まただ。クラスメイトの表情を横目に、少女は僅かに眉を寄せる。
彼女は確か昨日、好きな人に告白して付き合えたのだと嬉しそうにしていたのではなかったか。それが表情もなく、静かに席に座っている。
ちらり、と視線だけを動かし少女は教室内を見回す。大半のクラスメイトが彼女のように無表情で席についているのを見て、薄ら寒さにふるり、と肩を震わせた。
――無感情症候群。
正確な病名はない。原因不明のこの症状に誰かが名付け、それが広まった。
ある日突然に、感情を失ってしまう病。一度感染すると会話や行動に制限はないが、そこに感情が伴わない。ただ機械的に行動し、求められる答えを返すようになってしまう。数ヶ月前から急速に、この学校内で流行りだした。
感染源や感染経路、予後すら何一つ分からず。噂では、初期に感染した生徒は次第に動く事も話す事もなくなり、今では昏睡状態に陥っているのだとか。
「ホームルーム始めるぞ…って、また増えたのか」
入ってきた担任が、彼女を一瞥し眉を潜める。しかしすぐに表情を取り繕うと、教卓の前で何事もないようにホームルームを始めた。
担任の話を聞くともなしに聞きながら、少女はもう一度教室内に視線を巡らせる。虚ろな目をして前を見る感染したクラスメイトと、どこか怯えを滲ませる未感染のクラスメイトを見て。
ぼんやりと、学校外や教師達には感染者がいないのは何故なのかを考えていた。
「――ねえ」
無感情な声に、机に伏していた顔を上げる。
声と同じく無表情の友人が、静かに机の前に佇んでいるのを見て、弾かれたように少女は体を起こした。
「ど、どうしたの?」
早鐘を打つ心臓を落ち着かせるように胸の前で手を握り、少女は笑みを浮かべてみせる。大分引き攣ってしまっているのは、感染した人が自分から声をかける事が今までなかったからだ。
視界の隅で少女と同じ未感染のクラスメイトが、目を見開いてこちらの様子を伺っている。不自然に静まりかえった教室内で、目の前の友人が口を開くのを待った。
「星が綺麗だから、見に行こう」
え、と思わず溢れた声が教室内に広がる。慌てて口を閉じ、困惑して周囲を見回すが、僅かに残っている未感染のクラスメイトは皆、少女と同じように困惑を顔に浮かべていた。
窓の外を見る。当然のように空高く太陽は輝き、青空のどこにも星は見えない。
「えっと…放課後、って事?」
「星を見に行こう」
問いかける言葉は、同じ言葉によって返される。益々困惑する少女を気にかける事もなく、友人は少女の手を取り歩き出す。
「えっ?…ちょっと。待って、どこに…」
「星を見に行こう」
強い力で引かれ、手を振りほどく事が出来ない。半ば引き摺られる形で廊下を歩きながらちらり、と振り返った視線の先で誰かが職員室に駆けていくのが見えた。
担任に報告しにいったのだろう。しばらくすれば助けが来るだろう期待に少しだけ気持ちに余裕が持て、少女は歩き続ける友人を覗い見た。
前だけを見る友人の足取りには迷いがない。階段を下り、昇降口を靴も履き替えずに出て、向かう先はどうやら旧校舎らしかった。
木造二階建ての古い校舎は今は使われておらず、立ち入り禁止となっている。そのため昇降口には普段から鍵がかかっているはずであるが、今日に限って鍵は開いていたらしい。引き戸は何の抵抗もなく開き、その隙間を友人はすり抜けていく。手を繋がれたままの少女もまた校舎内に入り、その瞬間に鼻腔を掠める埃と古くさい匂いに顔を顰めた。
「かび臭っ。ねえ、どこまで行くの?」
繋がれていない方の袖口で口と鼻を覆う。一向に止まる気配のない友人に声をかけるも返る言葉はなく、繋がれた手も離れる様子はなかった。
昇降口を出て向かって右側。その奥へと友人は歩みを進める。その足取りに、迷いはやはりない。
そして辿り着いた一番奥の教室の前で、ようやく友人は立ち止まる。
――視聴覚室。
古ぼけ、掠れたプレートから読み取れた文字。星を見ると言っていた友人の目的地に、少女は首を傾げて不安げに友人を見た。
「ここ、なの?」
「星を見に行くよ」
迷いなく引き戸に手をかけ、開ける。ぽっかりと口を開いた暗闇に少女は臆するものの、友人は気にせずに足を踏み入れる。手を引き少女を中へと引き入れて、戸を閉めた。
黒いカーテンで作られた暗闇を怖れ、少女は強く手を引く。
「っ、うわっ」
思っていたよりも簡単に手が離れ、その反動で少女の体が傾いだ。
倒れ込まないようにふらつきながらも耐えた少女が安堵の息を吐くとほぼ同時。その頭上で灯りがついた。
「え?」
天井を見上げる。そこで見たものに少女は思わず息を呑んだ。
星だ。満点の空が、そこにはあった。
きらきらと輝き、瞬いて。本物と見紛うほどの星空を、少女は呆けたように見上げていた。
「――ん?何か言った?」
微かに声が聞こえた気がして、少女は視線を友人へと向ける。変わらず無表情で佇む友人を見て、では外からか、と戸を見て近づくために足を踏み出した。
