「ああ…海だ」
眼前に広がる果てない青に、目を細める。
「寒いな。眠ってしまいそうだ」
首に巻き付いた赤い蛇が、力なく呟いた。
「眠っててもいいのに。蛇は冬眠する生き物でしょ?」
「私は妖だ。冬眠などするわけがないだろう。お前の認識で蛇の生態に引き摺られているだけだ」
「ごめんね。だって大蛇だって、お話にはあったから」
苦笑して蛇の頭を指先で撫でる。されるがままの蛇は、ちろりと舌を出してから、フードの中に潜り込んだ。
赤い蛇と故郷を出てから、どれだけの時間がたったのか。一月か。一年か。それともそれ以上なのか。
随分と遠くまで来た。故郷を思い、泣く事もなくなった。
「余計な事を考えているな」
「余計かな。感傷に浸る事って」
「それだけではないだろう。母御を終をもたらした事を、まだ気に病んでいるのか」
フードから頭だけを出した蛇が窘めるように声をかける。
それに首を振って、違うよ、と何度目かの否定をした。
「気に病むとかじゃない。これは一生背負っていくものだ」
母を殺した。死してなお、妄執に囚われ留まり続けていた母を終わらせた。その罪をなかった事には出来ない。
母を終わらせた選択に、後悔はない。父や兄は、どんな形であれ母がいる事を望んでいたが、その代償に失われていく命を見て見ぬ振りなど出来なかった。
泣くように笑う、母の最期を覚えている。怒り、憎む父と兄の呪詛のような声を、表情を忘れる事など出来はしない。
「私の罪を忘れてはいけない。許されるつもりもない…眠っていたあなたを私の望みのためだけに起こして、最低な事をさせたのだから」
「下らないな。実に下らない。妖とは人間の望みに応えるために在る。それを気に病むなど愚かな事だ」
ぴしゃり、と言い捨てられ、でも、と続くはずの言葉は形にならず。深い溜息に、視線を逸らして海を見た。
故郷では見られなかった青。寄せては返す波の音に惹かれるように、近づいた。
「あまり近づきすぎるな。海とは総じて悲哀と不穏が渦巻いているものだ。引き込まれるぞ」
「そうなの?…よく知っているね」
蛇の言葉に目を瞬く。忠告に従って離れながらも、遠くなる海を一瞥した。
故郷にはなかった海を、祠で長い間眠っていたはずの蛇はどこで知ったのだろう。
問うべきかを悩み、結局は口を噤む。聞いた所で、それは意味がない事だ。蛇の過去を徒に暴く事はしたくはない。
「…海まで来たのはいいけれど。これからどこへ行こうか」
「今日はもう宿を探すべきだ。いくら南に下れど、寒さは変わらぬな」
「分かった。じゃあ、街に出ようか」
急に話題を変えても何も言わない蛇の優しさに口元を緩め。気づかれないように手を強く握り締めながら、宿を探すために街へと向かう。
すれ違う人の、突き刺さるような鋭い視線に気づかない振りをして。どこからか聞こえる詰る声をないものとして。
足早に宿を探し歩いた。
深夜。
寝入る少女の傍らで、紅い大蛇は徐に鎌首を擡げた。暗がりを見つめ、舌を出す。
「さて、どうするか」
ずり、と畳の上を蛇の胴が這い。少女を囲うようにとぐろを巻く。
「無駄な事だ。おとなしく海へ戻るがいい」
暗がりを見据え告げれば、恨み妬む声が室内に響き。
だが大蛇が動じぬ姿に、次第にその声は小さく、やがては消えて元の静寂を取り戻す。
「…ん。な、に…?」
「何もない。沈んだものが縋りに来ただけだ。私とお前が同一だと気づいていながら、無駄な事をする」
眠れ、と大蛇に囁かれ、少女は再び眠りにつく。穏やかな寝息に大蛇は僅かに目元を緩ませた。
大蛇が少女の望みに応えたのは、大蛇の質による所が大きい。
少女の母が奪ったものに赤子がいた。故に終わった物語の概念として在った大蛇は、望みに応えるため目覚めた。
少女の故郷で語り継がれる伝承。
縁側で泣き続ける赤子を攫い己の棲家であやしていた大蛇は、赤子の家に棲み着く白蛇に退治され、赤子は無事に家族の元へと帰る。
少女は伝承の大蛇を、優しい蛇だと認識していた。退治された大蛇を奉ったという小さな祠に足繁く通い、幼いながらに祠の手入れをし続けていた。
