ざあざあと、音を立てて雨が降り頻る。
誰もいない教室に、雨の音だけが響き渡る。
いつもは居残り話を咲かせるクラスメイト達も、暗い空に雨を察して、早々に帰って行ってしまった。
窓越しに空を見上げる。けれど空はどこまでも厚い雲に覆われて、一筋の青も見えなかった。
俯いて手を強く握り締める。ぎり、と歯を食いしばり、泣かないようにと只管に耐えた。
――やっぱり、断ればよかったんだ。
最初からこうなる事は予想が出来ていた。何か予定が出来ると、必ずと言っていいほどに雨が降る。
それが楽しみにしていればしているほど、雨の勢いは激しくなる。指折り数えて楽しみにしていた私を嘲笑うように、前日から雨は降り続く。
楽しみにしていたのだ。雨が降るから、と尻込みする私を、友人達は皆大丈夫だと笑って誘ってくれた旅行だったのに。
一回しかない、大切な卒業旅行なのに。
――今から断れば、もしかしたら。
私がいなければ空は晴れる。
根拠はないけれど、そう思った。
深く息を吸って、吐く。滲む涙を乱暴に拭って顔を上げた。
楽しみにしていたのは、私だけではないのだから。
雨が降っても構わないと皆は言ってくれていたけれど。折角の旅行なのだから、からりと晴れた青空の下で思う存分に楽しんでもらいたい。
大好きな皆と雨に煙る冷たい卒業旅行をするくらいならば、降り注ぐ暖かな日差しの中で楽しい思い出を皆から聞く方がよっぽどいい。
一つ頷いて、スマホを取り出そうと鞄に手を伸ばす。
鞄を開ける音とほぼ同時、がらり、と教室のドアが開く音がした。
「あの、すみません」
視線を向けると、そこには男子生徒が一人。
見知った顔に、目を瞬く。彼は委員会の後輩だ。
俯きがちな視線が迷うように教室内を彷徨う。私よりも大きいのに、丸まった背中はとても小さく見えてしまう。
「どうしたの?ごめんね。皆、もう帰っちゃったんだ」
「あ、いえ。天笠《あまかさ》先輩に、その…渡したい、ものがあって」
渡したいものがある。そう言いながらも、彼が教室内に入ってくる様子はない。
彼はいつもそうだ。許可なく教室に入ろうとしない。そこが彼の言い所ではあるのだけれど。
気づかれないように小さく苦笑して、彼の元に歩み寄る。
「渡したいものって何?」
「えっと。あの、ですね。先輩、明日から卒業旅行に行くって、話してたから」
ずきり、と胸が痛む。苦しくて息が出来なくなる。
けれも彼にいらぬ心配をかける訳にはいかないと、笑顔を貼り付け口を開く。
「ごめんね。その事なんだけど」
「だから、その。これを作ってきましたっ!」
ずい、と手に持った何かを前に出され、行かない事にした、の言葉が掻き消える。
彼の手の中の小さなそれに視線を落とす。大きな彼の手にちょこん、と乗っているのは、ちりめんで出来た可愛らしいてるてる坊主のストラップだった。
「えっと。これを、私に?」
「はい。雨が降るって心配していたので…大丈夫です。ばあちゃんのお墨付きなので、必ず晴れます」
彼の目はさっきまでと違い、真っ直ぐだ。
必ず晴れる。本気で信じているのだろう。
受け取るべきかを迷う。ざあざあと、音はまだ聞こえている。雨が止む様子は見えない。
「大丈夫です。明日は晴れますから」
ぎこちなく笑って、彼は私の手を取るとストラップを乗せる。ちりん、とストラップに付けられた金の鈴が、澄んだ音色を響かせた。
「可愛い…ありがとう。日和《ひより》くん」
「あ、いえ。その、こちらこそすみません。勝手に、押しつけるように、して。それに、せ、先輩の手を、掴んだりしてっ」
言いながら、自分がまだ私の手を掴んだままだと気づいたのだろう。ひゃぁ、と声を上げて飛び上がるようにして手を離す。
真っ直ぐだった視線は、再び周囲を落ち着きなく彷徨い出し。あぁとか、うぅとか、意味を伴わない呻きが彼の唇から溢れ落ちていく。
「とりあえず、落ち着いて。というか、私がいつまでも迷ってたから悪いんだよね。ごめんね」
「そ、そんな事ないです!晴れるからって、ただの後輩に手作りのストラップを渡されそうになったら、誰だって困ると思いますしっ。本当に、すみませんでした」
土下座しそうな勢いで頭を下げる彼に、気にしないで、と声をかけながら、確かに、とも思う。
彼から何かをもらう事が嫌な訳ではない。そこに付随するものの扱いに困るのだ。