その瞬間に、また声がした。今度ははっきりと、頭上から。
「違う。これって…星からだ」
呟いて、もう一度天井を見上げる。耳を澄ませば、聞こえるのは少年や少女の声音だった。
――嬉しい。彼と付き合えるなんて夢みたい。
聞き覚えのある声がした。今日感染したクラスメイトの声だった。
「まさか。これって」
嫌な予感に、背筋が寒くなる。
見たくないはずであるのに、目を凝らして少女は星を見た。
そして、気づく。
星だと思っていたものが、本当は感染した生徒達の感情である事に。
「きれい?星、きれい」
友人の声がして、恐る恐る視線を向ける。
笑っている。感染してから今まで表情をなくしていた友人が、無邪気に微笑んでいた。
ひゅっと、喉がなる。恐怖に後退る少女を見つめ、友人は徐に腕を上げる。
「いかないで。きれいだよ」
友人の声に別の誰かの声が重なる。かたかたと震え動けなくなってしまった少女の目の前で、友人の背後に影が出来る。
それは子供の描いた落書きのような、かろうじて人だと分かる歪な形をしていた。友人の背後にぴたりと寄り添い、友人の口が開くのに合わせ、影の顔の部分に口が現れ開く。
「きらきら。かがやいて、きれい」
「ひっ」
「だから、ここにいよう?ねえ、そうしようね」
友人と影の混ざり合った耳障りな声が響く。ゆったりと近づくその様に、少女は恐怖に耐えられず引き攣った悲鳴を上げて引き戸に駆け寄った。
戸を開けようとして、躊躇する。今ここから逃げ出したとして、友人は果たしてどうなってしまうのだろうか。
迷い、振り返ろうとして――。
「ぁ。ぅぐっ!?」
最初に少女が感じたのは強い衝撃だった。
痛みはない。痛覚の代わりに感じた意味の分からない多幸感に、少女は混乱して崩れ落ちた。
その間にも絶え間なく背中に強い衝撃を感じ、その度に様々な感情が流れ込んでくる。感情の奔流に息も出来ないほどの苦しさを覚えながら、少女は必死に背後を見た。
「あ、あぁ」
星が、流れていた。
少女に向けて、無数の星が流れ続けていた。
輝きを纏った星が少女の中に入り込む度に、知らない誰かの感情が流れ込んでくる。
嬉しい。楽しい。幸せ。
苦しい。悲しい。寂しい。憎い。
「ぜんぶ、あげる。うれしいね」
いつの間にか友人から離れた影が、少女の傍らに膝をつく。子供の落書きのようであった影は、今ははっきりとした輪郭を持ち。少女を見つめ、瞼のない黒の目と唇が笑みを形作る。
「かがやき。きれいで、しあわせ」
「ぃや。たすけ。やだっ」
泣きながら少女は首を振る。
一度に与えられた感情は、人の限界を容易く超えている。少女の精神を灼き切り、脳を破壊した。
「あぁあああぁああ!」
輝く感情で出来た、最後の星が流れる様を見て。
少女の意識は黒く塗りつぶされた。
少女が友人と旧校舎へと向かい、姿を消してから数週間後。
教室の中では、今日も噂話があちらこちらで聞こえていた。
――聞いた?あの子、目を覚ましたんだって。
――聞いた聞いた。でも廃人同然なんだって?感情が戻ってないってさ。
――怖いね。連れていかれたあの子の友人も、結局見つかってないんでしょ?先生が旧校舎の視聴覚室に行った時には、倒れてるあの子しかいなかったらしいし。
――結局、無感情症候群って何だったんだろうね。
――怖かったんだからね。でも戻ってくれて良かった。
数日前に戻ってきた日常を、生徒達は謳歌していた。二つ空いたままの席を時折見てはすぐに視線を逸らし、噂話の話題に上げるも、その生徒の名すら呼ぼうとしない。
皆、戻らぬ少女達を心配する気持ちはあれど、ようやく戻ってきた日常を失う事をそれ以上に怖れていた。
「そろそろホームルーム始めるぞ」
教室に入って来た担任が二つの空席を認め、僅かに表情を曇らせる。しかし誰かにそれを指摘される前に表情を元に戻し、いつものようにホームルームを始めた。
少女は今も行方が分からないまま。
しかし、あの旧校舎では夜になると、少女によく似た等身大の人形を抱えて歩き回る人影が現れるのだという。
20250218 『輝き』
「時間が止まらないものか」
ぽつり、と溢れ落ちた呟きに、鬼灯のような赤い顔をした子供は眉を潜めて視線を巡らせた。
六畳の和室の端、文机に伏す草臥れた男の背に、溜息を吐く。
「先生。今度はどうしたんです?」
「筆が乗らん」
深い溜息と共に男は徐に身を起こす。隅に避けていた原稿を手元に引き寄せるが、そこに文字は一文字も書かれておらず、白いままであった。
白い原稿をしばらく睨めつけ。だがやはり何も浮かばぬのだろう。重苦しい溜息を吐くと、原稿を押しのけ再び文机に伏した。
「ああ。先日来た仕事ならば、手前がお断りしておきやしたよ」
「――は?」
常と変わらぬ声音で告げられたその内容に、男は伏したまま視線だけを子供に向ける。柔らかな笑みを浮かべて小首を傾げる子供の姿に、男の眉が寄る。
