sairo

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2/8/2025, 6:45:40 AM

夜が明けきらぬ、しん、と静まりかえった暗い空の下。人目を避けるように木の合間を抜けながら走る、小さな影が一つ。
時折周囲を気にして足を止めては、またすぐに駆け出す。
吐く息は白く、それでもその口元は笑みを湛えて。

不意に、小さな影の足が止まる。周囲を気にして足を止めたのではない。まるで時が止まったかの如く、不自然な体勢で影は動きを止めていた。


「随分とお転婆になられたものですね」

呆れを乗せた声と共に、音もなく影の背後に男が現れる。動きを止めたままの影を――幼子を抱き上げ、その体の冷たさに眉を顰めた。

「戻りますよ。まったく、夜遊びは控えるようにと散々申しておりますのに」
「もう少しだったのだが。仕方がないな」

頬を膨らませ不満を露わにしながらも、幼子は暴れる事なく男に擦り寄る。男の首に腕を回し、抱きついた。

「満月《みつき》」
「なんだ。満理《みつり》」

男に呼ばれ、幼子は腕を離し視線を向ける。

「私の元を抜け出してまで、日の出が見たいのですか?」
「見たいな。理由は分からぬが、ずっと見たいと思っていた気がする」

首を傾げ、幼子は屈託なく笑う。その笑みに男もまた柔らかな微笑みを返し、戻る足を止めた。幼子が向かっていた方向へと行き先を変え、ゆっくりと歩き出す。

「満理はいつも優しいな。記憶のない私の側にいてくれるだけで、私は十分だというのに。こうして我が儘を聞き入れてくれるのだから」
「満月は私のものに御座います故」

くすくすと二人、笑い合う。穏やかな足取りで道を行く。

木々を抜けた先。開けた場所で男は立ち止まる。
見上げる空は群青から淡紅へと色を変え、夜明けが近い事を示している。
目を細めて、その不思議な色合いを幼子は見つめ。ほぅ、と息を吐いて、男に凭れかかった。

「不思議な感じだ。日の出はまだだというのに、既に満たされている。満理と共にいるからだろうか」

目を瞬いて男を見上げ、そして空を見て。
何かに気づいて、幼子は花開くように微笑んだ。

「日の出ではないな。私は夜明けが見たかったのか。夜が終わるその先に、私は満理と共に在る事を確かめたかったのだな」
「今日の満月は、随分と素直ですね」

微笑む幼子に男は笑みを浮かべながらも、その目には戸惑いが浮かんでいる。幼子の記憶がどれだけ残っているのか、或いは戻ってきているのかを見極めようと、問いかけた。

「残っているものはありますか」

何が、とは敢えて言わず。
だが幼子はきょとり、と目を瞬かせ、悩み考えながら男に言葉を返す。

「満理を、きっと覚えているのだろう。それは記憶ではない。感覚的な、感情の名残のような、形のないものだけれど」

幼子の答えに男は何も言わず、その小さな背を撫でる。笑みを浮かべ擦り寄る幼子を抱え直し、空を仰いだ。

間もなく夜が明ける。
夜明けを求める幼子が、かつては夜しか在れぬ事を幼子は覚えてはいない。
妖の母と人間の父との間に生まれた、過去、現在、未来全てを見通す眼を宿した娘。妖の母により、陽の光に焼かれる呪をその身に刻まれた、憐れな子。徒人よりも成長の早いその身とは異なり精神が幼いままの娘は、今は男の影の中で眠り続けている。
此処にいるのは、娘の精神に会わせて男が作り上げた形代だ。故に娘は幼いまま。己の過去も眼の事さえ忘れ、ただ男と共に在る。
記憶を消したのは、男の賭けだ。何もかもを忘れた娘は、男と共に在り続ける理由はない。だが妖の母を、己の眼の記憶がなければ、娘はただの娘となる。
結果、男は賭けに勝った。娘は男と共に在り、陽に焼ける呪から解き放たれて、今は陽の光の下を歩く事が出来る。


「満月。夜が明けますよ」
「日の出か。いつ見ても、綺麗なものだ」

赤く染まる空と地の境。一筋の光を幼子は目を細めて見つめた。

日の出だ。夜が明け、朝が訪れる。
昇る陽を見つめ、ふふ、と幼子は笑みを溢す。男の頬に手を伸ばし、眼を覗き込むようにして身を乗り出す。
蕩けるような金が深縹を見つめ、満理、と静かに名を呼んだ。

