sairo

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まただ。クラスメイトの表情を横目に、少女は僅かに眉を寄せる。
彼女は確か昨日、好きな人に告白して付き合えたのだと嬉しそうにしていたのではなかったか。それが表情もなく、静かに席に座っている。
ちらり、と視線だけを動かし少女は教室内を見回す。大半のクラスメイトが彼女のように無表情で席についているのを見て、薄ら寒さにふるり、と肩を震わせた。

――無感情症候群。

正確な病名はない。原因不明のこの症状に誰かが名付け、それが広まった。
ある日突然に、感情を失ってしまう病。一度感染すると会話や行動に制限はないが、そこに感情が伴わない。ただ機械的に行動し、求められる答えを返すようになってしまう。数ヶ月前から急速に、この学校内で流行りだした。
感染源や感染経路、予後すら何一つ分からず。噂では、初期に感染した生徒は次第に動く事も話す事もなくなり、今では昏睡状態に陥っているのだとか。


「ホームルーム始めるぞ…って、また増えたのか」

入ってきた担任が、彼女を一瞥し眉を潜める。しかしすぐに表情を取り繕うと、教卓の前で何事もないようにホームルームを始めた。
担任の話を聞くともなしに聞きながら、少女はもう一度教室内に視線を巡らせる。虚ろな目をして前を見る感染したクラスメイトと、どこか怯えを滲ませる未感染のクラスメイトを見て。
ぼんやりと、学校外や教師達には感染者がいないのは何故なのかを考えていた。



「――ねえ」

無感情な声に、机に伏していた顔を上げる。
声と同じく無表情の友人が、静かに机の前に佇んでいるのを見て、弾かれたように少女は体を起こした。

「ど、どうしたの?」

早鐘を打つ心臓を落ち着かせるように胸の前で手を握り、少女は笑みを浮かべてみせる。大分引き攣ってしまっているのは、感染した人が自分から声をかける事が今までなかったからだ。
視界の隅で少女と同じ未感染のクラスメイトが、目を見開いてこちらの様子を伺っている。不自然に静まりかえった教室内で、目の前の友人が口を開くのを待った。

「星が綺麗だから、見に行こう」

え、と思わず溢れた声が教室内に広がる。慌てて口を閉じ、困惑して周囲を見回すが、僅かに残っている未感染のクラスメイトは皆、少女と同じように困惑を顔に浮かべていた。
窓の外を見る。当然のように空高く太陽は輝き、青空のどこにも星は見えない。

「えっと…放課後、って事?」
「星を見に行こう」

問いかける言葉は、同じ言葉によって返される。益々困惑する少女を気にかける事もなく、友人は少女の手を取り歩き出す。

「えっ?…ちょっと。待って、どこに…」
「星を見に行こう」

強い力で引かれ、手を振りほどく事が出来ない。半ば引き摺られる形で廊下を歩きながらちらり、と振り返った視線の先で誰かが職員室に駆けていくのが見えた。
担任に報告しにいったのだろう。しばらくすれば助けが来るだろう期待に少しだけ気持ちに余裕が持て、少女は歩き続ける友人を覗い見た。
前だけを見る友人の足取りには迷いがない。階段を下り、昇降口を靴も履き替えずに出て、向かう先はどうやら旧校舎らしかった。
木造二階建ての古い校舎は今は使われておらず、立ち入り禁止となっている。そのため昇降口には普段から鍵がかかっているはずであるが、今日に限って鍵は開いていたらしい。引き戸は何の抵抗もなく開き、その隙間を友人はすり抜けていく。手を繋がれたままの少女もまた校舎内に入り、その瞬間に鼻腔を掠める埃と古くさい匂いに顔を顰めた。

「かび臭っ。ねえ、どこまで行くの?」

繋がれていない方の袖口で口と鼻を覆う。一向に止まる気配のない友人に声をかけるも返る言葉はなく、繋がれた手も離れる様子はなかった。

昇降口を出て向かって右側。その奥へと友人は歩みを進める。その足取りに、迷いはやはりない。
そして辿り着いた一番奥の教室の前で、ようやく友人は立ち止まる。
――視聴覚室。
古ぼけ、掠れたプレートから読み取れた文字。星を見ると言っていた友人の目的地に、少女は首を傾げて不安げに友人を見た。

「ここ、なの?」
「星を見に行くよ」

迷いなく引き戸に手をかけ、開ける。ぽっかりと口を開いた暗闇に少女は臆するものの、友人は気にせずに足を踏み入れる。手を引き少女を中へと引き入れて、戸を閉めた。
黒いカーテンで作られた暗闇を怖れ、少女は強く手を引く。
「っ、うわっ」

