sairo

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2/28/2025, 10:52:12 AM

「やあ、可愛らしいお嬢さん。綺麗な星の降る夜だというのに、俯いてばかりでは実にもったいないものだよ」

不思議な抑揚の声が聞こえ、俯く顔を上げる。
膝を抱えた自分と同じ目線。夜の色をした美しい毛並みの猫は、目が合うと恭しくお辞儀をした。

「Good evening《こんばんは》、お嬢さん。今宵はまた一段と星が美しい。ワタクシと共に夜の散歩に行かないかい?」
「でも。わたし」

差し出される手を、首を振って拒絶する。涙の滲む視界で。猫の月のような眼がきらり、と煌めき、瞬いた。

「ごめんなさい。でも、壊してしまうから。わたしが触れるもの全部、壊してしまったの」

煌めく眼から逃げ出すように俯く。手首に絡みついた友人の優しさの残骸が、視界の隅で責めるように小さく音を立てた。


「お嬢さん」

静かな声に呼ばれて、肩が跳ねる。膝を抱える手に温かな肉球が触れて、その温かさに少しだけ顔を上げてそのしなやかな前足を見た。

「あれだね。これは友達からのPresent《贈り物》というやつだね。しかも手作りときた。壊してしまったのかい?」
「ごめん、なさい」
「責めている訳ではないよ、可愛いお嬢さん。ただ一つだけQuestion《質問》に答えてくれるかな」

顔を上げて、猫を見る。そっと体を寄せる猫から、花のような甘い香りがして、無意識に深く呼吸をする。
しばらく悩み、頷きを一つ。小さくいいよ、と呟いた。

「Thank《ありがとう》.お嬢さんは昔から、こうして物を壊すのかい?」

首を振る。物を壊し始めたのは、一週間前の事だ。
切っ掛けは分からない。悪夢を見てから触れるもの全てを壊し始めた気もするが、それがどんな内容だったのか思い出せもしない。
そうかそうか、と猫は呟いて。器用に前足でブレスレットの残骸を取り外し、目の前にかざしてみせる。

「可愛いお嬢さん。Suggestion《提案》があるのだがどうだろうか。お嬢さんのその余分な力を、ワタクシに頂けないかい?」
「余分な、力?」
「もちろんそのReward《報酬》は支払うよ。このBraceletを元の通りに直してあげよう。それでどうかな?」

小首を傾げて、猫は問う。
文字通り余分なものを対価に、大切なブレスレットが元に戻るなら。それはとても素晴らしい事のように思えた。

「――直せるの?」

猫の眼を見つめ、確認する。

「もちろんだとも!ワタクシに出来ない事などないのだよ。任せてくれたまえ…それでは、返答はYesでいいのかな?」
「うん。こんな壊す力はいらない。だからブレスレットを元に戻して」

月のような眼が歪む。
にんまりと、妖しく煌めいて。その輝きに、意識が揺れた。

「では頂くとしよう」

人のような赤い舌が口の周りを舐める。
大きく開いた口から、鋭い牙が覗いているのが見えたのを最後に。
ぶつり、と。意識が途絶えた。





満ち足りた顔をして毛繕いをしながら、二足歩行の猫は傍らで眠る少女に視線を向ける。
今時珍しい、純粋な少女だ。無知故ではなく、全てを知ってそれでも尚、相手に手を差し出せる。それは聖女の在り方によく似ていた。
妬まれるのも仕方がない。とはいえ、不幸を願い呪いをかける行為は、さすがに度を超しているが。
前足で顔を、特に口周りを猫は丁寧に拭う。先ほど喰らった呪いの残り滓を舐め取り、痺れるような舌先の刺激に喉を鳴らす。
悪食。仲間から眉を潜められるほど、猫の食の好みは偏っていた。
妬み嫉み、怒り憎しみなど、人間の負の感情は猫に取って最高の馳走だった。泥のような粘り気の強い舌触りと、舌を刺す痺れる感覚が堪らない。特に呪詛の類いは怨嗟の念が凝縮され、嗅覚や聴覚でも猫を満たす。刺激的でどこか甘ったるい腐敗臭に似た香りと、耳につく恨みの声。それが良いスパイスになるのだと、恍惚とした表情で語る猫の扱いに仲間は困り、故郷から遠く離れたこの地へ猫を追い出した。故郷から離れた場所で、さすがの猫の悪食も収まるだろうとの思惑があったが、数十の年月を過ぎて猫は変わらなかった。
毛繕いを終えて、少女の側に擦り寄る。仲間にすら忌避されるほどの悪食でありながら、猫は可愛らしいものを好んだ。
無垢な少女はこの先も、周囲に愛され、妬まれるのだろう。少女の側にいれば存分に腹は満たされ、可愛らしい少女を愛でる事が存分に出来る。
今更、猫は故郷に戻るつもりなどはなかった。
体を丸め規則正しい寝息を立てる少女のその頬に涙の跡を認め、体を寄せて頬を舐めた。
ざらり、とした猫の舌の感覚に、少女の眉が寄る。徐に瞼が開き、焦点の合わぬ黒い瞳が猫を見て瞬いた。