「如何しましたか?」
「少し思った。日の出は綺麗だが、満理の眼の方がもっと綺麗だ」
「戯《たわむ》れ言も程々になさい」
「本当の事だろう。満理は綺麗だ。陽も、月も。満理には敵わない」

くすり、と微笑んで、幼子は男の首元に戯れついた。
嘘偽りのない本心からの幼子の言葉は、男の心を酷く騒つかせる。悟られぬようにと男は幼子の背を撫ぜて、静かに息を吐いた。

「満月。御母堂が居られない事は、寂しくはありませんか?」
「満理がいるから気にもならないな。記憶にない母より、満理と共にいられない事の方が、私にとっては苦しいよ」

呟いて、幼子は男にしがみつく。離れるもしもを想像して、怖くなったのだろう。離れたくない、と男の服の端を、小さな手で必死に掴んだ。

「そう心配なさらずとも、満月が望む限り私は共に在りますよ」

服を掴む幼子の手を上から握り、摩る。解け離れていく手を繋ぎ、男は柔らかく微笑んだ。

「さて、夜が明けました故、そろそろ戻りましょうか。体が冷えておりますよ」
「分かった。戻ろうか」

戻る旨を伝え、頷く幼子の反応を見て、男は踵を返す。

夜が明けた。
陽は昇り、空が青く染まり出す。
静かだった世界が、明るさと共に賑やかを取り戻していく。
陽に幼子が燃える様子はない。
それに密かに男は微笑んで、幼子を優しく抱きかかえ直した。



20250207 『静かな夜明け』

2/7/2025, 4:49:44 AM

「レディ。今日こそは話をしようか」
「話す事は何もありません」

唇の端を歪めて嗤う彼から目を逸らす。
金色を纏った炎のように鮮やかな赤色が、視界の端でちらついた。
赤は怒りの色だ。激しく燃え上がる怒りを内に秘めながら、彼は話せと繰り返す。
一体何を話せと言うのだろうか。話す事で何の意味があるのだろうか。

「聞きたい事があるならば、素直に言葉にする事だ。レディ」
「話す事など、何も」
「嘘を吐くな」

鋭く冷たい声が、赤色を濃くして責め立てる。彼の手が首を掴んで、無理矢理に彼と目を合わせられた。

「俺は嘘が嫌いだと、最初に言ったはずだ」
「嘘、じゃない。本当に、何も…意味が、ない、のに」
「レディ」

赤色が消える。静かでありながら強い目に見据えられ、小さく肩が跳ねた。
色が見えない。他者の心の内を色で見る自分には、初めての事だ。

「レディ。最初の質問は何だ?」
「…何で。色が見えなくなるの?」

微かな呟きは、彼には理解できぬ事だろう。だが彼は笑みを浮かべ、首を掴んだままの手を離した。
彼の回りで金色が揺れる。誇りや自信。自分にはないものを纏い、彼は口を開いた。

「簡単な事だ。心を静めれば無になる。感情の色を見るレディには、無の色が見えないだけだろう」
「っ、なんで、知って」
「レディの瞳と似たものを、俺の故郷で見た事がある。より精巧な、心の内をすべて暴く瞳を知っている」

この忌々しい瞳を持つ誰かが、自分の他にもいる。それに救いを見出しかけて、自嘲する。
ただの色以上が見える誰かは、自分以上の苦痛を味わっているだろうに。それを比較して自分は誰かよりましなのだと、勝手に救われようとする自分の浅はかさに嫌悪した。

「次の質問の前に座るか。長い話になりそうだしな」

彼に促され、ソファへと向かう。一人掛けのソファに座らされ、彼は近くの椅子に腰をかけた。

「さて次の質問を聞こうか」

俯いて、首を振る。何を聞けばいいのか、分からない。

「思うままを言葉にしろ。俺はそのすべての言葉に、誠実に答えを返そう」
「何故?」
「それが俺の在り方だからだ」

彼の在り方。存在。
そもそも、彼について何も知らない事に気づいた。

「貴方は誰ですか?何故、こんな山奥にいたの?」

顔を上げて、彼に問う。
人目を避けるために移り住んだ山奥の家。山菜を採るために出かけた先で、彼を見つけた。
今目の前の人の姿をした彼ではない、黒い翼を有した狼のような姿をした彼。何の色も見えない、作り物のように美しい彼に目を奪われた。
彼と目が合って、人の姿へと形を変えた彼にも色は見えず。彼の求めるままに、気づけば家に招き入れていた。
自分は彼の故郷も、名前すらも知らないのだ。