赤子と蛇。その細い繋がりを縁として、少女は大蛇に己の母を終わらせてほしいと望んだのだ。
「お前が望んだのが私ではなく、白蛇であったのならよかっただろうに」
布団からはみ出した少女の手足を器用に尾で戻しながら、大蛇は幾度目かの詮無き事を思う。
大蛇を退治した白蛇は、守り神として赤子の家に奉られている。白蛇であれば、少女の望みを対価なしに応える事が出来ただろうに。
退治された概念の大蛇では、望みに応える事は出来ず。少女と同一となる事を対価に、少女の母を終わらせた。
どんな形であれ少女に親殺しをさせてしまった事を、大蛇は悔いていた。
ふと、大蛇はカーテン越しに外に視線を向ける。
忌々しいと舌を出し、カーテンをすり抜け現れた半透明の白蛇を警戒を露わに睨めつける。
「邪魔をするなと言っただろうに」
「関係ないよ。僕は人間に望まれた事に応えるだけさ」
「今この娘を家族の元に戻す事は出来ぬと、何度言えば分かる」
母を殺した少女の傷は少女を苛み続け、呪のように纏わり付いている。出会う人間全ての視線や声を、己を責め立てるものだと認識を歪ませ、一人苦しんでいる。
その少女を今家族の元に戻せば、その破滅は誰にでも想像出来るだろうに。
「それも関係ないな。僕は妖だ。人間の望みに応えるのが妖なのだから、それ以上は気にするだけ時間の無駄だ」
だが白蛇はそれを気にかける事もなく。さらに大蛇へと近づいた。
「貴様は本当に妖らしい妖だな」
「君は本当に妖らしくないね。そのままだといずれ堕ちるよ」
「余計な世話だ」
大蛇の尾が白蛇を薙ぐ。しかし尾は白蛇の体をすり抜け、大蛇は舌打ちをした。
「酷いな。まったく…もし、その娘を家族の元に戻したくないのなら、早朝に出立する事をおすすめするよ。昼前には彼らはここに辿り着くだろうからね」
「…何を考えている」
「別に。ただね。僕も君を殺す事に何も感じてない訳じゃないんだよ。君が簡単に人間に応えるから、伝承をなぞらえて最後には君を殺さなくちゃならなくなるんだ。そんな可哀想な僕の事を少しは考えて欲しいものだね」
ふい、と視線を逸らし。白蛇はその姿を霞ませ消えていく。
「嫌なら応えなければよいだけだ。面倒な奴め」
その姿を一瞥して、大蛇は呆れを滲ませ呟いた。
少女を見る。変わらず寝入る姿に安堵して、少女を覆い隠すように伏せた。
もうすぐ夜明けだ。少女を起こして、出立の準備をしなければならない。
終わりは必ず訪れる。少女の傷が癒え、正しく人間を認識する事が出来たのならば、その時はあの白蛇を頼ればいい。白蛇は大蛇を退治し、子を親の元へ連れ帰る存在なのだから。
それまでは、と。大蛇は少女の寝息を聞きながら、囁く。
「次はどこへ行こうか」
少女の傷が少しでも癒える場所へ。少女を追う家族から少しでも離れられるように。
少女と大蛇は、当てもなく旅を続ける。
故郷から離れ、遠く…。
20250209 『遠く…』
「ここだけの秘密なんだけどね」
ふふ、と笑みを浮かべて、彼女は囁いた。
放課後の図書室。今この場にいるのは二人だけだというのに、彼女は周囲を気にして声を潜め、身を近づける。
それを一瞥して、無言で手元の本へと意識を戻す。
また始まった。普段は明るく元気な彼女の、この悪い癖はどうしようもないらしい。。
「ちょっと、聞いてよ」
「聞いてるよ。耳を塞いでいる訳じゃないから、聞こえている」
「聞き流してるだけでしょうが。ちゃんと聞いて。今回のはね、とっても凄いんだから」
はぁ、と溜息を吐き、本を閉じる。
いつもの事ではあるが、やはり今回も見逃してはくれないようだ。
顔を上げ、彼女を見る。きらきらと煌めく眼と視線が交わり、その熱量に思わず身を引いた。
「そこで引かないで。今回のは凄いんだから。まだ誰も知らない秘密なんだからね!」
「はいはい。で?今回は何。踊るガイコツでも見た?それとも歌うピアノ?」
少し前まで彼女が嵌まっていた、この学校の七不思議を適当にあげてみる。だが彼女は頬を膨らませ、違う、と不満を露わにした。