「Good Morning《おはよう》!可愛いお嬢さん。ご機嫌は如何かな?」

少女の瞳を覗き込むようにして、猫は囁く。

「少し、変な感じ。力が抜けた、みたいな」
「それは良かった。本当に余分な力がなくなったのか確かめるためにも、ワタクシと夜の散歩に行かないかい?」

戸惑う少女に、猫は大仰な仕草で前足を差し出す。片膝をつき、ゆるりと尾を揺らして少女を誘う。
ウインクをすれば、少女は堪らずに小さく笑い声を上げた。
前足に手を重ね、ゆっくりと立ち上がる。少女に合わせて猫も静かに立ち上がった。

「それでは行こうか。可愛いお嬢さん。Escortは任せてくれたまえ」
「あの…私、そんなに可愛くなんてない、から。その」

何度も言わないで、と言外に頼まれ、猫は小首を傾げて少女を見つめる。幼さの抜けきらない白い頬や小さな耳までもがほんのりと赤く色づいている事に気づき、猫は喉を鳴らして笑った。

「可愛いさ。お嬢さんは今まで出会ったどの人間よりも可愛らしい。このまま浚っていってしまいたいくらいだよ」
「そんな、こと。ないから…猫さんの方が、かわいいと思う」
「おや、それは嬉しいな。可愛いお嬢さんと、可愛いワタクシで、so cute《とても可愛い》というわけか…うん。実に良い」

少女の言葉に気を良くして、猫は少女の手に擦り寄った。
擽ったいよ、と笑う少女に月のような眼を歪ませて笑い、手を引いて歩き出す。

「行こうか、可愛いお嬢さん。夜が明けてはもったいない。夜の終わりには家に帰らなければならないからね」

軽く手を揺らしながら誘う猫の言葉に、少女は今度は何も言わず猫と共に歩き出す。

歩く度に少女の手首から、しゃらと微かな音が鳴る。二つのブレスレットが、月明かりを反射して煌めいた。



20250228 『cute!』

2/27/2025, 12:30:12 PM

その家は、良くない家だと密かに噂されていた。
木造二階の一軒家。周囲の家と然程変わりのないそこは、借家として売りに出されて数年。もう何人もの人が入れ替わり、住んでは出て行く事を繰り返している。
過去にその家で不幸があったという訳ではない。それこそ幽霊が出るとか、呪われてしまうだとかの噂も一切出てきた事はなかった。ただそこに住んだ人は数ヶ月、もっと一年ほどで家を出る。

――この家は、良くない家だ。

家を出る際に、そこの住人決まって言う言葉だ。何がどう良くないのか何一つ語る事もなく、それに対して怯えている訳でもない。普段と変わらぬ表情で、別れの挨拶代わりにそれだけを告げて家を出て行く。
それが十年以上続き。最後の住人が家を出て、一度全体的な改修工事が行われてから今まで、その家に住む者は誰もいなかった。





玄関の鍵を開けて、中へと入る。
がらんとした無人の室内に、扉が閉まる音が響く。見える範囲には埃つなく、数年人が住んでいないとは思えぬほど痛みは見られなかった。
靴を脱いで室内に入る。狭い廊下を進み、突き当たりの居間の戸を開けた。
おや、と眉を潜める。数年前にリフォームを行っているという話であったが、居間の床は畳敷きの和室のままであった。リフォームとは言っても、改修が必要だった部分に手を入れたのみだったようだ。
室内を一瞥して、足を踏み入れる。い草の匂いが鼻腔を掠め、思わず深く息をした。十畳ほどの室内には戸が三つと戸のない開口部が一つ。入って正面奥の一面は障子が張られ、障子を通して淡い光が入り込んでいる。おそらくは縁側かサンルームのような部屋があるのだろう。向かって右には襖で区切られた部屋があり、美しい桜の襖絵が何もなく寒々しい居間に唯一彩りを与えている。入ってきた戸の隣の開口部を除けば、そこはどうやら台所のようであった。
室内を今一度見渡して、障子戸へ歩み寄る。破れた所のない、真白い障子を見つつ戸に手をかけ、開く。抵抗なく開いたその先は一面が硝子窓の、サンルームのような部屋だった。
横に長い部屋に入り、だが視界に入るものに足が止まる。
明るい日差しが降り注ぐその部屋の隅。白く煙のように不定型なナニかが、時折揺らめきながら佇んでいた。
見つめる視線に気づいたのか、ナニかは一度大きく揺らめいて静止する。
此方を見た。そんな気配がした。

「珍しい事もあったものだ。ワタシが見えるようだね」

低い声がした。淡々とした抑揚の薄い声音は、祖父のものとよく似ている。無言で立ち尽くす自分の前で、ナニかは人の形を形取っていく。
足と手と。そして首、頭。色彩が白のみである事を除けば、それは以前写真で見た事のある祖父、そのものであった。

