭間に誘われた。此方側に来た当初、女性も自分と同じく現世に戻るために彷徨った。三十年かけてこの鳥居に辿り着き、強く風の吹き荒れる日にここから現世へと戻る事が出来たのだという。
しかし女性は再びこの狭間に戻ってきた。女性の事を忘れず何処にいたかを尋ねる親戚達に別れを告げて、人として現世で生きる選択を放棄した。
詳しくを尋ねた事はない。ただ女性の目に未練はなく、幾許かの寂しさが滲んでいた。

「それでも、戻らないと」

女性の元へと歩み寄りながら、静かに告げる。
今も尚聞こえ続けている悲しく寂しげな声に、眉を寄せた。
小さな声。寂しいと泣くような、無事を只管に祈るような、愛しい声が耳奥で響く。間違えるはずのない、愛しいあの子の声だ。

「あの子は一人で頑張り過ぎてしまう所があるから。寂しい気持ちを我慢して叔父さん、叔母さんに何も言わない、そんな優しい子。私がいない事でさらに悲しい思いはさせたくない」

女性の手を取り、己の耳に当てる。
あの子の声が女性にも聞こえたのだろう。びくり、と震える肩を見ながら、あの子の声に耳を澄ませた。

「――泣いているわね。声を上げずに、泣いているわ」
「そうだね。あの子はそういう子だ。私がいないとあの子はちゃんと泣く事も出来ない」

だから戻らないと、と女性の手を離し、鳥居を見遣る。
風が吹く気配はない。鳥居の向こうの景色に変化は見られない。

「私の両親も姉も、こんな風に泣いていたのかしら。私がいなくなった事を悲しんでくれたのかしら」

小さく呟かれた言葉に、多分ね、とだけ伝える。
そう言えば、と思い出す。女性が戻った生家には、既に家族は亡かったと言っていた。
だから現世に未練はないのか。

「ねえ」

凪いだ声に視線だけを向ける。声音と同じく凪いだ表情をした女性が、戻りたいの、と今更な事を訊く。

「さっきから、そう言っている」
「でもあなた。私と違って体がないでしょう?彼方に戻れたとして、貴女の大切な子には見えないのではないかしら」

指摘され、苦笑した。
改めて自分を見下ろして、影を失った透ける体に眉を寄せる。
考えていなかった訳ではない。分からない事が多すぎて後回しにしていただけだ。

気がつけばこの狭間で、体を失った状態で彷徨っていた。此処にいる切っ掛けも理由も、何一つ記憶にないのだから、体の行方など知りようもない。

「戻った後に考えるよ。案外彼方側に体はあるのかもしれないしね。体がなくてもあの子の側にいる事くらいは出来るし」

耳奥であの子の声が響く。例え見えずとも、聞こえずとも、側に寄り添う事は出来る。側にいると伝える手段は、いくらでもあるはずだ。

「早く、戻らないと」

空を見上げる。
夕闇を濃くして夜が浸食していくその様を睨み、過ぎていく時間に忌ま忌ましさを覚えた。





身じろぐ腕の中の温もりに、微睡みかけた意識が浮上する。

「おねぇ、ちゃん」
「大丈夫。ここにいるよ。寂しくはないでしょう」

背を撫で耳元で囁けば、目は開かぬままにふふ、と彼女は笑い。再び胸元に擦り寄ると、しばらくして規則正しい寝息が聞こえてくる。
あどけない表情をして眠る従姉妹を見つめ、笑みが浮かぶ。額に唇を寄せて、微睡みに垣間見た過去を思い返した。
現世に渡るため試行錯誤していた過去を見たのは、おそらく先ほどまであの女性が来ていたからだろう。
現世に渡ったはずの自分が、狭間に戻ってきた。泣きじゃくる従姉妹を連れて。
気にかけるのも当然だ。困惑する女性に簡単に事情を説明すれば、嘆息して一言だけ告げて戻っていった。

「酷い執着ね。それは愛ではないわ」

思い返すだけでも込み上げてくる笑いを、必死に押し殺す。彼女を起こす訳にはいかない。
そんな事、最初から分かっていただろうに。この執着は女性と言葉を交わした最初から変わらない。
現世に渡り、全てを思い出した事で歯止めがきかなくなっていただけだ。
理不尽に奪われた命。最期に思ったのは、彼女の事だ。
彼女の元へと向かえば、嬉しそうにこちらに駆け寄り笑う姿を見て、欲が出た。
彼女の日常に入り込み、以前のような関係を演じた。彼女が自分を否定するのならば、離れるつもりではあった。
最後まで自分を否定せず、慕い続けたのは彼女だ。全ての種明かしをして、怖い思いもさせたというのに。彼女は泣きながらも、繋いだ手を解こうとはしなかった。だから此方まで連れてきた。


「この子に執着しているのは、痛感しているよ。でもこの子の側には、やっぱり私がいないと。この子も私に執着しているんだから」

自分の死を否定し続けているほどには。でなければ、自分の姿を見る事も、声を聞く事もなかっただろう。
可哀想に、と囁いて、目を閉じる。

現世から繋ぎ続けている手は今も離れない。



20250217 『君の声がする』

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