私が呼ぶ雨は、偶然を超えてしまっている。晴れると信じていたのに雨が止まない事を、優しい彼は気に病むだろう。
きっと自身を責めるだろう彼を思い、気分が沈む。今も止まない雨に、彼は――。
そこまで考えて、不意に気づく。
雨の音が、消えていた。
「――え?」
恐る恐る振り返る。
雲越しに差し込む光が信じられず、目を見張る。
「晴れ、た?」
手にしたストラップを――てるてる坊主を見て、彼を見る。
びくり、小さく肩を揺らした彼は、眉を下げて笑った。
「ばあちゃんが言ってました。天笠先輩は、きっと雨に近いんだろうって」
「雨に、近い?」
「はい。時々いるらしいです。天気とか、自然とか。そういったナニかに、近い人が」
俺もそうです、と頬を掻きながら彼は言う。
「俺は晴れに近いから、先輩の雨と中和できるかなって思ったんです。最低でも曇りになればいいかと思ってたんですけど…いいものが見れましたね」
「いいもの?」
首を傾げる私に、彼は窓の外を指差した。
彼が指し示す方へ視線を向け、息を呑む。
雲の切れ間から差し込む光を背に、大きくて鮮やかな虹が架かっていた。途切れる事なく美しいアーチを描く虹は今まで見たどの虹よりも綺麗で、思わず魅入ってしまう。
「天笠先輩」
どれほどの間、虹を見ていたのだろう。呼ばれた事ではっとなり、視線を彼に向ける。
穏やかに微笑む彼を見て、どきり、と鼓動が軽やかに跳ねた。
「卒業旅行、楽しんで下さいね」
「――うん。日和くん、本当にありがとう」
彼の言葉に、何故か無性に泣きたくなった。
さっきまでの悲しい気持ちは少しもない。彼の優しさが泣きたいくらいに嬉しかった。
「ありがとう。楽しんでくるからね」
「はい。いってらっしゃい」
てるてる坊主。虹。
彼のくれた優しさは、とても暖かい。
まるで陽だまりみたいだと思って、そう言えば彼は晴れに近いのだと言っていた事を思い出した。
手の中のてるてる坊主を胸元で抱きしめる。
とくとく、と跳ねる自分の鼓動を聞きながら、泣くように微笑った。
「せ、先輩っ!?」
途端に慌て出す彼に、ありがとう、と囁いて。
初めての晴れの日の旅行に、心を躍らせた。
20250222 『君と見た虹』
風を従え、男は夜空を駆け抜ける。
背の翼は夜に解けてしまいそうなほどに黒く、けれど男の姿は朔の暗い夜でも鮮やかだ。
遠く山の向こうへ消えていく男の背をぼんやりと眺めながら、自分の背の翼に意識を向ける。
風の声を聞きながら、翼を動かし空を飛ぶ。風に励まされながら飛ぶ自分の姿は、あの男の飛ぶ様には程遠い。
はぁ、と溜息を吐き、地に降りる。風に礼を言いながら、空を仰ぎ見た。
「随分と元気がないね。何か困り事かい」
聞こえた声に別に、と答え。声を気にせずに後ろでをついて座り込んだ。
今宵は星がよく見える。流れる星を探して彷徨う視線は、けれども上から覗き込む影に遮られ、眉が寄る。
「別に、という顔ではないな。話したくないのかい」
しなやかな尾を揺らし、逆さまに除く影が問いかける。月の色をした翼が夜の闇にぼんやりと浮かび上がった。
話したくないと言われれば、それは正しくはない。そも、困っているのともまた違う。それを伝えようとするも適切な言葉は思い浮かばず。悩み口をついて出たのは、別に、の言葉だった。
「だから別に、という顔をしていないだろうに。まあ、大方予測はついているがね。適切な言葉が分からないのだろう」
その言葉に頷いて、肯定する。やはりね、と笑う逆さまの影――翼のある猫は背の翼を羽ばたかせ、くるりと向きを変えて顔を近づけてきた。
「では、質問をしよう。――彼が嫌いかい」
彼。山の向こうへ飛んで消えた男を思い出す。
「嫌いじゃ、ない。むかつく事もあるけど、なんだかんだ言って最後には助けてくれるし。あいつの飛び方は…好きだし、憧れる」
「そうか。じゃあ、彼自身はどうだい。好きかな」
好き、の言葉に困惑した。
男の飛び方は好きだ。風を従えて自由に空を駆ける男の姿は、とても綺麗だと思う。
だがいくら飛び方が好きだと言っても、男が好きかと問われれば素直に肯定する事が出来ない。
「あいつの言い方は好きじゃない。俺の事をいつまでも半人前扱いして。すぐにあれは駄目だとか、お前にはまだ早いだとか…認められないのが、気に入らない」
愚痴混じりに答えれば、猫は目を細めてにんまりと笑った。