「ワタシはあの男ではないが、男以外をワタシはよく知らない故に、この姿で失礼させてもらおうか」

笑みを湛え、男の形を取ったナニかが近づく。
表情も所作も人と変わらぬ事に、半ば感心しつつ。傍に来た男を見据え問いかけた。

「あんたは、何だ?」
「難しい質問だな。近い表現としては、あの男の実験結果といったところか。或いは、噂が形になったモノ」

眉を下げ、それでも笑みは浮かべたまま男は語る。

「抽象的な言葉一つで、成るモノはあるのか…その結果がワタシだ」
「実験結果…この家の噂は嘘で作られた偽物という訳か」
「正確には違う。ここを訪れる者は誰も嘘を言ってはいないよ。実際に彼らに取ってここは『良くない家』なのだろう。畳の上での生活は、今を生きる人間には不便な事も多いだろう。ここを訪れる者の大半は、費用の安さを理由に不便を受け入れていた。だがそれも半年だけだ。半年過ぎれば賃料は周囲と変わらない契約で、男は家を貸していた。そうなれば不便を受け入れる理由がない」

だからこの家に人は居着かず、良くない家と言われるのか。
納得し、新たな疑問が湧き起こる。それを言葉にするよりも早く、男はさらに語り続ける。

「男が行った実験は簡単なものだ。家を貸す際に『良くない家』だと相手に伝えるだけ」

――ここはあまり良くない家ですから。設備も古いし、建物も特に頑丈だと言う訳でもない。半年は半値でお貸ししますが、それ以上はどうしても…。

男は祖父の実験の始まりから、終わりまでを朗々と語る。詳細な過去の記録に祖父の執念をみて、薄ら寒いものを感じふるり、と肩を震わせた。
最初は当然の事ではあるが、定着はしなかったようだ。
住人達は皆『不便な家』と周囲に話した。それが数年経つ頃から祖父の思惑通りに『良くない家』と話す住人が、ぽつりぽつりと現れ出す。退居理由を賃料が上がるため、と説明する事を恥じて、咄嗟に契約を交わした時に男が言っていた『良くない家』という言葉を口にする。
それが年月と共に家の周りに浸透し。そして噂は語られ出す。
この家は良くない家だ、と。何がどう良くないのか、その理由を人は知らぬまま、噂だけが広がって形を成していく。
長い実験の語り終わりに、ほぅと息が漏れた。


「この実験の結果がワタシという訳だ。抽象的な人間の認識故に上手く形をもてないのが残念ではあるがね」

そう締め括り、そこで男は何かに気づいて、すまない、と謝罪する。

「長々と立ち話に付き合わせてしまった。少し座ろうか」

手を取られ、促されるまま部屋の奥へと歩く。さっきまで何もなかった空間に置かれた藤椅子に座らされ、男もまたその向かいの椅子に腰をかけた。

「さて。ワタシの記録が確かならば、ここでの実験は終わったと男が言っていたのだが。キミは何用でここを訪れたのかな」
「――じいさんに言われて。ここに俺の望むものがあるって、それで」

言葉尻にかぶせるように、くぅ、と腹が鳴る。眉を寄せ腹をさすれば、余計に腹が鳴り出した。
はぁ、と溜息を吐けば、男はあぁ、と何かに気づいたかのように声を上げた。

「妖…否、化生喰いか。これまた随分とやっかいな呪に侵されているな」
「っ!分かるのか」

身を乗り出して、男に問う。
祖父の研究に巻き込まれる形で刻まれたこの呪は、原因となった祖父ですら分からないものであったはずだというのに。
必死になる自分を宥めながら、男は頷き肯定する。その答えに力なく体を戻し、分かるのか、と小さく繰り返した。

「分かる。川から流れて来た記憶を留めているからな。大概の事は知っている」

退屈だったものでな、と言いながら、男は窓の外を指差した。
眼下に流れる川が、光を反射し煌めいている。いくつもの煌めきを、腹の音から意識を逸らすために眺めていれば、良かったな、と静かな声が告げた。

「ここに来るのが正解だ。さすがに呪の解き方までは知らないが、解ける者がいる事と、見つけるまでの間食に丁度いい化生の場所は教える事が出来る」
「解ける者がいるのか?」
「いる。場所は定かではないが、いずれ川から記憶が流れてくるだろう。あとは、その餓えをどうするかだが」

笑って男は上を見る。同じように視線を向ければ、天井から一枚の紙が降ってきた。
思わず紙を手に取る。見ればそれは、この付近の地図であるらしかった。いくつか赤く丸で囲まれており、ご丁寧に番号まで振っている。

「その順番で化生を狩り、喰えばいい。そうすれば餓えは満たされる。ワタシも付き合おう」
「なんで」

地図から顔を上げ、男を見る。訝しげな視線に、だが男は自分のよく知る祖父がするような、にやり、とした笑みを浮かべた。

「退屈だからな。月に一度手入れはされるものの、ここに訪れる者などなかったんだ。長い付き合いになるだろうし、仲良くやろうじゃないか」
「長い付き合いって」
「キミは家《ワタシ》をあの男から受け継いだのだろう。実験も終わった事だ。長く住んでくれ」

手を差し伸べられる。
その白い手を、そして男の白い顔を見比べる。迷う心を急かすように腹が鳴り。

戸惑いながらも、その手を取った。



20250227 『記録』

2/26/2025, 1:39:43 PM

冒険に必要なのはなんだろう。
地図とコンパス。あと、お弁当も。
丈夫な靴を履いて。寒くないように、しっかりと厚手の上着を着て。
でも、それより何より大切なのは――。



