「バイバイ」
立ち止まって振り返り、少女は誰かに手を振った。
「今、誰に手を振ったの?」
同じように振り返る少年が、不思議そうに首を傾げて少女に問う。
少女の手を振る先には、誰一人いなかった。
「あそこ」
少年の言葉に、少女は徐に指を差す。そこには、先ほどまで少年が少女と一緒に作っていた雪だるまが一体。
あぁ、と少年は微笑み。少女の頭を撫でて、その手を取った。
「また明日、だね。帰ろうか」
「うん。帰ろ」
優しい少年に手を引かれ、少女はにこにこ笑う。繋いだ手を大きく振って、夕焼けに染まる帰り道を急いだ。
「バイバイ」
少女は手を振る。その先には誰もおらず。しんしん、と雪の降り頻る中、誰かの作った雪兎が一つぽつんと残されている。
こうして少女が手を振るのを、何度目にした事だろう。
雪だるま、雪兎、かまくら、雪玉。
最初は微笑ましく見ていた少年も、その違和感に眉を潜めた。崩れた雪玉に手を振り出した辺りから、少女が手を振る対象が雪である事に気づいていた。
「どうして雪に手を振っているの?」
少年は少女に問いかける。問いかけた所で、その答えを少女が言葉にする事はない。
ただ指を差すだけだ。手を振る先を指差すだけ。
少女に見えているものがあるとして、少年には雪以外何も見えなかった。
少年の困惑が伝わったのだろう。少女は首を傾げると、指を差したまま囁いた。
「おかあさん」
その言葉を、少年は直ぐに理解する事が出来ず。一つ遅れて理解して、少女を思い少年は目を伏せた。
少女は一年前に少年の新しい家族になった。少女の父が少年の母の弟であった縁で、少年の家に養子として引き取られた。
少女は父との二人暮らしだった。他に兄弟はなく、母もいない。生きているのか、亡くなっているのかすら、少女の父が亡くなった今、知りようがなかった。
その少女が、雪を指差して母と呼んだ。おそらくは少女の母との別れが、雪の日だったのだろう。まだ幼い少女の記憶に刻まれた母と雪が混ざり合い、母を思って雪に手を振り別れを告げているのかもしれない。
「おやつ、食べに行こうよ。今日は特別に、ぼくの一個あげるね」
手を引いて、少年は少女を窓から離す。いつも通りに見えるように特別だよ、と戯けてみせて、少女と二人部屋を出る。
「ありがと。おにいちゃん、大好き」
きらきらと煌めく目をして、少女は笑う。きゅっと少年の腕に抱きつくと、今にも走り出しそうな軽やかさでリビングへと向かった。
「そんなに急がなくても、おやつは逃げないよ」
「や。早く行く」
「食いしん坊さんめ」
早く早く、と急かす少女を見ながら、少年はくすくす笑う。折角家族になれたのだ。寂しい思いをさせないように、側で楽しい思い出を作っていかなければ、と少年は笑顔の裏で密かに決意した。
不意に目が覚めた。
辺りは暗い。まだ夜なのだろう。
寝直そう、と少年は目を閉じて。しかし何かを感じて体を起こす。
きん、と冷えた空気が体から容赦なく熱を奪う。腕をさすり体を震わせながら、掛けてあった上着を羽織った。
窓に寄り、カーテンを開ける。音もなく降り続く雪に目を細め、そのまま視線を庭へと下ろし――。
暗がりに見えた小さな人影を認め、息を呑んだ。
弾かれるようにして部屋を出る。階段を駆け下り、玄関を開けて外へと飛び出した。
息が白く染まる。室内とは比べものにならぬほどの凍てつく空気が、呼吸をする度に肺に突き刺す痛みを与えるが気にしてなどいられなかった。
荒く息をしながら庭へと駆け込む。暗がりで一人佇む影に。飛びつくようにして抱きしめた。
「ばかっ!こんな真夜中になにしてるの!」
「おにいちゃん」
きょとん、と目を瞬かせ。己を抱きしめているのが少年だと認識し、笑顔で抱きしめ返す。あったかい、と呟く少女に文句を言いかけ、けれども言えずに深く息を吐いた。
抱きつく少女を少しだけ離し、目線を合わせ問いかける。
「何をしていたの?」
「おかあさん」
にこり、と少女は笑う。少年の腕の中で身じろぎし、後ろの暗がりに指を差す。
