sairo

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2/15/2025, 5:37:42 AM

聞こえる囁きに、少年は眉を寄せた。
まただ。ここ最近聞こえるようになったそれに、何度目か分からない溜息が漏れる。

――近道なんてするんじゃなかった。

いくら後悔した所で、囁きが消える事はない。それでも思ってしまうほど、少年は疲れていた。


十日ほど前、少年は学校帰りに近道をした。
普段は決して通る事のない道だった。人気のない雑木林を通り抜ける、近所の誰もが通ろうとしない道。部活動の帰りで普段よりも遅くなってしまったために、少年としても苦渋の選択だった。
その道には噂があった。夜になってそこを通ると、声がついてくるのだ、と。
少年は信じてはいなかったが、近所の大人――特にお年寄り達は信じているようであった。何度も繰り返し、あの道は通るな、と険しい顔で言われていた事を思い出す。
少年がその道を通った時間帯は、夜ではなかった。だからこそ少年は近道をする事を選択したというのに。
項垂れる少年の耳元で、ひそひそ、こそこそと誰かが囁く。最初は気のせいだ、偶然だと思っていた。それくらい、囁きは意識しなければ気づかない程に曖昧な声だった。しかし日を追う毎に囁きははっきりと形を持ち、もはや誤魔化す事は出来なかった。

――今日はあっちの道がいい。明るい方がいいの。

疲れた思考で、少年は囁きの示す道はどちらだ、と考える。
姿なく、ただあっちと言われただけでは分かりようがない。
明るい道。こそこそと煩い囁きに顔を顰めながら視線を巡らせ、比較する。
家に帰るのに一番近いのは、雑木林を抜ける例の道だ。だがそこは明るさとは正反対だ。普段帰る道も人通りは少ない方で、明るいとは言いがたい。
選択肢を一つ一つ消していきながた、残った道に視線を向ける。
街中を通る道だ。店が多く人通りもあり明るくはある。だが迂回する形になってしまい、普段通る道より時間はかかる。
疲れた体は早く家で休みたいと訴えている。だが一方で、声に従った方がいいとも思っていた。
しばらく考え、肩を落としながら足を踏み出す。
煌びやかな店の電灯が、いつもよりも眩しく見えて目を細めた。





「君は、誰なの?」

ベッドで横になりながら、少年は小さく問いかける。
囁き声の言葉に従ったあの日。普段通る道に建っていた家で火事があったらしい。消防車や野次馬などで道はふさがれ、通るのが大変だったと母親がぼやいていた。
それ以降、何かと囁きの声に従い行動する事が増え、その結果難を逃れていた。

――私ね。あそこで死んだのよ。

その言葉に、ぎくり、と身を強張らせる。

――嘘だけど。
「嘘かよっ」

くすくす笑う声に脱力した。はぐらかされたような気になって、眉が寄る。
楽しげな声音は、まだ年若い少女のように聞こえる。どこか聞き覚えのあるような、ないような。曖昧な声に、少年は眉間に濃い皺を刻みながら考え込んだ。

――嘘だけど、あの道はもう通らないでね。昔、哀しい事があったのは本当だから。

知ってる、と少年は声には出さず呟いた。
昔、少しだけ調べた事がある。
理由なく雑木林の道を通るなと大人達に言われ、逆に気になってしまったからだ。確かに人気のない暗い雑木林は危険なのだろう。だが大人達の反応から、それだけではないと少年は思っていた。
街の図書館で、古い新聞記事を探した。手がかりがまったくない中で苦労はしたものの、それらしい記事を見つける事が出来た。

数十年前、あの雑木林で赤子を抱いた女性が亡くなっていた。

夫の実家で酷い目にあっていたらしい。痩せ細った女性は近所でも噂になっていた。

――誰もが知っていて、誰も助けなかったのか。

その記事を読んだ時から、少年は大人の言葉を素直に聞き入れる事が出来なくなった。
人に優しく。誠実に。
そんな言葉を言われる度に、嘘つきと内心で大人達を嗤っていた。自分達は優しくもなく、誠実とは言えないだろうに、と。

「いつまで俺にくっついてるの?」

ゆるく首を振り、話題を変えようとさらに問いかける。
さあね、と笑う声に混じり、こそこそと囁く声がした。

「こそこそ聞こえる声は、君の何?」
――知らない。関係ない。この声は、いろんな人の噂話の断片。雑木林にこびりついて膨らんでいった、噂を話す声の一部。雑木林を通っていったあなたにくっついているだけ。

淡々とした声に、少年は寝返りを打ちながらそう、とだけ答える。
目を閉じる。赤い暗闇の先に、、制服姿の少女の幻を垣間見た。
そう言えば、件の亡くなった女性が抱いていた赤子はその当時、生きていたと記事には載っていた。今も生きているとすれば、少年と同じくらいの年齢になるだろう。
少女の幻を瞼の裏に見ながら、昼の放送時に時折聞こえる声を思い出す。図書委員会のお知らせを読み上げる静かで柔らかな声は、今聞こえる声と同じだった。

「今度、図書室に会いに行ってもいい?君のおすすめの本とか教えてほしい」

ひゅっと息を呑む音がした。
答える声はない。こそこそと少年の耳元で囁く声だけが聞こえている。

やがてふぅ、と息を吐く音がして。囁く声がぴたり、と止まった。

――いつから、気づいていたの?
「ついさっき。図書館の事を思い出して、そう言えばこの前流れた新刊のお知らせを思い出したから。あらすじを聞いて気になったんだけど、タイトルを忘れたんだよな」