裏門に手をかけて、周囲を覗う。
辺りに動く姿はない。耳を澄ませても、遠く微かに鳥の声が聞こえるくらいだ。
そっと、音を立てないようにしながら、通り抜けられるくらいに戸を押し開く。きぃ、と軋む蝶番の音に思わず手を止め辺りを見回す。
誰もいない。なんの音も聞こえない。ふぅ、と短く息を吐いて、もう一度戸に手をかけた。。

「どこに行くの?」

不意にかけられた静かな言葉に、飛び上がる。慌てて口を押さえて悲鳴を殺し、恐る恐る振り返った。

「夜も遅いのに、どこに行くの?」

月明かりの中でも鮮やかに映える、赤の振り袖を着た少女が小首を傾げて立っていた。抱えたままの本を認めると、困ったように眉を寄せて微笑んだ。

「星が見たいのなら、庭でもいいと思うけれど」
「そうだけど。でも」
「夜の森は危ないわ。どうしてもというのなら、誰かと一緒に行った方がいい」

誰か、と言いながら、少女の中では私のお守り役は決まっているのだろう。少し待ってて、と屋敷に戻ろうとする少女に慌てて掛け寄り、その手を掴んだ。

「待って!あのね、一人で行きたいの」
「それは、どうして?」

問いかけられて、何と返せば良いのか分からず俯いた。

「お屋敷が嫌になった?」
「嫌じゃない」
「わたしたちが嫌いになった?」
「嫌いになんかならないっ!」

叫ぶように声を上げる。首を振って、必死に違うのだと訴えた。

「違う。違うの。でも、分かんないけど、一人で行きたいの。行きたくて仕方ない」

ただ夜の外に行きたかった。
屋敷を抜け出して。それこそ夜の冒険に憧れるように。
理由は分からない。分からないからこそ、言葉に出来なくて。でもそれで少女を悲しませるのが嫌で、形の整わないその場の思いつきのような言葉が溢れていく。

「――何か、思い出した?」

静かな声に、口を噤み少女を見る。怒っている訳でも、悲しんでいる訳でもなく。あくまで穏やかに、言葉が目が問いかけてくる。
空っぽの私の中を満たす記憶は戻ったのか、と。


「何も。誰の事も思い出してない、よ」

ごめん、と呟けば、優しい手が頭を撫でる。
その温もりを、少女を何一つ覚えていない事が苦しい。
少女だけではない。この屋敷にいる皆の事を誰一人、私は覚えていなかった。
屋敷で目覚めてから大分経つのに、まだ何も思い出せてはいない。空っぽな私を満たすように降り注ぐ皆の優しさを本当に受け取っていいのか、時々不安になる。
だからだろうか。
屋敷も皆の事も大好きだ。それでもこうして外に行きたくなるのは、不安から逃げ出したいのだろうか。


「記憶を辿ろうとしているのか」

すぐ後ろから声がした。

「記憶はないのに?」
「残るものがあるのだろう。その欠片を寄せ集め形にしようと踠くのは、記憶がない故に当然だ」

ゆっくりと顔を上げる。見下ろす彼の顔は影になって見えない。それでもその鮮やかな緑色とはっきりと目が合い、その瞬間に動けなくなってしまう。

「琥珀《こはく》」

静かな声が、私の名前を呼ぶ。
皆が考えて与えてくれた、私の新しい名前。まだ慣れないのか、呼ばれる度に何故だか落ち着かなくなる。

「そのまま受け入れていればいいものを。人間として生きた頃の記憶など、妖に成った今は何の価値もない」
「でも。皆が」
「すぐ不安になるのは、変わらないな…仕方がない。記憶の再現に付き合ってやろう。千代《ちよ》も皆につたえておいてくれ」
「分かったわ」

そう言って、少女は掴んだままだった私の手を解く。それが寂しくて追いかけようとする手を両手で包み込んで、少女は微笑む。
どこか悲しげな笑みだった。

「可哀想に。あの記憶を再現しようなんて。また泣かせてしまうのね」
「……え?」
「また後で。ごめんなさいね」

不穏な言葉に固まる私の手を離し、少女は屋敷へと戻っていく。いつの間にか誰もいなくなり、嫌な予感にどうしようと屋敷と裏門を見比べた。


「――行くか。冒険に必要なのは、覚悟と度胸だって。何だかそんな気がする」

呟いて、一つ深呼吸をする。目を閉じ、開いて。裏門へと歩き出す。
手にした、地図代わりの本を強く胸に抱いて。
いつかの冒険を、また始めるために戸を開いた。





昔。まだ屋敷が現世にあった頃の話。
本で読んだ冒険譚に憧れて、幼い少女が一人屋敷を抜け出した。
手には古ぼけた地図を抱いて。肩にかけた鞄の中にはコンパスと、こっそり釜から拝借したご飯を握った、不格好なおにぎりが二つ。
裏門を抜け、辺りを見渡し気になる方へと進む。月明かりだけでは地図が見えず、それに気づいて鞄の中に早々にしまった。

