sairo

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夜が明けきらぬ、しん、と静まりかえった暗い空の下。人目を避けるように木の合間を抜けながら走る、小さな影が一つ。
時折周囲を気にして足を止めては、またすぐに駆け出す。
吐く息は白く、それでもその口元は笑みを湛えて。

不意に、小さな影の足が止まる。周囲を気にして足を止めたのではない。まるで時が止まったかの如く、不自然な体勢で影は動きを止めていた。


「随分とお転婆になられたものですね」

呆れを乗せた声と共に、音もなく影の背後に男が現れる。動きを止めたままの影を――幼子を抱き上げ、その体の冷たさに眉を顰めた。

「戻りますよ。まったく、夜遊びは控えるようにと散々申しておりますのに」
「もう少しだったのだが。仕方がないな」

頬を膨らませ不満を露わにしながらも、幼子は暴れる事なく男に擦り寄る。男の首に腕を回し、抱きついた。

「満月《みつき》」
「なんだ。満理《みつり》」

男に呼ばれ、幼子は腕を離し視線を向ける。

「私の元を抜け出してまで、日の出が見たいのですか?」
「見たいな。理由は分からぬが、ずっと見たいと思っていた気がする」

首を傾げ、幼子は屈託なく笑う。その笑みに男もまた柔らかな微笑みを返し、戻る足を止めた。幼子が向かっていた方向へと行き先を変え、ゆっくりと歩き出す。

「満理はいつも優しいな。記憶のない私の側にいてくれるだけで、私は十分だというのに。こうして我が儘を聞き入れてくれるのだから」
「満月は私のものに御座います故」

くすくすと二人、笑い合う。穏やかな足取りで道を行く。

木々を抜けた先。開けた場所で男は立ち止まる。
見上げる空は群青から淡紅へと色を変え、夜明けが近い事を示している。
目を細めて、その不思議な色合いを幼子は見つめ。ほぅ、と息を吐いて、男に凭れかかった。

「不思議な感じだ。日の出はまだだというのに、既に満たされている。満理と共にいるからだろうか」

目を瞬いて男を見上げ、そして空を見て。
何かに気づいて、幼子は花開くように微笑んだ。

「日の出ではないな。私は夜明けが見たかったのか。夜が終わるその先に、私は満理と共に在る事を確かめたかったのだな」
「今日の満月は、随分と素直ですね」

微笑む幼子に男は笑みを浮かべながらも、その目には戸惑いが浮かんでいる。幼子の記憶がどれだけ残っているのか、或いは戻ってきているのかを見極めようと、問いかけた。

「残っているものはありますか」

何が、とは敢えて言わず。
だが幼子はきょとり、と目を瞬かせ、悩み考えながら男に言葉を返す。

「満理を、きっと覚えているのだろう。それは記憶ではない。感覚的な、感情の名残のような、形のないものだけれど」

幼子の答えに男は何も言わず、その小さな背を撫でる。笑みを浮かべ擦り寄る幼子を抱え直し、空を仰いだ。

間もなく夜が明ける。
夜明けを求める幼子が、かつては夜しか在れぬ事を幼子は覚えてはいない。
妖の母と人間の父との間に生まれた、過去、現在、未来全てを見通す眼を宿した娘。妖の母により、陽の光に焼かれる呪をその身に刻まれた、憐れな子。徒人よりも成長の早いその身とは異なり精神が幼いままの娘は、今は男の影の中で眠り続けている。
此処にいるのは、娘の精神に会わせて男が作り上げた形代だ。故に娘は幼いまま。己の過去も眼の事さえ忘れ、ただ男と共に在る。
記憶を消したのは、男の賭けだ。何もかもを忘れた娘は、男と共に在り続ける理由はない。だが妖の母を、己の眼の記憶がなければ、娘はただの娘となる。
結果、男は賭けに勝った。娘は男と共に在り、陽に焼ける呪から解き放たれて、今は陽の光の下を歩く事が出来る。


「満月。夜が明けますよ」
「日の出か。いつ見ても、綺麗なものだ」

赤く染まる空と地の境。一筋の光を幼子は目を細めて見つめた。

日の出だ。夜が明け、朝が訪れる。
昇る陽を見つめ、ふふ、と幼子は笑みを溢す。男の頬に手を伸ばし、眼を覗き込むようにして身を乗り出す。
蕩けるような金が深縹を見つめ、満理、と静かに名を呼んだ。

「如何しましたか?」
「少し思った。日の出は綺麗だが、満理の眼の方がもっと綺麗だ」
「戯《たわむ》れ言も程々になさい」
「本当の事だろう。満理は綺麗だ。陽も、月も。満理には敵わない」

くすり、と微笑んで、幼子は男の首元に戯れついた。
嘘偽りのない本心からの幼子の言葉は、男の心を酷く騒つかせる。悟られぬようにと男は幼子の背を撫ぜて、静かに息を吐いた。

「満月。御母堂が居られない事は、寂しくはありませんか?」
「満理がいるから気にもならないな。記憶にない母より、満理と共にいられない事の方が、私にとっては苦しいよ」

呟いて、幼子は男にしがみつく。離れるもしもを想像して、怖くなったのだろう。離れたくない、と男の服の端を、小さな手で必死に掴んだ。

「そう心配なさらずとも、満月が望む限り私は共に在りますよ」

服を掴む幼子の手を上から握り、摩る。解け離れていく手を繋ぎ、男は柔らかく微笑んだ。

「さて、夜が明けました故、そろそろ戻りましょうか。体が冷えておりますよ」
「分かった。戻ろうか」

戻る旨を伝え、頷く幼子の反応を見て、男は踵を返す。

夜が明けた。
陽は昇り、空が青く染まり出す。
静かだった世界が、明るさと共に賑やかを取り戻していく。
陽に幼子が燃える様子はない。
それに密かに男は微笑んで、幼子を優しく抱きかかえ直した。



20250207 『静かな夜明け』

2/8/2025, 6:45:40 AM