「それは仕方がない。彼にとって、君は飛び始めたばかりの赤子のようなモノだから。何かにつけて心配になるのだろう。君はうっかりさんな所があるみたいだしね」
何も言い返せずに、視線を逸らす。
男に軽率だと注意をされた事を思い出した。
行動する前に考えろ。後先考えずに突っ走るな。
何度も言われた事だ。自覚はあるため反論は出来ない。
「それだけ大事にされているって事だよ。風にも好かれている事だし、良い事だと僕は思うがね」
「でも…少しくらいは、認めてほしい」
言葉にして。すとん、と胸につかえたような気持ちがなくなった。
――ああ、そうか。
自分はあの男に認めてほしいのか。
「もっとあいつに近づきたい。背中じゃなくて、横顔を見ながら飛びたいのに。いつになったら――」
「複雑だね。素直でないとも言える」
にやり、と猫の深い緑の目が笑みに歪む。自分の周囲を一回りして正面に戻ると、音もなく地に降りた。
「彼に認めてもらったとして。それが彼の隣にいる理由に繋がるかと言えば、それは否だ。認めてもらう事はつまり、独り立ちを意味するからね」
「それは、分かってる、けど」
「どうだかね。独り立ちをする事と、近づきたい事は正反対ではないのかな」
膝の上に飛び乗って、猫は小首を傾げる。おそらくは全てを察して、あえて言葉を紡ぐのだろう。
自分に、気づかせるために。
「――あいつと、対等の立場になりたい。隣を飛んで、同じ景色を見てみたい」
小さく溢れ落ちた言葉が、形に出来なかった想いの全てだった。
その為には、後どれだけの人間の望みに応えればいいのだろうか。
猫を見る。猫は何も言わず、お互い無言で見つめ合う。
ふと、風が吹き抜けた。猫の羽根を揺らし、自分の背の翼に、戯れるように纏わり付く。
――飛べ、と風が話しかける。
「そうだね。風の言うとおりだ。難しく考えず、目の前にある出来る事をこなしていけばいい」
まずは飛ぶ所から、と猫は翼を広げて飛び上がる。
おいで、と風が呼ぶ。
導かれるまま立ち上がり、翼を広げた。
風の声を聞く。大きく翼を羽ばたかせ、風を纏い猫の元まで飛び立った。
「そうだ。君はそれでいい。彼を意識して風を従えるのではなく、風の声を聞くんだ」
「風の、声」
「それだけで風に愛される君は、何処へだって飛んで行ける」
猫を追い、さらに高く飛ぶ。
猫の月の色をした翼がはためいて、暗い夜空に朧月のように浮かび上がる。
猫を追う。
追いかけて、そして追い抜いて先を駆ける。
彼のように、夜空を流れる星のように駆け抜けていく。
「行っておいで。彼と話をするといい。一緒にいたいと、素直に話す事だ」
背後で猫が楽しげに声をかける。
そんな事言えるか、と内心で文句を言いながらも、振り返る事はない。さらに速く、駆け抜ける。
くすくすと風の笑い声。
何を話すかくらいは考えたら、と揶揄われて、思わず止まりそうになる背を風が強く押した。
――後先考えずに突っ走るな。
男の忠告を思い出す。今まで、聞き流していた言葉を噛みしめる。
風は止まらない。男の元まで行くのだろう。
只管に夜空を駆け抜けながら。
緊張と気恥ずかしさと、僅かばかりの後悔を胸に、男を見送った時とは正反対の思い出し、深く溜息を吐いた。
20250222 『夜空を駆ける』
友達と話しをしながら、ちらり、と窓際の席を見る。
前から二番目。友達数人と楽しそうに笑いながら話す彼を視界に入れる。途端に跳ねる心臓に慌てて、けれど回りにバレないようにさりげなく抑えた。
「どうしたの?」
不思議そうに尋ねる友達に、何でもないと首を振る。少しだけ眉を下げて、笑ってみせた。
「また雪が降りそうだな、って。積もらないといいんだけど」
「あぁ。今日は部活で遅くなるんだっけ…確か、天気予報ではそこまで積もらないって言ってたけど。多分、がっちがちに凍るよ」
「やだな。あの坂道、融雪剤を撒かないんだよね」
誤魔化すための話題だったけれど、思わぬ情報を聞いて溜息を吐く。家の前の長い坂道は細い上に急で、今年に入ってからすでに三回も雪で滑って転んでしまった事を思いだした。
窓越しに重苦しい空を見る。さっきとは正反対の憂鬱な気分に、やだなぁ、と繰り返す。
視界の隅で、彼がこちらを見ている気がしたけれど、きっと気のせいなのだろう。
暗い坂道を、慎重に上っていく。少しでも気を抜けばその瞬間に足を取られ、坂道を転がり落ちてしまいかねない。
一歩一歩、ゆっくりと。滑ってしまわないように、慎重に。