「そうだな…Devil、Demon…悪魔、と言えば通じるだろうか。この島国から遠い大陸から、契約者だった者と共にこの地に訪れた」

彼が纏う金色に、赤色が滲む。先ほどよりも暗い赤色がゆらりと揺れて、彼は酷薄に唇を歪めた。

「だが契約者は死んだ。俺が殺した。俺に嘘をつくものは、例外なくそうなる。レディも気をつける事だ」
「契約者がいないのなら、帰ればいい」
「それが正しいのだろう。本来ならば、契約者が死んだ時点で帰るべきだ」

彼の目に射竦められる。消えない暗い赤色が揺らぎながら近づいて、鎖のように纏わり付く。
こんな事は初めてだ。今まで誰かの色が自分に影響する事はなかった。どんなに黒く濁った感情を誰かに向けられても、その色はその誰かに纏わり付いているだけだったはずなのに。
動けない自分に彼は笑う。その目に怒りは見えないのに、赤色はさらに色を濁らせていく。

「レディ。俺の契約者になってくれ。対価としてその身を害するものすべてから守り、求める答えを与えよう」

契約者。それが何を意味するのか、正しくは知らない。
けれど一度頷いてしまえば戻れない恐怖から、必死で首を振り否定した。

「ぃ、やです。貴方と、契約なんて、しない」
「残念だ、レディ…その言葉は、少しばかり遅かったようだ」

徐に、彼は立ち上がる。音もなく歩み寄り、身を屈めて目を覗き込んだ。
彼の誇りを表した金色と、怒りの赤色が混じった不思議な色合いの瞳が、怯える自分を映して歪む。

「拒絶するならば、最初からでなければ。家に招き入れ言葉を交わしたその瞬間に、契約は成された」
「なん、で。そんな」
「レディのその瞳が気に入った。異端として虐げられて尚、純粋さを保つ魂の色を映す綺麗な瞳を、欲しいと思った」

彼の手が頬に触れる。冷たい指先が零れ落ちる滴を拭い、そこで自分が泣いている事に気づく。

「何も告げずにいた無礼は詫びよう。代わりに暫くはレディの言葉の誤りを嘘とはしないでおこう。誰かと言葉を交わす事などなかったレディには、言葉を正しく紡ぐ事はまだ難しいだろうからな」

彼は笑う。涙の止まらない自分を見つめ、瞼に唇を寄せる。
動けず固まったままの自分を、彼の赤色が縛り上げていく。
あぁ、と声が漏れる。気づいてしまった。
この色は怒りではない。この赤は血の色だ。
これは血の契約だ。


「さあ、レディ。心ゆくまで語り合おう。Have a heart to heartというやつだ。こちらの言葉では、腹を割って話す、だったか?…心配するな。本当に腹を割る事も、心臓を抉る事もしないさ。レディが誠実である限りは、ね」

契約の鎖に縛られる自分を前に、彼は手を差し出す。
動けないはずの腕が、意思に反して持ち上がり。
その手を取って恭しく口付ける彼を、ただ見つめるしか出来なかった。



20250206 『heart to heart』

2/6/2025, 4:10:35 AM

その女性はいつも、色鮮やかな花束を抱いて立っている。

信号待ちの交差点。視界の隅で揺れる極彩色に、少年は視線を向けた。
道路を挟んだ向かい側に、花束を持った女性が立っていた。幸せそうに微笑んで、手にした花束を見つめている。
遠目からでは花の種類までは分からない。ただ赤や白、黄色など色とりどりの花は遠目からでも美しく、目を惹きつけた。
信号が青に変わり、人々が動き出す。女性から視線を逸らし、少年も歩き出した。
こちらへ歩く人の波に、女性の姿は見つける事は出来ない。視線だけを動かして花束の鮮やかな色を探すが、見えるのは少年と同じ紺や白の制服ばかりだ。
信号を渡りきり、周囲を見る。けれども女性の姿を見つける事は出来なかった。
はぁ、と少年は溜息を吐く。こうして女性の姿を探しては、見つけられずに信号を渡りきるのは疾うに十を超えていた。
心の底から美しいと思えるあの花束を、一度は間近で見てみたい。
もう一度周囲を見渡して、肩を落としながら少年は歩き出した。