「先生はここ最近、机に向かいっぱなしでしたからねぃ。それに短編とはいえ、恋愛小説は先生には書けやしませんて。ですからね。暫くはお休みですよ」
「今の担当は妖が見えないはずだが…どんな手を使った?」
苦虫を噛み潰したような顔をして、男は子供に問いかける。口調がどこか険しく感じられるのは、おそらく言いたい事を飲み込んでいるからだろう。
例えば、恋愛ものを書けないと断じられるのは不本意であるとか。世話女房めいてきているのは何故だとか。
そんな男の内心を見透かしたのだろうか。子供は伏せたままの男の背に羽織り物を掛けながら、疲れたように息を吐いてみせた。
「先生が悪いんですよ。当然のように手前共を受け入れる。ここに在る事を当然とし、認識が固まってこの屋敷の中では徒人にも見えるようになってしまったんでさぁ」
「……そうか」
少し間を開けて、男は神妙に頷いた。
意味を半分も理解してはいないのだろう。子供の目に憐みが浮かぶ。
「見たものを詳細に語れば、語った相手にもそれが見えてくる…暗い夜道で柳の枝が揺れるのを女と見間違えた人間がいて。女がいたと伝えた所で、相手には同じ女は見えやせん。ですが、腰まである艶やかな黒髪の、白装束を身に纏った憂い顔の女が佇んでいた、と語ればどうですかね。暗闇にその女の幻を見るのは、容易い事で御座いやす」
手際よく文机の上を片付ける子供を見ながら、男は想像する。
暗い道。風に揺れる柳の枝。談笑しながらその横を通りかかる二人。
さぞ怖ろしかったのだろう。引き攣った声を上げて取り乱す連れに如何したと問えば、震える指が柳を指差す。
女がいた、と連れは震える声で告げる。だが柳に視線を向けれど、女は居らず。女などいないと答えれば、連れはそんなはずはない、と声を荒げ、語るのだ。
長く艶やかな黒髪の女がいた。白装束を身に纏い、袖から伸びる手は死人のように青白く細い。女の顔もまた白く、憂いた表情で己を見つめていたのだ。と。
もう一度、柳に視線を向ける。揺れる柳の枝の先、ぼんやりと白く浮かび上がるものがあり、目を凝らす。
女だ。連れの語る白装束の女が此方を見ている。憂い顔で、言葉もなくただ見ている。
二人は悲鳴を上げ、その場を去る。そして後日。周囲に語るのだ。
柳の下に、女の幽霊が出たのだと。
噂は広がる。夜道に通りがかる人は、柳が気になり視線を向ける。思い描くのは、噂の女の幽霊。長い黒髪の白装束を纏った――。
見えてしまうだろう。木目を人の顔のようだと誰かが言えばそう見えてしまうように、人の脳は見たいものを見てしまう。そうして見えた居ないはずの女は、形を持って柳の下に佇むのだ。
時が止まったかのように。人の噂が消えるまで、永遠に。
「先生は随分とお疲れのようで。陽も落ちてはいやせんが、床の用意をしましょうか」
片付けを終えた子供が、音もなく立ち上がる。瞼の閉じかけた男を見て小さく笑い、ゆっくりと部屋を出る。
とん、と微かに障子戸が閉まる音を聞きながら、男は目を閉じる。仕事がない事で気が緩んだのか、空腹を訴え腹がなる。しかし、気怠い体は今更起き上がる事を良しとはせず、伏せたまま切なげに鳴る腹をさすった。
「腹が、減ったな」
「豆腐ならあるよ。食べるかい、先生?」
聞こえた声に目を開ける。重怠い体を何とか起こし視線を向ければ、戸の入口から少年が二人、覗いている事に気づく。背丈は先ほど部屋を出た子供と然程変わらない。双子のように同じ顔をした二人の妖は一つだけの目で男を見つめ、どうかな、と問いかけた。
豆腐、と呟き男は眉を下げる。寒い日に冷たいものを食す事を苦手とする男を知る二人は、そんな男の渋い顔を見て楽しそうにくすくすと笑った。
「先生のために、湯豆腐にしたよ。食べる?」
男の向かって右の少年が手にした鍋を掲げてみせる。鍋から立ち上がる暖かな湯気に、男の腹がまた小さく主張した。
「食べる。腹が減った」
「そう来なくっちゃ」
「準備をするから、少しだけ待っていてくれ」
男の言葉に破顔して、二人は部屋へと入り男の元に近づく。左の少年が手際よく文机に鍋敷きを置いて、右の少年がその上に鍋を置く。器に豆腐や薬味をよそい、箸と共に器を男に手渡せば、すまん、と一言男は呟き豆腐を口にする。
「うまい」
「良かったな。左目」
「うん。手伝ってくれてありがとう。右目」
笑い合う二人を横目に、男は次々と豆腐を口に運ぶ。素朴でありながら、味わい深い豆腐のうま味を堪能して、口元が僅かに緩んだ。
「おかわりあるからね。どんどん食べてよ」
「そういや先生。時間を止めてほしいのか?」
空の器に新しく豆腐と薬味をよそわれながら、男は右目と呼ばれた少年に視線だけを向ける。
一つ遅れて子供とした会話を思い出し、緩く首を振る。
「仕事がないという事は、締め切りもない。時間を止める意味がなくなった」
「何だ。残念」
「望んでくれるのなら、すぐにでも先生の時間を止めてやるのに」
至極残念だと肩を竦め、二人は囁く。