目を開けて、少年は体を起こす。もう一度、会いに行っていい?と尋ねると、苦笑した声が返ってきた。

――図書室内では、静かにしてくれるのならね。

その言葉に、少年は頷きながらも笑みを浮かべ。

「囁く声なら大丈夫?伝えたい事や聞きたい事がたくさんあるんだ」

聞こえる囁きを真似て、そっと声に向けて言葉を返した。



20250214 『そっと伝えたい』

2/14/2025, 3:51:43 AM

彼は少しだけ先の未来を知っている気がする。

「宿題忘れただろ。今のうちにやっとけよ。怒られるぞ」

彼が忠告する時は、必ずと言っていいほど先生の機嫌が悪い。そんな時に宿題を忘れただなんて気づかれれば、普段よりも厳しく叱られるのは目に見えている。


「予習なんてしなくていいよ。どうせ自習になるんだし」

机に伏しながら彼が言えば、その授業は自習になった。
他にも急な小テストがあるとか、誰と誰が付き合うとか、気まぐれに彼は予言めいた話をする。彼が本当に未来を見ているのか、それは分からない。けれど彼の言葉に何度も救われていたのは事実だ。

「ねえ」

隣の席で寝ている彼に声をかける。

「…なに」

気怠げに起き上がる彼を見て、目が合わないようにと前を向く。
彼の顔を見ながら話す事は、苦手だ。すぐに何も言えなくなってしまう。
彼に気づかれないように、机の下で強く手を握る。声が上擦らないように意識しながら口を開いた。

「わたしの、運命の人ってどんな人だと思う?」

――君が、好き。

本当に言いたい事を隠して、ただの雑談に聞こえるよう誤魔化した。

「さあな。どうでもいい」

運命なんてくだらない、と小さく吐き捨てる。横目で見た彼は眉を寄せ、酷く不機嫌な顔をしていた。

「ぁ。ごめん、ね。変な事、聞いた」
「別に。それより、帰る準備でもしたら?今日は委員会も部活もなくなるみたいだ」
「…分かった。いつもありがとう」

また机に伏した彼を見つめる。
泣きそうな気持ちを、頬の内側を噛んで耐えた。





まだ明るい空の下、俯きながら一人帰る。
時折溢れ落ちる溜息が、さらに気分を沈ませる。そう分かってはいても止められない。

――嫌われてしまっただろうか。

そればかりを考える。何が悪かったのだろうと思い返しては苦しくなって、次第に視界が滲み出した。
周囲は人通りもなく、とても静かだ。泣きながら帰った所で誰かに見咎められる事もないだろう。
そんな事を考えれば、堰を切ったように涙が溢れてくる。上手く呼吸が出来ずしゃくりあげながら、家に向かって歩き続けた。

――彼が好きだ。

たぶん、最初から。
迷子になって学校の旧館に入り込んでしまった一年の時。呆れたように笑いながら手を差し出す彼に、恋をした。
思えば彼は、いつでも私を助けてくれた。鈍臭くて、よく迷子になる私に彼は笑って手を差し伸べて、時には予言のような言葉で導いてくれた。
私はそんな優しい彼に、何を返せたのだろう。頼ってばかりで、与えてもらうのみで。
彼に好かれる要素など、一つもない。嫌われるのは当然だろう。
気づいてしまった事実に、笑いが込み上げる。止まらない涙を目を擦って無理矢理拭い、顔を上げた。

「…あれ?」

足を止める。
道の先。黒い服を着た女の人の姿を認め、目を瞬いた。
俯いているため、顔は分からない。道の真ん中で佇む女性は。酷くやつれているようだった。
葬式の帰りなのかもしれない。ふと思う。
そう考えれば、黒一色の服は喪服のようにも見える。この付近で誰か亡くなったとは聞いた事がないから、どこか遠方であった葬式の帰りなのかもしれない。
大切な人だったのだろうか。微動だにしないその姿は悲哀を感じさせ、見ているこちらまで苦しくなる。悲しみに耐えかねて、動けなくなってしまったのかもしれない。

――声をかけてみようか。

赤の他人である私が出来る事は何もない。けれど話を聞く事くらいは出来るから。
目を擦り、残っていた涙を乱暴に拭う。佇んだままの女性の元へ、足を踏み出した。





少女が学校に来なくなって、一週間が経とうとしていた。
隣の誰もいない席を見る。担任は何も言わなかったが、彼女が行方不明になっているという噂は、教室いる生徒の誰もが知る事だった。
ここ最近、不可解な行方不明事件が頻発している。少女の他にも何人か行方が分からない生徒がおり、そろそろ部活や委員会の停止だけでなく、学校自体も休校になりそうであった。
隣の席から視線を外し、少年は窓の外を睨む。聞こえるいくつもの“聲”から少女の声を探すが、あの柔らかな響きは欠片も見当たらなかった。

少年は人の心の内が聞こえていた。
言葉では友好的でありながらも、内心では嫉妬や嘲りにまみれた“聲”を少年は常に聞き続けてきた。
少女は少年が未来を知っていると思っていたようであるが、それは少年が聞いた“聲”から先を覚り、彼女に伝えていただけに過ぎない。

