その女性はいつも、色鮮やかな花束を抱いて立っている。
信号待ちの交差点。視界の隅で揺れる極彩色に、少年は視線を向けた。
道路を挟んだ向かい側に、花束を持った女性が立っていた。幸せそうに微笑んで、手にした花束を見つめている。
遠目からでは花の種類までは分からない。ただ赤や白、黄色など色とりどりの花は遠目からでも美しく、目を惹きつけた。
信号が青に変わり、人々が動き出す。女性から視線を逸らし、少年も歩き出した。
こちらへ歩く人の波に、女性の姿は見つける事は出来ない。視線だけを動かして花束の鮮やかな色を探すが、見えるのは少年と同じ紺や白の制服ばかりだ。
信号を渡りきり、周囲を見る。けれども女性の姿を見つける事は出来なかった。
はぁ、と少年は溜息を吐く。こうして女性の姿を探しては、見つけられずに信号を渡りきるのは疾うに十を超えていた。
心の底から美しいと思えるあの花束を、一度は間近で見てみたい。
もう一度周囲を見渡して、肩を落としながら少年は歩き出した。
「ねえ」
不意に声をかけられて、少年は肩を跳ねさせ振り返る。
「驚かせてごめんなさい」
眉を下げ、微笑む女性がそこにいた。
手にした花束は今日も変わらず色鮮やかで、少年は魅入るように視線を向ける。
「あなた、いつも私の花を見てくれているよね」
「ぁ。ご、ごめんなさいっ」
女性の言葉にはっとして、慌てて少年は謝罪する。赤く染まる顔に、女性は怒るでもなく笑んだまま首を振った。
「謝らないで。私、あなたとお話をしてみたかったの」
「話、ですか?」
「そうよ。私の育てた花を、あなたは見てくれたから」
愛おしげに花束を見つめ、ありがとう、と女性は感謝の言葉を述べる。その声音がどこか寂しげにも感じられて、少年は女性を見つめた。
「えっと、あの」
「皆、忙しくなってしまったわね。綺麗に咲いたから見てもらいたくて、こうして花束にしてみたけど。あなた以外は気にもかけてくれなかったわ」
以前は誰かしら足を止めて、花を褒めてくれたのに。
そう呟く女性はやはり寂しそうで。
花を見る。美しく咲いた種々の花はふわり、と甘い香りを漂わせ、少年を惹きつける。
こんなにも美しい花に何も感じない大人達が、少年には信じられなかった。
「とても、きれいだと思います。うまく言えないけど、すごく目を惹くっていうか。俺、ずっと近くで花を見てみたかったんです」
「ありがとう。そう言ってくれると、幸せだわ」
ふふ、と女性は微笑んで、そして何かを思いついたように、そうだ、と小さく呟いた。
「あなた、これから時間はあるかしら?」
「あ、はい。大丈夫ですけど」
今日は特に予定もなく、家に帰るだけだ。少年がそれを伝えると、女性は楽しげな色を目に浮かべ、囁いた。
「花を褒めてくれたお礼に、私の温室に招待してあげる。特別よ」
女性が大切に育ててきたという花が見られるという期待に、少年は迷う事なく頷いた。
街の外れの一角にある大きな屋敷が、女性の家であるらしい。
尻込みする少年を余所に、女性は門扉を開け入っていく。
「こっちよ。おいで」
手招かれて、少年は恐る恐る門扉を抜ける。先を行く女性の背を追いながら、広大な庭へと足を踏み入れた。
「すごい」
綺麗に整えられた庭の奥。美しい硝子張りの温室を視界に入れて、少年は思わず声を上げた。温室内に咲き誇る花々は、外から見ても瑞々しく美しい。
「入口はこっちよ。いらっしゃい」
温室の扉に手をかけ、女性は少年を呼ぶ。少年を前に恭しく扉を開けて、悪戯めいた目をして女性は笑った。
「ようこそ。私の秘密の温室へ」
「お、おじゃまします」
気恥ずかしげに俯いて、少年は温室の中に足を踏み入れる。だが漂う香しさと視界の隅の極彩色に、すぐに顔を上げて表情を綻ばせた。
赤、白、黄色、紫。