「何処へ行くんだ。良い子はもう寝る時間だぞ」

呆れた声と共に感じた浮遊感に、少女は驚いて暴れ出す。しかし、幼い子供のか弱い抵抗など気にも留めず、少女を抱えた男は屋敷へと戻って行く。。

「やだっ。離してよ。冒険に行くんだから!」
「明日にしろ。夜の森は危険だ」
「やだやだ。今行くの!悪いおばけを倒して、パパとママを助けるんだから」

少女の言葉に男は立ち止まる。少女を下ろし目線を合わせると、静かな声で問いかけた。

「両親に会いたいのか」
「会うんじゃなくて、助けに行くの!きっとおばけに捕まってるから、パパもママも私に会いに来てくれないんだよ。だから私ががんばらなきゃ」

真剣な、ともすれば泣いてしまいそうな少女に視線を合わせたまま、男は暫し考える。そして一つ息を吐くと、軽々と少女を抱き上げ、屋敷とは正反対の方へと歩き出した。

「仕方がない。付き合おう。どこへ向かうんだ」
「うんとね。たぶんあっち!」

無邪気に指を差す少女が望む方へ、男は駆け出す。森を抜け、川を飛び越え。途中、少女のおにぎりを一緒に食べ、取り留めのない話をしながら、男と少女は夜を駆け抜けていく。

そして、夜も大分更け。
少女が眠そうに目を擦り出す頃合いを見計らって、屋敷へと戻っていく。

「帰っちゃうの?」
「そうだな。もう寝る時間は疾うに過ぎている」
「――楽しかった。おばけは見つからなかったけど、でも楽しかったの。ありがとう」
「楽しめたのなら何よりだ。俺も心置きなく説教が出来る」

こてり。首を傾げ、少女は夢うつつに男の言葉の意味を考える。
男は説教をすると言った。それは、つまり――。

「なんで!?私、お説教やだよっ!」
「悪い子には説教をしなければ駄目だろう。お前は今日、夜に屋敷を抜け出した。そして楽しく遊び歩いた…ほら、立派な悪い子だ」
「お説教されるなら、おとなしく戻ったもん!槐《えんじゅ》のいじわる!」

説教をされると聞いて少女の眠気は一瞬で消え去り、逃げようと暴れ出す。しかし、悲しいかな。やはり幼い子供の力では、男の腕から逃れる事は不可能だった。

「心配するな。寝て起きて、朝食が済んだらにしてやるから。睡眠も食事も休憩も与えてやる。お前が夜遊びをした事を叱りたいモノらで順に説教するつもりであるから、何日掛かるか分からんが」
「やだぁあぁぁ!」

少女の悲痛な叫びが夜の森に響く。
その叫びは、日を追うごとに弱くなり。最後には泣き声に事を。男ら妖の前で、泣きながらもうしませんと誓わされる事を。
そして遠い未来で、記憶の再現として繰り返されてしまう事を。

暴れ疲れて眠ってしまった少女は、まだ知らない。



20250226 『さぁ冒険だ』

2/25/2025, 1:28:58 PM

小さく切ったちりめんを折ってボンドで固定して、いくつもの花片を作る。花弁を土台に固定して、大輪の花を形作る。
ただ一人のためだけの、一輪だけの花。出来上がった髪飾りを乾かすため、棚の上に乗せる。
新しく咲いた花を見ながら、彼女を想う。髪飾りを付けて笑う彼女を夢想し、馬鹿らしい、と軽く頭を振ってその姿を掻き消した。

――彼女がこの家を訪れる事は二度とない。

自嘲して、出来たばかりの髪飾りの隣に置かれた、別の髪飾りを手に取る。崩れがないか確認して、飾りを手にしたまま部屋を出る。

彼女はいない。心の内で繰り返す。
彼女は死んだ。
残酷なほどに甘く優しい夢だけを残して、あの日彼女は死んでしまったのだ。





「るぅちゃん」

寝室のドアを開ける音に気づいて、彼女の姿を模した人形が声をかける。

「起きてたんだ」
「今起きたとこ。るぅちゃん、また何か作ってたの?」
「新しい髪飾り。昨日作ったのが完成したから持ってきた」

笑みを浮かべ、人形の元へと歩み寄る。手にした髪飾りを見せれば、人形は髪飾りに視線を向け目を瞬かせた。

「最近よく作るね。大学生ってヒマなの?」
「日真理《ひまり》と違って、要領はいいから。日真理と違って」
「なんで二回も言うかなぁ。るぅちゃんが見てた時は、本気を出してなかっただけだもん。本気になればわたしだって何でも出来るはず」

不服だと言わんばかりの声音。だがその表情に殆ど変化はない。
気づかれないようさりげなく人形の顔から視線を逸らし、頑張って、と適当な相づちを打つ。幼い子供の背丈しかない人形を抱き上げて、鏡台の前へ座らせた。

「髪が少し乱れてるね。髪飾りを変えるついでに、整えておこう」

人形の髪に触れ、付けていた髪飾りを外す。櫛で髪を梳いていれば、人形は何かを言いたげに口を開き、しかし何も言わずに口を閉ざしてしまう。
彼女によく似た黒の瞳が、何かを迷うように揺れている。それに敢えて何も気づいていない振りをして、新しい髪飾りを付け直した。