「ねえ」

不意に声をかけられて、少年は肩を跳ねさせ振り返る。

「驚かせてごめんなさい」

眉を下げ、微笑む女性がそこにいた。
手にした花束は今日も変わらず色鮮やかで、少年は魅入るように視線を向ける。

「あなた、いつも私の花を見てくれているよね」
「ぁ。ご、ごめんなさいっ」

女性の言葉にはっとして、慌てて少年は謝罪する。赤く染まる顔に、女性は怒るでもなく笑んだまま首を振った。

「謝らないで。私、あなたとお話をしてみたかったの」
「話、ですか?」
「そうよ。私の育てた花を、あなたは見てくれたから」

愛おしげに花束を見つめ、ありがとう、と女性は感謝の言葉を述べる。その声音がどこか寂しげにも感じられて、少年は女性を見つめた。

「えっと、あの」
「皆、忙しくなってしまったわね。綺麗に咲いたから見てもらいたくて、こうして花束にしてみたけど。あなた以外は気にもかけてくれなかったわ」

以前は誰かしら足を止めて、花を褒めてくれたのに。
そう呟く女性はやはり寂しそうで。
花を見る。美しく咲いた種々の花はふわり、と甘い香りを漂わせ、少年を惹きつける。
こんなにも美しい花に何も感じない大人達が、少年には信じられなかった。

「とても、きれいだと思います。うまく言えないけど、すごく目を惹くっていうか。俺、ずっと近くで花を見てみたかったんです」
「ありがとう。そう言ってくれると、幸せだわ」

ふふ、と女性は微笑んで、そして何かを思いついたように、そうだ、と小さく呟いた。

「あなた、これから時間はあるかしら?」
「あ、はい。大丈夫ですけど」

今日は特に予定もなく、家に帰るだけだ。少年がそれを伝えると、女性は楽しげな色を目に浮かべ、囁いた。

「花を褒めてくれたお礼に、私の温室に招待してあげる。特別よ」

女性が大切に育ててきたという花が見られるという期待に、少年は迷う事なく頷いた。



街の外れの一角にある大きな屋敷が、女性の家であるらしい。
尻込みする少年を余所に、女性は門扉を開け入っていく。

「こっちよ。おいで」

手招かれて、少年は恐る恐る門扉を抜ける。先を行く女性の背を追いながら、広大な庭へと足を踏み入れた。

「すごい」

綺麗に整えられた庭の奥。美しい硝子張りの温室を視界に入れて、少年は思わず声を上げた。温室内に咲き誇る花々は、外から見ても瑞々しく美しい。

「入口はこっちよ。いらっしゃい」

温室の扉に手をかけ、女性は少年を呼ぶ。少年を前に恭しく扉を開けて、悪戯めいた目をして女性は笑った。

「ようこそ。私の秘密の温室へ」
「お、おじゃまします」

気恥ずかしげに俯いて、少年は温室の中に足を踏み入れる。だが漂う香しさと視界の隅の極彩色に、すぐに顔を上げて表情を綻ばせた。

赤、白、黄色、紫。
少年でも名前を知っている花や見た事もない花が、温室内に咲き乱れている。枯れる事を知らないような、永遠に似た楽園がそこにはあった。

「綺麗でしょう?私の自慢の花なのよ」
「きれいです。凄く、とっても凄くきれいだ」
「気に入ってもらえてよかったわ」

きらきらと目を輝かせる少年に、女性は満足げに笑い扉を閉めた。硝子越しの空が夜色に染まっていくのを、だが花に魅入る少年は気づかない。
音もなく少年の背後に立ち、ねえ、と女性は声をかける。

「あなた、この温室で花を育ててみない?」
「え?俺が、ですか?」

困惑して少年は女性を見る。突然の事に理解が追いついていないのだろう。
そんな少年に笑って、女性はそうよ、と頷いた。

「でも、俺。花とか育てた事がないし」
「大丈夫よ。あなたは花を綺麗だと思ってくれているもの」
「だけど」

迷い視線を彷徨わせる少年に、来て、と女性は告げて歩き出す。躊躇いながらも、花の香りに導かれるように少年は女性の後に続いた。


「あなたに花を育ててほしいの。私を戻さなければならなくなってしまったから」
「戻るって?どういう意味ですか」
「そのままの意味よ。戻さないと、温室を壊されてしまうから。私がいなくなった後を頼みたいの」