豆腐を食す手は止めぬまま、男は胡乱なものでも見るように、二人を一瞥した。
「死にたい訳ではないのだが」
男の言葉に、二人はきょとり、と一つだけの目を瞬かせ。互いを見つめ、男を見て声を上げて笑い出した。
男の眉間に皺が寄る。二人から視線を逸らし、無言で豆腐を食べ続ける男の不機嫌な様子に、笑っていた二人は慌てて違うのだと手を振った。
「ごめんね、先生。だって僕らが先生を殺したいなんて思う訳ないのにって思ったら可笑しくて」
「俺らは先生が好きなんだから。物騒な事を言わないでくれよ、先生」
「不老不死にするって事だよ、先生」
「これ以上老いて体の節々の痛みが強くなる前に、その時間を止めたらいいじゃないか」
二人の言葉に、男の眉間の皺が益々深く刻まれていく。二人の言いたい事を正しく理解して、深く息を吐いた。
二人の言葉に悪意はない。体の節々の痛みにぼやく事の多くなった男のためにと、純粋に思っての事だろう。
だがしかし。男がこれ以上老いる前に時を止める事はつまり――。
「俺は永遠に、今のこの腰痛やら肩こりに悩む事になる訳だが。それは御免被るな」
身も蓋もない言葉にぴしり、と二人が固まる。時が止まったかのように微動だにしない二人を余所に、男は黙々と残った豆腐を平らげていった。
「先生。床の用意が出来ましたんで、少しお休みになってくだせぇ…どうしたんですかい。この二人は」
戸を開けて部屋に足を踏み入れた子供は、止まったままの二人を視界に入れて、訝しげに眉を潜める。
男は気にする事なく最後の一口を飲み込んで、ごちそうさま、と手を合わせて器と箸を置いた。
「俺の肩こりと腰痛を永遠にしようとして、衝撃を受けている所だ」
「――はい?」
さらに困惑しながらも、子供は男の説明になっていない言葉と部屋を出る前の会話を思い返し、嘆息する。いつもの男の愚痴に部屋を訪れた二人が応えようかと提案し、それに対して男が駄々をこねたのだろう。そう当たりを付けて、それならば放っておいても構うまいと二人に声をかける事はせず男の側へ歩み寄る。
腹が満たされた事で、余計に睡魔に襲われているのだろう。ともすればすぐにでも寝入ってしまいそうに頭が揺れる男の手を取り立ち上がらせると、手を引いて歩き出す。
「寝るなら寝所へ行きましょうね、先生。ほら、ちゃんと歩いてくだせぇ」
「分かって、いる。子供、扱いするな」
ゆらゆらと、覚束ない足取りの男が倒れてしまわぬよう手を引きながら、子供は困ったものだと男を見る。
何度忠告しても変わらぬ男の妖への態度に、無駄だと知りながらも言葉をかけた。
「先生。何度も言っていますがね。手前共を甘やかしすぎると、堕ちてしまいやすよ」
永遠を口にし出す妖は、総じて堕ちてしまいやすい。何度も男に告げた事だ。けれども男は問題ない、と変わらず当然のように訪れる妖を受け入れ続けている。
危機感のない男に今回も無駄だろうと、半ば諦める子供の耳にふふ、と小さな笑い声が響く。
「大丈夫、だ。お前が、いる」
穏やかな声に、男の顔を見上げる。
眠そうに目を瞬かせながらも緩く微笑む、初めて見る男の表情に、思わず息を呑んだ。
「お前は、堕ちない。堕ちさせる、事もさせない。だから、問題、ない」
微睡む意識で紡がれる男の言葉は、絶対的な信頼だ。子供を妖として留め、他の妖を堕ちさせる事を許さない。
確固とした認識に、子供は思わず足を止め、男を正面から見据えた。
言葉なく男と目を合わせ、笑う。
「先生がその在り方を手前に望むのでしたなら、手前は喜んで応えましょう」
ぼんやりと、緩慢に頷く男を見て、子供は再び男の手を引いて歩き出す。
いいなあ、とどこからか聞こえる声を、寝所の戸を開ける音で掻き消し。
男を伴い部屋に入ると、音を立てずに戸を閉めた。
20250217 『時間よ止まれ』
風一つない、夕暮れ時。
魔の前の朱い鳥居を、睨み付けるようにして見上げた。
一歩足を踏み出す。ゆっくりと鳥居を潜り抜ける。
「…駄目か」
変わらぬ鳥居の先の光景に、舌打ちして小さく吐き捨てた。
鳥居は境界だ。現世と狭間を区切る、一種の扉。
戻れるはずなのだ。彼方側に。人が住む現世の世界に。
だが何度繰り返しても、一向に戻れる気配はなく。もどかしさに、表情が険しくなる。
「無駄よ。今日は風がないから、彼方側に繋がる事はないわ」
「可能性はゼロじゃない。私は戻らなくちゃいけないの」
聞こえた声にすら腹立たしさを覚え、眦を決して振り返った。
「あの子が待ってる。一人きりで泣いている声がするの。だから早く戻らないと」
「最初だけよ。その内、皆日常に戻っていくわ…三十年も経てば人も老い、世代も変わる。例え人の記憶に残れど、想いは風化してしまう。覚えていてくれる人も皆いなくなるの」
憂いを帯びた表情と、諦め凪いだ声音にぎり、と歯を食いしばる。
皆いなくなる、と繰り返す女性は、遠い過去を思い返しているのだろう。その目には悲哀が浮かんでいる。