「日真理に似合ってるよ」
「――ねぇ、るぅちゃん」
「何?気に入らない?」

違う、と首を振り、鏡越しに人形はこちらに視線を向ける。
真っ直ぐな眼だ。彼女と同じ眼だった。

「わたし、ちゃんとここにいるよ」

彼女と同じ声音で、人形は告げる。
知ってる、と答える声は酷く震えて、泣いているみたいだと、どこか他人事のように思った。

「るぅちゃん」
「分かってる。日真理はここにいるって…だって俺がそうした。叔父さん達に分骨をお願いして、その骨を人形の中に埋めたのは俺なんだから」
「留叶《るか》」
「分かってるんだ。でも怖いんだよ。何で日真理がここにいてくれるのかが分からない。分からないから、いつこの夢が覚めるのか、魔法が解けるのかって不安で仕方がない」

いっそこんな奇跡が起こらなければ。
何度も思った。そうすれば、彼女に恨まれていると思い込んだまま疾うの昔に彼女の後を追う事が出来たのに、と。

「ごめんね、るぅちゃん」

彼女の声で、人形が囁く。

「ごめんね、また明日って言ったのに約束破って。また明日って、もう言えなくて…でもその時が来るまでは、わたしはるぅちゃんの側にいるからね」

彼女の眼をして、微かに微笑みを浮かべた。


「――ごめん。少し取り乱した。頭冷やしてくる」

人形を抱き上げ、元のベッドに戻す。引き止める言葉を無視して部屋を出た。
深く息を吐く。ドアに凭れ、そのまましゃがみ込んだ。

彼女と会った最後の日を思い返す。
あの日、彼女に一つの呪いをした。

――なりたい人の指を彩ったマニキュアを、その人に塗ってもらえばその人になれる。

よくあるおまじないの一種だ。本気で信じてはいなかった。
だが彼女は死んだ。呪いをしたその帰りに、駅のホームで電車に轢かれ、亡くなった。
突き飛ばされたらしい。同級生の女子に。
前から気に入らなかったのだと、その女子は語ったのだという。殺す気はなかった、少し怖い目を見ればと思っていただけだった、とも。
その真偽は分からない。どちらにしても彼女が戻ってこない事だけは唯一変わらない真実だった。

「バカだな、俺」

手を上げて爪を見る。あの日塗られた下手くそな赤は、時と共に完全に剥げてしまっていた。
あの日、呪いをした事を後悔している。しかし今も縋るように新しい呪いを繰り返す事を止める事が出来ないでいる。
視線を爪から、手にしている髪飾りへと移す。一昨日作ったばかりの、先ほどまでは色鮮やかだったそれは、花が枯れるように色あせ朽ちてしまっていた。

「ごめんな。日真理」

くしゃり、と髪飾りだったものを握り潰し、目を閉じる。
耐えきれなかった滴が、閉じた瞼から一筋零れ落ちていった。



こん、と音がした。
目を開ける。ドアから離れ、振り向いた。
こん、こん、とドアの向こうから音がして、慌てて立ち上がりドアを開けた。

「っ、日真理!?」

目の前の光景に目を見張る。自力で歩けないはずの人形が、ドアの前で仁王立ちしているのを、信じられない面持ちで見つめた。

「やっと開いた。ちょっとるぅちゃん、閉じ込めないでよ」
「な、んで。歩けないんじゃ」
「だから本気を出してないだけなの。わたしが本気を出せばこれくらい」

にやり、とはっきり笑みを浮かべる。
言葉を失って立ち尽くしていると、てちてちと人形は――彼女はこちらに歩み寄り、足に抱きついた。

「日真理」
「るぅちゃん。留叶はわたしにどうしてほしいの?」
「何、言って」

意味が分からない。彼女を抱き上げながら今までとはまったく様子の違う彼女を見つめる。

「良い魔法使いのるぅちゃんのために、何かしてあげたいと思っただけだよ。いいから、望みをいいなさい」
「何それ…って、分かった。言うから髪を引っ張らないでよ」

焦れた彼女に髪を引かれ、半ば自棄になりながら答えると、彼女は手を離し、無言で視線を合わせられる。
真っ直ぐな視線は逸らす事を許さず、誤魔化しもききそうにはなかった。
小さく息を呑む。彼女に望む事など、最初から彼女も気づいているだろうに。

「――日真理。俺とずっと一緒にいてよ。日真理だけなんだよ、俺を認めてくれるのは。だから俺から離れていかないで」

彼女を抱きしめ、望む。くすり、と彼女が笑った声がした。

「うん。いいよ。ずっと一緒にいる。お人形さんになっちゃったけど、それでもいいならね」
「人形でもいい。日真理がいてくれるなら、もう何でもいい」
「分かった。るぅちゃんの側にいるよ」

