彼は少しだけ先の未来を知っている気がする。
「宿題忘れただろ。今のうちにやっとけよ。怒られるぞ」
彼が忠告する時は、必ずと言っていいほど先生の機嫌が悪い。そんな時に宿題を忘れただなんて気づかれれば、普段よりも厳しく叱られるのは目に見えている。
「予習なんてしなくていいよ。どうせ自習になるんだし」
机に伏しながら彼が言えば、その授業は自習になった。
他にも急な小テストがあるとか、誰と誰が付き合うとか、気まぐれに彼は予言めいた話をする。彼が本当に未来を見ているのか、それは分からない。けれど彼の言葉に何度も救われていたのは事実だ。
「ねえ」
隣の席で寝ている彼に声をかける。
「…なに」
気怠げに起き上がる彼を見て、目が合わないようにと前を向く。
彼の顔を見ながら話す事は、苦手だ。すぐに何も言えなくなってしまう。
彼に気づかれないように、机の下で強く手を握る。声が上擦らないように意識しながら口を開いた。
「わたしの、運命の人ってどんな人だと思う?」
――君が、好き。
本当に言いたい事を隠して、ただの雑談に聞こえるよう誤魔化した。
「さあな。どうでもいい」
運命なんてくだらない、と小さく吐き捨てる。横目で見た彼は眉を寄せ、酷く不機嫌な顔をしていた。
「ぁ。ごめん、ね。変な事、聞いた」
「別に。それより、帰る準備でもしたら?今日は委員会も部活もなくなるみたいだ」
「…分かった。いつもありがとう」
また机に伏した彼を見つめる。
泣きそうな気持ちを、頬の内側を噛んで耐えた。
まだ明るい空の下、俯きながら一人帰る。
時折溢れ落ちる溜息が、さらに気分を沈ませる。そう分かってはいても止められない。
――嫌われてしまっただろうか。
そればかりを考える。何が悪かったのだろうと思い返しては苦しくなって、次第に視界が滲み出した。
周囲は人通りもなく、とても静かだ。泣きながら帰った所で誰かに見咎められる事もないだろう。
そんな事を考えれば、堰を切ったように涙が溢れてくる。上手く呼吸が出来ずしゃくりあげながら、家に向かって歩き続けた。
――彼が好きだ。
たぶん、最初から。
迷子になって学校の旧館に入り込んでしまった一年の時。呆れたように笑いながら手を差し出す彼に、恋をした。
思えば彼は、いつでも私を助けてくれた。鈍臭くて、よく迷子になる私に彼は笑って手を差し伸べて、時には予言のような言葉で導いてくれた。
私はそんな優しい彼に、何を返せたのだろう。頼ってばかりで、与えてもらうのみで。
彼に好かれる要素など、一つもない。嫌われるのは当然だろう。
気づいてしまった事実に、笑いが込み上げる。止まらない涙を目を擦って無理矢理拭い、顔を上げた。
「…あれ?」
足を止める。
道の先。黒い服を着た女の人の姿を認め、目を瞬いた。
俯いているため、顔は分からない。道の真ん中で佇む女性は。酷くやつれているようだった。
葬式の帰りなのかもしれない。ふと思う。
そう考えれば、黒一色の服は喪服のようにも見える。この付近で誰か亡くなったとは聞いた事がないから、どこか遠方であった葬式の帰りなのかもしれない。
大切な人だったのだろうか。微動だにしないその姿は悲哀を感じさせ、見ているこちらまで苦しくなる。悲しみに耐えかねて、動けなくなってしまったのかもしれない。
――声をかけてみようか。
赤の他人である私が出来る事は何もない。けれど話を聞く事くらいは出来るから。
目を擦り、残っていた涙を乱暴に拭う。佇んだままの女性の元へ、足を踏み出した。
少女が学校に来なくなって、一週間が経とうとしていた。
隣の誰もいない席を見る。担任は何も言わなかったが、彼女が行方不明になっているという噂は、教室いる生徒の誰もが知る事だった。
ここ最近、不可解な行方不明事件が頻発している。少女の他にも何人か行方が分からない生徒がおり、そろそろ部活や委員会の停止だけでなく、学校自体も休校になりそうであった。
隣の席から視線を外し、少年は窓の外を睨む。聞こえるいくつもの“聲”から少女の声を探すが、あの柔らかな響きは欠片も見当たらなかった。
少年は人の心の内が聞こえていた。
言葉では友好的でありながらも、内心では嫉妬や嘲りにまみれた“聲”を少年は常に聞き続けてきた。
少女は少年が未来を知っていると思っていたようであるが、それは少年が聞いた“聲”から先を覚り、彼女に伝えていただけに過ぎない。
ホームルームが終わるとほぼ同時。少年は外へと駆けだした。
少女が学校へ来なくなってから、放課後は少女を探す事が少年の日課だった。
少女の人柄を表すような、暖かで優しい“聲”。人の行動を覚る言葉を繰り返す少年に、変わらず接してくれる少女。
恋慕の“聲”を自分に向けながら、運命などと口にした少女に焦れて心ない言葉を言った事を、少年はずっと後悔している。あの時、もっと別の言葉を――いっそ自分の想いを告げてしまえば、今も少女は隣で笑っていたのではないか。もしかすれば、もっと近しい関係にもなり得たのかもしれない。
そんなもしもを抱えながら、少年は少女の“聲”を探して当てもなく街中を駆け抜ける。