女性もまた、遠い昔にこの狭間に誘われた。此方側に来た当初、女性も自分と同じく現世に戻るために彷徨った。三十年かけてこの鳥居に辿り着き、強く風の吹き荒れる日にここから現世へと戻る事が出来たのだという。
しかし女性は再びこの狭間に戻ってきた。女性の事を忘れず何処にいたかを尋ねる親戚達に別れを告げて、人として現世で生きる選択を放棄した。
詳しくを尋ねた事はない。ただ女性の目に未練はなく、幾許かの寂しさが滲んでいた。
「それでも、戻らないと」
女性の元へと歩み寄りながら、静かに告げる。
今も尚聞こえ続けている悲しく寂しげな声に、眉を寄せた。
小さな声。寂しいと泣くような、無事を只管に祈るような、愛しい声が耳奥で響く。間違えるはずのない、愛しいあの子の声だ。
「あの子は一人で頑張り過ぎてしまう所があるから。寂しい気持ちを我慢して叔父さん、叔母さんに何も言わない、そんな優しい子。私がいない事でさらに悲しい思いはさせたくない」
女性の手を取り、己の耳に当てる。
あの子の声が女性にも聞こえたのだろう。びくり、と震える肩を見ながら、あの子の声に耳を澄ませた。
「――泣いているわね。声を上げずに、泣いているわ」
「そうだね。あの子はそういう子だ。私がいないとあの子はちゃんと泣く事も出来ない」
だから戻らないと、と女性の手を離し、鳥居を見遣る。
風が吹く気配はない。鳥居の向こうの景色に変化は見られない。
「私の両親も姉も、こんな風に泣いていたのかしら。私がいなくなった事を悲しんでくれたのかしら」
小さく呟かれた言葉に、多分ね、とだけ伝える。
そう言えば、と思い出す。女性が戻った生家には、既に家族は亡かったと言っていた。
だから現世に未練はないのか。
「ねえ」
凪いだ声に視線だけを向ける。声音と同じく凪いだ表情をした女性が、戻りたいの、と今更な事を訊く。
「さっきから、そう言っている」
「でもあなた。私と違って体がないでしょう?彼方に戻れたとして、貴女の大切な子には見えないのではないかしら」
指摘され、苦笑した。
改めて自分を見下ろして、影を失った透ける体に眉を寄せる。
考えていなかった訳ではない。分からない事が多すぎて後回しにしていただけだ。
気がつけばこの狭間で、体を失った状態で彷徨っていた。此処にいる切っ掛けも理由も、何一つ記憶にないのだから、体の行方など知りようもない。
「戻った後に考えるよ。案外彼方側に体はあるのかもしれないしね。体がなくてもあの子の側にいる事くらいは出来るし」
耳奥であの子の声が響く。例え見えずとも、聞こえずとも、側に寄り添う事は出来る。側にいると伝える手段は、いくらでもあるはずだ。
「早く、戻らないと」
空を見上げる。
夕闇を濃くして夜が浸食していくその様を睨み、過ぎていく時間に忌ま忌ましさを覚えた。
身じろぐ腕の中の温もりに、微睡みかけた意識が浮上する。
「おねぇ、ちゃん」
「大丈夫。ここにいるよ。寂しくはないでしょう」
背を撫で耳元で囁けば、目は開かぬままにふふ、と彼女は笑い。再び胸元に擦り寄ると、しばらくして規則正しい寝息が聞こえてくる。
あどけない表情をして眠る従姉妹を見つめ、笑みが浮かぶ。額に唇を寄せて、微睡みに垣間見た過去を思い返した。
現世に渡るため試行錯誤していた過去を見たのは、おそらく先ほどまであの女性が来ていたからだろう。
現世に渡ったはずの自分が、狭間に戻ってきた。泣きじゃくる従姉妹を連れて。
気にかけるのも当然だ。困惑する女性に簡単に事情を説明すれば、嘆息して一言だけ告げて戻っていった。
「酷い執着ね。それは愛ではないわ」
思い返すだけでも込み上げてくる笑いを、必死に押し殺す。彼女を起こす訳にはいかない。
そんな事、最初から分かっていただろうに。この執着は女性と言葉を交わした最初から変わらない。
現世に渡り、全てを思い出した事で歯止めがきかなくなっていただけだ。
理不尽に奪われた命。最期に思ったのは、彼女の事だ。
彼女の元へと向かえば、嬉しそうにこちらに駆け寄り笑う姿を見て、欲が出た。
彼女の日常に入り込み、以前のような関係を演じた。彼女が自分を否定するのならば、離れるつもりではあった。
最後まで自分を否定せず、慕い続けたのは彼女だ。全ての種明かしをして、怖い思いもさせたというのに。彼女は泣きながらも、繋いだ手を解こうとはしなかった。だから此方まで連れてきた。
「この子に執着しているのは、痛感しているよ。でもこの子の側には、やっぱり私がいないと。この子も私に執着しているんだから」
自分の死を否定し続けているほどには。でなければ、自分の姿を見る事も、声を聞く事もなかっただろう。
可哀想に、と囁いて、目を閉じる。
現世から繋ぎ続けている手は今も離れない。
20250217 『君の声がする』
聞こえる囁きに、少年は眉を寄せた。
まただ。ここ最近聞こえるようになったそれに、何度目か分からない溜息が漏れる。
