その家は、良くない家だと密かに噂されていた。
木造二階の一軒家。周囲の家と然程変わりのないそこは、借家として売りに出されて数年。もう何人もの人が入れ替わり、住んでは出て行く事を繰り返している。
過去にその家で不幸があったという訳ではない。それこそ幽霊が出るとか、呪われてしまうだとかの噂も一切出てきた事はなかった。ただそこに住んだ人は数ヶ月、もっと一年ほどで家を出る。
――この家は、良くない家だ。
家を出る際に、そこの住人決まって言う言葉だ。何がどう良くないのか何一つ語る事もなく、それに対して怯えている訳でもない。普段と変わらぬ表情で、別れの挨拶代わりにそれだけを告げて家を出て行く。
それが十年以上続き。最後の住人が家を出て、一度全体的な改修工事が行われてから今まで、その家に住む者は誰もいなかった。
玄関の鍵を開けて、中へと入る。
がらんとした無人の室内に、扉が閉まる音が響く。見える範囲には埃つなく、数年人が住んでいないとは思えぬほど痛みは見られなかった。
靴を脱いで室内に入る。狭い廊下を進み、突き当たりの居間の戸を開けた。
おや、と眉を潜める。数年前にリフォームを行っているという話であったが、居間の床は畳敷きの和室のままであった。リフォームとは言っても、改修が必要だった部分に手を入れたのみだったようだ。
室内を一瞥して、足を踏み入れる。い草の匂いが鼻腔を掠め、思わず深く息をした。十畳ほどの室内には戸が三つと戸のない開口部が一つ。入って正面奥の一面は障子が張られ、障子を通して淡い光が入り込んでいる。おそらくは縁側かサンルームのような部屋があるのだろう。向かって右には襖で区切られた部屋があり、美しい桜の襖絵が何もなく寒々しい居間に唯一彩りを与えている。入ってきた戸の隣の開口部を除けば、そこはどうやら台所のようであった。
室内を今一度見渡して、障子戸へ歩み寄る。破れた所のない、真白い障子を見つつ戸に手をかけ、開く。抵抗なく開いたその先は一面が硝子窓の、サンルームのような部屋だった。
横に長い部屋に入り、だが視界に入るものに足が止まる。
明るい日差しが降り注ぐその部屋の隅。白く煙のように不定型なナニかが、時折揺らめきながら佇んでいた。
見つめる視線に気づいたのか、ナニかは一度大きく揺らめいて静止する。
此方を見た。そんな気配がした。
「珍しい事もあったものだ。ワタシが見えるようだね」
低い声がした。淡々とした抑揚の薄い声音は、祖父のものとよく似ている。無言で立ち尽くす自分の前で、ナニかは人の形を形取っていく。
足と手と。そして首、頭。色彩が白のみである事を除けば、それは以前写真で見た事のある祖父、そのものであった。
「ワタシはあの男ではないが、男以外をワタシはよく知らない故に、この姿で失礼させてもらおうか」
笑みを湛え、男の形を取ったナニかが近づく。
表情も所作も人と変わらぬ事に、半ば感心しつつ。傍に来た男を見据え問いかけた。
「あんたは、何だ?」
「難しい質問だな。近い表現としては、あの男の実験結果といったところか。或いは、噂が形になったモノ」
眉を下げ、それでも笑みは浮かべたまま男は語る。
「抽象的な言葉一つで、成るモノはあるのか…その結果がワタシだ」
「実験結果…この家の噂は嘘で作られた偽物という訳か」
「正確には違う。ここを訪れる者は誰も嘘を言ってはいないよ。実際に彼らに取ってここは『良くない家』なのだろう。畳の上での生活は、今を生きる人間には不便な事も多いだろう。ここを訪れる者の大半は、費用の安さを理由に不便を受け入れていた。だがそれも半年だけだ。半年過ぎれば賃料は周囲と変わらない契約で、男は家を貸していた。そうなれば不便を受け入れる理由がない」
だからこの家に人は居着かず、良くない家と言われるのか。
納得し、新たな疑問が湧き起こる。それを言葉にするよりも早く、男はさらに語り続ける。