「七不思議なんて、皆知ってるでしょ。秘密じゃないじゃない。今回はそんな子供だましじゃないよ」
そう言って、彼女は真剣な顔する。僅かに視線を揺らし、顔を近づけ。
声を潜めて、あのね、と呟いた。
「わたしたちって、親友だよね?」
「………まあ、そうだね」
意外な言葉に、目を瞬く。それは秘密でも何でもない事だろう。
直ぐに答えを返さない事が不安だったのか。彼女の煌めく眼に涙の膜が張り出す。少し慌てて腕を伸ばし、彼女の少し固めの髪を無造作に撫でた。
「私達が親友だって、秘密にした覚えはないんだけど。いつから秘密の関係になったの?」
「違うの。ちょっと確かめたかったというか…本当に特別な秘密だから」
乱暴に目を擦り、彼女は笑う。心底安心したというような締まりのない笑みに、内心でほっと息を吐いた。
常に変化する彼女の感情には慣れているつもりであるが、それでも泣かれるのは未だに落ち着かなくなる。
そんな思いを表には一切出さず、無言で話の続きを促す。擦った事で僅かに赤くなった目を何度か瞬かせ、彼女は表情を引き締め口を開いた。
「本当はずっと前から言おうと思ってたんだ。でも怖くて、いろんな話をして様子を見てた。まだちょっと怖いけど、言わなくちゃいけないから」
「これ以上長くなるなら、本読んでてもいい?」
「待って待って!言う!ちゃんと言うから」
ぐずぐずと迷う彼女に焦れて本を開く振りをすれば、慌てた彼女が本を奪う。縋り付くように本を抱きしめ、一つ深呼吸をして、真っ直ぐこちらを見据えた。
「わたし。人間じゃないの。人間に化けている妖なの」
何だ、そんな事か。
「…ああ、うん。知ってる」
彼女の目を見返して、告げる。
驚愕に目を見張る彼女の手から少し歪んだ本を取り返し、何事もなかったかのように本を開いた。
「ちょっ、待って!?なんで?なんで知ってるの!だってわたし、誰にも言ってないし、ずっとバレないように頑張って来たのにっ!」
「っ、やめっ。落ちっ、着いて。揺らすなっ、て」
肩を掴まれ揺さぶられる感覚に、必死に抵抗する。思っていたよりも強い彼女の力に視界が揺れ、吐き気が込み上げてきた。
次第にぐったりとする己にようやく気づき、彼女が慌てて手を離す。背をさすられながら最悪の事態が避けられた事に安堵していれば、微かに聞こえたどうして、の言葉に目を細めた。
彼女の腕を叩く。口を開く余裕はまだなく、代わりに指を差して彼女に伝えた。
指を差した先。夕焼けに伸びた影に視線を向けて、彼女は目を丸くし頬を染めた。
人間の形をした己の影とは異なり、彼女の影は獣の形をしていた。
「ぁ、え。いつ、から…?」
恐る恐るこちらを見つめる彼女に、曖昧に笑って視線を逸らす。それだけで察しはついたのだろう。顔を覆い、音もなく崩れ落ちて行く。
「まさか、最初、から…え。待って。これって、皆に、バレ、て…?」
「それはないと思う」
立ち上がり、彼女の隣にしゃがみ込む。崩れ落ちたままの体制の彼女の頭を撫でて、大丈夫、と繰り返す。
「…本当に?」
「多分。でも、夕方のこの図書室でしか、影は出なかったから」
昼間の学校内や登下校時には、彼女の影は人間の形をしていた。夕暮れのこの図書室にいるのは、委員である己くらいしかいない。
それを伝えれば、彼女はそっと顔から手を離し。赤に染まった顔をして、こちらを見上げた。
「秘密を知っても、親友で、いてくれる?」
今更、何を言っているのか。くすくす笑い、強めに彼女の頭を撫で回す。
そもそもが、逆である。
この図書室に獣の影をした彼女が現れ、言葉を交わし。そして親友になったのだから。
影と同じく、どこか抜けている己の親友の髪を心ゆくまで掻き回す。ぴょこん、と現れた、頭の上の丸い獣の耳を摘まんで、軽く引っ張った。
「やっ!ばかっ。耳、引っ張らないで」
「秘密にもなってないのに、変な事を言ってるから、お仕置き」
「だって。だって怖かったんだもん。大好きだから、離れたくなかったのに」