ホームルームが終わるとほぼ同時。少年は外へと駆けだした。
少女が学校へ来なくなってから、放課後は少女を探す事が少年の日課だった。
少女の人柄を表すような、暖かで優しい“聲”。人の行動を覚る言葉を繰り返す少年に、変わらず接してくれる少女。
恋慕の“聲”を自分に向けながら、運命などと口にした少女に焦れて心ない言葉を言った事を、少年はずっと後悔している。あの時、もっと別の言葉を――いっそ自分の想いを告げてしまえば、今も少女は隣で笑っていたのではないか。もしかすれば、もっと近しい関係にもなり得たのかもしれない。
そんなもしもを抱えながら、少年は少女の“聲”を探して当てもなく街中を駆け抜ける。
何も聞こえないという事が、何を意味するのか。その事実から只管に目を逸らし続けていた。



はっとして顔を上げる。
放課後の教室。残っていたクラスメイトが何事かと視線を向けるのを、少年は何でもないと笑って誤魔化し時計を見る。
ホームルームが終わって、それほど時間は経っていない。夢を見ていた気もするが、どこからが夢なのかはっきりとしない。
目覚めたばかりの夢うつつの意識の中、無意識に少女の“聲”を探し――。

寂しげな“聲”を聞いて、反射的に外へと駆けだした。
少女だ。哀しく、後悔を滲ませた“聲”が、微かに聞こえている。

――嫌われてしまっただろうか。

その言葉は、少女がいなくなってしまった前日に聞こえてきた“聲”だった。そんな事あるか、と一人言葉を返していた事を思い出す。
これは夢なのだろうか。それとも少女がいなくなった事の方が夢であったのか。少年には判断がつかない。
少年は“聲”から人の行動の先を覚る事は出来たが、未来自体を覚る事は出来ないからだ。少なくとも、今まで未来を夢に視た事はなかった。
だからこそ、少女がいなくなった事が夢で今が現実だとするならば、少女が明日いなくなる可能性は限りなく低かった。きっと明日も少女は学校に来て、気まずい顔をしながらも少年に声をかけるのだ。
それでも。可能性が低いのだとしても。
悪夢のようなもしもを考ると、少年は足を止める事が出来なかった。





「やめろっ!」

女の人の元へと歩み寄ろうとした体は、けれど腕を強く引かれて背後へと倒れ込む。
慌てて背後を振り返る。険しい表情をした彼が、女の人を強く睨み付けていた。

「どうしたの?」

声をかけるが答えはない。
意味が分からずに、困惑しながら女の人と彼を交互に見て。遅れて、彼の腕の中に抱き留められている状況に気づく。

「え…あ、まって。待って、お願いっ」
「少し黙ってて。いい子だから」
「っ!?」

頭を引き寄せられて、耳元で小さく囁かれる。それだけで何も言えず硬直する私を、彼は宥めるように背を撫でた。
びくり、と肩が跳ねる。何が起こっているのか何一つ分からず、混乱する思考で縋るように彼の制服を掴んだ。

静かだ。
彼は何も言わない。女の人の声も、周囲の音すら聞こえない事に、ようやく違和感を感じた。
何故、何の音もしないのか。誰もいなくても、風に揺れる木々の音や、カラスの鳴き声が聞こえてもいいはずなのに。
制服を掴む手に、力が籠もる。込み上げる恐怖に耐えながら、彼の肩に額を押し当てきつく目を閉じた。

「あんたが探しているのはこの子じゃない。どっかに行っちまえ」

低い、険を帯びた彼の声音。聞いた事のない冷たいそれに、不安になって顔を上げて彼を見る。
その瞬間。強く風が吹いた。
思わず目を閉じ。


「もういいよ。大丈夫だ」

彼の声と背を撫でる手に、目を開けて彼を見た。

「…泣いてるの?」

彼の目が涙の膜に覆われているのを見て、問いかける。
何か悲しい事があったのだろうか。

「別に…ちょっと、安心しただけ」
「安心?」
「もうさ。俺以外、見るなよ。お人好しなのもいい加減にしてくれ」

そう言って、彼は疲れたように笑う。言っている意味が分からなくて、けれど彼の涙を拭ってしまいたくて、掴んでいたままだった彼の制服から手を離し。
さっきから彼に抱きしめられたままなのを、思い出してしまった。

「っつ!?ご、ごめん!すぐ、離れ、る…は、離してっ!」
「駄目。離すのは駄目だ。まだ安心出来ない」
「ちょっ、と。何、言って。何」

安心したと言いながら、安心出来ないとはどういう意味なのか。
とにかく離れようと踠くも、彼の腕が離れる事はない。逆に強く抱きしめられて、声にならない悲鳴が漏れる。

「運命の人の話したの覚えてる?」

覚えているもなにも、別れる前に話したばかりの話題だ。
正直、忘れてしまいたかったのに。何故、このタイミングで話題に出すのだろう。

「どうでもいいって言ったけどさ。詳しく言ってなかったよな」
「な、に…?」

どこか苦しげな声に、恐る恐る顔を上げる。彼と間近で目が合い、泣きながら笑う彼に息を呑んだ。

「お前に運命の人がいたとして、結ばれる事なんて絶対にないよ。お前の気持ちを全部知ってるくせに黙ってて。そのくせ運命の人とか言われただけで拗ねるような、臆病で我が儘な目の前の誰かが邪魔するから。他の誰かに好意を持ったり持たれたりした時点で、徹底的に潰してやる」
「え。なに。何、言って」
「お前が好きって事」