「男が行った実験は簡単なものだ。家を貸す際に『良くない家』だと相手に伝えるだけ」
――ここはあまり良くない家ですから。設備も古いし、建物も特に頑丈だと言う訳でもない。半年は半値でお貸ししますが、それ以上はどうしても…。
男は祖父の実験の始まりから、終わりまでを朗々と語る。詳細な過去の記録に祖父の執念をみて、薄ら寒いものを感じふるり、と肩を震わせた。
最初は当然の事ではあるが、定着はしなかったようだ。
住人達は皆『不便な家』と周囲に話した。それが数年経つ頃から祖父の思惑通りに『良くない家』と話す住人が、ぽつりぽつりと現れ出す。退居理由を賃料が上がるため、と説明する事を恥じて、咄嗟に契約を交わした時に男が言っていた『良くない家』という言葉を口にする。
それが年月と共に家の周りに浸透し。そして噂は語られ出す。
この家は良くない家だ、と。何がどう良くないのか、その理由を人は知らぬまま、噂だけが広がって形を成していく。
長い実験の語り終わりに、ほぅと息が漏れた。
「この実験の結果がワタシという訳だ。抽象的な人間の認識故に上手く形をもてないのが残念ではあるがね」
そう締め括り、そこで男は何かに気づいて、すまない、と謝罪する。
「長々と立ち話に付き合わせてしまった。少し座ろうか」
手を取られ、促されるまま部屋の奥へと歩く。さっきまで何もなかった空間に置かれた藤椅子に座らされ、男もまたその向かいの椅子に腰をかけた。
「さて。ワタシの記録が確かならば、ここでの実験は終わったと男が言っていたのだが。キミは何用でここを訪れたのかな」
「――じいさんに言われて。ここに俺の望むものがあるって、それで」
言葉尻にかぶせるように、くぅ、と腹が鳴る。眉を寄せ腹をさすれば、余計に腹が鳴り出した。
はぁ、と溜息を吐けば、男はあぁ、と何かに気づいたかのように声を上げた。
「妖…否、化生喰いか。これまた随分とやっかいな呪に侵されているな」
「っ!分かるのか」
身を乗り出して、男に問う。
祖父の研究に巻き込まれる形で刻まれたこの呪は、原因となった祖父ですら分からないものであったはずだというのに。
必死になる自分を宥めながら、男は頷き肯定する。その答えに力なく体を戻し、分かるのか、と小さく繰り返した。
「分かる。川から流れて来た記憶を留めているからな。大概の事は知っている」
退屈だったものでな、と言いながら、男は窓の外を指差した。
眼下に流れる川が、光を反射し煌めいている。いくつもの煌めきを、腹の音から意識を逸らすために眺めていれば、良かったな、と静かな声が告げた。
「ここに来るのが正解だ。さすがに呪の解き方までは知らないが、解ける者がいる事と、見つけるまでの間食に丁度いい化生の場所は教える事が出来る」
「解ける者がいるのか?」
「いる。場所は定かではないが、いずれ川から記憶が流れてくるだろう。あとは、その餓えをどうするかだが」
笑って男は上を見る。同じように視線を向ければ、天井から一枚の紙が降ってきた。
思わず紙を手に取る。見ればそれは、この付近の地図であるらしかった。いくつか赤く丸で囲まれており、ご丁寧に番号まで振っている。
「その順番で化生を狩り、喰えばいい。そうすれば餓えは満たされる。ワタシも付き合おう」
「なんで」
地図から顔を上げ、男を見る。訝しげな視線に、だが男は自分のよく知る祖父がするような、にやり、とした笑みを浮かべた。
「退屈だからな。月に一度手入れはされるものの、ここに訪れる者などなかったんだ。長い付き合いになるだろうし、仲良くやろうじゃないか」
「長い付き合いって」
「キミは家《ワタシ》をあの男から受け継いだのだろう。実験も終わった事だ。長く住んでくれ」
手を差し伸べられる。
その白い手を、そして男の白い顔を見比べる。迷う心を急かすように腹が鳴り。
戸惑いながらも、その手を取った。
20250227 『記録』
2/27/2025, 12:30:12 PM