「はいはい。ごめんね。頑張って秘密にしようとしてたのに、最初から気づいてて」
「いじわるだっ!」
頭や耳を撫で回す手をペちぺちと叩く彼女に苦笑し、解放する。
涙目で睨み付ける彼女に、ごめんね、と繰り返して、戸締まりをするために立ち上がる。
気づけば、下校時刻まであと僅かだ。黙々と戸締まりを行う己に、彼女は文句を言いながらも立ち上がり帰る仕度を始めた。
「秘密にしたいなら、もっと気を張らないと。まあ、難しいだろうけれど」
「ばかにしないで。今度からは絶対にバレない秘密を作ってあげるんだから」
「頑張って。本当に誰も知らない秘密を作って、一ヶ月守り通せたら、私も秘密を教えてあげるよ」
きょとり、と彼女は目を瞬かせ、次第にそれは煌めきを増していく。
「秘密!?それってどんな?ねぇ、教えてよ!」
「教えたら秘密にならないでしょうが。ま、誰も知らない秘密だろうね」
きらきらと輝く彼女の目から視線を逸らして図書室を出る。慌てて続く彼女が出たのを見て、扉に鍵をかけた。
「気になる!秘密を守ったら、絶対に教えてよ」
「教えるよ。無駄になるかもしれないけど」
「ならないっ!いじわる言わないでよ」
ごめんね、と気のない謝罪をして。
いつものように、手を繋いで歩き出す。
さて、彼女の新しい秘密が守られるのが先か。己の秘密が暴かれるのが先か。
ぶつぶつと新しい秘密とやらを、口に出しながら考えている彼女を横目に。
夕暮れに伸びた己の影に、一瞬だけ四つの尾が現れ消えたのを見ながら、どちらも当分はないな、と口元だけで笑みを浮かべた。
20250207 『誰も知らない秘密』
夜が明けきらぬ、しん、と静まりかえった暗い空の下。人目を避けるように木の合間を抜けながら走る、小さな影が一つ。
時折周囲を気にして足を止めては、またすぐに駆け出す。
吐く息は白く、それでもその口元は笑みを湛えて。
不意に、小さな影の足が止まる。周囲を気にして足を止めたのではない。まるで時が止まったかの如く、不自然な体勢で影は動きを止めていた。
「随分とお転婆になられたものですね」
呆れを乗せた声と共に、音もなく影の背後に男が現れる。動きを止めたままの影を――幼子を抱き上げ、その体の冷たさに眉を顰めた。
「戻りますよ。まったく、夜遊びは控えるようにと散々申しておりますのに」
「もう少しだったのだが。仕方がないな」
頬を膨らませ不満を露わにしながらも、幼子は暴れる事なく男に擦り寄る。男の首に腕を回し、抱きついた。
「満月《みつき》」
「なんだ。満理《みつり》」
男に呼ばれ、幼子は腕を離し視線を向ける。
「私の元を抜け出してまで、日の出が見たいのですか?」
「見たいな。理由は分からぬが、ずっと見たいと思っていた気がする」
首を傾げ、幼子は屈託なく笑う。その笑みに男もまた柔らかな微笑みを返し、戻る足を止めた。幼子が向かっていた方向へと行き先を変え、ゆっくりと歩き出す。
「満理はいつも優しいな。記憶のない私の側にいてくれるだけで、私は十分だというのに。こうして我が儘を聞き入れてくれるのだから」
「満月は私のものに御座います故」
くすくすと二人、笑い合う。穏やかな足取りで道を行く。
木々を抜けた先。開けた場所で男は立ち止まる。
見上げる空は群青から淡紅へと色を変え、夜明けが近い事を示している。
目を細めて、その不思議な色合いを幼子は見つめ。ほぅ、と息を吐いて、男に凭れかかった。
「不思議な感じだ。日の出はまだだというのに、既に満たされている。満理と共にいるからだろうか」
目を瞬いて男を見上げ、そして空を見て。
何かに気づいて、幼子は花開くように微笑んだ。
「日の出ではないな。私は夜明けが見たかったのか。夜が終わるその先に、私は満理と共に在る事を確かめたかったのだな」
「今日の満月は、随分と素直ですね」
微笑む幼子に男は笑みを浮かべながらも、その目には戸惑いが浮かんでいる。幼子の記憶がどれだけ残っているのか、或いは戻ってきているのかを見極めようと、問いかけた。
