「時間が止まらないものか」
ぽつり、と溢れ落ちた呟きに、鬼灯のような赤い顔をした子供は眉を潜めて視線を巡らせた。
六畳の和室の端、文机に伏す草臥れた男の背に、溜息を吐く。
「先生。今度はどうしたんです?」
「筆が乗らん」
深い溜息と共に男は徐に身を起こす。隅に避けていた原稿を手元に引き寄せるが、そこに文字は一文字も書かれておらず、白いままであった。
白い原稿をしばらく睨めつけ。だがやはり何も浮かばぬのだろう。重苦しい溜息を吐くと、原稿を押しのけ再び文机に伏した。
「ああ。先日来た仕事ならば、手前がお断りしておきやしたよ」
「――は?」
常と変わらぬ声音で告げられたその内容に、男は伏したまま視線だけを子供に向ける。柔らかな笑みを浮かべて小首を傾げる子供の姿に、男の眉が寄る。
「先生はここ最近、机に向かいっぱなしでしたからねぃ。それに短編とはいえ、恋愛小説は先生には書けやしませんて。ですからね。暫くはお休みですよ」
「今の担当は妖が見えないはずだが…どんな手を使った?」
苦虫を噛み潰したような顔をして、男は子供に問いかける。口調がどこか険しく感じられるのは、おそらく言いたい事を飲み込んでいるからだろう。
例えば、恋愛ものを書けないと断じられるのは不本意であるとか。世話女房めいてきているのは何故だとか。
そんな男の内心を見透かしたのだろうか。子供は伏せたままの男の背に羽織り物を掛けながら、疲れたように息を吐いてみせた。
「先生が悪いんですよ。当然のように手前共を受け入れる。ここに在る事を当然とし、認識が固まってこの屋敷の中では徒人にも見えるようになってしまったんでさぁ」
「……そうか」
少し間を開けて、男は神妙に頷いた。
意味を半分も理解してはいないのだろう。子供の目に憐みが浮かぶ。
「見たものを詳細に語れば、語った相手にもそれが見えてくる…暗い夜道で柳の枝が揺れるのを女と見間違えた人間がいて。女がいたと伝えた所で、相手には同じ女は見えやせん。ですが、腰まである艶やかな黒髪の、白装束を身に纏った憂い顔の女が佇んでいた、と語ればどうですかね。暗闇にその女の幻を見るのは、容易い事で御座いやす」
手際よく文机の上を片付ける子供を見ながら、男は想像する。
暗い道。風に揺れる柳の枝。談笑しながらその横を通りかかる二人。
さぞ怖ろしかったのだろう。引き攣った声を上げて取り乱す連れに如何したと問えば、震える指が柳を指差す。
女がいた、と連れは震える声で告げる。だが柳に視線を向けれど、女は居らず。女などいないと答えれば、連れはそんなはずはない、と声を荒げ、語るのだ。
長く艶やかな黒髪の女がいた。白装束を身に纏い、袖から伸びる手は死人のように青白く細い。女の顔もまた白く、憂いた表情で己を見つめていたのだ。と。
もう一度、柳に視線を向ける。揺れる柳の枝の先、ぼんやりと白く浮かび上がるものがあり、目を凝らす。
女だ。連れの語る白装束の女が此方を見ている。憂い顔で、言葉もなくただ見ている。
二人は悲鳴を上げ、その場を去る。そして後日。周囲に語るのだ。
柳の下に、女の幽霊が出たのだと。
噂は広がる。夜道に通りがかる人は、柳が気になり視線を向ける。思い描くのは、噂の女の幽霊。長い黒髪の白装束を纏った――。
見えてしまうだろう。木目を人の顔のようだと誰かが言えばそう見えてしまうように、人の脳は見たいものを見てしまう。そうして見えた居ないはずの女は、形を持って柳の下に佇むのだ。
時が止まったかのように。人の噂が消えるまで、永遠に。
「先生は随分とお疲れのようで。陽も落ちてはいやせんが、床の用意をしましょうか」
片付けを終えた子供が、音もなく立ち上がる。瞼の閉じかけた男を見て小さく笑い、ゆっくりと部屋を出る。
とん、と微かに障子戸が閉まる音を聞きながら、男は目を閉じる。仕事がない事で気が緩んだのか、空腹を訴え腹がなる。しかし、気怠い体は今更起き上がる事を良しとはせず、伏せたまま切なげに鳴る腹をさすった。
「腹が、減ったな」
「豆腐ならあるよ。食べるかい、先生?」
聞こえた声に目を開ける。重怠い体を何とか起こし視線を向ければ、戸の入口から少年が二人、覗いている事に気づく。背丈は先ほど部屋を出た子供と然程変わらない。双子のように同じ顔をした二人の妖は一つだけの目で男を見つめ、どうかな、と問いかけた。
豆腐、と呟き男は眉を下げる。寒い日に冷たいものを食す事を苦手とする男を知る二人は、そんな男の渋い顔を見て楽しそうにくすくすと笑った。
「先生のために、湯豆腐にしたよ。食べる?」
男の向かって右の少年が手にした鍋を掲げてみせる。鍋から立ち上がる暖かな湯気に、男の腹がまた小さく主張した。
「食べる。腹が減った」
「そう来なくっちゃ」
「準備をするから、少しだけ待っていてくれ」