穏やかな声に、少しだけ体を離し彼女を見る。
優しく微笑う彼女は、そっと小さな手を上げ小指を差し出した。

「約束しよう。一緒にいるっておまじない」

その小指に恐る恐る自らの小指を絡める。
彼女の歌う声を聞きながら、細い糸が小指に絡みつく幻を見て目を瞬く。

それは、最初の呪いに使ったマニキュアのような、目の覚めるような深紅の色をしていた。



20250225 『一輪の花』

2/24/2025, 1:44:45 PM

「また髪の毛乱れてる。おいで、直してあげるから」

呆れたようないとこの言葉に肩をすくめてみせる。手招かれておとなしくいとこの前に座り、可愛げの欠片もない黒の髪ゴムを解いた。

「女の子なんだから、もっと身だしなみに気をつけなよ」
「だって、頑張っても上手くいかないんだもん」
「そうやってすぐに諦めるから、上達しないんだ」

溜息を吐きながらも、いとこの手はわたしの髪に優しく触れる。櫛に梳かれる感覚に、目を細めて密かに笑った。
いとこの手で魔法をかけられている。冴えない小娘が、綺麗なお姫様になるこの瞬間が、大好きだ。
今日はシンプルに、一つに結ぶようだ。手慣れた指が髪を掬い、まとめてゴムで結ぶ。ちらりと見えた髪ゴムには、淡い桃色の花飾りがついていた。
この前来た時に、本を見ながら欲しいとぼやいたつまみ細工の花飾りを、いとこは作ってくれていたのだろう。

「はい。出来た。特別におまけもつけといたから」
「ありがと…るぅちゃんって、なんだか魔法使いさんみたいだねぇ」

片付けをするいとこを見ながら、思った事がつい口から溢れ落ちてしまった。

「何それ。がさつな女の子から出る言葉とは思えないね」

怪訝な顔をするいとこに態とらしく溜息を吐かれ、眉が寄る。分かってはいたが、こうして面と向かって呆れられるのは、とても気分が良くないものだ。

「酷い。わたしをなんだと思ってるの」
「もうすぐ高校生になるのに、一人でまともに髪も結べない、不器用でがさつな女の子」
「失礼だなっ。今は本気を出してないだけなんだもん。本気を出せば、るぅちゃんよりも凄くなれるもん…たぶん」

勢い余って言い返すも、次第に勢いはなくなり。最後に小さく、たぶんと溢したのは、いとこに勝てる部分がまったくなかったからだ。
ヘアアレンジも、つまみ細工を始めとした小物を作るのも。料理だっていとこの方がとても上手だ。テレビで見るようなきらきらしたお菓子を作れるいとこに、ようやく目玉焼きを焦がさないようになったわたしが追いつけるはずもない。
膝を抱えてうずくまる。しばらく黙っていると、いとこが立ち上がる音がした。小さな笑いを含んだ声が、宥めるみたいに静かに尋ねてくる。

「前に食べたがってたフルーツタルト。作ってみたけど、食べる?」
「………食べる」

わたしの返事を聞いてキッチンへ向かう足音に、ちらりと顔を上げて大きないとこの背を見る。
結局最後にはわたしを甘やかしてくれるいとこは、やっぱり魔法使いに違いない。口は悪いがとても優しい、良い魔法使いだ。





何かが聞こえた気がして、目を開ける。
辺りは暗く、見えるものはない。耳を澄ませても、風の音一つしなかった。
ここはどこだろうか。何故、こんな暗い静かな場所にいるのだろう。
随分と意識がはっきりしない。朧気に霞んだ記憶を手繰り寄せる。
いとこの家からの帰り道。手には可愛らしくラッピングされた、お菓子の袋。中身は確か、マフィンだったはず。
いつものように駅のホームで電車を待つ。爪が赤い。いとこに塗ってもらった初めてのマニキュア。目の覚めるような赤に目を奪われて。
それから――。


「日真理《ひまり》」
「るぅ、ちゃん?」

聞こえた声に視線を向ける。姿は見えなかったけれど、いとこの声を間違えるはずはない。
一つ遅れて明かりが点く。急な眩しさに目が眩んだ。

「おはよう。ねぼすけさんだね」
「わたし、寝てたの?」
「寝てたよ。ずっと、何日も」

こちらに歩み寄るいとこの言葉に混乱する。
それなら、この記憶はなんだというのだろう。
駅のアナウンス。電車の音。
浮遊感。振り返って見えたのは、広げた手のひら。
まるで誰かの背を押した後のような。
明るさに慣れてきた目でいとこを見る。普段とはかけ離れた、表情のない冷たい目に見下ろされ、ひゅっと喉が鳴った。

「――わたし、死んだんじゃ、ないの」

問いかけた言葉は、笑えるほどに掠れていた。
けれどいとこには伝わったのだろう。そうだね、と呟いて、ふわり、と笑った。

「死んだよ。とっくの昔に葬式も終わった」
「じゃあ、なんで」
「おまじないをしたから」

そう言って、いとこは爪を見せる。剥げてぼろぼろになった赤は、あの日わたしがお返しに塗ったマニキュアだ。

「日真理が俺の所に戻って来ますように。だからここにいる」
「……なんで」

込み上げる疑問に、いとこは笑みを浮かべたまま、目には正反対の感情を乗せて、答えた。

「日真理にずっと言いたい事があったんだ」

膝をついて、手を取られる。綺麗に整えられた小さな爪の赤が、いとこの剥げた赤に囚われるようにして、指を絡ませ繋がれる。

「今まで黙ってたけど、俺。本当は日真理の事が嫌いだった。憎んでたって言った方が近いかな」

穏やかな口調で、優しい笑みを浮かべて。目だけは言葉通りに鋭くわたしを睨み付けて、いとこは呪いにも似た言葉を囁き続ける。

「周りからずっと馬鹿にされてた。お菓子を作ったり、可愛い小物を作るのが、女みたいだって。父さんも母さんも、何度も止めさせようとした。男のくせにって、殴られたりもした。それでも止めなかったら、最後には家から追い出すみたいに一人暮らしをさせられて…誰も俺を認めてくれなかった」