それは。つまり。
私の気持ちを、彼は知って。
彼も、私を。
好き、だって事は。
つまり。

「っおい。大丈夫か?大丈夫じゃないな…まったく、気絶する前に返事くらい聞かせてくれよ」

視界が黒く染まっていく中で、彼の呆れた声が響く。
何か言わなければ、と口を開くが、掠れた吐息すら出てこない。
駄目だ。恐怖と、安堵と。突然の事が連続して起きて、混乱しすぎて、限界だった。

――彼が好きだって、言いたいのに。

もどかしさを覚えながら、耐えきれずに彼に凭れ意識を手放す。

好きだ、という柔らかな声が聞こえたのは、気のせいでないと思いたかった。



20250213 『未来の記憶』

2/13/2025, 4:13:07 AM

広い室内の片隅で、幼子が床に座り込んでいた。
かち、かたり、と硬いものが触れ合ったような音がする。どうやら床にある何かを動かしているようだ。
落として割った皿の破片でも拾い集めているのだろうか。下手に触れれば怪我でしかねない。幼子に近づき声をかける。

「何をしている」

幼子に反応はない。かた、かちゃり、と音を立てて、熱心に手元を動かしている。
さらに近づき、手元を覗き込む。床に散らばる、白の陶器に似た破片を組み立てているのが見えた。

「無駄な事を。一度砕けたものが、元の通りに戻るわけなどないだろうに」
「……それでも」

手を止めず、幼子は呟く。
幼子特有のどこか稚拙な話し方ではあるが、その声音に聞き覚えがあった。

「それでも、かたちはととのえないと」

俯く幼子の横顔は、長い髪に隠され見る事が叶わない。
戻らなくとも、形を整える。それの意味する事に、知らず眉が寄る。
見かけを整えて何になるのか。騙されるのはそれに興味を持たぬものだけだろうに。
考えて、気づく。理解する。

――この白の破片は、この幼子の心《ココロ》だ。

白の破片。一点の曇りもない白は限りなく純粋で、それ故に整えるだけで労苦を伴う。白一色では、隣り合う破片を見つける事すら困難だ。
幼子は無心で白の破片を組み合わせている。一つ一つを丁寧に合わせ、元の形を探っている。
心が砕けてから今まで、こうして破片を繋ぎ合わせてきたのだろう。形だけが整えられたココロで、周囲に気づかれぬように必死で誤魔化してきたのだ。
ああ、と声が漏れた。

「もう十分だ。これ以上無理をする必要はない。お前は十分頑張ったよ」

幼子の血に染まった傷だらけの手を握る。手を止められた事で、ようやくこちらに視線を向けた幼子に微笑んでみせた。

「疲れただろう。少し眠るといい。お前が眠っている間は、私がお前の代わりになるから心配するな」
「でも、これはわたしのせい、だから。あなたに、これいじょうは、わがままをいえないよ」

表情なく、抑揚のない声音で幼子は首を振る。握る手を解き離されかけて、逃がさぬようにもう一度手を掴み強く引いた。
倒れ込む小さな体を胸に抱き留める。

「これは我が儘などではない。そも、お前は我が儘を言った事はないだろうに」
「そんな、こと」

否定の言葉を言いかけた幼子の頭を肩口に押し当て、続く言葉を強引に止める。
逃れようと踠く幼い抵抗は意味を持たず。背を撫で続ければ、次第に強張る力は抜けていく。

「眠れ。もういい。増える傷を隠して笑うくらいならば、いっそ眠り続けていてくれ」

すまない、と謝罪の言葉を述べる。微睡み始めた意識で緩慢に、それでも首を振り否定する幼子――半身となった哀しい娘に、歯痒さが募っていく。
娘が眠りにつくまで背を撫でながら、白の破片を見て思う。
穢れ一つないこの純粋な心に始めに罅を入れたのは、おそらく己なのだろう。





夜明け前の暗い獣道を、少女は一人歩いて行く。
当てはなく、意味もなくなったこの旅を、それでも終わらせる事が出来ないでいた。

「馬鹿だなあ。結局、逸脱してしまったんだ」

どこからか聞こえる声に、足を止めた。

「人間と混じってしまったね。これじゃあどうする事も出来ないよ」
「必要ない。解釈を誤った時からすでに手遅れだった」
「解釈?」

訝しげな声と共に、白蛇が顔を出す。
白蛇を見上げ、少女は表情一つ変える事なく、ああ、と肯定した。

「娘の望みの言葉は、終わらせてほしい、ではない。終わらせたい、だった。私はそれを誤った」
「どちらも大きく変わらないだろう」
「変わる。本来ならば、続く言葉があったからな」

