sairo

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風一つない、夕暮れ時。
魔の前の朱い鳥居を、睨み付けるようにして見上げた。
一歩足を踏み出す。ゆっくりと鳥居を潜り抜ける。

「…駄目か」

変わらぬ鳥居の先の光景に、舌打ちして小さく吐き捨てた。

鳥居は境界だ。現世と狭間を区切る、一種の扉。
戻れるはずなのだ。彼方側に。人が住む現世の世界に。
だが何度繰り返しても、一向に戻れる気配はなく。もどかしさに、表情が険しくなる。


「無駄よ。今日は風がないから、彼方側に繋がる事はないわ」
「可能性はゼロじゃない。私は戻らなくちゃいけないの」

聞こえた声にすら腹立たしさを覚え、眦を決して振り返った。

「あの子が待ってる。一人きりで泣いている声がするの。だから早く戻らないと」
「最初だけよ。その内、皆日常に戻っていくわ…三十年も経てば人も老い、世代も変わる。例え人の記憶に残れど、想いは風化してしまう。覚えていてくれる人も皆いなくなるの」

憂いを帯びた表情と、諦め凪いだ声音にぎり、と歯を食いしばる。
皆いなくなる、と繰り返す女性は、遠い過去を思い返しているのだろう。その目には悲哀が浮かんでいる。
女性もまた、遠い昔にこの狭間に誘われた。此方側に来た当初、女性も自分と同じく現世に戻るために彷徨った。三十年かけてこの鳥居に辿り着き、強く風の吹き荒れる日にここから現世へと戻る事が出来たのだという。
しかし女性は再びこの狭間に戻ってきた。女性の事を忘れず何処にいたかを尋ねる親戚達に別れを告げて、人として現世で生きる選択を放棄した。
詳しくを尋ねた事はない。ただ女性の目に未練はなく、幾許かの寂しさが滲んでいた。

「それでも、戻らないと」

女性の元へと歩み寄りながら、静かに告げる。
今も尚聞こえ続けている悲しく寂しげな声に、眉を寄せた。
小さな声。寂しいと泣くような、無事を只管に祈るような、愛しい声が耳奥で響く。間違えるはずのない、愛しいあの子の声だ。

「あの子は一人で頑張り過ぎてしまう所があるから。寂しい気持ちを我慢して叔父さん、叔母さんに何も言わない、そんな優しい子。私がいない事でさらに悲しい思いはさせたくない」

女性の手を取り、己の耳に当てる。
あの子の声が女性にも聞こえたのだろう。びくり、と震える肩を見ながら、あの子の声に耳を澄ませた。

「――泣いているわね。声を上げずに、泣いているわ」
「そうだね。あの子はそういう子だ。私がいないとあの子はちゃんと泣く事も出来ない」

だから戻らないと、と女性の手を離し、鳥居を見遣る。
風が吹く気配はない。鳥居の向こうの景色に変化は見られない。

「私の両親も姉も、こんな風に泣いていたのかしら。私がいなくなった事を悲しんでくれたのかしら」

小さく呟かれた言葉に、多分ね、とだけ伝える。
そう言えば、と思い出す。女性が戻った生家には、既に家族は亡かったと言っていた。
だから現世に未練はないのか。

「ねえ」

凪いだ声に視線だけを向ける。声音と同じく凪いだ表情をした女性が、戻りたいの、と今更な事を訊く。

「さっきから、そう言っている」
「でもあなた。私と違って体がないでしょう?彼方に戻れたとして、貴女の大切な子には見えないのではないかしら」

指摘され、苦笑した。
改めて自分を見下ろして、影を失った透ける体に眉を寄せる。
考えていなかった訳ではない。分からない事が多すぎて後回しにしていただけだ。

気がつけばこの狭間で、体を失った状態で彷徨っていた。此処にいる切っ掛けも理由も、何一つ記憶にないのだから、体の行方など知りようもない。

「戻った後に考えるよ。案外彼方側に体はあるのかもしれないしね。体がなくてもあの子の側にいる事くらいは出来るし」

耳奥であの子の声が響く。例え見えずとも、聞こえずとも、側に寄り添う事は出来る。側にいると伝える手段は、いくらでもあるはずだ。

「早く、戻らないと」

空を見上げる。
夕闇を濃くして夜が浸食していくその様を睨み、過ぎていく時間に忌ま忌ましさを覚えた。





身じろぐ腕の中の温もりに、微睡みかけた意識が浮上する。

「おねぇ、ちゃん」
「大丈夫。ここにいるよ。寂しくはないでしょう」

背を撫で耳元で囁けば、目は開かぬままにふふ、と彼女は笑い。再び胸元に擦り寄ると、しばらくして規則正しい寝息が聞こえてくる。
あどけない表情をして眠る従姉妹を見つめ、笑みが浮かぶ。額に唇を寄せて、微睡みに垣間見た過去を思い返した。
現世に渡るため試行錯誤していた過去を見たのは、おそらく先ほどまであの女性が来ていたからだろう。
現世に渡ったはずの自分が、狭間に戻ってきた。泣きじゃくる従姉妹を連れて。
気にかけるのも当然だ。困惑する女性に簡単に事情を説明すれば、嘆息して一言だけ告げて戻っていった。

「酷い執着ね。それは愛ではないわ」

思い返すだけでも込み上げてくる笑いを、必死に押し殺す。彼女を起こす訳にはいかない。
そんな事、最初から分かっていただろうに。この執着は女性と言葉を交わした最初から変わらない。
現世に渡り、全てを思い出した事で歯止めがきかなくなっていただけだ。
理不尽に奪われた命。最期に思ったのは、彼女の事だ。
彼女の元へと向かえば、嬉しそうにこちらに駆け寄り笑う姿を見て、欲が出た。
彼女の日常に入り込み、以前のような関係を演じた。彼女が自分を否定するのならば、離れるつもりではあった。
最後まで自分を否定せず、慕い続けたのは彼女だ。全ての種明かしをして、怖い思いもさせたというのに。彼女は泣きながらも、繋いだ手を解こうとはしなかった。だから此方まで連れてきた。


「この子に執着しているのは、痛感しているよ。でもこの子の側には、やっぱり私がいないと。この子も私に執着しているんだから」

自分の死を否定し続けているほどには。でなければ、自分の姿を見る事も、声を聞く事もなかっただろう。
可哀想に、と囁いて、目を閉じる。

現世から繋ぎ続けている手は今も離れない。



20250217 『君の声がする』

2/16/2025, 4:23:13 PM