sairo

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しん、と静まり返った夜。
眠りに落ちる前の微睡の中で、誰かが頭を撫でた気がした。
そっと、優しく。夜のように静かに。
その心地良さに微笑んで、ふと気になって目を開ける。
枕元。暗がりを駆け抜ける小さな影を目で追って、体を起こした。

「だあれ?」

問いかけても答える声はない。静かな室内には、起きる前の小さな影はどこにも見当たらない。

「誰か、いるの?」

もう一度、問いかける。
やはり、答えはない。
釈然としない思いを抱えながらも、影を探す事を諦めて横になる。暗闇にぼんやりと浮かび上がるデジタル時計は、すでに日付が変わってしまった事を示していた。
目を閉じる。
今度は頭を撫でる感覚はしなかった。



あれから数日が経ち。
時折現れる頭を撫でる手に、どうしたものかと頭を悩ませていた。
手が現れるのは決まって嫌な事があり、とても疲れた日の夜だ。疲れて寝入る前の僅かな時間。優しく触れる手は沈んだ気持ちを解き、穏やかな眠りを誘う。しかしその手が誰なのかを気にして目覚めると、小さな影を残してその手は消えてしまうのだ。
消える手が惜しくて眠った振りをすれば、手は頭だけでなく、顔に触れ出す。頭や頬を撫でられて、心地良さにそのまま眠ってしまった次の朝は、いつも感じる寂しさも哀しさもなく、穏やかな気持ちで目覚められる。

「どうしようかな」

ベッドの上。サイドテーブルの上に置かれたライトの灯りを見ながら考える。そろそろ眠った方がいいのは分かっているが、如何するべきかを決められずにいた。
このまま気づかない振りをして、その優しさを享受し続けるか。それとも、正体を暴いてしまうのか。
はぁ、と重苦しい溜息を吐いて、ライトに手を伸ばす。灯りを消して訪れた暗闇に、また一つ溜息を吐きながら横になった。



頭を撫でる感覚に、意識が浮上する。
優しい手。嫌な事を全て解かしてくれる、懐かしい手。
眠った振りをしながら悩み、考える。
この手を失うのが怖かった。しかしこのまま何も知らないでいるのも、同じくらいに怖ろしい。
悩み迷う間に手は額に触れ、瞼をなぞり頬を撫で始める。こそばゆい感覚にふふ、と思わず笑みが溢れた。
それがいけなかったのだろう。弾かれたように手が離れ。
それを嫌だと思った瞬間に、気づけばその手を掴んでいた。
目を開ける。黒い小さな影を認め、目を瞬いた。
暗闇に目が慣れてくる。影の姿が次第に浮かび上がってくる。
驚いたように目を見開きこちらを見つめるその影は、小さな老人だった。和服を着たどこか懐かしさを感じる老人は、しばらく微動だにしなかったが、掴まれた手を見て、そしてこちらを見て、困ったように微笑んだ。

「やれ、捕まってしまったか。今まですまなかったな」
「ま、待って!」

まるで別れのような言葉に、握った手に僅かに力が籠もる。
首を振って嫌だと、行かないで欲しいと必死に訴えれば、眉を寄せながらも老人は掴まれていない方の手で、頭を撫でた。
優しい手だ。ここ数日、哀しい時や苦しい時に、慰めるように撫でてくれていた手だ。

「あなたは誰?」

目を細め、その手に擦り寄りながら問いかける。

「この辺りに住むモノだよ。久方ぶりに帰って来た子の成長が嬉しくてなあ。つい通ってしまった。怖がらせてしまってすまないね」
「怖くないっ。怖くなんてなかったよ。寂しかったり哀しかったりした時に撫でてくれたから、次の朝も頑張れたんだよ」
「良い子だね。離れている間に、健やかに成長してくれていたようだ」

目に慈しみを浮かべて穏やかに笑む老人は、頭を撫でる手は止めぬまま、掴まれた手に視線を向ける。そこで大分強く握ってしまっていた事に気づき、慌てて手を離した。

「ごめんなさいっ」
「気に病む事ではないぞ。寂しかったのだろう。今宵もおまえが眠るまでここに居る故、安心して眠ると良い」
「ありがとう」

促されて横になる。目を閉じて頭を撫でる手を感じながら、眠りに落ちていく。

「ねぇ、あなたは誰?」

最初にした問いを繰り返す。この手を懐かしいと思ってしまうのは、きっと気のせいではないのだろう。

「おまえの眼が見ていた妖らの中の一人さ。池がなくなり寄る辺を失いながらも、語り継がれる事で消える事も出来ずに彷徨う我をその眼で見て、怖れず触れてくれたあの優しさを後生大事にしている、水の精の名残だよ」

あぁ、そうだ。夢うつつに思い出す。
幼い頃、体が弱く外に出られない自分の話し相手になってくれた、優しい妖達の中の一人が老人だった。退屈だとぼやく自分に、彼はよく昔の話をしてくれたのだ。
遠い昔にこの付近には池があった事。浮き草や菖蒲に覆われたその池に戻れなくなって、困ってしまった事。人に捕まってしまい、何とか逃げ出せた話など。
池がなくなってしまった事で、彼は水の精から妖に成ったと話してくれた。幼い頃は全く分からなかった事は、思い出した今も分からない。

「おかえり、可愛い子。元気になって戻って来てくれた事を、皆とても嬉しく思っているよ」

その言葉に頬が緩む。
療養のためにこの都会から離れ、田舎の祖父母の家に預けられた。青春時代のほとんどをあちらで過ごし、彼らをすっかり忘れてしまっていたのに。
彼らが忘れず、帰りを待っていてくれた事が嬉しくてたまらない。

「ただいま」

彼らに会いに行こう。
明日を待ち遠しく思いながら、小さく呟いた。



20250220 『あなたは誰』

2/20/2025, 11:19:12 PM