冒険に必要なのはなんだろう。
地図とコンパス。あと、お弁当も。
丈夫な靴を履いて。寒くないように、しっかりと厚手の上着を着て。
でも、それより何より大切なのは――。
裏門に手をかけて、周囲を覗う。
辺りに動く姿はない。耳を澄ませても、遠く微かに鳥の声が聞こえるくらいだ。
そっと、音を立てないようにしながら、通り抜けられるくらいに戸を押し開く。きぃ、と軋む蝶番の音に思わず手を止め辺りを見回す。
誰もいない。なんの音も聞こえない。ふぅ、と短く息を吐いて、もう一度戸に手をかけた。。
「どこに行くの?」
不意にかけられた静かな言葉に、飛び上がる。慌てて口を押さえて悲鳴を殺し、恐る恐る振り返った。
「夜も遅いのに、どこに行くの?」
月明かりの中でも鮮やかに映える、赤の振り袖を着た少女が小首を傾げて立っていた。抱えたままの本を認めると、困ったように眉を寄せて微笑んだ。
「星が見たいのなら、庭でもいいと思うけれど」
「そうだけど。でも」
「夜の森は危ないわ。どうしてもというのなら、誰かと一緒に行った方がいい」
誰か、と言いながら、少女の中では私のお守り役は決まっているのだろう。少し待ってて、と屋敷に戻ろうとする少女に慌てて掛け寄り、その手を掴んだ。
「待って!あのね、一人で行きたいの」
「それは、どうして?」
問いかけられて、何と返せば良いのか分からず俯いた。
「お屋敷が嫌になった?」
「嫌じゃない」
「わたしたちが嫌いになった?」
「嫌いになんかならないっ!」
叫ぶように声を上げる。首を振って、必死に違うのだと訴えた。
「違う。違うの。でも、分かんないけど、一人で行きたいの。行きたくて仕方ない」
ただ夜の外に行きたかった。
屋敷を抜け出して。それこそ夜の冒険に憧れるように。
理由は分からない。分からないからこそ、言葉に出来なくて。でもそれで少女を悲しませるのが嫌で、形の整わないその場の思いつきのような言葉が溢れていく。
「――何か、思い出した?」
静かな声に、口を噤み少女を見る。怒っている訳でも、悲しんでいる訳でもなく。あくまで穏やかに、言葉が目が問いかけてくる。
空っぽの私の中を満たす記憶は戻ったのか、と。
「何も。誰の事も思い出してない、よ」
ごめん、と呟けば、優しい手が頭を撫でる。
その温もりを、少女を何一つ覚えていない事が苦しい。
少女だけではない。この屋敷にいる皆の事を誰一人、私は覚えていなかった。
屋敷で目覚めてから大分経つのに、まだ何も思い出せてはいない。空っぽな私を満たすように降り注ぐ皆の優しさを本当に受け取っていいのか、時々不安になる。
だからだろうか。
屋敷も皆の事も大好きだ。それでもこうして外に行きたくなるのは、不安から逃げ出したいのだろうか。
「記憶を辿ろうとしているのか」
すぐ後ろから声がした。
「記憶はないのに?」
「残るものがあるのだろう。その欠片を寄せ集め形にしようと踠くのは、記憶がない故に当然だ」
ゆっくりと顔を上げる。見下ろす彼の顔は影になって見えない。それでもその鮮やかな緑色とはっきりと目が合い、その瞬間に動けなくなってしまう。
「琥珀《こはく》」
静かな声が、私の名前を呼ぶ。
皆が考えて与えてくれた、私の新しい名前。まだ慣れないのか、呼ばれる度に何故だか落ち着かなくなる。
「そのまま受け入れていればいいものを。人間として生きた頃の記憶など、妖に成った今は何の価値もない」
「でも。皆が」
「すぐ不安になるのは、変わらないな…仕方がない。記憶の再現に付き合ってやろう。千代《ちよ》も皆につたえておいてくれ」
「分かったわ」
そう言って、少女は掴んだままだった私の手を解く。それが寂しくて追いかけようとする手を両手で包み込んで、少女は微笑む。