「残っているものはありますか」
何が、とは敢えて言わず。
だが幼子はきょとり、と目を瞬かせ、悩み考えながら男に言葉を返す。
「満理を、きっと覚えているのだろう。それは記憶ではない。感覚的な、感情の名残のような、形のないものだけれど」
幼子の答えに男は何も言わず、その小さな背を撫でる。笑みを浮かべ擦り寄る幼子を抱え直し、空を仰いだ。
間もなく夜が明ける。
夜明けを求める幼子が、かつては夜しか在れぬ事を幼子は覚えてはいない。
妖の母と人間の父との間に生まれた、過去、現在、未来全てを見通す眼を宿した娘。妖の母により、陽の光に焼かれる呪をその身に刻まれた、憐れな子。徒人よりも成長の早いその身とは異なり精神が幼いままの娘は、今は男の影の中で眠り続けている。
此処にいるのは、娘の精神に会わせて男が作り上げた形代だ。故に娘は幼いまま。己の過去も眼の事さえ忘れ、ただ男と共に在る。
記憶を消したのは、男の賭けだ。何もかもを忘れた娘は、男と共に在り続ける理由はない。だが妖の母を、己の眼の記憶がなければ、娘はただの娘となる。
結果、男は賭けに勝った。娘は男と共に在り、陽に焼ける呪から解き放たれて、今は陽の光の下を歩く事が出来る。
「満月。夜が明けますよ」
「日の出か。いつ見ても、綺麗なものだ」
赤く染まる空と地の境。一筋の光を幼子は目を細めて見つめた。
日の出だ。夜が明け、朝が訪れる。
昇る陽を見つめ、ふふ、と幼子は笑みを溢す。男の頬に手を伸ばし、眼を覗き込むようにして身を乗り出す。
蕩けるような金が深縹を見つめ、満理、と静かに名を呼んだ。
「如何しましたか?」
「少し思った。日の出は綺麗だが、満理の眼の方がもっと綺麗だ」
「戯《たわむ》れ言も程々になさい」
「本当の事だろう。満理は綺麗だ。陽も、月も。満理には敵わない」
くすり、と微笑んで、幼子は男の首元に戯れついた。
嘘偽りのない本心からの幼子の言葉は、男の心を酷く騒つかせる。悟られぬようにと男は幼子の背を撫ぜて、静かに息を吐いた。
「満月。御母堂が居られない事は、寂しくはありませんか?」
「満理がいるから気にもならないな。記憶にない母より、満理と共にいられない事の方が、私にとっては苦しいよ」
呟いて、幼子は男にしがみつく。離れるもしもを想像して、怖くなったのだろう。離れたくない、と男の服の端を、小さな手で必死に掴んだ。
「そう心配なさらずとも、満月が望む限り私は共に在りますよ」
服を掴む幼子の手を上から握り、摩る。解け離れていく手を繋ぎ、男は柔らかく微笑んだ。
「さて、夜が明けました故、そろそろ戻りましょうか。体が冷えておりますよ」
「分かった。戻ろうか」
戻る旨を伝え、頷く幼子の反応を見て、男は踵を返す。
夜が明けた。
陽は昇り、空が青く染まり出す。
静かだった世界が、明るさと共に賑やかを取り戻していく。
陽に幼子が燃える様子はない。
それに密かに男は微笑んで、幼子を優しく抱きかかえ直した。
20250207 『静かな夜明け』
「レディ。今日こそは話をしようか」
「話す事は何もありません」
唇の端を歪めて嗤う彼から目を逸らす。
金色を纏った炎のように鮮やかな赤色が、視界の端でちらついた。
赤は怒りの色だ。激しく燃え上がる怒りを内に秘めながら、彼は話せと繰り返す。
一体何を話せと言うのだろうか。話す事で何の意味があるのだろうか。
「聞きたい事があるならば、素直に言葉にする事だ。レディ」
「話す事など、何も」
「嘘を吐くな」
鋭く冷たい声が、赤色を濃くして責め立てる。彼の手が首を掴んで、無理矢理に彼と目を合わせられた。
「俺は嘘が嫌いだと、最初に言ったはずだ」
「嘘、じゃない。本当に、何も…意味が、ない、のに」
「レディ」
赤色が消える。静かでありながら強い目に見据えられ、小さく肩が跳ねた。
色が見えない。他者の心の内を色で見る自分には、初めての事だ。
「レディ。最初の質問は何だ?」
「…何で。色が見えなくなるの?」