口元だけで笑みを形作り、少女は淡々と言葉を紡ぐ。

「母を終わらせたい。だから攫われた子供達を戻してほしい…娘が本当に望んでいたのは、子らを救う事だった。私は誤ったんだ」

白蛇から視線を逸らし、目を伏せて。
少女を眠らせ成り代わった妖は、すまない、と誰にでもなく後悔を口にした。


少女の母は優しいが故に、とても弱い人間だった。家族を愛し、愛すが故に死の離別を怖れた。
最初の切っ掛けは、少女の妹の死だった。長く病を患い、短い生を終えた妹。その死は母の心に深い傷を負わせ、病ませた。
そして兄もまた病に倒れた。幸い死に至る事はなかったが、長い闘病生活の不安や恐怖は母を壊し、その命を奪った。
母の死。それは終わりではなく、悲劇、或いは狂気の始まりだった。
化生。亡者。壊れたココロで、死したはずの母は子を求めた。他人と我が子の区別すらつかぬまま、子を攫い内に取り込んだ。
少女だけだ。その狂気を止めようと足掻いたのは。壊れる母を思い悲しみ、必要な犠牲だと見て見ぬ振りをした父と兄を哀れんだ。
少女が眠りについてから、妖はその砕けたココロに触れた。そこでようやく、妖は己が少女を見誤っていた事に気づいたのだ。


「娘は母御の狂気を終わらせたかっただけだ。攫われた子らの代わりに共に在り、常世の迎えが来るまで待つつもりだったのだろう。それを」
「早とちりして、最悪な解釈をしたって訳か」

白蛇の言葉に、妖は苦笑する。

「ああ。待つだけだった娘に手を下させ、傷を付けた。母御と共に終を求めたはずが無理に生かされ、心は砕けてしまっている。すべて手遅れだ」
「…これからどうするのさ」

さあな、と妖は空を仰ぎ考える。
今は暗い空は、しかしもうしばらくすれば白み、朝が訪れるのだろう。だが心の砕けた少女は目覚める事はない。

「娘と共に在るだけだ。私にはそれしか出来ぬからな」
「そう」
「止めるか?」

白蛇に問いかける。酷く凪いだ声だった。
白蛇は妖を見つめ、静かに首を振る。人間と一つになった妖を、白蛇は救う術を持ち得なかった。

「止めない。お前を害する事は、人間を害する事になる…お前の好きにすればいい」
「すまないな」

呟いて、妖は歩き出す。その背を見送り、白蛇もまた妖に背を向けた。
妖がしたように空を見上げる。月のない暗い空に、妖の先を憂いた。



20250212 『ココロ』

2/12/2025, 9:40:26 AM

「お願い。どうか」

夜空を見上げ、星に願う。
僅かに見える星は、今日も変わらない。流れる星は、どこにも見つける事は出来なかった。
分かっている。そう言い聞かせる。これはただの気休めだ。

――流れる星が消える前に願いを言えば、それは叶えられる。

ただのおとぎ話だ。一瞬で流れていく星が消える前に願いを言い終えるなど、到底出来るはずもなく。そもそも、この夜でも明るい空の下では、星を見つけるのでさえ一苦労なのだから。


「またやってんの?いい加減諦めたらどうだよ」

部屋の隅の暗がりから聞こえる声に、聞こえない振りをする。睨み付けるように空を見上げ、口を開いた。

「どうか」
「無視すんなってば。っつうか、いい加減にしろよ」

焦れた声が近づく。視界を塞ぐように前に回り込み、ふわり、と宙に浮いた首が視線を合わせて笑みを浮かべた。
首。自分と然程変わらない年頃の少年の首が、目の前でゆらゆらと楽しげに浮かんでいる。避けようと伸ばした腕をすり抜けてさらに近づいた首は、鋭い目をしながら笑っていた。

「そこにあるだけの星に願うよりも、目の前にいる俺に望んだらどうだ?応えてやらない事もない」
「あんたに望んだってしょうがない」
「しょうがないってなんだよ。言葉にする前から決めつけんな」

笑みを消し、首は静かに咎める。

「うるさい。もう寝るから、さっさと帰って」

謝罪の言葉よりも先に溢れた憎まれ口に、だが一度言葉にして出てしまったものはなかった事にはならない。眉を寄せ手を振って首を追い払うと、窓を閉じカーテンを閉めた。
「また、やっちゃった」

窓から離れ、ベッドに潜り込む。自己嫌悪に溜息を吐いた。
望みに応える。首の言葉を信じていない訳ではない。幼い頃はよく他愛ない些細な事を望んでは、気まぐれに応えてもらった事もある。

「…戻りたいなぁ」

きつく目を閉じて、小さく呟く。
素直だった幼い頃に。先の事など何も考えず、ただ笑って泣いた、あの純粋だった自分に戻りたかった。





膝を抱えて蹲る。
夕暮れに朱く染まる空は次第に色を暗くし、夜の訪れを告げている。
帰らなければ。そうは思うのに、疲れ切った体は立ち上がる気力すらない。
初めて祖母の家に訪れた。古い屋敷や周囲の森は見るもの全てが初めてで、つい時間を忘れて遊んでしまった。
帰らなければ。重い瞼をこじ開けて、顔を上げる。
辺りはすでに薄暗い。暗くなる前に帰る約束を破ってしまった事に、不安になって視線を彷徨わせた。
と。
ゆらゆらと、宙を彷徨う黒い何かが視界の隅をちらついた。
視線を向ける。黒く丸い何かが宙に浮かびながら、こちらに近づいていた。