男の言葉に破顔して、二人は部屋へと入り男の元に近づく。左の少年が手際よく文机に鍋敷きを置いて、右の少年がその上に鍋を置く。器に豆腐や薬味をよそい、箸と共に器を男に手渡せば、すまん、と一言男は呟き豆腐を口にする。
「うまい」
「良かったな。左目」
「うん。手伝ってくれてありがとう。右目」
笑い合う二人を横目に、男は次々と豆腐を口に運ぶ。素朴でありながら、味わい深い豆腐のうま味を堪能して、口元が僅かに緩んだ。
「おかわりあるからね。どんどん食べてよ」
「そういや先生。時間を止めてほしいのか?」
空の器に新しく豆腐と薬味をよそわれながら、男は右目と呼ばれた少年に視線だけを向ける。
一つ遅れて子供とした会話を思い出し、緩く首を振る。
「仕事がないという事は、締め切りもない。時間を止める意味がなくなった」
「何だ。残念」
「望んでくれるのなら、すぐにでも先生の時間を止めてやるのに」
至極残念だと肩を竦め、二人は囁く。
豆腐を食す手は止めぬまま、男は胡乱なものでも見るように、二人を一瞥した。
「死にたい訳ではないのだが」
男の言葉に、二人はきょとり、と一つだけの目を瞬かせ。互いを見つめ、男を見て声を上げて笑い出した。
男の眉間に皺が寄る。二人から視線を逸らし、無言で豆腐を食べ続ける男の不機嫌な様子に、笑っていた二人は慌てて違うのだと手を振った。
「ごめんね、先生。だって僕らが先生を殺したいなんて思う訳ないのにって思ったら可笑しくて」
「俺らは先生が好きなんだから。物騒な事を言わないでくれよ、先生」
「不老不死にするって事だよ、先生」
「これ以上老いて体の節々の痛みが強くなる前に、その時間を止めたらいいじゃないか」
二人の言葉に、男の眉間の皺が益々深く刻まれていく。二人の言いたい事を正しく理解して、深く息を吐いた。
二人の言葉に悪意はない。体の節々の痛みにぼやく事の多くなった男のためにと、純粋に思っての事だろう。
だがしかし。男がこれ以上老いる前に時を止める事はつまり――。
「俺は永遠に、今のこの腰痛やら肩こりに悩む事になる訳だが。それは御免被るな」
身も蓋もない言葉にぴしり、と二人が固まる。時が止まったかのように微動だにしない二人を余所に、男は黙々と残った豆腐を平らげていった。
「先生。床の用意が出来ましたんで、少しお休みになってくだせぇ…どうしたんですかい。この二人は」
戸を開けて部屋に足を踏み入れた子供は、止まったままの二人を視界に入れて、訝しげに眉を潜める。
男は気にする事なく最後の一口を飲み込んで、ごちそうさま、と手を合わせて器と箸を置いた。
「俺の肩こりと腰痛を永遠にしようとして、衝撃を受けている所だ」
「――はい?」
さらに困惑しながらも、子供は男の説明になっていない言葉と部屋を出る前の会話を思い返し、嘆息する。いつもの男の愚痴に部屋を訪れた二人が応えようかと提案し、それに対して男が駄々をこねたのだろう。そう当たりを付けて、それならば放っておいても構うまいと二人に声をかける事はせず男の側へ歩み寄る。
腹が満たされた事で、余計に睡魔に襲われているのだろう。ともすればすぐにでも寝入ってしまいそうに頭が揺れる男の手を取り立ち上がらせると、手を引いて歩き出す。
「寝るなら寝所へ行きましょうね、先生。ほら、ちゃんと歩いてくだせぇ」
「分かって、いる。子供、扱いするな」
ゆらゆらと、覚束ない足取りの男が倒れてしまわぬよう手を引きながら、子供は困ったものだと男を見る。
何度忠告しても変わらぬ男の妖への態度に、無駄だと知りながらも言葉をかけた。
「先生。何度も言っていますがね。手前共を甘やかしすぎると、堕ちてしまいやすよ」
永遠を口にし出す妖は、総じて堕ちてしまいやすい。何度も男に告げた事だ。けれども男は問題ない、と変わらず当然のように訪れる妖を受け入れ続けている。
危機感のない男に今回も無駄だろうと、半ば諦める子供の耳にふふ、と小さな笑い声が響く。
「大丈夫、だ。お前が、いる」
穏やかな声に、男の顔を見上げる。
眠そうに目を瞬かせながらも緩く微笑む、初めて見る男の表情に、思わず息を呑んだ。
「お前は、堕ちない。堕ちさせる、事もさせない。だから、問題、ない」
微睡む意識で紡がれる男の言葉は、絶対的な信頼だ。子供を妖として留め、他の妖を堕ちさせる事を許さない。
確固とした認識に、子供は思わず足を止め、男を正面から見据えた。
言葉なく男と目を合わせ、笑う。
「先生がその在り方を手前に望むのでしたなら、手前は喜んで応えましょう」
ぼんやりと、緩慢に頷く男を見て、子供は再び男の手を引いて歩き出す。
いいなあ、とどこからか聞こえる声を、寝所の戸を開ける音で掻き消し。
男を伴い部屋に入ると、音を立てずに戸を閉めた。
20250217 『時間よ止まれ』
2/18/2025, 6:18:23 AM