「ああ…海だ」
眼前に広がる果てない青に、目を細める。
「寒いな。眠ってしまいそうだ」
首に巻き付いた赤い蛇が、力なく呟いた。
「眠っててもいいのに。蛇は冬眠する生き物でしょ?」
「私は妖だ。冬眠などするわけがないだろう。お前の認識で蛇の生態に引き摺られているだけだ」
「ごめんね。だって大蛇だって、お話にはあったから」
苦笑して蛇の頭を指先で撫でる。されるがままの蛇は、ちろりと舌を出してから、フードの中に潜り込んだ。
赤い蛇と故郷を出てから、どれだけの時間がたったのか。一月か。一年か。それともそれ以上なのか。
随分と遠くまで来た。故郷を思い、泣く事もなくなった。
「余計な事を考えているな」
「余計かな。感傷に浸る事って」
「それだけではないだろう。母御を終をもたらした事を、まだ気に病んでいるのか」
フードから頭だけを出した蛇が窘めるように声をかける。
それに首を振って、違うよ、と何度目かの否定をした。
「気に病むとかじゃない。これは一生背負っていくものだ」
母を殺した。死してなお、妄執に囚われ留まり続けていた母を終わらせた。その罪をなかった事には出来ない。
母を終わらせた選択に、後悔はない。父や兄は、どんな形であれ母がいる事を望んでいたが、その代償に失われていく命を見て見ぬ振りなど出来なかった。
泣くように笑う、母の最期を覚えている。怒り、憎む父と兄の呪詛のような声を、表情を忘れる事など出来はしない。
「私の罪を忘れてはいけない。許されるつもりもない…眠っていたあなたを私の望みのためだけに起こして、最低な事をさせたのだから」
「下らないな。実に下らない。妖とは人間の望みに応えるために在る。それを気に病むなど愚かな事だ」
ぴしゃり、と言い捨てられ、でも、と続くはずの言葉は形にならず。深い溜息に、視線を逸らして海を見た。
故郷では見られなかった青。寄せては返す波の音に惹かれるように、近づいた。
「あまり近づきすぎるな。海とは総じて悲哀と不穏が渦巻いているものだ。引き込まれるぞ」
「そうなの?…よく知っているね」
蛇の言葉に目を瞬く。忠告に従って離れながらも、遠くなる海を一瞥した。
故郷にはなかった海を、祠で長い間眠っていたはずの蛇はどこで知ったのだろう。
問うべきかを悩み、結局は口を噤む。聞いた所で、それは意味がない事だ。蛇の過去を徒に暴く事はしたくはない。
「…海まで来たのはいいけれど。これからどこへ行こうか」
「今日はもう宿を探すべきだ。いくら南に下れど、寒さは変わらぬな」
「分かった。じゃあ、街に出ようか」
急に話題を変えても何も言わない蛇の優しさに口元を緩め。気づかれないように手を強く握り締めながら、宿を探すために街へと向かう。
すれ違う人の、突き刺さるような鋭い視線に気づかない振りをして。どこからか聞こえる詰る声をないものとして。
足早に宿を探し歩いた。
深夜。
寝入る少女の傍らで、紅い大蛇は徐に鎌首を擡げた。暗がりを見つめ、舌を出す。
「さて、どうするか」
ずり、と畳の上を蛇の胴が這い。少女を囲うようにとぐろを巻く。
「無駄な事だ。おとなしく海へ戻るがいい」
暗がりを見据え告げれば、恨み妬む声が室内に響き。
だが大蛇が動じぬ姿に、次第にその声は小さく、やがては消えて元の静寂を取り戻す。
「…ん。な、に…?」
「何もない。沈んだものが縋りに来ただけだ。私とお前が同一だと気づいていながら、無駄な事をする」
眠れ、と大蛇に囁かれ、少女は再び眠りにつく。穏やかな寝息に大蛇は僅かに目元を緩ませた。