けれど凍った坂道は、警戒心など意味がないと言うように容赦なく足を滑らせる。
「痛っ」
転がり落ちる事はなかったが、強かに尻餅をつく。痛みですぐに立てないでいれば、不意に目の前に影が掛かった。
「相変わらず、ドジな奴。ほら、手ぇ貸してやるからさっさと立てよ」
聞こえた声に弾かれたように顔を上げる。面倒くさいといった顔をして、彼が手を差し伸べていた。
「早くしろよ。寒いんだけど」
不機嫌な声に、慌てて彼の手を取り立ち上がる。硬くて大きな男の人の手に、心臓が忙しなく鼓動を刻み始める。じわじわと熱を持ち出す頬に、気づかれないようにと軽く俯いた。
「いくぞ。ぼさっとすんな」
彼に手を繋がれたまま歩き出す。私の歩調に合わせて歩く彼の優しさに、さらに心臓が跳ね出した。どくどくと、煩い鼓動が手を伝って彼に届くのではないかと不安になる。
バレてはいけない。彼にだけは、絶対に。
近所の幼なじみ。家族ぐるみで仲が良く、物心ついた時にはすでに隣にいて、いつも遊ぶような近しい仲。
それが彼だった。
お互いの家を行き来するくらいの親しい関係が変化したのは、いつからだっただろう。中学生になって、気づけば疎遠になっていた。
学校では一言も言葉を交わす事はなく。家の前で会ってもせいぜいが挨拶を交わすのみだ。ここ数年は、遊ぶ事もしていない。
「お前、本当にトロいな。いつまでものそのそ歩いてんなよ」
「ご、ごめん」
余計な事を考えていたせいで、彼の機嫌がみるみるうちに悪くなっていく。小さく謝ってから、少しだけ歩くペースを速めた。
最近の彼はいつも、私の前では不機嫌な顔をする。幼い頃からドジで泣き虫だった私の面倒を見てくれていたから、きっと嫌いになってしまったのだろう。
分かっている。手遅れなんだと。期待なんかしてはいけないと。私に出来るのは、これ以上彼に嫌われないようにするくらいだ。
「もう、ここでいいよ。ありがとう」
彼の家の前まで来て、手を離す。
何も言わなければこのまま私の家の前まで連れていってくれる彼の優しさに、甘える訳にはいかない。
「は?お前の家はまだ先だろ」
「大丈夫だから。すぐそこだし、私一人で帰れるから」
納得していない顔をする彼に大丈夫だと、もう一度告げる。実際に数軒先が私の家だったし、正直な所、彼とこれ以上手を繋いでいるのが苦しかった。
彼の側にいられる事がとても嬉しいのに、それと同じくらいに悲しい。欠片も好かれてはいないだろう彼の態度に、泣いてしまいそうだ。
「ばいばい。また明日ね」
笑みを貼り付け、別れを告げて。何も言わない彼に悲しくなりながら、ゆっくりと家の前まで歩いて行く。
ふぅ、と息を吐いて。彼の家の方へと視線を向けた。
そこに彼の姿はない。家の中に戻ってしまったのだろう。
胸に手を押し当てる。胸の痛みを、きつく目を瞑る事で必死に耐える。
――彼が好き。
ひそかなその想いが、報われる事は決してない。
一つ深呼吸をしてから、目を開けた。家の中に入ろうと、一歩足を踏み出す。その瞬間――。
聞こえたのは、タイヤが空回りした時の嫌な音。そして雪道を滑る音。
音のする方を見れば、視界が真っ白に染まる。車のヘッドライトの眩しさに、思わず目を細めて。
最後に思ったのは、やはり彼の事だった。
目を開ける。
深々と降り積もる雪を眺めながら、深く息を吐いた。
少しばかり夢を見ていたようだ。おそらくは、自分の過去の夢を。
思い出せぬそれに苦笑して、地に下りる。肉体を失ったこの身が実際に地に足を付ける事はない。しかし人としての意識は、宙を漂うよりもこうして人と同じ目線で在る事を好んだ。
過ぎゆく人を横目に、当てもなく歩く。記憶のない自分には、ここが何処であるのかは分からない。何か思い出せるものはないかと空高く昇っても、結局は何も分からないままであった。
思い出せぬのであれば仕方がない。風の赴くままに旅をするもの一強だろう。
緩く首を振って前を向く。丁度通りがかる青年と目が合い、会釈をした。
それを疑問に思ったのも一瞬。
目を見開いて、青年は大股でこちらに歩み寄り。有無を言わさずに、腕を掴まれた。
「なに、やってんだ。こんなとこでっ!」
首を傾げる。何故見知らぬ青年に怒鳴られているのかが理解できない。
「急いで戻るぞ。早くしないと本当に手遅れになる」
手遅れ。それが何を意味するのか分からぬが、腕を掴まれている以上、自分に否の選択肢はない。おとなしく青年についていく。