少女はまだ過去にいる。それが悲しくて、少年は指差す少女の腕に触れ。
「おかあさん。見える?」
繰り返す少女の指差す方へ、何気なく視線を向けた。
「…え?」
誰かが、いた。黒く長い髪を垂らした、雪のように白い女が、腕に赤子を抱えて立っていた。
少年の腕から抜け出して、少女は今度はその女の腰に抱きつく。無邪気に笑い、少年を手招いた。
「おにいちゃん。こっち」
立ち尽くす少年に焦れて、少女は駆け寄り手を引いた。引かれるままに女の側に寄れば、少女は胸を張って少年の背を押した。
「おにいちゃんだよ。優しくてね、あったかくて。大好きなの」
満面の笑みを浮かべる少女に、少年はただ困惑するばかりだ。
母と呼ばれた女。妹になった少女。二人が母子だと言うのならば、それは、つまり。
「おかあさん。バイバイ」
少女は手を振り別れを告げる。別れを告げられた女は優しく微笑み、そしてこちらに視線を向けると一礼し、雪に紛れて消えていく。
まるで最初から何もなかったかのように。夢の出来事のように、何一つ残さずに。
「今のって」
「おかあさんだよ…おとうさんはね、わたしを人にしたかったんだって」
何一つ理解が出来ず、少女を見る。少女は変わらずにこにこ笑い、そして少年の手を引いた。
「戻ろ、おにいちゃん。もう寝ないと、朝が来ちゃう」
少女に手を引かれ、家の中へと戻る。
冷たい少女の手に、これは全て夢だと少年は思う事にした。
夢を見た。
暗い夜道で女が男に赤子を抱くよう、頼んでいる。
それを了承する男は、口に刃物を加え赤子を抱いた。赤子の頭すれすれに刃の位置を調整し、しばらくして男は女に赤子を返す。
「子を抱いてくれた礼に、欲しいものを与えましょう」
微笑む女を男は表情一つ変えずに見据え、徐に口を開く。
「ならば、その子を寄越せ。その子は人として生きられる。この日から、無事に七つを迎えたのならば、代わりにお前の元に俺がいてやろう」
無感情な男に、女は迷うように瞳を揺らし。やがて恐る恐る赤子を男に渡す。
「この子を、お願い致します」
「任された。なに、心配するな。俺には姉が一人いる。俺がいなくなった後も、この子は愛されて育つだろう」
僅かに表情を緩ませ、男は赤子を見つめ女に告げる。
そして静かに去って行く男の背を、女はいつまでも見つめていた。
その表情は、子と別れる悲しみではなく。
愛しき子の幸福な先を想う、穏やかな母の眼差しで微笑んでいた。
20250202 『バイバイ』
当てもない旅をしていた。
一族の誰にも告げず、彼と二人。
翼を折りたたみ、地に足を付けて。気の向く方向へと歩き続けていた。
「こんな所にいたのか」
静かに凪いだ声音に、振り返り反射的に距離を取る。
「翼を捨て、地を歩く事を選択していたとはね。見つからないわけだ」
穏やかに微笑む男の視線から、怯える彼をさりげなく隠す。その目に浮かぶ、隠しきれていない激情は紛れもない怒りだ。
息を呑む。旅の終わりは覚悟していたが、まさかこの男に見つかるとは。
優美な所作とは裏腹に、苛烈な質を抱いた当主の側仕えの男。一族から離れた咎は、話し合いで許される事はないだろう。
男の威圧に震える体を叱咤して、正面から男を見据える。口元に笑みを浮かべ、せめてもの虚栄を張った。
「貴殿を出し抜けたのならば何よりだ」
「おや、威勢のいい事だ。だがその選択肢は誤りだよ」
男の笑みが消える。とん、と軽く地を蹴り一息で距離を詰められ、刹那には体は地に叩きつけられていた。
「っ!ぁ、がっ」
「やめて!」
彼の悲痛な叫び声に、身を捩り視線を向ける。
かたかたと体を震わせながらも己の前に立つ彼に、無理はするな、と痛む体を必死に起こす。
「退きなさい。勝手をしたのだから、仕置きをするのは当然だろう」
「やめて。全部おれが悪い、から。仕置きなら、おれだけにして」
「なに、を、言って。よせ」
ふらつく足に力を入れ立ち上がり、彼を抱えて背後に下がる。呼吸一つすら痛みを覚える体に鞭を打ち、改めて男と対峙した。
男に敵うはずはない。けれどもせめて彼だけは許しを得られるようにと、思考を巡らせ。