淡々とした女性の声は、向かう温室の奥のような暗さを孕み不安をかき立てる。

「私の花は永遠なの。そうでなければならないのよ」

足は止まらない。不安に視線を彷徨わせながらも、少年は女性の紡ぐ言葉に同意する。
この花は永遠だ。終わりなどは相応しくない。
花の香りに思考が霞み、不安を覆い隠す。どこか夢見心地で、少年は女性の背を追い続けた。

温室の最奥。そこでようやく女性の足が止まる。
硝子越しに見える空は既に暗く。僅かに欠けた月と星だけが、暗い温室をぼんやりと照らしていた。
遅れて少年の足も止まり。女性は少年に視線を向けて、困ったように微笑んだ。

「良い土を選んでいるから当分は枯れる心配はないけれど。手入れをしなくては、美しさは損なわれてしまう」

女性が指を差す。その方向へと少年は視線を向け、少年は息を呑んだ。
不自然な土の塊から、赤いバラが群生している。無秩序に咲き乱れるバラは、温室の入口で見た花とは異なり、少年に嫌悪感を抱かせた。
美しくない。このままの状態では、この温室に相応しくはない。

「お願い出来るかしら。私の次の管理者になって」
「…でも、どうすればいいか」
「大丈夫よ。これを」

そう言って、女性は少年に花束を差し出す。
色鮮やかな花束。永遠の花で作られた、永遠の花束。
ゆっくりと腕を上げて、花束を受け取る。香しい花の匂いを吸い込んで、目を閉じた。

「受け取ってくれてよかった。花の手入れをお願いね」

女性からではなく、すぐ側で声が聞こえた。
目を開ければ、花束の中に一輪、黒と白の花が紛れている。
目を凝らせば、それは美しい女の顔になり。

「上手に手入れが出来ている間は、土にはしないでいてあげる。さあ、まずはあの薔薇を整えてちょうだい」

女の顔をした花は妖しく微笑み、囁く。

「はい」

その言葉に少年は頷いて、花束を抱えたままバラの元へと歩み寄る。
その目は虚ろでありながら、夢に浮かされたように微笑みを湛えて。
膝をついて、傍らに花束を置く。代わりに土に突き刺さったままの鋏を抜いた。
僅かに身じろぐ土を押さえつけ、呻く声など聞こえないかのように。

人の体に咲き乱れるバラを、一本ずつ間引いていった。





交差点の片隅。
いつからか密やかに囁かれる噂話。


その少年はいつも、色鮮やかな花束を抱いて立っている。
もしも、少年に声をかけられても、決して振り返ってはいけない。
振り返ってしまったのならば。



20250205 『永遠の花束』

2/5/2025, 7:35:54 AM

「やさしくしないで」

抑揚のない声が座敷に響く。

「優しくしているつもりはないよ」

言葉を返せば、座敷の四方や内土間からひそひそといくつもの囁く声がする。
うそだ、と誰かが囁いて。そうだ、といくつもの声が同意した。

「うそつき」
「あなたはいつでもやさしい」
「やさしいのはこわい」
「こわいよ」

こわい、こわい、と声は囁く。
内土間でダレかが這い回り、ナニかが臼を搗《つ》く音を立てる。
段々に増える声と音に、一つ息を吐いた。

「どこが優しい?」

声を上げる。
刹那に静まりかえる座敷は、しかし次の瞬間には先ほどよりも多くの声が響き渡る。

「こえをかけてくれるところ」
「みてくれるところ」
「ふれてくれる。なでてくれるところも」
「ぜんぶ。ぜんぶがやさしい」
「あなたのそんざいが、やさしいの」

くすくすと笑う囁きが、波のように座敷に広がっていく。
やさしくしないで、といくつもの声が繰り返す。
はぁ、とまた一つ息を吐いて。どうしたものか、と誰にでもなく呟いた。
優しくするなと声は言うが、同じ声で己の存在が優しいのだと言う。己の意思では変えられぬそれに、僅かに眉を顰めた。

「此処から出て行けと。そういう意味か?」
「違うっ!」

困惑を乗せた言葉は、強い声に否定される。声の方へ振り返れば、白く綺麗な幼子が肩で息を切らせてこちらを睨み付けていた。

「なんでそんなひどい事を言うの!」
「優しくするなと言ったのはそっちだろうに」
「っ、ばか!」

きっ、と睨み付け、幼子は大股でこちらに歩み寄る。小さな両手で己の頬に触れ、怒りの感情のままに抓り上げた。

「逆でしょう!?ここはあなたのお家なんだから。出て行くならわたしたちの方なのにっ!」
「痛っ。やめ、」

抓った頬を上下に揺すられ、慌てて止める。幼子の力だといえど、普通に痛い。
ふん、と鼻息荒く、そっぽを向いて。幼子は頬から手を離すと己を押しのけ炬燵に入り、食べかけの饅頭に手を伸ばした。