微かな呟きは、彼には理解できぬ事だろう。だが彼は笑みを浮かべ、首を掴んだままの手を離した。
彼の回りで金色が揺れる。誇りや自信。自分にはないものを纏い、彼は口を開いた。
「簡単な事だ。心を静めれば無になる。感情の色を見るレディには、無の色が見えないだけだろう」
「っ、なんで、知って」
「レディの瞳と似たものを、俺の故郷で見た事がある。より精巧な、心の内をすべて暴く瞳を知っている」
この忌々しい瞳を持つ誰かが、自分の他にもいる。それに救いを見出しかけて、自嘲する。
ただの色以上が見える誰かは、自分以上の苦痛を味わっているだろうに。それを比較して自分は誰かよりましなのだと、勝手に救われようとする自分の浅はかさに嫌悪した。
「次の質問の前に座るか。長い話になりそうだしな」
彼に促され、ソファへと向かう。一人掛けのソファに座らされ、彼は近くの椅子に腰をかけた。
「さて次の質問を聞こうか」
俯いて、首を振る。何を聞けばいいのか、分からない。
「思うままを言葉にしろ。俺はそのすべての言葉に、誠実に答えを返そう」
「何故?」
「それが俺の在り方だからだ」
彼の在り方。存在。
そもそも、彼について何も知らない事に気づいた。
「貴方は誰ですか?何故、こんな山奥にいたの?」
顔を上げて、彼に問う。
人目を避けるために移り住んだ山奥の家。山菜を採るために出かけた先で、彼を見つけた。
今目の前の人の姿をした彼ではない、黒い翼を有した狼のような姿をした彼。何の色も見えない、作り物のように美しい彼に目を奪われた。
彼と目が合って、人の姿へと形を変えた彼にも色は見えず。彼の求めるままに、気づけば家に招き入れていた。
自分は彼の故郷も、名前すらも知らないのだ。
「そうだな…Devil、Demon…悪魔、と言えば通じるだろうか。この島国から遠い大陸から、契約者だった者と共にこの地に訪れた」
彼が纏う金色に、赤色が滲む。先ほどよりも暗い赤色がゆらりと揺れて、彼は酷薄に唇を歪めた。
「だが契約者は死んだ。俺が殺した。俺に嘘をつくものは、例外なくそうなる。レディも気をつける事だ」
「契約者がいないのなら、帰ればいい」
「それが正しいのだろう。本来ならば、契約者が死んだ時点で帰るべきだ」
彼の目に射竦められる。消えない暗い赤色が揺らぎながら近づいて、鎖のように纏わり付く。
こんな事は初めてだ。今まで誰かの色が自分に影響する事はなかった。どんなに黒く濁った感情を誰かに向けられても、その色はその誰かに纏わり付いているだけだったはずなのに。
動けない自分に彼は笑う。その目に怒りは見えないのに、赤色はさらに色を濁らせていく。
「レディ。俺の契約者になってくれ。対価としてその身を害するものすべてから守り、求める答えを与えよう」
契約者。それが何を意味するのか、正しくは知らない。
けれど一度頷いてしまえば戻れない恐怖から、必死で首を振り否定した。
「ぃ、やです。貴方と、契約なんて、しない」
「残念だ、レディ…その言葉は、少しばかり遅かったようだ」
徐に、彼は立ち上がる。音もなく歩み寄り、身を屈めて目を覗き込んだ。
彼の誇りを表した金色と、怒りの赤色が混じった不思議な色合いの瞳が、怯える自分を映して歪む。
「拒絶するならば、最初からでなければ。家に招き入れ言葉を交わしたその瞬間に、契約は成された」
「なん、で。そんな」
「レディのその瞳が気に入った。異端として虐げられて尚、純粋さを保つ魂の色を映す綺麗な瞳を、欲しいと思った」
彼の手が頬に触れる。冷たい指先が零れ落ちる滴を拭い、そこで自分が泣いている事に気づく。
「何も告げずにいた無礼は詫びよう。代わりに暫くはレディの言葉の誤りを嘘とはしないでおこう。誰かと言葉を交わす事などなかったレディには、言葉を正しく紡ぐ事はまだ難しいだろうからな」
彼は笑う。涙の止まらない自分を見つめ、瞼に唇を寄せる。
動けず固まったままの自分を、彼の赤色が縛り上げていく。
あぁ、と声が漏れる。気づいてしまった。
この色は怒りではない。この赤は血の色だ。