目的地はどうやら病院のようだ。
迷いのない青年の足は、ある病室で止まる。
ノックをして、部屋に入る。中は個室のようで、ベッドの上で様々な管に繋がれた少女が一人、眠っていた。
一目見ただけで分かる。この少女は長くはない。魂はなく、体は近い内に死を迎えるのだろう。
他人事のように考えていれば、青年に腕を引かれ少女の側まで近づく。そして有無を言わさず、少女の中へと押し込まれた。
「さっさと戻れ!このバカっ」
バカとはなんだ、バカとは。
内心で文句を言いつつ、意識が呑まれていく。この少女の体は自分の体だったらしい事に、ここでようやく気づいた。
目を、開けた。
体が重い。息をするのさえ億劫だ。
視線を動かし、彼を見る。泣きそうな――否、すでに泣きながら様子を伺っていた彼と目が合い、不格好に微笑まれる。
心臓が跳ねる。痛みを伴う鼓動に顔を顰めれば、彼は慌てたようにナースコールを押した。
それから慌ただしくやってきた医者や看護師に問診やら診察をされ。
連絡を受けて駆けつけた、両親らしき人達に泣きながら喜ばれて。
疲れた。いつの間にか姿を消していた彼は、結局誰だったのか。疑問を抱えながらも、目を閉じる。
医者の話では、凍った坂道でスリップした車に跳ねられ、長く昏睡状態にあったとの事だ。二度と歩く事は出来ないとも話していた。
両親は酷く悲しんだが、当の本人である自分は、特に感じるものはなかった。そうか、これから生活していく上で不便になるな、くらいである。長くを宙を彷徨っていた自分には、足があった所で上手く使える自信はない。
不意に扉の開く音がした。両親は少し前に帰っていったはずであるから、看護師が来たのだろうか。
目を再び開ける気力はもうない。様子を伺っていれば、ベッド脇においてある椅子が音を立て、そこに誰かが座った気配がした。見舞いに誰かが訪れたのだろうか。
見られている。無言の視線が刺さるようで、居心地が悪い。
「――生きてる。間に合ったんだ」
静かな、安堵を滲ませた声がした。彼の声だった。
「お前は本当に、バカだよ。どうしようもないくらいの大バカだ」
バカだ、バカだと言いながら、彼の声は次第に嗚咽が混じり始める。
頬に何かが触れた。暖かなそれは彼の指だ。生きている事を確かめでもしているのか、頬に触れていた指は首筋へと移動する。
彼の指を通して、自分の鼓動を感じる。規則正しい鼓動に、どこか違和感を覚えて、気づく。
事故に会う前。自分は彼が好きだったのだろう。だから体に戻り彼を見て、心臓が跳ねた。今目を開けて彼を見てしまえば、鼓動は早くなるに違いない。
「お前の事、鬱陶しいと思った事もあったけどさ。だからって、勝手にいなくなろうとするなよ」
青春だな、と他人事なのは、記憶がないからだ。体に残る僅かな残り滓では到底足りない。
なくした記憶は、今頃雪の下にでも埋まっているのだろうか。自分が何一つ覚えていないのは、意図的に埋めて隠しているからかもしれない。叶わぬ恋は忘れてしまうのが一番だ。
「認める。認めてやるよ。鬱陶しい何て思ってない。恥ずかしかったんだ。けどそれでお前が離れていくのが許せなかった。あの時も、俺を見ようともしないし、早く離れたいみたいに…好きなんだよ。もう離れていこうとしないでくれ」
思いもしなかった言葉に、心臓が跳ねる。
叶わぬ訳ではなさそうだ。それならば、と少し悩み、体を抜け出した。
報われるのであれば密かに隠し続けてきた想いごと、雪の下に埋まるものを掘り起こしても良いだろう。
「おいっ。どこ行こうとしてんだ。このバカ」
しかしそれは彼に腕を掴まれて、終わる。
忘れていた。彼は自分の事が見えて、触れられるのだった。誤魔化すように笑えば、彼の目がきつく険しくなる。
「そんなに俺が嫌いかよ」
違うのだと首を振り、彼に引き戻されるままに体に戻る。
掘り起こすよりも先に、彼を説得しなければならないようだ。
この時は、まだ知らなかった。
この先、彼が自分の側から離れなくなる事を。
記憶を思い出した自分が羞恥に耐えきれなくなり、彼の目を盗んでは体を抜け出す事を。
何度も捕まり戻されて、最後には何もかもを受け入れて、終の先も彼と共に在る事を選択する事を。
何も知らず、今はただ軽やかに跳ねる鼓動を楽しみ、彼を出し抜く方法を呑気に考えていた。