「人のものを食べるな。新しいのを出してやるから」
「そういう所!なんですぐに優しくするの」

さらに怒りを露わにし、幼子は止める間もなく饅頭を口にする。まったく、と文句を言いながら饅頭を平らげ、こちらを睨み上げた。

「優しいのは怖いのよ。特にわたしたちにとって、優しさは最期と同じ意味になるわ」
「あぁ、そういう」
「それにね。わたしたちは妖なのよ」

優しさが怖いという言葉の意味を理解しかけ、しかし続く幼子の言葉に首を傾げた。
前者は理解できる。幼子を含めた声達は皆、かつて間引かれて最期を迎えたのだから。
良心の呵責か。命を奪うという罪悪感か。それとも自らが生き残るための行為に対する言い訳か。
どんな理由であれ、子を間引く前に親は子に優しさを与えた。抱きしめ、頭を撫でて。愛を口にし、涙を流す。
この家に移り住んで、夜ごと繰り返し夢で見てきた事だ。話した事はないが、あれは幼子達の最期の記憶なのだろう。
優しさは別れに繋がり、それ故に怖いのだという事は理解できる。
だが、後者は分からない。

「妖であろうとなかろうと、お前達は何も変わらないと思うが」

考えても分からず、幼子に問いかける。呆れたように溜息を吐いて、幼子はあのね、と子供に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。

「妖はね、人間の望みに応えるモノなの。わたしたちもそう。豊かであれば子を間引く事もなかった親の後悔に、富が欲しいという望みに応えてここに在るの」
「それは知ってる」

何度も聞かされてきた事だ。さすがに覚えていると伝えれば、幼子の目に僅かに憐みの色が浮かんだ。

「知っているなら、何故あなたはわたしたちに何も望まないの?人間が望み、妖が応えて。その対価として妖は認識されるのに」

咎めるように視線に、思わず目を逸らす。
何故、と言われても、望みはないのだから仕方がない。

「毎日共にいるから、認識は歪まない、はずだ。だからあえて何かを望まなくても」
「一方的に与えられるその優しさはね、毒みたいなものよ。段々と手放したくなくなるの。何の見返りもなく、正しく認識してくれる存在を失うのが怖くなって…そうしたら、どうなると思う?」

昔、教えられた事のある幼子の問いかけに、視線を逸らしたままで記憶を辿る。
話半分に聞いていた事だ。思い返せど、何一つ思い出せるものはない。
幼子に視線を向けて。気まずさに、曖昧な笑みを浮かべた。

「大変な、事になる?」
「あなた、本当に物覚えが悪いのね」

頬を抓られる。先ほどよりも強い力に、ごめんなさい、と素直に謝罪をした。

「堕ちるのよ。その優しさが他に向かないように、失う事のないように隠して壊してしまうの。否定されるのは嫌だから、都合のいいように中身を作り替えて…その内、隠した子の事を忘れて、自分自身を忘れて狂っていくわ」

だから優しくしないで、と幼子は言う。
たくさんの声がやさしいのはこわい、と続けた。

「分かってくれた?」

幼子が微笑む。痛みに赤く染まる己の頬に触れて、答えを待っている。
理解したと頷くのは簡単だ。だがその後には、幼子に望まなくてはならない。
望みはない。本当に望むものは何一つないのだ。

「望みはないよ」

幼子を見返し、事実を告げる。何もないのだと、自嘲して見せた。

「空っぽなんだ。何もない。これは優しさなんかじゃない。易しいから、そうしているだけだ」
「易しくはないわ。あなたがしている事は」
「易しいよ。何も考えていない行動だ。無責任で、自己満足な。最低の行為だ」