大蛇が少女の望みに応えたのは、大蛇の質による所が大きい。
少女の母が奪ったものに赤子がいた。故に終わった物語の概念として在った大蛇は、望みに応えるため目覚めた。
少女の故郷で語り継がれる伝承。
縁側で泣き続ける赤子を攫い己の棲家であやしていた大蛇は、赤子の家に棲み着く白蛇に退治され、赤子は無事に家族の元へと帰る。
少女は伝承の大蛇を、優しい蛇だと認識していた。退治された大蛇を奉ったという小さな祠に足繁く通い、幼いながらに祠の手入れをし続けていた。
赤子と蛇。その細い繋がりを縁として、少女は大蛇に己の母を終わらせてほしいと望んだのだ。
「お前が望んだのが私ではなく、白蛇であったのならよかっただろうに」
布団からはみ出した少女の手足を器用に尾で戻しながら、大蛇は幾度目かの詮無き事を思う。
大蛇を退治した白蛇は、守り神として赤子の家に奉られている。白蛇であれば、少女の望みを対価なしに応える事が出来ただろうに。
退治された概念の大蛇では、望みに応える事は出来ず。少女と同一となる事を対価に、少女の母を終わらせた。
どんな形であれ少女に親殺しをさせてしまった事を、大蛇は悔いていた。
ふと、大蛇はカーテン越しに外に視線を向ける。
忌々しいと舌を出し、カーテンをすり抜け現れた半透明の白蛇を警戒を露わに睨めつける。
「邪魔をするなと言っただろうに」
「関係ないよ。僕は人間に望まれた事に応えるだけさ」
「今この娘を家族の元に戻す事は出来ぬと、何度言えば分かる」
母を殺した少女の傷は少女を苛み続け、呪のように纏わり付いている。出会う人間全ての視線や声を、己を責め立てるものだと認識を歪ませ、一人苦しんでいる。
その少女を今家族の元に戻せば、その破滅は誰にでも想像出来るだろうに。
「それも関係ないな。僕は妖だ。人間の望みに応えるのが妖なのだから、それ以上は気にするだけ時間の無駄だ」
だが白蛇はそれを気にかける事もなく。さらに大蛇へと近づいた。
「貴様は本当に妖らしい妖だな」
「君は本当に妖らしくないね。そのままだといずれ堕ちるよ」
「余計な世話だ」
大蛇の尾が白蛇を薙ぐ。しかし尾は白蛇の体をすり抜け、大蛇は舌打ちをした。
「酷いな。まったく…もし、その娘を家族の元に戻したくないのなら、早朝に出立する事をおすすめするよ。昼前には彼らはここに辿り着くだろうからね」
「…何を考えている」
「別に。ただね。僕も君を殺す事に何も感じてない訳じゃないんだよ。君が簡単に人間に応えるから、伝承をなぞらえて最後には君を殺さなくちゃならなくなるんだ。そんな可哀想な僕の事を少しは考えて欲しいものだね」
ふい、と視線を逸らし。白蛇はその姿を霞ませ消えていく。
「嫌なら応えなければよいだけだ。面倒な奴め」
その姿を一瞥して、大蛇は呆れを滲ませ呟いた。
少女を見る。変わらず寝入る姿に安堵して、少女を覆い隠すように伏せた。
もうすぐ夜明けだ。少女を起こして、出立の準備をしなければならない。
終わりは必ず訪れる。少女の傷が癒え、正しく人間を認識する事が出来たのならば、その時はあの白蛇を頼ればいい。白蛇は大蛇を退治し、子を親の元へ連れ帰る存在なのだから。
それまでは、と。大蛇は少女の寝息を聞きながら、囁く。
「次はどこへ行こうか」
少女の傷が少しでも癒える場所へ。少女を追う家族から少しでも離れられるように。
少女と大蛇は、当てもなく旅を続ける。
故郷から離れ、遠く…。
20250209 『遠く…』
2/10/2025, 4:46:59 AM