「また髪の毛乱れてる。おいで、直してあげるから」
呆れたようないとこの言葉に肩をすくめてみせる。手招かれておとなしくいとこの前に座り、可愛げの欠片もない黒の髪ゴムを解いた。
「女の子なんだから、もっと身だしなみに気をつけなよ」
「だって、頑張っても上手くいかないんだもん」
「そうやってすぐに諦めるから、上達しないんだ」
溜息を吐きながらも、いとこの手はわたしの髪に優しく触れる。櫛に梳かれる感覚に、目を細めて密かに笑った。
いとこの手で魔法をかけられている。冴えない小娘が、綺麗なお姫様になるこの瞬間が、大好きだ。
今日はシンプルに、一つに結ぶようだ。手慣れた指が髪を掬い、まとめてゴムで結ぶ。ちらりと見えた髪ゴムには、淡い桃色の花飾りがついていた。
この前来た時に、本を見ながら欲しいとぼやいたつまみ細工の花飾りを、いとこは作ってくれていたのだろう。
「はい。出来た。特別におまけもつけといたから」
「ありがと…るぅちゃんって、なんだか魔法使いさんみたいだねぇ」
片付けをするいとこを見ながら、思った事がつい口から溢れ落ちてしまった。
「何それ。がさつな女の子から出る言葉とは思えないね」
怪訝な顔をするいとこに態とらしく溜息を吐かれ、眉が寄る。分かってはいたが、こうして面と向かって呆れられるのは、とても気分が良くないものだ。
「酷い。わたしをなんだと思ってるの」
「もうすぐ高校生になるのに、一人でまともに髪も結べない、不器用でがさつな女の子」
「失礼だなっ。今は本気を出してないだけなんだもん。本気を出せば、るぅちゃんよりも凄くなれるもん…たぶん」
勢い余って言い返すも、次第に勢いはなくなり。最後に小さく、たぶんと溢したのは、いとこに勝てる部分がまったくなかったからだ。
ヘアアレンジも、つまみ細工を始めとした小物を作るのも。料理だっていとこの方がとても上手だ。テレビで見るようなきらきらしたお菓子を作れるいとこに、ようやく目玉焼きを焦がさないようになったわたしが追いつけるはずもない。
膝を抱えてうずくまる。しばらく黙っていると、いとこが立ち上がる音がした。小さな笑いを含んだ声が、宥めるみたいに静かに尋ねてくる。
「前に食べたがってたフルーツタルト。作ってみたけど、食べる?」
「………食べる」
わたしの返事を聞いてキッチンへ向かう足音に、ちらりと顔を上げて大きないとこの背を見る。
結局最後にはわたしを甘やかしてくれるいとこは、やっぱり魔法使いに違いない。口は悪いがとても優しい、良い魔法使いだ。
何かが聞こえた気がして、目を開ける。
辺りは暗く、見えるものはない。耳を澄ませても、風の音一つしなかった。
ここはどこだろうか。何故、こんな暗い静かな場所にいるのだろう。
随分と意識がはっきりしない。朧気に霞んだ記憶を手繰り寄せる。
いとこの家からの帰り道。手には可愛らしくラッピングされた、お菓子の袋。中身は確か、マフィンだったはず。
いつものように駅のホームで電車を待つ。爪が赤い。いとこに塗ってもらった初めてのマニキュア。目の覚めるような赤に目を奪われて。
それから――。
「日真理《ひまり》」
「るぅ、ちゃん?」
聞こえた声に視線を向ける。姿は見えなかったけれど、いとこの声を間違えるはずはない。
一つ遅れて明かりが点く。急な眩しさに目が眩んだ。
「おはよう。ねぼすけさんだね」
「わたし、寝てたの?」
「寝てたよ。ずっと、何日も」
こちらに歩み寄るいとこの言葉に混乱する。
それなら、この記憶はなんだというのだろう。
駅のアナウンス。電車の音。
浮遊感。振り返って見えたのは、広げた手のひら。
まるで誰かの背を押した後のような。
明るさに慣れてきた目でいとこを見る。普段とはかけ離れた、表情のない冷たい目に見下ろされ、ひゅっと喉が鳴った。
「――わたし、死んだんじゃ、ないの」
問いかけた言葉は、笑えるほどに掠れていた。
けれどいとこには伝わったのだろう。そうだね、と呟いて、ふわり、と笑った。
「死んだよ。とっくの昔に葬式も終わった」
「じゃあ、なんで」
「おまじないをしたから」
そう言って、いとこは爪を見せる。剥げてぼろぼろになった赤は、あの日わたしがお返しに塗ったマニキュアだ。
「日真理が俺の所に戻って来ますように。だからここにいる」
「……なんで」
込み上げる疑問に、いとこは笑みを浮かべたまま、目には正反対の感情を乗せて、答えた。
「日真理にずっと言いたい事があったんだ」
膝をついて、手を取られる。綺麗に整えられた小さな爪の赤が、いとこの剥げた赤に囚われるようにして、指を絡ませ繋がれる。
「今まで黙ってたけど、俺。本当は日真理の事が嫌いだった。憎んでたって言った方が近いかな」
穏やかな口調で、優しい笑みを浮かべて。目だけは言葉通りに鋭くわたしを睨み付けて、いとこは呪いにも似た言葉を囁き続ける。
