「やさしくしないで」
抑揚のない声が座敷に響く。
「優しくしているつもりはないよ」
言葉を返せば、座敷の四方や内土間からひそひそといくつもの囁く声がする。
うそだ、と誰かが囁いて。そうだ、といくつもの声が同意した。
「うそつき」
「あなたはいつでもやさしい」
「やさしいのはこわい」
「こわいよ」
こわい、こわい、と声は囁く。
内土間でダレかが這い回り、ナニかが臼を搗《つ》く音を立てる。
段々に増える声と音に、一つ息を吐いた。
「どこが優しい?」
声を上げる。
刹那に静まりかえる座敷は、しかし次の瞬間には先ほどよりも多くの声が響き渡る。
「こえをかけてくれるところ」
「みてくれるところ」
「ふれてくれる。なでてくれるところも」
「ぜんぶ。ぜんぶがやさしい」
「あなたのそんざいが、やさしいの」
くすくすと笑う囁きが、波のように座敷に広がっていく。
やさしくしないで、といくつもの声が繰り返す。
はぁ、とまた一つ息を吐いて。どうしたものか、と誰にでもなく呟いた。
優しくするなと声は言うが、同じ声で己の存在が優しいのだと言う。己の意思では変えられぬそれに、僅かに眉を顰めた。
「此処から出て行けと。そういう意味か?」
「違うっ!」
困惑を乗せた言葉は、強い声に否定される。声の方へ振り返れば、白く綺麗な幼子が肩で息を切らせてこちらを睨み付けていた。
「なんでそんなひどい事を言うの!」
「優しくするなと言ったのはそっちだろうに」
「っ、ばか!」
きっ、と睨み付け、幼子は大股でこちらに歩み寄る。小さな両手で己の頬に触れ、怒りの感情のままに抓り上げた。
「逆でしょう!?ここはあなたのお家なんだから。出て行くならわたしたちの方なのにっ!」
「痛っ。やめ、」
抓った頬を上下に揺すられ、慌てて止める。幼子の力だといえど、普通に痛い。
ふん、と鼻息荒く、そっぽを向いて。幼子は頬から手を離すと己を押しのけ炬燵に入り、食べかけの饅頭に手を伸ばした。
「人のものを食べるな。新しいのを出してやるから」
「そういう所!なんですぐに優しくするの」
さらに怒りを露わにし、幼子は止める間もなく饅頭を口にする。まったく、と文句を言いながら饅頭を平らげ、こちらを睨み上げた。
「優しいのは怖いのよ。特にわたしたちにとって、優しさは最期と同じ意味になるわ」
「あぁ、そういう」
「それにね。わたしたちは妖なのよ」
優しさが怖いという言葉の意味を理解しかけ、しかし続く幼子の言葉に首を傾げた。
前者は理解できる。幼子を含めた声達は皆、かつて間引かれて最期を迎えたのだから。
良心の呵責か。命を奪うという罪悪感か。それとも自らが生き残るための行為に対する言い訳か。
どんな理由であれ、子を間引く前に親は子に優しさを与えた。抱きしめ、頭を撫でて。愛を口にし、涙を流す。
この家に移り住んで、夜ごと繰り返し夢で見てきた事だ。話した事はないが、あれは幼子達の最期の記憶なのだろう。
優しさは別れに繋がり、それ故に怖いのだという事は理解できる。
だが、後者は分からない。
「妖であろうとなかろうと、お前達は何も変わらないと思うが」
考えても分からず、幼子に問いかける。呆れたように溜息を吐いて、幼子はあのね、と子供に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「妖はね、人間の望みに応えるモノなの。わたしたちもそう。豊かであれば子を間引く事もなかった親の後悔に、富が欲しいという望みに応えてここに在るの」
「それは知ってる」
何度も聞かされてきた事だ。さすがに覚えていると伝えれば、幼子の目に僅かに憐みの色が浮かんだ。
「知っているなら、何故あなたはわたしたちに何も望まないの?人間が望み、妖が応えて。その対価として妖は認識されるのに」
咎めるように視線に、思わず目を逸らす。
何故、と言われても、望みはないのだから仕方がない。
「毎日共にいるから、認識は歪まない、はずだ。だからあえて何かを望まなくても」
「一方的に与えられるその優しさはね、毒みたいなものよ。段々と手放したくなくなるの。何の見返りもなく、正しく認識してくれる存在を失うのが怖くなって…そうしたら、どうなると思う?」
昔、教えられた事のある幼子の問いかけに、視線を逸らしたままで記憶を辿る。
話半分に聞いていた事だ。思い返せど、何一つ思い出せるものはない。
幼子に視線を向けて。気まずさに、曖昧な笑みを浮かべた。
「大変な、事になる?」
「あなた、本当に物覚えが悪いのね」
頬を抓られる。先ほどよりも強い力に、ごめんなさい、と素直に謝罪をした。
「堕ちるのよ。その優しさが他に向かないように、失う事のないように隠して壊してしまうの。否定されるのは嫌だから、都合のいいように中身を作り替えて…その内、隠した子の事を忘れて、自分自身を忘れて狂っていくわ」
だから優しくしないで、と幼子は言う。
たくさんの声がやさしいのはこわい、と続けた。
「分かってくれた?」
幼子が微笑む。痛みに赤く染まる己の頬に触れて、答えを待っている。
理解したと頷くのは簡単だ。だがその後には、幼子に望まなくてはならない。
望みはない。本当に望むものは何一つないのだ。
「望みはないよ」
幼子を見返し、事実を告げる。何もないのだと、自嘲して見せた。
「空っぽなんだ。何もない。これは優しさなんかじゃない。易しいから、そうしているだけだ」
「易しくはないわ。あなたがしている事は」
「易しいよ。何も考えていない行動だ。無責任で、自己満足な。最低の行為だ」
力なく横になる。幼子や声、己自身から逃げるように、目を閉じた。
不意に頭に小さな手が触れる。慰めるような優しい手が頭を撫で。次第にその手は増えていき、背や頬を撫でていく。
「いいこ」
「さびしくないよ」
「みんなここにいるよ」
たくさんの声が優しく降り注ぐ。伽藍堂の己の隙間に入り込むその優しさは、暖かでありながらどこか痛みを伴っていた。
「優しくしないで」
痛くて泣いてしまいそうだ。
そう伝えれば、いくつもの笑い声が応え。さらにたくさんの声が、手が、己を慰める。
「ばかね。言葉を間違っているわ」
くすくすと、幼子が笑う。母のようで父のような。懐かしい優しさを乗せて、囁いた。
「こんな時はね。寂しいって素直に言うものよ。あなたのお父さんとお母さんの代わりには成れないけれど、一緒にいる事くらいは、わたしたちにも出来るわ」
唇を噛んで、泣くのを耐える。けれど暖かな手が目尻をなぞり唇に触れて、小さな抵抗は意味をなさなくなった。
嗚咽が漏れる。零れる滴が頬を伝い、頬を撫でていた手に拭われる。
「ずっと、一緒に、いて。置いて、いかな、い、で」
一人は嫌だ、と。しゃくり上げながら望めば、撫でる手は一層優しさを増した。
「応えてあげる。わたしたちがあなたを一人にはさせないわ。寂しさなんかなくして、空っぽでなくしてあげるから」
幼子の声に、たくさんの声が同意する。
きゃらきゃらと笑う声に。いっしょだよ、と囁く声にさらに涙が零れ落ちる。
いくつもの声に囲まれながら。
優しさは、痛いものだと初めて知った。
20250204 『やさしくしないで』
2/5/2025, 7:35:54 AM