「お願い。どうか」
夜空を見上げ、星に願う。
僅かに見える星は、今日も変わらない。流れる星は、どこにも見つける事は出来なかった。
分かっている。そう言い聞かせる。これはただの気休めだ。
――流れる星が消える前に願いを言えば、それは叶えられる。
ただのおとぎ話だ。一瞬で流れていく星が消える前に願いを言い終えるなど、到底出来るはずもなく。そもそも、この夜でも明るい空の下では、星を見つけるのでさえ一苦労なのだから。
「またやってんの?いい加減諦めたらどうだよ」
部屋の隅の暗がりから聞こえる声に、聞こえない振りをする。睨み付けるように空を見上げ、口を開いた。
「どうか」
「無視すんなってば。っつうか、いい加減にしろよ」
焦れた声が近づく。視界を塞ぐように前に回り込み、ふわり、と宙に浮いた首が視線を合わせて笑みを浮かべた。
首。自分と然程変わらない年頃の少年の首が、目の前でゆらゆらと楽しげに浮かんでいる。避けようと伸ばした腕をすり抜けてさらに近づいた首は、鋭い目をしながら笑っていた。
「そこにあるだけの星に願うよりも、目の前にいる俺に望んだらどうだ?応えてやらない事もない」
「あんたに望んだってしょうがない」
「しょうがないってなんだよ。言葉にする前から決めつけんな」
笑みを消し、首は静かに咎める。
「うるさい。もう寝るから、さっさと帰って」
謝罪の言葉よりも先に溢れた憎まれ口に、だが一度言葉にして出てしまったものはなかった事にはならない。眉を寄せ手を振って首を追い払うと、窓を閉じカーテンを閉めた。
「また、やっちゃった」
窓から離れ、ベッドに潜り込む。自己嫌悪に溜息を吐いた。
望みに応える。首の言葉を信じていない訳ではない。幼い頃はよく他愛ない些細な事を望んでは、気まぐれに応えてもらった事もある。
「…戻りたいなぁ」
きつく目を閉じて、小さく呟く。
素直だった幼い頃に。先の事など何も考えず、ただ笑って泣いた、あの純粋だった自分に戻りたかった。
膝を抱えて蹲る。
夕暮れに朱く染まる空は次第に色を暗くし、夜の訪れを告げている。
帰らなければ。そうは思うのに、疲れ切った体は立ち上がる気力すらない。
初めて祖母の家に訪れた。古い屋敷や周囲の森は見るもの全てが初めてで、つい時間を忘れて遊んでしまった。
帰らなければ。重い瞼をこじ開けて、顔を上げる。
辺りはすでに薄暗い。暗くなる前に帰る約束を破ってしまった事に、不安になって視線を彷徨わせた。
と。
ゆらゆらと、宙を彷徨う黒い何かが視界の隅をちらついた。
視線を向ける。黒く丸い何かが宙に浮かびながら、こちらに近づいていた。
「こんなとこにいたのかよ。ばあさん達が探してたぞ」
少し高めの声が聞こえた。近づく事ではっきりと見えたその黒を認め、目を瞬く。
それは首だった。自分よりも年上の少年の首が、宙に浮きながら笑っている。
「だれ?」
不思議と恐怖は感じない。楽しげなその表情は、怖さとは無縁だったからなのかもしれない。
「最初に言う事がそれかよ。普通は泣いて怯えるもんだろ」
呆れたように、それでも笑みを浮かべたままで、首が顔を覗き込む。
「電池切れか。疲れて歩けなくなったな」
「おにいちゃん、だあれ?」
「さて、誰だろうな。立って家に帰れるなら教えてやってもいいぞ」
そう言われて、足に力を入れる。だが上手く力が入らずに、立ち上がる事さえ出来なかった。
ころん、と転がる自分を見下ろし、首はけらけらと声を上げて笑う。むくれて首を睨めば、いつの間にか首の後ろに誰かが立っている事に気づく。
大人ではない。少年の体。
その体には、首から上がなかった。
「時間切れ。立てなかったから、教えてやんね」
「いじわる」
「また今度な。ま、機会があるならだけど」
言いながら首はふわり、と浮き上がり、背後の体に近づいた。首の部分に収まると、首を動かし繋がりを確かめて、首は一人の少年になった。
「じゃ、帰るか」
少年がこちらに近づき、膝をつく。転がったままの自分を横抱きにして立ち上がり、歩き出した。
暖かい。歩く振動が眠気を誘い、疲れた体は簡単に意識を沈めていく。
「おまえ、本当に動じないな。会ったばかりの、それも首と胴が離れるようなやつの腕の中で、すぐに寝ようとすんなよ」
「…おやすみ、なさい」