「周りからずっと馬鹿にされてた。お菓子を作ったり、可愛い小物を作るのが、女みたいだって。父さんも母さんも、何度も止めさせようとした。男のくせにって、殴られたりもした。それでも止めなかったら、最後には家から追い出すみたいに一人暮らしをさせられて…誰も俺を認めてくれなかった」
淡々とした声が、恨み言を呟く。今まで溜め込んできたいとこの想いが繋いだ手から伝わる感覚がして、漏れ出そうとする悲鳴を必死で押し殺す。
「日真理はいいよな。料理一つまともに出来ないし、まったく女らしくないのに、誰にもそれを言われないんだから。女の子ってだけで皆に優しくされて、そのままを受け入れてもらえて…誰からも愛されてさ。本当にいいよな」
「る、ちゃん」
「俺が日真理だったら良かったのにって、何度も思ってた。反対だったら全部正しい気がして、日真理の側にいるだけでずっと苦しかった」
いとこの表情は変わらない。口元は笑みを浮かべて、目は睨み付ける。
何を言えばいいだろう。いとこの目を見ながら考える。
ごめんなさい、は絶対に違う。共感の言葉も、況してや否定する言葉も、すべてが違う気がした。
流れ込む感情に、上手く息が出来ない。ぼんやりとする意識で、ふとあの手を思い出す。
「――だから、背中を、押したの?」
言葉にしてから、失敗したと思った。これは一番言ってはいけない事だ。
いとこの表情が変わる。目を見開いて、何かを耐えるように唇を噛む。
「うん。きっと、俺の手だ。信じてなかったけど、おまじないをした帰りに、日真理は死んだ。だから、俺が殺したんだ」
繋いだ手を額に押し当て、いとこは目を閉じる。その姿は、まるで懺悔をしているみたいだった。
「日真理が死んだって、叔母さんから連絡が来た。おまじないが成功したんだって思ったよ。これで俺は日真理になれる。あの優しい叔父さんと叔母さんの子供になれるんだって…でも日真理を見て、そんな馬鹿げた考え、すぐに消えてった」
声が震える。いとこの目から零れ落ちた滴が、ベッドに染みを作っていくのを、ただ眺める事しか出来なかった。
「見ない方がいい、って言われた。それでもって無理を言って、ぼろぼろの日真理を見て…後悔、してるんだ。今になって、全部終わってしまった後になって、気づいた」
目を開けて、いとこは微笑う。傷ついた、今にも消えてしまいそうな苦しい色をした目をして、馬鹿だよね、と小さく呟いた。
「日真理だけだったのに。俺を認めて、褒めて…凄いって、魔法みたいだって、笑ってくれたのは日真理だけなのに」
「るぅちゃん」
「ごめんな。痛かったよな。俺、自分の事ばっかりで、ちゃんと日真理を見てなかった。魔法使いみたいだって言われて、本当は嬉しかったんだ。それなのに、全部奪って、壊して」
「留叶《るか》!」
今出せる精一杯の声で、名前を呼ぶ。びくり、と肩を震わせて、いとこは涙で濡れた目でわたしを見た。
「もういいよ。もういい。わたし、ここにいるよ。るぅちゃんの側に、ちゃんといるから」
「日真理」
「ごめんね。ここに、いるからね」
繋がれていない方の手を伸ばす。涙を拭って、ここにいる、と何度も伝える。
それしか出来ない事が歯痒い。何も気づかない馬鹿なわたしのせいでずっと傷ついていた、優しいいとこに何も出来ない事がただ苦しい。
「大丈夫だよ。きっとね、るぅちゃんのおまじないは、悪い魔法使いさんにのろいに変えられちゃったんだよ。だから、良い魔法使いさんのるぅちゃんは、何も悪くないんだよ」
「日真理」
きっとそうだ。人を傷つけるものがおまじないであるはずがない。それはのろいなのだと伝えれば、いとこは馬鹿だね、と小さく呟く。
「俺が良い魔法使いな訳あるか。俺が悪い魔法使いなんだよ」
「そんな事ない。るぅちゃんはわたしにとって、良い魔法使いさんなんだから。いつもわたしを幸せにする魔法をかけてくれる、優しい最高の魔法使いさんだよ」
「馬鹿。日真理は本当に馬鹿だ」
泣きながら、いとこは馬鹿だ、馬鹿だと繰り返す。涙を拭う手も取られ、強い力で引き寄せられた。
「ごめん…ありがとう」
帰ってきてくれて、と続く言葉を聞こえない振りをして、目を閉じる。
どうしてわたしはここにいるのだろう。
どうして人形の体で動いて話しているのだろう。
これからもこのままなのだろうか。それともこれは一時的な夢のようなものなのだろうか。
何も分からない。いとこがしたおまじないすら、それが何であるのかわたしは知らない。
ただ、いとこの涙を拭える腕と、ここにいると伝えられる声があるから。
今は先を考えず。暖かくて大きな腕の中で、大丈夫だよ、と泣き止まないいとこに、声をかけ続けていた。
20250224 『魔法』
2/24/2025, 1:44:45 PM