力なく横になる。幼子や声、己自身から逃げるように、目を閉じた。

不意に頭に小さな手が触れる。慰めるような優しい手が頭を撫で。次第にその手は増えていき、背や頬を撫でていく。

「いいこ」
「さびしくないよ」
「みんなここにいるよ」

たくさんの声が優しく降り注ぐ。伽藍堂の己の隙間に入り込むその優しさは、暖かでありながらどこか痛みを伴っていた。

「優しくしないで」

痛くて泣いてしまいそうだ。
そう伝えれば、いくつもの笑い声が応え。さらにたくさんの声が、手が、己を慰める。

「ばかね。言葉を間違っているわ」

くすくすと、幼子が笑う。母のようで父のような。懐かしい優しさを乗せて、囁いた。

「こんな時はね。寂しいって素直に言うものよ。あなたのお父さんとお母さんの代わりには成れないけれど、一緒にいる事くらいは、わたしたちにも出来るわ」

唇を噛んで、泣くのを耐える。けれど暖かな手が目尻をなぞり唇に触れて、小さな抵抗は意味をなさなくなった。
嗚咽が漏れる。零れる滴が頬を伝い、頬を撫でていた手に拭われる。

「ずっと、一緒に、いて。置いて、いかな、い、で」

一人は嫌だ、と。しゃくり上げながら望めば、撫でる手は一層優しさを増した。

「応えてあげる。わたしたちがあなたを一人にはさせないわ。寂しさなんかなくして、空っぽでなくしてあげるから」

幼子の声に、たくさんの声が同意する。
きゃらきゃらと笑う声に。いっしょだよ、と囁く声にさらに涙が零れ落ちる。

いくつもの声に囲まれながら。
優しさは、痛いものだと初めて知った。



20250204 『やさしくしないで』

2/4/2025, 4:43:41 AM

――クチイリさんへ

白い紙に書いた名前を、睨み付けるようにして見る。
宛名を書いてから、そろそろ一時間が経とうとしている。だが続く手紙の文字は、一文字も書く事が出来ず。
はぁ、と溜息を吐く。ペンを置き、紙をぐしゃぐしゃに丸めてゴミ箱に投げ入れた。


クチイリさん。
誰が始めたのか分からない、いつの間にか広まっていたおまじない。
クチイリさん宛てに願い事を書いて、その手紙を一日誰にも見つからないように持ち歩く。そして夕方、学校の裏の大きな木の穴に手紙を入れれば、願いが叶うと言う。
ただのおまじない。結局は噂話だ。願い事なんて叶うはずはない。
そうは思っても、手は新しい紙へと伸びて。そんな自分に呆れ、また一つ溜息を吐いて立ち上がる。

「おまじないなんて、意味がない」

言い聞かせるように呟く。それでもぐるぐると渦を巻く悲しみから逃げ出すように、部屋を出た。





目的もなく外に出て、気づけば学校まで来てしまっていた。
誰もいない。今日は休日なのだから当然だと思いながらも、見慣れない学校の雰囲気に息を呑む。


「…あれ?」

違和感に眉が寄る。誰もいないはずだ。それなのに。

――校門が、開いていた。

招かれているみたいだ、とあり得ない事を思う。
見上げる空はオレンジに染まり、もうすぐ夜が来ると告げている。
帰らなければ。夜が来る前に。
そう思ってはいても、体はその場から動こうとはせず。
惹かれるようにして、学校へと足を踏み入れた。



誰もいない校舎の横を通り過ぎ、裏の雑木林へと向かう。鬱蒼と生い茂る木々を抜けて、その一番奥。他の木々よりも一回り大きなケヤキの木の前で立ち止まった。
正面に開いた木の洞《うろ》に視線を向ける。
手紙は書けなかった。おまじないは出来ない。
それでも、と腕を伸ばす。もしかしたら、と淡い期待で手を洞の中へと。

「なぁにしてんだ。おめぇ」

聞こえた声に手が止まる。

「またあれか。くだらねぇ呪いをやってんのか」

くだらない、の言葉に反射的に手を引いて、振り返る。
無精髭を生やした男の人が、藁で出来た袋を担いで立っていた。
面倒だと言いたげな表情をしながらも、彼の目は鋭く真っ直ぐに自分を見定めている。
その目に宿る感情の名前を知っている。父と同じ目だ。
静かに、それでも激しいそれは、怒りだ。


「ごめんなさい」
「術師でもねぇ奴が、呪いなんざするもんじゃねぇよ。自分も回りも巻き込んで、くたばるのが落ちだ」

吐き捨てる彼の言葉に、身を竦める。近づく彼から離れるように一歩大きく横に移動すると、彼は自分の事など目もくれず洞の中に手を入れた。
がさがさと紙のすれる音がする。しばらくして引き抜かれた彼の手には、たくさんの紙の束が握られていた。

