見慣れた彼女の背を見つけ、駆け出した。
「先輩っ!」
声をかければ立ち止まり、こちらに振り返る優しい彼女に思わず笑みが溢れる。
「おはようございます!」
「おはよう。朝から元気だね」
「先輩が見えたので、走って来ちゃいました」
静かで落ち着いた声音に、少しばかり落ち着きを取り戻し。段々に羞恥心が込み上げて、頬が熱くなる。
そんな自分を彼女はいつもと変わらぬ凪いだ表情で見つめ、視線を逸らして歩き出した。
「行くよ。遅刻してしまう」
「あ、はい。ごめんなさい」
慌てて彼女の背を追う。隣に並んで立てば、彼女の長い黒髪からふわりと甘い匂いがした。
「先輩。トリートメント変えました?」
「変えてないけれど。急にどうしたの」
「いえ。何か甘い香りがしたので」
首を傾げながらそう伝えれば、彼女はああ、と何かに気づいたように鞄から、小さな巾着袋を取り出した。
立ち止まり、こちらに視線を向ける。彼女に倣い足を止めると、はい、と取り出した巾着袋を手渡された。
「先輩?何です、これ?」
「匂い袋。貴女が言っていた匂いは、これでしょう?」
確かに。ふわりと薫るこの匂いは、さっきの香りと同じものだ。
「あげる」
「え?いいんですか」
「いいよ。作りすぎてしまっていたし…それより、少し急ぐよ。本当に遅刻する」
「は、はいっ!すみません。ありがとうございます!」
早足で歩き出す彼女と共に歩き出す。急ぐ、とは言いながらも、自分に合わせて歩いてくれる彼女の優しさに、手にした匂い袋を両手で抱きしめ、微笑んだ。
「先輩!」
先を行く彼女の背が見え、駆け出した。
けれども彼女は足を止める事はなく。普段よりも縮まらぬ距離に焦れて、速度を上げる。
「ねぇ!先輩ってば!」
手を伸ばせば届きそうな距離まで近づいても、彼女は足を止めない。
不安で、怖くなって。彼女の肩に手を伸ばし。
――その手が、空を切った。
「え?あれ?」
バランスを崩し、倒れ込む。
受け身もまともに取れず、強かに右半身を地面に打ち付けた。
「いっ、たぁ」
「…何、してるの」
聞き慣れた声に、顔を上げる。
どこか呆れた目をした彼女が、静かにこちらを見下ろしていた。
「せん、ぱい?」
「派手に転んだね。血が出てる」
傍らにしゃがみ込み、擦りむいた腕や足を確かめていく。ハンカチで血を拭い、鞄から取り出した絆創膏を手際よく張っていく。
「なんで、絆創膏持ってるんですか?そんなにたくさん」
「だって貴女。いつも走ってくるでしょう。いつか転んでしまうと思っていたから」
他に傷がないか確かめながら、彼女は言う。言外に、何もない所で転ぶとは思わなかったと言われているようで、恥ずかしさに俯いた。
「ほら、立って。腕を貸してあげるから」
「…ありがとう、ございます」
「どういたしまして。今度から気を付けてね」
彼女に支えられながら立ち上がる。ふらつきながらも歩き出しながら、さっきの背中を思い出す。
「先輩…さっき、わたしの前を歩いていました?」
「いいえ。走る貴女の背を見ていたよ」
「そう、ですか」
彼女の静かな目が、何かあったのかと問いかける。
それに気づかない振りをして、鞄を持つ手に力を込めた。
その日から、彼女の背中の幻を見るようになった。
例えば、階段の踊り場で。赤信号の横断歩道の途中で。
気づくのが遅れれば命がなかったような危ない状況で、彼女の背を見続けていた。
彼女の背を見つけ。けれど追うべきかを戸惑う。
あれは本当に彼女なのか。それとも幻なのか。
迷いながらも、駆けだした。もしも彼女だったなら、という期待が足を動かした。
二つ年上の彼女。仕事でいつも家にいない両親に代わって面倒を見てくれた、大切な従姉妹。
彼女に追いつきたくて、背中を見かける度に追いかけた。幻を見るからと、彼女を追いかける事を止めてしまいたくはなかった。
「先輩っ!」
声をかける。彼女の背が立ち止まる。
ああ、やっぱり彼女だったと。笑みを浮かべて速度を上げて。
――手を引かれる。
「ぅわっ!?」
「何、してるの」
ふらつきながら、引かれた手の先を見る。
普段と変わらぬ凪いだ表情をした彼女が、けれど目には鋭さを湛えて自分を見つめていた。
「先輩?」
呆然と彼女を見つめ。ゆっくりと追いかけていた背に視線を向ける。
「な、んで?」
そこに変わらず彼女はいた。彼女の背は微動だにせず、消える事なくそこに佇んでいる。
「…何だ。そういう事」