思っていたよりも簡単に手が離れ、その反動で少女の体が傾いだ。
倒れ込まないようにふらつきながらも耐えた少女が安堵の息を吐くとほぼ同時。その頭上で灯りがついた。

「え?」

天井を見上げる。そこで見たものに少女は思わず息を呑んだ。

星だ。満点の空が、そこにはあった。
きらきらと輝き、瞬いて。本物と見紛うほどの星空を、少女は呆けたように見上げていた。


「――ん?何か言った?」

微かに声が聞こえた気がして、少女は視線を友人へと向ける。変わらず無表情で佇む友人を見て、では外からか、と戸を見て近づくために足を踏み出した。
その瞬間に、また声がした。今度ははっきりと、頭上から。

「違う。これって…星からだ」

呟いて、もう一度天井を見上げる。耳を澄ませば、聞こえるのは少年や少女の声音だった。

――嬉しい。彼と付き合えるなんて夢みたい。

聞き覚えのある声がした。今日感染したクラスメイトの声だった。

「まさか。これって」

嫌な予感に、背筋が寒くなる。
見たくないはずであるのに、目を凝らして少女は星を見た。

そして、気づく。
星だと思っていたものが、本当は感染した生徒達の感情である事に。

「きれい?星、きれい」

友人の声がして、恐る恐る視線を向ける。
笑っている。感染してから今まで表情をなくしていた友人が、無邪気に微笑んでいた。
ひゅっと、喉がなる。恐怖に後退る少女を見つめ、友人は徐に腕を上げる。

「いかないで。きれいだよ」

友人の声に別の誰かの声が重なる。かたかたと震え動けなくなってしまった少女の目の前で、友人の背後に影が出来る。
それは子供の描いた落書きのような、かろうじて人だと分かる歪な形をしていた。友人の背後にぴたりと寄り添い、友人の口が開くのに合わせ、影の顔の部分に口が現れ開く。

「きらきら。かがやいて、きれい」
「ひっ」
「だから、ここにいよう?ねえ、そうしようね」

友人と影の混ざり合った耳障りな声が響く。ゆったりと近づくその様に、少女は恐怖に耐えられず引き攣った悲鳴を上げて引き戸に駆け寄った。
戸を開けようとして、躊躇する。今ここから逃げ出したとして、友人は果たしてどうなってしまうのだろうか。
迷い、振り返ろうとして――。

「ぁ。ぅぐっ!?」

最初に少女が感じたのは強い衝撃だった。
痛みはない。痛覚の代わりに感じた意味の分からない多幸感に、少女は混乱して崩れ落ちた。
その間にも絶え間なく背中に強い衝撃を感じ、その度に様々な感情が流れ込んでくる。感情の奔流に息も出来ないほどの苦しさを覚えながら、少女は必死に背後を見た。

「あ、あぁ」

星が、流れていた。
少女に向けて、無数の星が流れ続けていた。
輝きを纏った星が少女の中に入り込む度に、知らない誰かの感情が流れ込んでくる。
嬉しい。楽しい。幸せ。
苦しい。悲しい。寂しい。憎い。

「ぜんぶ、あげる。うれしいね」

いつの間にか友人から離れた影が、少女の傍らに膝をつく。子供の落書きのようであった影は、今ははっきりとした輪郭を持ち。少女を見つめ、瞼のない黒の目と唇が笑みを形作る。

「かがやき。きれいで、しあわせ」
「ぃや。たすけ。やだっ」

泣きながら少女は首を振る。
一度に与えられた感情は、人の限界を容易く超えている。少女の精神を灼き切り、脳を破壊した。

「あぁあああぁああ!」

輝く感情で出来た、最後の星が流れる様を見て。
少女の意識は黒く塗りつぶされた。





少女が友人と旧校舎へと向かい、姿を消してから数週間後。
教室の中では、今日も噂話があちらこちらで聞こえていた。

――聞いた?あの子、目を覚ましたんだって。
――聞いた聞いた。でも廃人同然なんだって?感情が戻ってないってさ。
――怖いね。連れていかれたあの子の友人も、結局見つかってないんでしょ?先生が旧校舎の視聴覚室に行った時には、倒れてるあの子しかいなかったらしいし。
――結局、無感情症候群って何だったんだろうね。
――怖かったんだからね。でも戻ってくれて良かった。

数日前に戻ってきた日常を、生徒達は謳歌していた。二つ空いたままの席を時折見てはすぐに視線を逸らし、噂話の話題に上げるも、その生徒の名すら呼ぼうとしない。
皆、戻らぬ少女達を心配する気持ちはあれど、ようやく戻ってきた日常を失う事をそれ以上に怖れていた。


「そろそろホームルーム始めるぞ」

教室に入って来た担任が二つの空席を認め、僅かに表情を曇らせる。しかし誰かにそれを指摘される前に表情を元に戻し、いつものようにホームルームを始めた。


少女は今も行方が分からないまま。
しかし、あの旧校舎では夜になると、少女によく似た等身大の人形を抱えて歩き回る人影が現れるのだという。



20250218 『輝き』

2/18/2025, 10:47:49 PM