20250221 『ひそかな想い』
しん、と静まり返った夜。
眠りに落ちる前の微睡の中で、誰かが頭を撫でた気がした。
そっと、優しく。夜のように静かに。
その心地良さに微笑んで、ふと気になって目を開ける。
枕元。暗がりを駆け抜ける小さな影を目で追って、体を起こした。
「だあれ?」
問いかけても答える声はない。静かな室内には、起きる前の小さな影はどこにも見当たらない。
「誰か、いるの?」
もう一度、問いかける。
やはり、答えはない。
釈然としない思いを抱えながらも、影を探す事を諦めて横になる。暗闇にぼんやりと浮かび上がるデジタル時計は、すでに日付が変わってしまった事を示していた。
目を閉じる。
今度は頭を撫でる感覚はしなかった。
あれから数日が経ち。
時折現れる頭を撫でる手に、どうしたものかと頭を悩ませていた。
手が現れるのは決まって嫌な事があり、とても疲れた日の夜だ。疲れて寝入る前の僅かな時間。優しく触れる手は沈んだ気持ちを解き、穏やかな眠りを誘う。しかしその手が誰なのかを気にして目覚めると、小さな影を残してその手は消えてしまうのだ。
消える手が惜しくて眠った振りをすれば、手は頭だけでなく、顔に触れ出す。頭や頬を撫でられて、心地良さにそのまま眠ってしまった次の朝は、いつも感じる寂しさも哀しさもなく、穏やかな気持ちで目覚められる。
「どうしようかな」
ベッドの上。サイドテーブルの上に置かれたライトの灯りを見ながら考える。そろそろ眠った方がいいのは分かっているが、如何するべきかを決められずにいた。
このまま気づかない振りをして、その優しさを享受し続けるか。それとも、正体を暴いてしまうのか。
はぁ、と重苦しい溜息を吐いて、ライトに手を伸ばす。灯りを消して訪れた暗闇に、また一つ溜息を吐きながら横になった。
頭を撫でる感覚に、意識が浮上する。
優しい手。嫌な事を全て解かしてくれる、懐かしい手。
眠った振りをしながら悩み、考える。
この手を失うのが怖かった。しかしこのまま何も知らないでいるのも、同じくらいに怖ろしい。
悩み迷う間に手は額に触れ、瞼をなぞり頬を撫で始める。こそばゆい感覚にふふ、と思わず笑みが溢れた。
それがいけなかったのだろう。弾かれたように手が離れ。
それを嫌だと思った瞬間に、気づけばその手を掴んでいた。
目を開ける。黒い小さな影を認め、目を瞬いた。
暗闇に目が慣れてくる。影の姿が次第に浮かび上がってくる。
驚いたように目を見開きこちらを見つめるその影は、小さな老人だった。和服を着たどこか懐かしさを感じる老人は、しばらく微動だにしなかったが、掴まれた手を見て、そしてこちらを見て、困ったように微笑んだ。
「やれ、捕まってしまったか。今まですまなかったな」
「ま、待って!」
まるで別れのような言葉に、握った手に僅かに力が籠もる。
首を振って嫌だと、行かないで欲しいと必死に訴えれば、眉を寄せながらも老人は掴まれていない方の手で、頭を撫でた。
優しい手だ。ここ数日、哀しい時や苦しい時に、慰めるように撫でてくれていた手だ。
「あなたは誰?」
目を細め、その手に擦り寄りながら問いかける。
「この辺りに住むモノだよ。久方ぶりに帰って来た子の成長が嬉しくてなあ。つい通ってしまった。怖がらせてしまってすまないね」
「怖くないっ。怖くなんてなかったよ。寂しかったり哀しかったりした時に撫でてくれたから、次の朝も頑張れたんだよ」
「良い子だね。離れている間に、健やかに成長してくれていたようだ」
目に慈しみを浮かべて穏やかに笑む老人は、頭を撫でる手は止めぬまま、掴まれた手に視線を向ける。そこで大分強く握ってしまっていた事に気づき、慌てて手を離した。
「ごめんなさいっ」
「気に病む事ではないぞ。寂しかったのだろう。今宵もおまえが眠るまでここに居る故、安心して眠ると良い」
「ありがとう」
促されて横になる。目を閉じて頭を撫でる手を感じながら、眠りに落ちていく。
「ねぇ、あなたは誰?」
最初にした問いを繰り返す。この手を懐かしいと思ってしまうのは、きっと気のせいではないのだろう。
「おまえの眼が見ていた妖らの中の一人さ。池がなくなり寄る辺を失いながらも、語り継がれる事で消える事も出来ずに彷徨う我をその眼で見て、怖れず触れてくれたあの優しさを後生大事にしている、水の精の名残だよ」
あぁ、そうだ。夢うつつに思い出す。