少年でも名前を知っている花や見た事もない花が、温室内に咲き乱れている。枯れる事を知らないような、永遠に似た楽園がそこにはあった。
「綺麗でしょう?私の自慢の花なのよ」
「きれいです。凄く、とっても凄くきれいだ」
「気に入ってもらえてよかったわ」
きらきらと目を輝かせる少年に、女性は満足げに笑い扉を閉めた。硝子越しの空が夜色に染まっていくのを、だが花に魅入る少年は気づかない。
音もなく少年の背後に立ち、ねえ、と女性は声をかける。
「あなた、この温室で花を育ててみない?」
「え?俺が、ですか?」
困惑して少年は女性を見る。突然の事に理解が追いついていないのだろう。
そんな少年に笑って、女性はそうよ、と頷いた。
「でも、俺。花とか育てた事がないし」
「大丈夫よ。あなたは花を綺麗だと思ってくれているもの」
「だけど」
迷い視線を彷徨わせる少年に、来て、と女性は告げて歩き出す。躊躇いながらも、花の香りに導かれるように少年は女性の後に続いた。
「あなたに花を育ててほしいの。私を戻さなければならなくなってしまったから」
「戻るって?どういう意味ですか」
「そのままの意味よ。戻さないと、温室を壊されてしまうから。私がいなくなった後を頼みたいの」
淡々とした女性の声は、向かう温室の奥のような暗さを孕み不安をかき立てる。
「私の花は永遠なの。そうでなければならないのよ」
足は止まらない。不安に視線を彷徨わせながらも、少年は女性の紡ぐ言葉に同意する。
この花は永遠だ。終わりなどは相応しくない。
花の香りに思考が霞み、不安を覆い隠す。どこか夢見心地で、少年は女性の背を追い続けた。
温室の最奥。そこでようやく女性の足が止まる。
硝子越しに見える空は既に暗く。僅かに欠けた月と星だけが、暗い温室をぼんやりと照らしていた。
遅れて少年の足も止まり。女性は少年に視線を向けて、困ったように微笑んだ。
「良い土を選んでいるから当分は枯れる心配はないけれど。手入れをしなくては、美しさは損なわれてしまう」
女性が指を差す。その方向へと少年は視線を向け、少年は息を呑んだ。
不自然な土の塊から、赤いバラが群生している。無秩序に咲き乱れるバラは、温室の入口で見た花とは異なり、少年に嫌悪感を抱かせた。
美しくない。このままの状態では、この温室に相応しくはない。
「お願い出来るかしら。私の次の管理者になって」
「…でも、どうすればいいか」
「大丈夫よ。これを」
そう言って、女性は少年に花束を差し出す。
色鮮やかな花束。永遠の花で作られた、永遠の花束。
ゆっくりと腕を上げて、花束を受け取る。香しい花の匂いを吸い込んで、目を閉じた。
「受け取ってくれてよかった。花の手入れをお願いね」
女性からではなく、すぐ側で声が聞こえた。
目を開ければ、花束の中に一輪、黒と白の花が紛れている。
目を凝らせば、それは美しい女の顔になり。
「上手に手入れが出来ている間は、土にはしないでいてあげる。さあ、まずはあの薔薇を整えてちょうだい」
女の顔をした花は妖しく微笑み、囁く。
「はい」
その言葉に少年は頷いて、花束を抱えたままバラの元へと歩み寄る。
その目は虚ろでありながら、夢に浮かされたように微笑みを湛えて。
膝をついて、傍らに花束を置く。代わりに土に突き刺さったままの鋏を抜いた。
僅かに身じろぐ土を押さえつけ、呻く声など聞こえないかのように。
人の体に咲き乱れるバラを、一本ずつ間引いていった。
交差点の片隅。
いつからか密やかに囁かれる噂話。
その少年はいつも、色鮮やかな花束を抱いて立っている。
もしも、少年に声をかけられても、決して振り返ってはいけない。
振り返ってしまったのならば。
20250205 『永遠の花束』
2/6/2025, 4:10:35 AM