sairo

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聞こえる囁きに、少年は眉を寄せた。
まただ。ここ最近聞こえるようになったそれに、何度目か分からない溜息が漏れる。

――近道なんてするんじゃなかった。

いくら後悔した所で、囁きが消える事はない。それでも思ってしまうほど、少年は疲れていた。


十日ほど前、少年は学校帰りに近道をした。
普段は決して通る事のない道だった。人気のない雑木林を通り抜ける、近所の誰もが通ろうとしない道。部活動の帰りで普段よりも遅くなってしまったために、少年としても苦渋の選択だった。
その道には噂があった。夜になってそこを通ると、声がついてくるのだ、と。
少年は信じてはいなかったが、近所の大人――特にお年寄り達は信じているようであった。何度も繰り返し、あの道は通るな、と険しい顔で言われていた事を思い出す。
少年がその道を通った時間帯は、夜ではなかった。だからこそ少年は近道をする事を選択したというのに。
項垂れる少年の耳元で、ひそひそ、こそこそと誰かが囁く。最初は気のせいだ、偶然だと思っていた。それくらい、囁きは意識しなければ気づかない程に曖昧な声だった。しかし日を追う毎に囁きははっきりと形を持ち、もはや誤魔化す事は出来なかった。

――今日はあっちの道がいい。明るい方がいいの。

疲れた思考で、少年は囁きの示す道はどちらだ、と考える。
姿なく、ただあっちと言われただけでは分かりようがない。
明るい道。こそこそと煩い囁きに顔を顰めながら視線を巡らせ、比較する。
家に帰るのに一番近いのは、雑木林を抜ける例の道だ。だがそこは明るさとは正反対だ。普段帰る道も人通りは少ない方で、明るいとは言いがたい。
選択肢を一つ一つ消していきながた、残った道に視線を向ける。
街中を通る道だ。店が多く人通りもあり明るくはある。だが迂回する形になってしまい、普段通る道より時間はかかる。
疲れた体は早く家で休みたいと訴えている。だが一方で、声に従った方がいいとも思っていた。
しばらく考え、肩を落としながら足を踏み出す。
煌びやかな店の電灯が、いつもよりも眩しく見えて目を細めた。





「君は、誰なの?」

ベッドで横になりながら、少年は小さく問いかける。
囁き声の言葉に従ったあの日。普段通る道に建っていた家で火事があったらしい。消防車や野次馬などで道はふさがれ、通るのが大変だったと母親がぼやいていた。
それ以降、何かと囁きの声に従い行動する事が増え、その結果難を逃れていた。

――私ね。あそこで死んだのよ。

その言葉に、ぎくり、と身を強張らせる。

――嘘だけど。
「嘘かよっ」

くすくす笑う声に脱力した。はぐらかされたような気になって、眉が寄る。
楽しげな声音は、まだ年若い少女のように聞こえる。どこか聞き覚えのあるような、ないような。曖昧な声に、少年は眉間に濃い皺を刻みながら考え込んだ。

――嘘だけど、あの道はもう通らないでね。昔、哀しい事があったのは本当だから。

知ってる、と少年は声には出さず呟いた。
昔、少しだけ調べた事がある。
理由なく雑木林の道を通るなと大人達に言われ、逆に気になってしまったからだ。確かに人気のない暗い雑木林は危険なのだろう。だが大人達の反応から、それだけではないと少年は思っていた。
街の図書館で、古い新聞記事を探した。手がかりがまったくない中で苦労はしたものの、それらしい記事を見つける事が出来た。

数十年前、あの雑木林で赤子を抱いた女性が亡くなっていた。

夫の実家で酷い目にあっていたらしい。痩せ細った女性は近所でも噂になっていた。

――誰もが知っていて、誰も助けなかったのか。

その記事を読んだ時から、少年は大人の言葉を素直に聞き入れる事が出来なくなった。
人に優しく。誠実に。
そんな言葉を言われる度に、嘘つきと内心で大人達を嗤っていた。自分達は優しくもなく、誠実とは言えないだろうに、と。

「いつまで俺にくっついてるの?」

ゆるく首を振り、話題を変えようとさらに問いかける。
さあね、と笑う声に混じり、こそこそと囁く声がした。

「こそこそ聞こえる声は、君の何?」
――知らない。関係ない。この声は、いろんな人の噂話の断片。雑木林にこびりついて膨らんでいった、噂を話す声の一部。雑木林を通っていったあなたにくっついているだけ。

淡々とした声に、少年は寝返りを打ちながらそう、とだけ答える。
目を閉じる。赤い暗闇の先に、、制服姿の少女の幻を垣間見た。
そう言えば、件の亡くなった女性が抱いていた赤子はその当時、生きていたと記事には載っていた。今も生きているとすれば、少年と同じくらいの年齢になるだろう。
少女の幻を瞼の裏に見ながら、昼の放送時に時折聞こえる声を思い出す。図書委員会のお知らせを読み上げる静かで柔らかな声は、今聞こえる声と同じだった。

「今度、図書室に会いに行ってもいい?君のおすすめの本とか教えてほしい」

ひゅっと息を呑む音がした。
答える声はない。こそこそと少年の耳元で囁く声だけが聞こえている。

やがてふぅ、と息を吐く音がして。囁く声がぴたり、と止まった。

――いつから、気づいていたの?
「ついさっき。図書館の事を思い出して、そう言えばこの前流れた新刊のお知らせを思い出したから。あらすじを聞いて気になったんだけど、タイトルを忘れたんだよな」

目を開けて、少年は体を起こす。もう一度、会いに行っていい?と尋ねると、苦笑した声が返ってきた。

――図書室内では、静かにしてくれるのならね。

その言葉に、少年は頷きながらも笑みを浮かべ。

「囁く声なら大丈夫?伝えたい事や聞きたい事がたくさんあるんだ」

聞こえる囁きを真似て、そっと声に向けて言葉を返した。



20250214 『そっと伝えたい』

2/15/2025, 5:37:42 AM