淡々とした声が、恨み言を呟く。今まで溜め込んできたいとこの想いが繋いだ手から伝わる感覚がして、漏れ出そうとする悲鳴を必死で押し殺す。

「日真理はいいよな。料理一つまともに出来ないし、まったく女らしくないのに、誰にもそれを言われないんだから。女の子ってだけで皆に優しくされて、そのままを受け入れてもらえて…誰からも愛されてさ。本当にいいよな」
「る、ちゃん」
「俺が日真理だったら良かったのにって、何度も思ってた。反対だったら全部正しい気がして、日真理の側にいるだけでずっと苦しかった」

いとこの表情は変わらない。口元は笑みを浮かべて、目は睨み付ける。
何を言えばいいだろう。いとこの目を見ながら考える。
ごめんなさい、は絶対に違う。共感の言葉も、況してや否定する言葉も、すべてが違う気がした。
流れ込む感情に、上手く息が出来ない。ぼんやりとする意識で、ふとあの手を思い出す。

「――だから、背中を、押したの?」

言葉にしてから、失敗したと思った。これは一番言ってはいけない事だ。
いとこの表情が変わる。目を見開いて、何かを耐えるように唇を噛む。

「うん。きっと、俺の手だ。信じてなかったけど、おまじないをした帰りに、日真理は死んだ。だから、俺が殺したんだ」

繋いだ手を額に押し当て、いとこは目を閉じる。その姿は、まるで懺悔をしているみたいだった。

「日真理が死んだって、叔母さんから連絡が来た。おまじないが成功したんだって思ったよ。これで俺は日真理になれる。あの優しい叔父さんと叔母さんの子供になれるんだって…でも日真理を見て、そんな馬鹿げた考え、すぐに消えてった」

声が震える。いとこの目から零れ落ちた滴が、ベッドに染みを作っていくのを、ただ眺める事しか出来なかった。

「見ない方がいい、って言われた。それでもって無理を言って、ぼろぼろの日真理を見て…後悔、してるんだ。今になって、全部終わってしまった後になって、気づいた」

目を開けて、いとこは微笑う。傷ついた、今にも消えてしまいそうな苦しい色をした目をして、馬鹿だよね、と小さく呟いた。

「日真理だけだったのに。俺を認めて、褒めて…凄いって、魔法みたいだって、笑ってくれたのは日真理だけなのに」
「るぅちゃん」
「ごめんな。痛かったよな。俺、自分の事ばっかりで、ちゃんと日真理を見てなかった。魔法使いみたいだって言われて、本当は嬉しかったんだ。それなのに、全部奪って、壊して」
「留叶《るか》!」

今出せる精一杯の声で、名前を呼ぶ。びくり、と肩を震わせて、いとこは涙で濡れた目でわたしを見た。

「もういいよ。もういい。わたし、ここにいるよ。るぅちゃんの側に、ちゃんといるから」
「日真理」
「ごめんね。ここに、いるからね」

繋がれていない方の手を伸ばす。涙を拭って、ここにいる、と何度も伝える。
それしか出来ない事が歯痒い。何も気づかない馬鹿なわたしのせいでずっと傷ついていた、優しいいとこに何も出来ない事がただ苦しい。

「大丈夫だよ。きっとね、るぅちゃんのおまじないは、悪い魔法使いさんにのろいに変えられちゃったんだよ。だから、良い魔法使いさんのるぅちゃんは、何も悪くないんだよ」
「日真理」

きっとそうだ。人を傷つけるものがおまじないであるはずがない。それはのろいなのだと伝えれば、いとこは馬鹿だね、と小さく呟く。

「俺が良い魔法使いな訳あるか。俺が悪い魔法使いなんだよ」
「そんな事ない。るぅちゃんはわたしにとって、良い魔法使いさんなんだから。いつもわたしを幸せにする魔法をかけてくれる、優しい最高の魔法使いさんだよ」
「馬鹿。日真理は本当に馬鹿だ」

泣きながら、いとこは馬鹿だ、馬鹿だと繰り返す。涙を拭う手も取られ、強い力で引き寄せられた。

「ごめん…ありがとう」

帰ってきてくれて、と続く言葉を聞こえない振りをして、目を閉じる。

どうしてわたしはここにいるのだろう。
どうして人形の体で動いて話しているのだろう。
これからもこのままなのだろうか。それともこれは一時的な夢のようなものなのだろうか。
何も分からない。いとこがしたおまじないすら、それが何であるのかわたしは知らない。

ただ、いとこの涙を拭える腕と、ここにいると伝えられる声があるから。
今は先を考えず。暖かくて大きな腕の中で、大丈夫だよ、と泣き止まないいとこに、声をかけ続けていた。



20250224 『魔法』

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