――近道なんてするんじゃなかった。
いくら後悔した所で、囁きが消える事はない。それでも思ってしまうほど、少年は疲れていた。
十日ほど前、少年は学校帰りに近道をした。
普段は決して通る事のない道だった。人気のない雑木林を通り抜ける、近所の誰もが通ろうとしない道。部活動の帰りで普段よりも遅くなってしまったために、少年としても苦渋の選択だった。
その道には噂があった。夜になってそこを通ると、声がついてくるのだ、と。
少年は信じてはいなかったが、近所の大人――特にお年寄り達は信じているようであった。何度も繰り返し、あの道は通るな、と険しい顔で言われていた事を思い出す。
少年がその道を通った時間帯は、夜ではなかった。だからこそ少年は近道をする事を選択したというのに。
項垂れる少年の耳元で、ひそひそ、こそこそと誰かが囁く。最初は気のせいだ、偶然だと思っていた。それくらい、囁きは意識しなければ気づかない程に曖昧な声だった。しかし日を追う毎に囁きははっきりと形を持ち、もはや誤魔化す事は出来なかった。
――今日はあっちの道がいい。明るい方がいいの。
疲れた思考で、少年は囁きの示す道はどちらだ、と考える。
姿なく、ただあっちと言われただけでは分かりようがない。
明るい道。こそこそと煩い囁きに顔を顰めながら視線を巡らせ、比較する。
家に帰るのに一番近いのは、雑木林を抜ける例の道だ。だがそこは明るさとは正反対だ。普段帰る道も人通りは少ない方で、明るいとは言いがたい。
選択肢を一つ一つ消していきながた、残った道に視線を向ける。
街中を通る道だ。店が多く人通りもあり明るくはある。だが迂回する形になってしまい、普段通る道より時間はかかる。
疲れた体は早く家で休みたいと訴えている。だが一方で、声に従った方がいいとも思っていた。
しばらく考え、肩を落としながら足を踏み出す。
煌びやかな店の電灯が、いつもよりも眩しく見えて目を細めた。
「君は、誰なの?」
ベッドで横になりながら、少年は小さく問いかける。
囁き声の言葉に従ったあの日。普段通る道に建っていた家で火事があったらしい。消防車や野次馬などで道はふさがれ、通るのが大変だったと母親がぼやいていた。
それ以降、何かと囁きの声に従い行動する事が増え、その結果難を逃れていた。
――私ね。あそこで死んだのよ。
その言葉に、ぎくり、と身を強張らせる。
――嘘だけど。
「嘘かよっ」
くすくす笑う声に脱力した。はぐらかされたような気になって、眉が寄る。
楽しげな声音は、まだ年若い少女のように聞こえる。どこか聞き覚えのあるような、ないような。曖昧な声に、少年は眉間に濃い皺を刻みながら考え込んだ。
――嘘だけど、あの道はもう通らないでね。昔、哀しい事があったのは本当だから。
知ってる、と少年は声には出さず呟いた。
昔、少しだけ調べた事がある。
理由なく雑木林の道を通るなと大人達に言われ、逆に気になってしまったからだ。確かに人気のない暗い雑木林は危険なのだろう。だが大人達の反応から、それだけではないと少年は思っていた。
街の図書館で、古い新聞記事を探した。手がかりがまったくない中で苦労はしたものの、それらしい記事を見つける事が出来た。
数十年前、あの雑木林で赤子を抱いた女性が亡くなっていた。
夫の実家で酷い目にあっていたらしい。痩せ細った女性は近所でも噂になっていた。
――誰もが知っていて、誰も助けなかったのか。
その記事を読んだ時から、少年は大人の言葉を素直に聞き入れる事が出来なくなった。
人に優しく。誠実に。
そんな言葉を言われる度に、嘘つきと内心で大人達を嗤っていた。自分達は優しくもなく、誠実とは言えないだろうに、と。
「いつまで俺にくっついてるの?」
ゆるく首を振り、話題を変えようとさらに問いかける。
さあね、と笑う声に混じり、こそこそと囁く声がした。
「こそこそ聞こえる声は、君の何?」
――知らない。関係ない。この声は、いろんな人の噂話の断片。雑木林にこびりついて膨らんでいった、噂を話す声の一部。雑木林を通っていったあなたにくっついているだけ。
淡々とした声に、少年は寝返りを打ちながらそう、とだけ答える。
目を閉じる。赤い暗闇の先に、、制服姿の少女の幻を垣間見た。
そう言えば、件の亡くなった女性が抱いていた赤子はその当時、生きていたと記事には載っていた。今も生きているとすれば、少年と同じくらいの年齢になるだろう。
少女の幻を瞼の裏に見ながら、昼の放送時に時折聞こえる声を思い出す。図書委員会のお知らせを読み上げる静かで柔らかな声は、今聞こえる声と同じだった。
「今度、図書室に会いに行ってもいい?君のおすすめの本とか教えてほしい」
ひゅっと息を呑む音がした。
答える声はない。こそこそと少年の耳元で囁く声だけが聞こえている。
やがてふぅ、と息を吐く音がして。囁く声がぴたり、と止まった。
――いつから、気づいていたの?