「こんなとこにいたのかよ。ばあさん達が探してたぞ」

少し高めの声が聞こえた。近づく事ではっきりと見えたその黒を認め、目を瞬く。
それは首だった。自分よりも年上の少年の首が、宙に浮きながら笑っている。

「だれ?」

不思議と恐怖は感じない。楽しげなその表情は、怖さとは無縁だったからなのかもしれない。

「最初に言う事がそれかよ。普通は泣いて怯えるもんだろ」

呆れたように、それでも笑みを浮かべたままで、首が顔を覗き込む。

「電池切れか。疲れて歩けなくなったな」
「おにいちゃん、だあれ?」
「さて、誰だろうな。立って家に帰れるなら教えてやってもいいぞ」

そう言われて、足に力を入れる。だが上手く力が入らずに、立ち上がる事さえ出来なかった。
ころん、と転がる自分を見下ろし、首はけらけらと声を上げて笑う。むくれて首を睨めば、いつの間にか首の後ろに誰かが立っている事に気づく。
大人ではない。少年の体。
その体には、首から上がなかった。

「時間切れ。立てなかったから、教えてやんね」
「いじわる」
「また今度な。ま、機会があるならだけど」

言いながら首はふわり、と浮き上がり、背後の体に近づいた。首の部分に収まると、首を動かし繋がりを確かめて、首は一人の少年になった。

「じゃ、帰るか」

少年がこちらに近づき、膝をつく。転がったままの自分を横抱きにして立ち上がり、歩き出した。
暖かい。歩く振動が眠気を誘い、疲れた体は簡単に意識を沈めていく。

「おまえ、本当に動じないな。会ったばかりの、それも首と胴が離れるようなやつの腕の中で、すぐに寝ようとすんなよ」
「…おやすみ、なさい」
「挨拶しろって意味じゃねぇよ…ったく、可笑しなやつ」

寝るな、と言いながらも、その声はとても穏やかだ。温かさに擦り寄りながら、その言葉を聞こえない振りして微睡む意識に身を委ねた。





「…夢か」

アラームの音に目を覚ます。
懐かしい夢を見た。首と初めて会った時の夢を。
田舎の祖母の家で出会った首。困った時に必ず現れて、揶揄われながらも助けてくれる、ヒーローのような存在。
何も知らない自分に森の中での遊びや、妖について教えてくれたのは彼だった。
だからだろう。彼に惹かれるのは。
それがいつからなのか、覚えてはいない。気づけばすでに彼に恋い焦がれていた。
彼が自分の元まで来てくれた事に、僅かに期待をした。祖母が亡くなり、会えなくなって寂しい思いをしたのは自分だけではないのだと。彼も自分を好いてくれているのではないかという淡い想いは、けれどすぐに消えてなくなってしまったが。

――ばあさんが、望んだから。

祖母の望みに応え、彼はここにいる。
望まれ、応える。妖と人との違いを突きつけられたようで、その時は泣くのを耐えるだけで精一杯だった。
未だ鳴り続けるアラームを止め、ベッドから抜け出す。
決して叶わぬ、それでいて消える事も許されないこの想いは、今はただ苦しいだけだ。
カーテンを開け、空を仰ぐ。今は見えない星にどうか、と願う。

どうか、この想いが報われますように。
どうか、この想いが消えてなくなりますように。

相反する願い。だからこそ言葉には出来ない。
これは気休めだ。叶うはずのない、叶って欲しいとすら思っていない、誤魔化すためのものだ。
くすりと笑う。気休めに縋るほどに自分は、彼が。

「好き、なんだよね」
「なら、告白したらどうだ?」

声が、聞こえた。
外ではない。部屋の中から。
ゆっくりと振り返る。自分のすぐ後ろで、首がにやにやと意地の悪い笑みを浮かべて浮かんでいた。

「な、に。か、勝手に人の部屋に入らないでよっ!」
「おまえがいつまでも言わないのが悪い」

睨み付けた所で、首は気にも留めずに宙を彷徨う。自由気ままに動きながら、それでも目だけは逸らされる事はない。

「言っただろうが。望めば応えてやるって。どんだけ待たせんだよ」
「だから、あんたに望んだって意味ないって」
「何言ってんだ。俺以外に応えられる訳ないだろ?」

ぴたり、と首が静止する。思わず後退り、かたん、と背中が窓にぶつかり音を立てた。
逃げられない。ずきり、と胸が悲鳴を上げる。

「やだ。来ないで」
「こっちはな、苦労してばあさん説得したんだぞ。おまえの両親よりも大変だったんだ。軟弱者の抜け首は許さないって、もの凄い剣幕で怒鳴られて。誓約書まで書かされて。屋敷まで継ぐ事になっちまった」
「…意味、分かんない」

首が近づく。手を伸ばせば触れられる距離で、首はにたり、と唇を歪ませた。
胸が苦しい。息がうまく出来ず、目眩がしそうだ。

「ああ、そういやまだ種明かししてなかった…可哀想に、ごめんな」
「たね、あかし?」
「俺はな。嘘を吐くのが得意だ。今もおまえに言ってない事や騙してきた事がたくさんある…でもさ、知ってたか?妖ってのは、嘘は吐かないんだぜ」

ひゅっと息を呑んだ。
妖は嘘を吐かないならば、嘘が得意だという目の前の彼は一体。

「早く、告白してくれよ。こっちはずっと待ってんだ。ばあさんとの誓約で俺からはなにも言えないからさ」
「っ…いつ、から。気づいて」
「さあ?ばあさんの屋敷にいた時には、気づいてたかな」