彼女も見たのだろう。何かに納得して、腕を強く引かれた。
「な、に。先輩?」
「よく見てごらん」
彼女のしなやかな指が、道の先に佇む背中を指差した。
視線を向ける。目を凝らして、その背中を見つめた。
「っ…なに、あれ」
目にした異形に、目を見張る。
見慣れた背中。自分と同じ制服姿。長く艶やかな黒髪。
スカートから伸びる、細くしなやかな足。
しかしその膝は、つま先はこちらを向いていた。
「無理矢理繋げたのだろうね。半分に千切れてしまっていたから」
淡々とした彼女の声が聞こえたが、理解が追いつかない。目の前の光景から目を逸らす事が出来ない。
ずり、と音がする。異形が振り返る。だが下半身は微動だにしていない。
ず、ずり、と耳障りな音を立て、異形が。上半身だけ、で。
「無理に見る必要はない。見ていて気持ちのいいものじゃないからね」
不意に視界が暗くなる。彼女の手が目を塞ぎ何も見えなくなった。
音は消えない。ずり、ぎり、と視界を塞がれた事で、音がよりはっきりと認識されて、耐えきれず両耳を塞ぐ。
塞ぐ手をすり抜けて、籠もった音が微かに耳に届く。籠もりぼやけた音は、しばらく手の向こう側で形を持とうと鳴り続けていたが、ごきん、という音を最後に沈黙した。
彼女の手が外される。目の前から異形の背が消えて、思い出したように膝が震えてその場に崩れ落ちた。
「思っていたよりも執着していたんだね」
かたかたと震えの止まらない体を抱いて、彼女を見上げる。驚きの混じった声音にすら恐怖を感じ、声にならない悲鳴が喉をひりつかせた。
「追いかけてもらえるのが嬉しかった。それは自覚していたけれど…ごめんね」
立ち上がる事も、況してやこの場から逃げ出す事も出来ずに震えるだけの自分を見下ろして、彼女は微笑む。
膝をついて頬に触れるその手の冷たさに、膜を張っていた涙が耐えられずに零れ落ちた。
「そろそろ思い出してきたね。答え合わせしようか」
彼女の手が頬から離れ、傍らに転がっていた鞄に伸びる。中から以前もらった匂い袋を取り出して袋の口を緩めた。
「ひとつめ」
手を取られ、手のひらに匂い袋の中身を出される。
それは白く、細い。まるで骨のような。
「私は、すでに死んでいる」
静かな声に肩が震えた。
「ふたつめ」
背後から腕が伸びてきて、手のひらの上の白を摘まみ上げる。
滲む視界で見上げると、彼女の空洞の目と視線が合った。
「その体は、私の執着の成れの果てだ。本物は焼かれて骨になって、とっくに土の中さ」
執着。これが、彼女の。
目が合ったまま動けないでいると、摘まみ上げた白を口の中へと差し入れられる。吐き出そうとするより早く腕は口を塞ぎ、抵抗も出来ずに飲み込んだ。
恐怖と苦しさに、しゃくり上げながら涙を流す。背後の彼女の体は頬を包み、止まらない涙を拭っていく。温もりのない冷たい体からは、あの匂い袋の甘い香りがした。
「そして、みっつめ」
くすくすと笑う声に、視線を目の前の彼女に向ける。
唇の端を歪めて笑う彼女は美しく、そして何よりも怖ろしい何かに見えた。
「私は、何だろうね。貴女の作り出した妄想か。魂というものが形を持ったのか」
腕を取られ、促されて立ち上がる。震える足では上手く力が入らないが、背後の彼女の体に支えられて崩れ落ちる事はなかった。
「まあ、今更どうでもいい事だけどね。死の匂いを甘いと表現した貴女には、最期まで私の背を追いかけてもらうから」
可哀想に、と彼女は笑う。幼い頃によくしてもらっていたように頭を撫でられて、その残酷な優しさに只管に首を振って泣きじゃくった。
「追いかけるのはもうイヤ?じゃあ、手を繋いでいこうか。昔みたいに」
手を繋がれる。絡みつく彼女の冷たい指に、逃げられないのだと気づかされた。
泣きながらも彼女に寄り添い立つ。彼女と共に、歩いて行く。
恐怖と、悲しさと、寂しさと。そして喜びと。様々な感情で目眩がする。
もう自分が何故泣いているのか、分からない。
「ぉ、ねぇ、ちゃん」
「久しぶりに呼ばれたね。先輩だなんて格好つけ出すから、少し寂しかったんだ」
上機嫌に笑う目の前の彼女は、本当は誰なのだろう。
ぼんやりとする意識の中で、考える。
いつも面倒を見てくれた大好きな従姉妹。困った時に助けてくれる優しい先輩。
どうか本物であって欲しい、と。
消えていく自分の影を見遣りながら、ただそれだけを願っていた。
20250210 『君の背中』
2/10/2025, 5:07:16 PM