「ついさっき。図書館の事を思い出して、そう言えばこの前流れた新刊のお知らせを思い出したから。あらすじを聞いて気になったんだけど、タイトルを忘れたんだよな」
目を開けて、少年は体を起こす。もう一度、会いに行っていい?と尋ねると、苦笑した声が返ってきた。
――図書室内では、静かにしてくれるのならね。
その言葉に、少年は頷きながらも笑みを浮かべ。
「囁く声なら大丈夫?伝えたい事や聞きたい事がたくさんあるんだ」
聞こえる囁きを真似て、そっと声に向けて言葉を返した。
20250214 『そっと伝えたい』
彼は少しだけ先の未来を知っている気がする。
「宿題忘れただろ。今のうちにやっとけよ。怒られるぞ」
彼が忠告する時は、必ずと言っていいほど先生の機嫌が悪い。そんな時に宿題を忘れただなんて気づかれれば、普段よりも厳しく叱られるのは目に見えている。
「予習なんてしなくていいよ。どうせ自習になるんだし」
机に伏しながら彼が言えば、その授業は自習になった。
他にも急な小テストがあるとか、誰と誰が付き合うとか、気まぐれに彼は予言めいた話をする。彼が本当に未来を見ているのか、それは分からない。けれど彼の言葉に何度も救われていたのは事実だ。
「ねえ」
隣の席で寝ている彼に声をかける。
「…なに」
気怠げに起き上がる彼を見て、目が合わないようにと前を向く。
彼の顔を見ながら話す事は、苦手だ。すぐに何も言えなくなってしまう。
彼に気づかれないように、机の下で強く手を握る。声が上擦らないように意識しながら口を開いた。
「わたしの、運命の人ってどんな人だと思う?」
――君が、好き。
本当に言いたい事を隠して、ただの雑談に聞こえるよう誤魔化した。
「さあな。どうでもいい」
運命なんてくだらない、と小さく吐き捨てる。横目で見た彼は眉を寄せ、酷く不機嫌な顔をしていた。
「ぁ。ごめん、ね。変な事、聞いた」
「別に。それより、帰る準備でもしたら?今日は委員会も部活もなくなるみたいだ」
「…分かった。いつもありがとう」
また机に伏した彼を見つめる。
泣きそうな気持ちを、頬の内側を噛んで耐えた。
まだ明るい空の下、俯きながら一人帰る。
時折溢れ落ちる溜息が、さらに気分を沈ませる。そう分かってはいても止められない。
――嫌われてしまっただろうか。
そればかりを考える。何が悪かったのだろうと思い返しては苦しくなって、次第に視界が滲み出した。
周囲は人通りもなく、とても静かだ。泣きながら帰った所で誰かに見咎められる事もないだろう。
そんな事を考えれば、堰を切ったように涙が溢れてくる。上手く呼吸が出来ずしゃくりあげながら、家に向かって歩き続けた。
――彼が好きだ。
たぶん、最初から。
迷子になって学校の旧館に入り込んでしまった一年の時。呆れたように笑いながら手を差し出す彼に、恋をした。
思えば彼は、いつでも私を助けてくれた。鈍臭くて、よく迷子になる私に彼は笑って手を差し伸べて、時には予言のような言葉で導いてくれた。
私はそんな優しい彼に、何を返せたのだろう。頼ってばかりで、与えてもらうのみで。
彼に好かれる要素など、一つもない。嫌われるのは当然だろう。
気づいてしまった事実に、笑いが込み上げる。止まらない涙を目を擦って無理矢理拭い、顔を上げた。
「…あれ?」
足を止める。
道の先。黒い服を着た女の人の姿を認め、目を瞬いた。
俯いているため、顔は分からない。道の真ん中で佇む女性は。酷くやつれているようだった。
葬式の帰りなのかもしれない。ふと思う。
そう考えれば、黒一色の服は喪服のようにも見える。この付近で誰か亡くなったとは聞いた事がないから、どこか遠方であった葬式の帰りなのかもしれない。
大切な人だったのだろうか。微動だにしないその姿は悲哀を感じさせ、見ているこちらまで苦しくなる。悲しみに耐えかねて、動けなくなってしまったのかもしれない。
――声をかけてみようか。
赤の他人である私が出来る事は何もない。けれど話を聞く事くらいは出来るから。
目を擦り、残っていた涙を乱暴に拭う。佇んだままの女性の元へ、足を踏み出した。
少女が学校に来なくなって、一週間が経とうとしていた。
隣の誰もいない席を見る。担任は何も言わなかったが、彼女が行方不明になっているという噂は、教室いる生徒の誰もが知る事だった。
ここ最近、不可解な行方不明事件が頻発している。少女の他にも何人か行方が分からない生徒がおり、そろそろ部活や委員会の停止だけでなく、学校自体も休校になりそうであった。
隣の席から視線を外し、少年は窓の外を睨む。聞こえるいくつもの“聲”から少女の声を探すが、あの柔らかな響きは欠片も見当たらなかった。
少年は人の心の内が聞こえていた。
言葉では友好的でありながらも、内心では嫉妬や嘲りにまみれた“聲”を少年は常に聞き続けてきた。
少女は少年が未来を知っていると思っていたようであるが、それは少年が聞いた“聲”から先を覚り、彼女に伝えていただけに過ぎない。
ホームルームが終わるとほぼ同時。少年は外へと駆けだした。
少女が学校へ来なくなってから、放課後は少女を探す事が少年の日課だった。
少女の人柄を表すような、暖かで優しい“聲”。人の行動を覚る言葉を繰り返す少年に、変わらず接してくれる少女。