顔が熱い。俯きかける顔を、許さないとばかりに首が近づき、目を覗き込こむ。

「ち、近い、よ。離れてっ」
「言ってくれたらな?」

優しい顔をして、残酷な事を言われる。さらに近づかれ、少し動けば触れてしまいそうだ。
熱い。視界が滲む。
もう、耐えきれなかった。

「………ぃ」
「ん?なんだって?」
「このっ、変態!」

ぱあん、と軽い音。

「痛っ!?」

彼の頬を思い切り張って、少しだけ離れた隙間から逃げ出した。
後ろから彼の声が聞こえるが、気にしてなどいられない。

外に出て、当てもなく駆け出す。空を見上げ、心のままに叫ぶ。

「どうか、あの変態が全部忘れてくれますようにっ!」

今は欠片も見えない星に、願った。



20250210 『星に願って』

2/10/2025, 5:07:16 PM

見慣れた彼女の背を見つけ、駆け出した。

「先輩っ!」

声をかければ立ち止まり、こちらに振り返る優しい彼女に思わず笑みが溢れる。

「おはようございます!」
「おはよう。朝から元気だね」
「先輩が見えたので、走って来ちゃいました」

静かで落ち着いた声音に、少しばかり落ち着きを取り戻し。段々に羞恥心が込み上げて、頬が熱くなる。
そんな自分を彼女はいつもと変わらぬ凪いだ表情で見つめ、視線を逸らして歩き出した。

「行くよ。遅刻してしまう」
「あ、はい。ごめんなさい」

慌てて彼女の背を追う。隣に並んで立てば、彼女の長い黒髪からふわりと甘い匂いがした。

「先輩。トリートメント変えました?」
「変えてないけれど。急にどうしたの」
「いえ。何か甘い香りがしたので」

首を傾げながらそう伝えれば、彼女はああ、と何かに気づいたように鞄から、小さな巾着袋を取り出した。
立ち止まり、こちらに視線を向ける。彼女に倣い足を止めると、はい、と取り出した巾着袋を手渡された。

「先輩?何です、これ?」
「匂い袋。貴女が言っていた匂いは、これでしょう?」

確かに。ふわりと薫るこの匂いは、さっきの香りと同じものだ。

「あげる」
「え?いいんですか」
「いいよ。作りすぎてしまっていたし…それより、少し急ぐよ。本当に遅刻する」
「は、はいっ!すみません。ありがとうございます!」

早足で歩き出す彼女と共に歩き出す。急ぐ、とは言いながらも、自分に合わせて歩いてくれる彼女の優しさに、手にした匂い袋を両手で抱きしめ、微笑んだ。





「先輩!」

先を行く彼女の背が見え、駆け出した。
けれども彼女は足を止める事はなく。普段よりも縮まらぬ距離に焦れて、速度を上げる。

「ねぇ!先輩ってば!」

手を伸ばせば届きそうな距離まで近づいても、彼女は足を止めない。
不安で、怖くなって。彼女の肩に手を伸ばし。

――その手が、空を切った。

「え?あれ?」

バランスを崩し、倒れ込む。
受け身もまともに取れず、強かに右半身を地面に打ち付けた。

「いっ、たぁ」
「…何、してるの」

聞き慣れた声に、顔を上げる。
どこか呆れた目をした彼女が、静かにこちらを見下ろしていた。

「せん、ぱい?」
「派手に転んだね。血が出てる」

傍らにしゃがみ込み、擦りむいた腕や足を確かめていく。ハンカチで血を拭い、鞄から取り出した絆創膏を手際よく張っていく。

「なんで、絆創膏持ってるんですか?そんなにたくさん」
「だって貴女。いつも走ってくるでしょう。いつか転んでしまうと思っていたから」

他に傷がないか確かめながら、彼女は言う。言外に、何もない所で転ぶとは思わなかったと言われているようで、恥ずかしさに俯いた。

「ほら、立って。腕を貸してあげるから」
「…ありがとう、ございます」
「どういたしまして。今度から気を付けてね」

彼女に支えられながら立ち上がる。ふらつきながらも歩き出しながら、さっきの背中を思い出す。

「先輩…さっき、わたしの前を歩いていました?」
「いいえ。走る貴女の背を見ていたよ」
「そう、ですか」

彼女の静かな目が、何かあったのかと問いかける。
それに気づかない振りをして、鞄を持つ手に力を込めた。



その日から、彼女の背中の幻を見るようになった。
例えば、階段の踊り場で。赤信号の横断歩道の途中で。
気づくのが遅れれば命がなかったような危ない状況で、彼女の背を見続けていた。


彼女の背を見つけ。けれど追うべきかを戸惑う。
あれは本当に彼女なのか。それとも幻なのか。
迷いながらも、駆けだした。もしも彼女だったなら、という期待が足を動かした。
二つ年上の彼女。仕事でいつも家にいない両親に代わって面倒を見てくれた、大切な従姉妹。
彼女に追いつきたくて、背中を見かける度に追いかけた。幻を見るからと、彼女を追いかける事を止めてしまいたくはなかった。