「挨拶しろって意味じゃねぇよ…ったく、可笑しなやつ」
寝るな、と言いながらも、その声はとても穏やかだ。温かさに擦り寄りながら、その言葉を聞こえない振りして微睡む意識に身を委ねた。
「…夢か」
アラームの音に目を覚ます。
懐かしい夢を見た。首と初めて会った時の夢を。
田舎の祖母の家で出会った首。困った時に必ず現れて、揶揄われながらも助けてくれる、ヒーローのような存在。
何も知らない自分に森の中での遊びや、妖について教えてくれたのは彼だった。
だからだろう。彼に惹かれるのは。
それがいつからなのか、覚えてはいない。気づけばすでに彼に恋い焦がれていた。
彼が自分の元まで来てくれた事に、僅かに期待をした。祖母が亡くなり、会えなくなって寂しい思いをしたのは自分だけではないのだと。彼も自分を好いてくれているのではないかという淡い想いは、けれどすぐに消えてなくなってしまったが。
――ばあさんが、望んだから。
祖母の望みに応え、彼はここにいる。
望まれ、応える。妖と人との違いを突きつけられたようで、その時は泣くのを耐えるだけで精一杯だった。
未だ鳴り続けるアラームを止め、ベッドから抜け出す。
決して叶わぬ、それでいて消える事も許されないこの想いは、今はただ苦しいだけだ。
カーテンを開け、空を仰ぐ。今は見えない星にどうか、と願う。
どうか、この想いが報われますように。
どうか、この想いが消えてなくなりますように。
相反する願い。だからこそ言葉には出来ない。
これは気休めだ。叶うはずのない、叶って欲しいとすら思っていない、誤魔化すためのものだ。
くすりと笑う。気休めに縋るほどに自分は、彼が。
「好き、なんだよね」
「なら、告白したらどうだ?」
声が、聞こえた。
外ではない。部屋の中から。
ゆっくりと振り返る。自分のすぐ後ろで、首がにやにやと意地の悪い笑みを浮かべて浮かんでいた。
「な、に。か、勝手に人の部屋に入らないでよっ!」
「おまえがいつまでも言わないのが悪い」
睨み付けた所で、首は気にも留めずに宙を彷徨う。自由気ままに動きながら、それでも目だけは逸らされる事はない。
「言っただろうが。望めば応えてやるって。どんだけ待たせんだよ」
「だから、あんたに望んだって意味ないって」
「何言ってんだ。俺以外に応えられる訳ないだろ?」
ぴたり、と首が静止する。思わず後退り、かたん、と背中が窓にぶつかり音を立てた。
逃げられない。ずきり、と胸が悲鳴を上げる。
「やだ。来ないで」
「こっちはな、苦労してばあさん説得したんだぞ。おまえの両親よりも大変だったんだ。軟弱者の抜け首は許さないって、もの凄い剣幕で怒鳴られて。誓約書まで書かされて。屋敷まで継ぐ事になっちまった」
「…意味、分かんない」
首が近づく。手を伸ばせば触れられる距離で、首はにたり、と唇を歪ませた。
胸が苦しい。息がうまく出来ず、目眩がしそうだ。
「ああ、そういやまだ種明かししてなかった…可哀想に、ごめんな」
「たね、あかし?」
「俺はな。嘘を吐くのが得意だ。今もおまえに言ってない事や騙してきた事がたくさんある…でもさ、知ってたか?妖ってのは、嘘は吐かないんだぜ」
ひゅっと息を呑んだ。
妖は嘘を吐かないならば、嘘が得意だという目の前の彼は一体。
「早く、告白してくれよ。こっちはずっと待ってんだ。ばあさんとの誓約で俺からはなにも言えないからさ」
「っ…いつ、から。気づいて」
「さあ?ばあさんの屋敷にいた時には、気づいてたかな」
顔が熱い。俯きかける顔を、許さないとばかりに首が近づき、目を覗き込こむ。
「ち、近い、よ。離れてっ」
「言ってくれたらな?」
優しい顔をして、残酷な事を言われる。さらに近づかれ、少し動けば触れてしまいそうだ。
熱い。視界が滲む。
もう、耐えきれなかった。
「………ぃ」
「ん?なんだって?」
「このっ、変態!」
ぱあん、と軽い音。
「痛っ!?」
彼の頬を思い切り張って、少しだけ離れた隙間から逃げ出した。
後ろから彼の声が聞こえるが、気にしてなどいられない。
外に出て、当てもなく駆け出す。空を見上げ、心のままに叫ぶ。
「どうか、あの変態が全部忘れてくれますようにっ!」
今は欠片も見えない星に、願った。
20250210 『星に願って』
2/12/2025, 9:40:26 AM