どこか悲しげな笑みだった。
「可哀想に。あの記憶を再現しようなんて。また泣かせてしまうのね」
「……え?」
「また後で。ごめんなさいね」
不穏な言葉に固まる私の手を離し、少女は屋敷へと戻っていく。いつの間にか誰もいなくなり、嫌な予感にどうしようと屋敷と裏門を見比べた。
「――行くか。冒険に必要なのは、覚悟と度胸だって。何だかそんな気がする」
呟いて、一つ深呼吸をする。目を閉じ、開いて。裏門へと歩き出す。
手にした、地図代わりの本を強く胸に抱いて。
いつかの冒険を、また始めるために戸を開いた。
昔。まだ屋敷が現世にあった頃の話。
本で読んだ冒険譚に憧れて、幼い少女が一人屋敷を抜け出した。
手には古ぼけた地図を抱いて。肩にかけた鞄の中にはコンパスと、こっそり釜から拝借したご飯を握った、不格好なおにぎりが二つ。
裏門を抜け、辺りを見渡し気になる方へと進む。月明かりだけでは地図が見えず、それに気づいて鞄の中に早々にしまった。
「何処へ行くんだ。良い子はもう寝る時間だぞ」
呆れた声と共に感じた浮遊感に、少女は驚いて暴れ出す。しかし、幼い子供のか弱い抵抗など気にも留めず、少女を抱えた男は屋敷へと戻って行く。。
「やだっ。離してよ。冒険に行くんだから!」
「明日にしろ。夜の森は危険だ」
「やだやだ。今行くの!悪いおばけを倒して、パパとママを助けるんだから」
少女の言葉に男は立ち止まる。少女を下ろし目線を合わせると、静かな声で問いかけた。
「両親に会いたいのか」
「会うんじゃなくて、助けに行くの!きっとおばけに捕まってるから、パパもママも私に会いに来てくれないんだよ。だから私ががんばらなきゃ」
真剣な、ともすれば泣いてしまいそうな少女に視線を合わせたまま、男は暫し考える。そして一つ息を吐くと、軽々と少女を抱き上げ、屋敷とは正反対の方へと歩き出した。
「仕方がない。付き合おう。どこへ向かうんだ」
「うんとね。たぶんあっち!」
無邪気に指を差す少女が望む方へ、男は駆け出す。森を抜け、川を飛び越え。途中、少女のおにぎりを一緒に食べ、取り留めのない話をしながら、男と少女は夜を駆け抜けていく。
そして、夜も大分更け。
少女が眠そうに目を擦り出す頃合いを見計らって、屋敷へと戻っていく。
「帰っちゃうの?」
「そうだな。もう寝る時間は疾うに過ぎている」
「――楽しかった。おばけは見つからなかったけど、でも楽しかったの。ありがとう」
「楽しめたのなら何よりだ。俺も心置きなく説教が出来る」
こてり。首を傾げ、少女は夢うつつに男の言葉の意味を考える。
男は説教をすると言った。それは、つまり――。
「なんで!?私、お説教やだよっ!」
「悪い子には説教をしなければ駄目だろう。お前は今日、夜に屋敷を抜け出した。そして楽しく遊び歩いた…ほら、立派な悪い子だ」
「お説教されるなら、おとなしく戻ったもん!槐《えんじゅ》のいじわる!」
説教をされると聞いて少女の眠気は一瞬で消え去り、逃げようと暴れ出す。しかし、悲しいかな。やはり幼い子供の力では、男の腕から逃れる事は不可能だった。
「心配するな。寝て起きて、朝食が済んだらにしてやるから。睡眠も食事も休憩も与えてやる。お前が夜遊びをした事を叱りたいモノらで順に説教するつもりであるから、何日掛かるか分からんが」
「やだぁあぁぁ!」
少女の悲痛な叫びが夜の森に響く。
その叫びは、日を追うごとに弱くなり。最後には泣き声に事を。男ら妖の前で、泣きながらもうしませんと誓わされる事を。
そして遠い未来で、記憶の再現として繰り返されてしまう事を。
暴れ疲れて眠ってしまった少女は、まだ知らない。
20250226 『さぁ冒険だ』
2/26/2025, 1:39:43 PM