「先輩っ!」

声をかける。彼女の背が立ち止まる。
ああ、やっぱり彼女だったと。笑みを浮かべて速度を上げて。

――手を引かれる。

「ぅわっ!?」
「何、してるの」

ふらつきながら、引かれた手の先を見る。
普段と変わらぬ凪いだ表情をした彼女が、けれど目には鋭さを湛えて自分を見つめていた。

「先輩?」

呆然と彼女を見つめ。ゆっくりと追いかけていた背に視線を向ける。

「な、んで?」

そこに変わらず彼女はいた。彼女の背は微動だにせず、消える事なくそこに佇んでいる。

「…何だ。そういう事」

彼女も見たのだろう。何かに納得して、腕を強く引かれた。

「な、に。先輩?」
「よく見てごらん」

彼女のしなやかな指が、道の先に佇む背中を指差した。
視線を向ける。目を凝らして、その背中を見つめた。

「っ…なに、あれ」

目にした異形に、目を見張る。
見慣れた背中。自分と同じ制服姿。長く艶やかな黒髪。
スカートから伸びる、細くしなやかな足。

しかしその膝は、つま先はこちらを向いていた。


「無理矢理繋げたのだろうね。半分に千切れてしまっていたから」

淡々とした彼女の声が聞こえたが、理解が追いつかない。目の前の光景から目を逸らす事が出来ない。
ずり、と音がする。異形が振り返る。だが下半身は微動だにしていない。
ず、ずり、と耳障りな音を立て、異形が。上半身だけ、で。

「無理に見る必要はない。見ていて気持ちのいいものじゃないからね」

不意に視界が暗くなる。彼女の手が目を塞ぎ何も見えなくなった。
音は消えない。ずり、ぎり、と視界を塞がれた事で、音がよりはっきりと認識されて、耐えきれず両耳を塞ぐ。
塞ぐ手をすり抜けて、籠もった音が微かに耳に届く。籠もりぼやけた音は、しばらく手の向こう側で形を持とうと鳴り続けていたが、ごきん、という音を最後に沈黙した。
彼女の手が外される。目の前から異形の背が消えて、思い出したように膝が震えてその場に崩れ落ちた。

「思っていたよりも執着していたんだね」

かたかたと震えの止まらない体を抱いて、彼女を見上げる。驚きの混じった声音にすら恐怖を感じ、声にならない悲鳴が喉をひりつかせた。

「追いかけてもらえるのが嬉しかった。それは自覚していたけれど…ごめんね」

立ち上がる事も、況してやこの場から逃げ出す事も出来ずに震えるだけの自分を見下ろして、彼女は微笑む。
膝をついて頬に触れるその手の冷たさに、膜を張っていた涙が耐えられずに零れ落ちた。

「そろそろ思い出してきたね。答え合わせしようか」

彼女の手が頬から離れ、傍らに転がっていた鞄に伸びる。中から以前もらった匂い袋を取り出して袋の口を緩めた。

「ひとつめ」

手を取られ、手のひらに匂い袋の中身を出される。
それは白く、細い。まるで骨のような。

「私は、すでに死んでいる」

静かな声に肩が震えた。


「ふたつめ」

背後から腕が伸びてきて、手のひらの上の白を摘まみ上げる。
滲む視界で見上げると、彼女の空洞の目と視線が合った。

「その体は、私の執着の成れの果てだ。本物は焼かれて骨になって、とっくに土の中さ」

執着。これが、彼女の。
目が合ったまま動けないでいると、摘まみ上げた白を口の中へと差し入れられる。吐き出そうとするより早く腕は口を塞ぎ、抵抗も出来ずに飲み込んだ。
恐怖と苦しさに、しゃくり上げながら涙を流す。背後の彼女の体は頬を包み、止まらない涙を拭っていく。温もりのない冷たい体からは、あの匂い袋の甘い香りがした。


「そして、みっつめ」

くすくすと笑う声に、視線を目の前の彼女に向ける。
唇の端を歪めて笑う彼女は美しく、そして何よりも怖ろしい何かに見えた。

「私は、何だろうね。貴女の作り出した妄想か。魂というものが形を持ったのか」

腕を取られ、促されて立ち上がる。震える足では上手く力が入らないが、背後の彼女の体に支えられて崩れ落ちる事はなかった。

「まあ、今更どうでもいい事だけどね。死の匂いを甘いと表現した貴女には、最期まで私の背を追いかけてもらうから」

可哀想に、と彼女は笑う。幼い頃によくしてもらっていたように頭を撫でられて、その残酷な優しさに只管に首を振って泣きじゃくった。

「追いかけるのはもうイヤ?じゃあ、手を繋いでいこうか。昔みたいに」

手を繋がれる。絡みつく彼女の冷たい指に、逃げられないのだと気づかされた。
泣きながらも彼女に寄り添い立つ。彼女と共に、歩いて行く。

恐怖と、悲しさと、寂しさと。そして喜びと。様々な感情で目眩がする。
もう自分が何故泣いているのか、分からない。

「ぉ、ねぇ、ちゃん」
「久しぶりに呼ばれたね。先輩だなんて格好つけ出すから、少し寂しかったんだ」

上機嫌に笑う目の前の彼女は、本当は誰なのだろう。
ぼんやりとする意識の中で、考える。
いつも面倒を見てくれた大好きな従姉妹。困った時に助けてくれる優しい先輩。

どうか本物であって欲しい、と。
消えていく自分の影を見遣りながら、ただそれだけを願っていた。



20250210 『君の背中』

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