幼い頃、体が弱く外に出られない自分の話し相手になってくれた、優しい妖達の中の一人が老人だった。退屈だとぼやく自分に、彼はよく昔の話をしてくれたのだ。
遠い昔にこの付近には池があった事。浮き草や菖蒲に覆われたその池に戻れなくなって、困ってしまった事。人に捕まってしまい、何とか逃げ出せた話など。
池がなくなってしまった事で、彼は水の精から妖に成ったと話してくれた。幼い頃は全く分からなかった事は、思い出した今も分からない。
「おかえり、可愛い子。元気になって戻って来てくれた事を、皆とても嬉しく思っているよ」
その言葉に頬が緩む。
療養のためにこの都会から離れ、田舎の祖父母の家に預けられた。青春時代のほとんどをあちらで過ごし、彼らをすっかり忘れてしまっていたのに。
彼らが忘れず、帰りを待っていてくれた事が嬉しくてたまらない。
「ただいま」
彼らに会いに行こう。
明日を待ち遠しく思いながら、小さく呟いた。
20250220 『あなたは誰』
「何をなさっておられるのですか?」
空に燻る一筋の煙を辿り、着いた先の光景に、水色の振袖を纏う少女は首を傾げて問いかける。
河の畔で男が一人、焚き火をしていた。叺《かます》から紙の束を取り出しては、それを火に焼《く》べている。
「何って、手紙を燃やしてんだよ。お焚き上げってやつだ」
火を怖れているものの、焼べられた手紙が気になるのだろう。少女は火の粉が爆ぜる度に肩を跳ねさせながら恐る恐る男に近づき、その手元を覗き込んだ。
「呪、ですのね。恨み、嫉み。誰かの不幸を望む、悪意に満ちた手紙」
顔を顰め、少女は忌々しいと言わんばかりに紙の束――少女曰く、悪意の手紙を睨めつける。男の傍らに置かれた叺に未だ残る手紙を躊躇なく鷲掴み、苛立つ感情と共に火の中へと投げ入れた。
炎が上がる。勢いを増す黒い火に、きゃあと悲鳴を上げ、少女は慌てて焚き火から距離を取った。
「もう、吃驚させないでくださいまし」
「おひぃさんが焼べたからだろうに。なぁに言ってやがる」
「わたくしが火を苦手とする事も、呪う手紙を厭う事も知っておいででしょう」
「その割には…まぁ、いいか。それより、何か用かい?」
肩を竦め、男は少女に問いかける。言いたい事はいくつかあれど、少女の妖としての質を思えば仕方がない事なのだろう。何せ恋文に対する女の情念が形を取って応えたのが少女だ。火気も手紙に込められた悪意も、少女にとっては禁忌である。
男の問いに、しかし少女は眉尻を下げ首を振る。要件など特にはないのだと、申し訳なさそうに男に告げた。
「煙が見えたので、散策の序でに辿っただけです」
「珍しい事もあるもんだ」
妖としては珍しく、人間の望みに応えるために現世いるよりも、少女は己が掻き集めた物語を収めた書庫に籠もる事を好む。故に、こうして外で言葉を交わす事は、少女が何か要件がある時だけであった。
「失礼ですね。常に書庫に籠もっている訳ではありませんよ」
「そりゃあ、すまなかった」
頬を膨らませる少女に、男は気のない謝罪を返す。
勢いが落ち着いて来た火の中に手紙を焼べながら、男はふと手紙に視線を落とした。
悪意の手紙。現世にある木の洞に入れられていた、いくつもの呪の塊。
願いを叶えるという、歪んだ認識で出来た呪《まじな》いの手紙もあるが、結局はその大半も誰かを呪う手紙だ。
少女はこの手紙の想いに引き摺られてきたのだろうか。
「なぁ。この手紙を、おひぃさんはどう思う?」
男の問いかけに、少女は目を瞬き。次いで眉を顰め、叺の中に手を入れる。手紙を取り出し広げると、そこに書かれた赤黒い死の文字を男に突きつけ、ふん、と鼻を鳴らす。
「美しくありませんね。手紙とは、相手を想い書くものです。それを妬み、憎しみを抱いて。剰え相手に死を望むなど、醜さすら感じますね…そも、手紙の作法を無視したものを、わたくしは手紙と認めたくありません」
突きつけた手紙を、少女は容赦なく破り捨てる。手紙だった紙くずを火に焼べるその様に、男は何も言えず引き攣った笑みを浮かべた。
「おっかねぇな」
小さく呟いて、手にしたままの手紙を火に焼べる。
その言葉に眦をつり上げる少女に、すまん、と謝罪をして、男は短く息を吐く。どうやら少女はこの手紙に引かれた訳ではなさそうであった。ならばやはり、少女の言うようにただ散策の序でだったのだろうと、懐に手を当てつつ男は片手を叺に入れ手紙を出す。