これは血の契約だ。
「さあ、レディ。心ゆくまで語り合おう。Have a heart to heartというやつだ。こちらの言葉では、腹を割って話す、だったか?…心配するな。本当に腹を割る事も、心臓を抉る事もしないさ。レディが誠実である限りは、ね」
契約の鎖に縛られる自分を前に、彼は手を差し出す。
動けないはずの腕が、意思に反して持ち上がり。
その手を取って恭しく口付ける彼を、ただ見つめるしか出来なかった。
20250206 『heart to heart』
その女性はいつも、色鮮やかな花束を抱いて立っている。
信号待ちの交差点。視界の隅で揺れる極彩色に、少年は視線を向けた。
道路を挟んだ向かい側に、花束を持った女性が立っていた。幸せそうに微笑んで、手にした花束を見つめている。
遠目からでは花の種類までは分からない。ただ赤や白、黄色など色とりどりの花は遠目からでも美しく、目を惹きつけた。
信号が青に変わり、人々が動き出す。女性から視線を逸らし、少年も歩き出した。
こちらへ歩く人の波に、女性の姿は見つける事は出来ない。視線だけを動かして花束の鮮やかな色を探すが、見えるのは少年と同じ紺や白の制服ばかりだ。
信号を渡りきり、周囲を見る。けれども女性の姿を見つける事は出来なかった。
はぁ、と少年は溜息を吐く。こうして女性の姿を探しては、見つけられずに信号を渡りきるのは疾うに十を超えていた。
心の底から美しいと思えるあの花束を、一度は間近で見てみたい。
もう一度周囲を見渡して、肩を落としながら少年は歩き出した。
「ねえ」
不意に声をかけられて、少年は肩を跳ねさせ振り返る。
「驚かせてごめんなさい」
眉を下げ、微笑む女性がそこにいた。
手にした花束は今日も変わらず色鮮やかで、少年は魅入るように視線を向ける。
「あなた、いつも私の花を見てくれているよね」
「ぁ。ご、ごめんなさいっ」
女性の言葉にはっとして、慌てて少年は謝罪する。赤く染まる顔に、女性は怒るでもなく笑んだまま首を振った。
「謝らないで。私、あなたとお話をしてみたかったの」
「話、ですか?」
「そうよ。私の育てた花を、あなたは見てくれたから」
愛おしげに花束を見つめ、ありがとう、と女性は感謝の言葉を述べる。その声音がどこか寂しげにも感じられて、少年は女性を見つめた。
「えっと、あの」
「皆、忙しくなってしまったわね。綺麗に咲いたから見てもらいたくて、こうして花束にしてみたけど。あなた以外は気にもかけてくれなかったわ」
以前は誰かしら足を止めて、花を褒めてくれたのに。
そう呟く女性はやはり寂しそうで。
花を見る。美しく咲いた種々の花はふわり、と甘い香りを漂わせ、少年を惹きつける。
こんなにも美しい花に何も感じない大人達が、少年には信じられなかった。
「とても、きれいだと思います。うまく言えないけど、すごく目を惹くっていうか。俺、ずっと近くで花を見てみたかったんです」
「ありがとう。そう言ってくれると、幸せだわ」
ふふ、と女性は微笑んで、そして何かを思いついたように、そうだ、と小さく呟いた。
「あなた、これから時間はあるかしら?」
「あ、はい。大丈夫ですけど」
今日は特に予定もなく、家に帰るだけだ。少年がそれを伝えると、女性は楽しげな色を目に浮かべ、囁いた。
「花を褒めてくれたお礼に、私の温室に招待してあげる。特別よ」
女性が大切に育ててきたという花が見られるという期待に、少年は迷う事なく頷いた。
街の外れの一角にある大きな屋敷が、女性の家であるらしい。
尻込みする少年を余所に、女性は門扉を開け入っていく。
「こっちよ。おいで」
手招かれて、少年は恐る恐る門扉を抜ける。先を行く女性の背を追いながら、広大な庭へと足を踏み入れた。
「すごい」
綺麗に整えられた庭の奥。美しい硝子張りの温室を視界に入れて、少年は思わず声を上げた。温室内に咲き誇る花々は、外から見ても瑞々しく美しい。
「入口はこっちよ。いらっしゃい」