何も聞こえないという事が、何を意味するのか。その事実から只管に目を逸らし続けていた。
はっとして顔を上げる。
放課後の教室。残っていたクラスメイトが何事かと視線を向けるのを、少年は何でもないと笑って誤魔化し時計を見る。
ホームルームが終わって、それほど時間は経っていない。夢を見ていた気もするが、どこからが夢なのかはっきりとしない。
目覚めたばかりの夢うつつの意識の中、無意識に少女の“聲”を探し――。
寂しげな“聲”を聞いて、反射的に外へと駆けだした。
少女だ。哀しく、後悔を滲ませた“聲”が、微かに聞こえている。
――嫌われてしまっただろうか。
その言葉は、少女がいなくなってしまった前日に聞こえてきた“聲”だった。そんな事あるか、と一人言葉を返していた事を思い出す。
これは夢なのだろうか。それとも少女がいなくなった事の方が夢であったのか。少年には判断がつかない。
少年は“聲”から人の行動の先を覚る事は出来たが、未来自体を覚る事は出来ないからだ。少なくとも、今まで未来を夢に視た事はなかった。
だからこそ、少女がいなくなった事が夢で今が現実だとするならば、少女が明日いなくなる可能性は限りなく低かった。きっと明日も少女は学校に来て、気まずい顔をしながらも少年に声をかけるのだ。
それでも。可能性が低いのだとしても。
悪夢のようなもしもを考ると、少年は足を止める事が出来なかった。
「やめろっ!」
女の人の元へと歩み寄ろうとした体は、けれど腕を強く引かれて背後へと倒れ込む。
慌てて背後を振り返る。険しい表情をした彼が、女の人を強く睨み付けていた。
「どうしたの?」
声をかけるが答えはない。
意味が分からずに、困惑しながら女の人と彼を交互に見て。遅れて、彼の腕の中に抱き留められている状況に気づく。
「え…あ、まって。待って、お願いっ」
「少し黙ってて。いい子だから」
「っ!?」
頭を引き寄せられて、耳元で小さく囁かれる。それだけで何も言えず硬直する私を、彼は宥めるように背を撫でた。
びくり、と肩が跳ねる。何が起こっているのか何一つ分からず、混乱する思考で縋るように彼の制服を掴んだ。
静かだ。
彼は何も言わない。女の人の声も、周囲の音すら聞こえない事に、ようやく違和感を感じた。
何故、何の音もしないのか。誰もいなくても、風に揺れる木々の音や、カラスの鳴き声が聞こえてもいいはずなのに。
制服を掴む手に、力が籠もる。込み上げる恐怖に耐えながら、彼の肩に額を押し当てきつく目を閉じた。
「あんたが探しているのはこの子じゃない。どっかに行っちまえ」
低い、険を帯びた彼の声音。聞いた事のない冷たいそれに、不安になって顔を上げて彼を見る。
その瞬間。強く風が吹いた。
思わず目を閉じ。
「もういいよ。大丈夫だ」
彼の声と背を撫でる手に、目を開けて彼を見た。
「…泣いてるの?」
彼の目が涙の膜に覆われているのを見て、問いかける。
何か悲しい事があったのだろうか。
「別に…ちょっと、安心しただけ」
「安心?」
「もうさ。俺以外、見るなよ。お人好しなのもいい加減にしてくれ」
そう言って、彼は疲れたように笑う。言っている意味が分からなくて、けれど彼の涙を拭ってしまいたくて、掴んでいたままだった彼の制服から手を離し。
さっきから彼に抱きしめられたままなのを、思い出してしまった。
「っつ!?ご、ごめん!すぐ、離れ、る…は、離してっ!」
「駄目。離すのは駄目だ。まだ安心出来ない」
「ちょっ、と。何、言って。何」
安心したと言いながら、安心出来ないとはどういう意味なのか。
とにかく離れようと踠くも、彼の腕が離れる事はない。逆に強く抱きしめられて、声にならない悲鳴が漏れる。
「運命の人の話したの覚えてる?」
覚えているもなにも、別れる前に話したばかりの話題だ。
正直、忘れてしまいたかったのに。何故、このタイミングで話題に出すのだろう。
「どうでもいいって言ったけどさ。詳しく言ってなかったよな」
「な、に…?」
どこか苦しげな声に、恐る恐る顔を上げる。彼と間近で目が合い、泣きながら笑う彼に息を呑んだ。
「お前に運命の人がいたとして、結ばれる事なんて絶対にないよ。お前の気持ちを全部知ってるくせに黙ってて。そのくせ運命の人とか言われただけで拗ねるような、臆病で我が儘な目の前の誰かが邪魔するから。他の誰かに好意を持ったり持たれたりした時点で、徹底的に潰してやる」
「え。なに。何、言って」
「お前が好きって事」
それは。つまり。
私の気持ちを、彼は知って。
彼も、私を。
好き、だって事は。
つまり。
「っおい。大丈夫か?大丈夫じゃないな…まったく、気絶する前に返事くらい聞かせてくれよ」
視界が黒く染まっていく中で、彼の呆れた声が響く。
何か言わなければ、と口を開くが、掠れた吐息すら出てこない。
駄目だ。恐怖と、安堵と。突然の事が連続して起きて、混乱しすぎて、限界だった。
――彼が好きだって、言いたいのに。
もどかしさを覚えながら、耐えきれずに彼に凭れ意識を手放す。
好きだ、という柔らかな声が聞こえたのは、気のせいでないと思いたかった。
20250213 『未来の記憶』
2/14/2025, 3:51:43 AM