叺に残る手紙を火に焼べる。こうして全て燃やしても、それで終わりにはならない。現世では呪いを信じた人間達が、今も木の洞に手紙を隠しているのだ。
「ったく。めんどくせぇな」
「如何しました?」
「こんな面倒事に、なんで俺が取り込まれちまったんだろうな」
残る手紙全てを取り出して、火に焼べる。黒々と燃え盛る焚き火を前に、男は愚痴を溢す。この火が消えれば、また現世に行き、手紙を回収しなければならない。
「それは仕方がない事です。貴方様を見立てて、人間は呪いをしたのですから」
男は元々、泣く子供を叺に入れて連れて行くという話が形を取り応えた妖だった。泣きわめく子供を隠す男の質を、子供を隠す、と呪いを始めた人間は解釈し。そこに手紙に書かれた人間を隠す、と解釈を広げ、呪いは広まった。
「なんで広まっちまうかね。手紙に応えた事は一度もねぇってのに」
「偶然とは怖ろしいものですわ。偶然の結果を、その原因が手紙を書いたからだと結びつければ、一瞬ですもの」
「偶然、ねぇ。勘弁してもらいてぇもんだな」
はぁ、と溜息を溢しながら、男は勢いの弱まった焚き火を木の枝で浚い、中から何かを引き出した。
所々が黒く焦げた紙の内側から除く紫色のそれは、どうやらさつまいもであるらしかった。まだ熱いそれを手に取り、紙を剥いて割ると黒に近い紫の果肉が露わになり、少女は眉を潜める。
「おひぃさんも食うかい?」
「悪意に満ちた手紙を焼べた火で芋を焼くのは貴方様くらいでしょうね。とても嫌な色をされておりますが、問題はないのですか」
「あぁ。これは元々こんな色だ。人間の努力の結晶だよ」
うめぇぞ、と手にした片方に齧り付きながら、男はもう片方を少女に差し出す。訝しげにしながらもさつまいもを受け取り、恐る恐る口にする。控えめな甘さに、驚いたように男を見た。
「おいしい、ですね」
「だろう?楽しみがなけりゃ、やってけねぇからな」
空になった叺を一瞥し、さつまいもを囓る。疲れた様子の男を見ながら同じようにさつまいもを口にして、少女は小首を傾げ疑問を口にする。
「手紙に応えるつもりがないのでしたら、そのままにしておけばよいでしょうに」
面倒だと言いながら、律儀に手紙を回収する男の意図が分からない。いっそそのままでも、男にとって支障はないだろうに。
そう問えば、男は決まりが悪そうに視線を逸らした。
「あのままにしておいたら、人間に障りが出るだろうが。ごく稀にだが、純粋な願いを書く奴もいるからな」
「それは貴方様の懐に大切にしまってある、手紙の事でしょうか?」
その言葉に、男は盛大に咽せた。
「申し訳ありませんっ。わたくし、そんなつもりではなかったのです。焼べた手紙とは違い、暖かな想いが感じられまして、それで」
「っ、いい。それ以上言わんでくれ」
必死に息を整えながら、男は少女を止める。申し訳なさそうな少女を横目に、叺を背負い上げ立ち上がる。
気づけば、火は一筋の煙を残し消えていた。
「感謝の言葉でしょうか。短い言葉であれど想いははっきりと伝わる、とても素晴らしい手紙ですわね」
「勘弁してくれ」
嬉々として語り出す少女に、男は何とも言えぬ顔をする。残ったさつまいもを全て平らげ焚き火の後始末をしながら、そっと懐に手を当てた。
ありがとう。ただ一言だけだ。それを火に焼べず後生大事にしまってあるのは、手紙を書いただろう娘の事を男が少なからず気にかけているからだろう。
娘の消えた母は戻れたのだろうか。願いを叶える質の妖に声はかけたが、その後の事を男は知らない。以前よりも足繁く通うようになったが、それきり娘と会う事はなかった
「行かれるのですか」
「あぁ、おひぃさんも気ぃつけて戻れよ」
後ろ手を振り、男は歩き出す。
その背を見送りながら、少女は淡く微笑んだ。
「彼方側で良き便りに相見えますよう、想っております」
深く一礼し、男とは反対の方向へ少女もまた歩き出す。
誰もいなくなったその場所を、名残惜しげに風が吹き抜けた。
現世にて。
男は木の洞に隠された手紙の中に、呪ではない一通の封筒を見つけた。
淡い薄浅黄色の封筒の中に、同じ色の便箋が一枚。
母が戻って来たという報告の最後には、感謝の言葉が綴られていた。
男の口元が僅かに緩む。便箋を丁寧に封筒に戻し、己の懐にいれた。
その後、手紙がどうなったのか。
その行方を知るのは、男だけだ。
20250219 『手紙の行方』