「まったく。飽きねぇもんだな」

溜息を吐きながら、紙の束を担いでいた袋に入れて行き。何度か繰り返して、彼は何かに気づいたようにこちらを見た。

「なんだ。おめぇ、呪いをしにきた訳じゃねぇのか」

強い視線に声が出ず。かろうじて頷くと、彼の視線が少しだけ柔らかくなる。
それに安堵の息を漏らし。それでも彼と目を合わせる事は出来ずに、俯きながらも口を開く。

「校門が、開いてて。気になって。それで」
「呼ばれたのか。って事は、呪いをしようとしたな」
「っ、ごめんなさい…でも、書けなかった」

服の端を握りしめる。俯く顔を上げて、彼を見た。
何故だろう。彼にすべて話してしまいたくなった。

「願いが叶う、って。そんな事ないって思ってるけど。でもおまじないしか、私に出来なくて」

彼は何も言わない。鋭さのなくなった、それでも強い目をして話の続きを促している。
俯いてしまいそうになる顔を必死で上げる。段々と滲む視界に、目を擦って耐える。

「お母さんを返して下さいって、お願いしたかったの。お母さん、目の前で消えちゃって。どこにもいなくて。だから」
「もういい。大丈夫だ、大体分かったから」

ぽん、と頭に大きな手が置かれる。少しだけ乱暴に頭を撫でられて、さっきよりも視界が滲み出す。
強く目を擦り、瞑る。深く呼吸をして、泣かないように必死に耐えた。
目を開ける。彼の強い眼差しに負けないように見つめ返せば、彼はそれでいい、と頭を撫でて手を離し笑った。

「おめぇの判断は正しい。どこでどう歪んだか知らねぇが、ここの呪いは願いなんざ叶えてくれねぇよ」

そう言って、彼は袋の中から一枚の紙を取り出す。真っ黒に染まったその紙は、中身を見なくても悪意を持って書かれている事が分かり、小さく体が震えた。

「ここはな、こういった負の感情を手紙に書いて隠す場所だった。それが溜まって呪いになり、解釈が広がって願いを叶えるなんて事になった」

はっと鼻で笑い、彼は紙を袋に戻す。
どうすっかな、と頭を掻きながら空を見上げ、そしてこちらを見る。

「確認だけどよ。おめぇの母ちゃんは、本当に目の前で消えたのか?」

彼の問いに頷きを返す。
今でも思い出せる。母は父と自分のいる前で消えた。洗濯物を干すためにベランダの窓を開けて、一歩出たその時に。一瞬で。
かたん、と洗濯物の籠が落ちる音を、はっきりと覚えている。一つ遅れて父が叫ぶ声も、照りつけるような暑さも、夢に見るほどに刻み込まれている。
それを彼に伝えれば、眉を寄せて何かを考えるようにまた空を見た。

「俺ぁ、隠す方の質だから、見つけんのは相性が悪ぃ。けど、このままなのもあれだしな。繋ぎ、取ってやるよ」
「…どういう、意味?」
「夜に窓の外を見な。星が流れたら、母ちゃんを帰してくれって願ってみろ。応えてくれるはずだ」

分かった、と頷いて見せる。
意味は分からないけれども、何故だか安堵の気持ちがあふれ出す。
帰ってくるのかもしれない。それがどんな形であっても、帰ってくるのであれば、と強く手を握り締める。

「おめぇは強い、いい子だ。特に俺の前で泣かねぇのが、気に入った。びぃびぃ泣くようなら、叺《かます》に入れて連れて行くとこだったぜ。よかったな」

にやり、と笑みを浮かべ。彼は手を振り去って行く。
その背が見えなくなって、糸が切れたように崩れ落ちる。今更ながら訪れた恐怖に体を抱いて俯いた。

「…あれ?これって」

ふと、地面に何かが落ちている事に気づく。
折りたたまれた白い紙。まるで手紙のような。
手を伸ばして紙を取る。開けば、そこに「クチイリさんへ」の文字。
自分が書いた手紙だ。書けなくて捨てたはずの手紙を前にして、少し悩む。
バックの中から、ペンを取り出す。空白の部分に一言、文字を書き付ける。

――ありがとう。

丁寧に折りたたみ、立ち上がる。

彼がそうなのかは分からないけれど。
届けばいい、と願いを込めて。木の洞の中へ、そっと手紙を隠した。



20250203 『隠された手紙』

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