恋慕の“聲”を自分に向けながら、運命などと口にした少女に焦れて心ない言葉を言った事を、少年はずっと後悔している。あの時、もっと別の言葉を――いっそ自分の想いを告げてしまえば、今も少女は隣で笑っていたのではないか。もしかすれば、もっと近しい関係にもなり得たのかもしれない。
そんなもしもを抱えながら、少年は少女の“聲”を探して当てもなく街中を駆け抜ける。
何も聞こえないという事が、何を意味するのか。その事実から只管に目を逸らし続けていた。
はっとして顔を上げる。
放課後の教室。残っていたクラスメイトが何事かと視線を向けるのを、少年は何でもないと笑って誤魔化し時計を見る。
ホームルームが終わって、それほど時間は経っていない。夢を見ていた気もするが、どこからが夢なのかはっきりとしない。
目覚めたばかりの夢うつつの意識の中、無意識に少女の“聲”を探し――。
寂しげな“聲”を聞いて、反射的に外へと駆けだした。
少女だ。哀しく、後悔を滲ませた“聲”が、微かに聞こえている。
――嫌われてしまっただろうか。
その言葉は、少女がいなくなってしまった前日に聞こえてきた“聲”だった。そんな事あるか、と一人言葉を返していた事を思い出す。
これは夢なのだろうか。それとも少女がいなくなった事の方が夢であったのか。少年には判断がつかない。
少年は“聲”から人の行動の先を覚る事は出来たが、未来自体を覚る事は出来ないからだ。少なくとも、今まで未来を夢に視た事はなかった。
だからこそ、少女がいなくなった事が夢で今が現実だとするならば、少女が明日いなくなる可能性は限りなく低かった。きっと明日も少女は学校に来て、気まずい顔をしながらも少年に声をかけるのだ。
それでも。可能性が低いのだとしても。
悪夢のようなもしもを考ると、少年は足を止める事が出来なかった。
「やめろっ!」
女の人の元へと歩み寄ろうとした体は、けれど腕を強く引かれて背後へと倒れ込む。
慌てて背後を振り返る。険しい表情をした彼が、女の人を強く睨み付けていた。
「どうしたの?」
声をかけるが答えはない。
意味が分からずに、困惑しながら女の人と彼を交互に見て。遅れて、彼の腕の中に抱き留められている状況に気づく。
「え…あ、まって。待って、お願いっ」
「少し黙ってて。いい子だから」
「っ!?」
頭を引き寄せられて、耳元で小さく囁かれる。それだけで何も言えず硬直する私を、彼は宥めるように背を撫でた。
びくり、と肩が跳ねる。何が起こっているのか何一つ分からず、混乱する思考で縋るように彼の制服を掴んだ。
静かだ。
彼は何も言わない。女の人の声も、周囲の音すら聞こえない事に、ようやく違和感を感じた。
何故、何の音もしないのか。誰もいなくても、風に揺れる木々の音や、カラスの鳴き声が聞こえてもいいはずなのに。
制服を掴む手に、力が籠もる。込み上げる恐怖に耐えながら、彼の肩に額を押し当てきつく目を閉じた。
「あんたが探しているのはこの子じゃない。どっかに行っちまえ」
低い、険を帯びた彼の声音。聞いた事のない冷たいそれに、不安になって顔を上げて彼を見る。
その瞬間。強く風が吹いた。
思わず目を閉じ。
「もういいよ。大丈夫だ」
彼の声と背を撫でる手に、目を開けて彼を見た。
「…泣いてるの?」
彼の目が涙の膜に覆われているのを見て、問いかける。
何か悲しい事があったのだろうか。
「別に…ちょっと、安心しただけ」
「安心?」
「もうさ。俺以外、見るなよ。お人好しなのもいい加減にしてくれ」
そう言って、彼は疲れたように笑う。言っている意味が分からなくて、けれど彼の涙を拭ってしまいたくて、掴んでいたままだった彼の制服から手を離し。
さっきから彼に抱きしめられたままなのを、思い出してしまった。
「っつ!?ご、ごめん!すぐ、離れ、る…は、離してっ!」
「駄目。離すのは駄目だ。まだ安心出来ない」
「ちょっ、と。何、言って。何」
安心したと言いながら、安心出来ないとはどういう意味なのか。
とにかく離れようと踠くも、彼の腕が離れる事はない。逆に強く抱きしめられて、声にならない悲鳴が漏れる。
「運命の人の話したの覚えてる?」
覚えているもなにも、別れる前に話したばかりの話題だ。
正直、忘れてしまいたかったのに。何故、このタイミングで話題に出すのだろう。
「どうでもいいって言ったけどさ。詳しく言ってなかったよな」
「な、に…?」
どこか苦しげな声に、恐る恐る顔を上げる。彼と間近で目が合い、泣きながら笑う彼に息を呑んだ。
「お前に運命の人がいたとして、結ばれる事なんて絶対にないよ。お前の気持ちを全部知ってるくせに黙ってて。そのくせ運命の人とか言われただけで拗ねるような、臆病で我が儘な目の前の誰かが邪魔するから。他の誰かに好意を持ったり持たれたりした時点で、徹底的に潰してやる」
「え。なに。何、言って」
「お前が好きって事」
それは。つまり。
私の気持ちを、彼は知って。
彼も、私を。
好き、だって事は。
つまり。
「っおい。大丈夫か?大丈夫じゃないな…まったく、気絶する前に返事くらい聞かせてくれよ」
視界が黒く染まっていく中で、彼の呆れた声が響く。
何か言わなければ、と口を開くが、掠れた吐息すら出てこない。
駄目だ。恐怖と、安堵と。突然の事が連続して起きて、混乱しすぎて、限界だった。
――彼が好きだって、言いたいのに。
もどかしさを覚えながら、耐えきれずに彼に凭れ意識を手放す。
好きだ、という柔らかな声が聞こえたのは、気のせいでないと思いたかった。
20250213 『未来の記憶』