温室の扉に手をかけ、女性は少年を呼ぶ。少年を前に恭しく扉を開けて、悪戯めいた目をして女性は笑った。
「ようこそ。私の秘密の温室へ」
「お、おじゃまします」
気恥ずかしげに俯いて、少年は温室の中に足を踏み入れる。だが漂う香しさと視界の隅の極彩色に、すぐに顔を上げて表情を綻ばせた。
赤、白、黄色、紫。
少年でも名前を知っている花や見た事もない花が、温室内に咲き乱れている。枯れる事を知らないような、永遠に似た楽園がそこにはあった。
「綺麗でしょう?私の自慢の花なのよ」
「きれいです。凄く、とっても凄くきれいだ」
「気に入ってもらえてよかったわ」
きらきらと目を輝かせる少年に、女性は満足げに笑い扉を閉めた。硝子越しの空が夜色に染まっていくのを、だが花に魅入る少年は気づかない。
音もなく少年の背後に立ち、ねえ、と女性は声をかける。
「あなた、この温室で花を育ててみない?」
「え?俺が、ですか?」
困惑して少年は女性を見る。突然の事に理解が追いついていないのだろう。
そんな少年に笑って、女性はそうよ、と頷いた。
「でも、俺。花とか育てた事がないし」
「大丈夫よ。あなたは花を綺麗だと思ってくれているもの」
「だけど」
迷い視線を彷徨わせる少年に、来て、と女性は告げて歩き出す。躊躇いながらも、花の香りに導かれるように少年は女性の後に続いた。
「あなたに花を育ててほしいの。私を戻さなければならなくなってしまったから」
「戻るって?どういう意味ですか」
「そのままの意味よ。戻さないと、温室を壊されてしまうから。私がいなくなった後を頼みたいの」
淡々とした女性の声は、向かう温室の奥のような暗さを孕み不安をかき立てる。
「私の花は永遠なの。そうでなければならないのよ」
足は止まらない。不安に視線を彷徨わせながらも、少年は女性の紡ぐ言葉に同意する。
この花は永遠だ。終わりなどは相応しくない。
花の香りに思考が霞み、不安を覆い隠す。どこか夢見心地で、少年は女性の背を追い続けた。
温室の最奥。そこでようやく女性の足が止まる。
硝子越しに見える空は既に暗く。僅かに欠けた月と星だけが、暗い温室をぼんやりと照らしていた。
遅れて少年の足も止まり。女性は少年に視線を向けて、困ったように微笑んだ。
「良い土を選んでいるから当分は枯れる心配はないけれど。手入れをしなくては、美しさは損なわれてしまう」
女性が指を差す。その方向へと少年は視線を向け、少年は息を呑んだ。
不自然な土の塊から、赤いバラが群生している。無秩序に咲き乱れるバラは、温室の入口で見た花とは異なり、少年に嫌悪感を抱かせた。
美しくない。このままの状態では、この温室に相応しくはない。
「お願い出来るかしら。私の次の管理者になって」
「…でも、どうすればいいか」
「大丈夫よ。これを」
そう言って、女性は少年に花束を差し出す。
色鮮やかな花束。永遠の花で作られた、永遠の花束。
ゆっくりと腕を上げて、花束を受け取る。香しい花の匂いを吸い込んで、目を閉じた。
「受け取ってくれてよかった。花の手入れをお願いね」
女性からではなく、すぐ側で声が聞こえた。
目を開ければ、花束の中に一輪、黒と白の花が紛れている。
目を凝らせば、それは美しい女の顔になり。
「上手に手入れが出来ている間は、土にはしないでいてあげる。さあ、まずはあの薔薇を整えてちょうだい」
女の顔をした花は妖しく微笑み、囁く。
「はい」
その言葉に少年は頷いて、花束を抱えたままバラの元へと歩み寄る。
その目は虚ろでありながら、夢に浮かされたように微笑みを湛えて。
膝をついて、傍らに花束を置く。代わりに土に突き刺さったままの鋏を抜いた。
僅かに身じろぐ土を押さえつけ、呻く声など聞こえないかのように。
人の体に咲き乱れるバラを、一本ずつ間引いていった。
交差点の片隅。
いつからか密やかに囁かれる噂話。
その少年はいつも、色鮮やかな花束を抱いて立っている。
もしも、少年に声をかけられても、決して振り返ってはいけない。
振り返ってしまったのならば。
20250205 『永遠の花束』