そこでようやく男の違和感に気づく。
「君。離れている間に、何があった?」
眉を寄せ、その目には困惑を乗せて。問うその言葉は、戸惑いに揺れている。
――あぁ。男も気づいたのか。
彼の変化に。永くを生かされ、擦り切れた心にほんの僅か、火が灯っている事に。
彼の目の奥に煌めく光を見たのだろう。顔を歪め、男は唇を噛みしめる。
笑みが浮かぶ。虚栄ではない微笑みを湛え、男を見据えた。
「旅の途中だ。この子には、まだ翼は必要ではない」
「っ、それは」
「今、この子を屋敷に戻したとして。それは最適解ではない。分かるだろう?空も海も、この子には鳥籠でしかない事を」
妖と心を通わせた人間が生んだ子。一族と同じ翼を有していようと、彼は人間だった。
人間は地に生きる者だ。空に在る我ら妖の元に留めておくべきではなかった。
「おれは…嫌ではなかったよ。皆といるの。でも…きっと疲れてたんだ」
「そうだな。妖と人間との差異も、永くを生きる事も。人間には重いだろう」
「…戻る気はないと、そう言いたいのか」
男の微かな呟きに、違う、と彼は声を上げる。一族の元では、遠い過去に失われた感情の乗った声音に、男が息を呑む。
「帰りたくないわけじゃない。でも、まだ歩いていたい。もう少しだけでもいいから」
「旅の途中だと言っただろう。何処が終着点かは分からないが、この先に必ずあるはずだ」
抱えたままであった彼を離し、そっと背を押す。こちらを振り返る彼に笑いかければ、小さく頷きを返して男の元へと歩み寄る。
「ちゃんと帰るから。だからこのまま、世界を見てきてもいい?」
真っ直ぐな彼の視線に、男は仕方がない、と息を吐き微笑む。
「危ない事はしないと、約束できるのならね」
「しないよ。約束できる」
「そうかい。それならば、行っておいで」
男はまだ本心では迷っているのだろう。それでも彼の変化に、その先の可能性に賭けた。
難儀なものだな、と男を見て思う。いつまで後継と、その教育役でいるつもりなのだろうか。
折角の機会なのだから、父親なのだと彼に告げてしまえばいいものを。
彼の頭を撫でている男と視線が交わる。不快に細められた目を肩を竦めて見返した。
今更、何を怖れているのか。失いたくないが故に彼に永遠を与え、側に留めおいている事を後悔しているとでもいうのだろうか。
ふっと息を吐く。子を持たない己には、理解出来ぬ感情だ。
二人の元へと歩み寄る。丁度良い刻限だ。男の気が変わらぬ内に、出立するのが賢明だろう。
「じゃあ、行ってくる」
「ああ。気をつけるんだよ」
別れを告げ、己の隣に立つ彼を見つめる男の目が己を捕らえる。
名残惜しげに揺らぐその目が、刹那に鋭さを湛え不快さを露わにする。
「この子に傷の一つでもつけたら、どうなるか分かっているだろうね」
「分かっているさ。必ず守り通そう」
あからさまな男の態度に、苦笑しながらも是を答える。
「それと、余計な事は言うんじゃないよ」
顔を顰め、黒い翼を広げ。一陣の風と共に、男は舞い上がる。
風に乗って遠くなる男の姿に、耐えきれずふふ、と笑みが溢れた。
「体、大丈夫か?」
彼の言葉に、忘れていた痛みが体を苛み出す。だが動けぬほどではない。問題ない、と首を振り、彼を促し歩き出す。
「旅、か。何も考えてなかったけど、旅をしていたんだ」
「多くを見聞きして、それを糧としてきたのだから、これは旅だろう」
行き先を決めず、気の向くままに歩みを進めながら。今更ながらの彼の認識に、呆れた笑い声を上げる。
「旅なら、もっと楽しまないと。帰って土産話を皆に聞かせられるように」
くすり、と彼は笑う。その目に燦めきを宿して、無邪気な子供のように。
「この旅が終わったら、おれも変わっているかな。あいつの事、ちゃんと呼べるように強くなってるといいな」
おや、と首を傾げ、彼を見る。道の先を見る彼の目は、とても穏やかだ。
彼の視線が己に向けられる。穏やかさの中に悪戯を思いついた子供の目をして、彼は笑う。
「そろそろさ。父さん、って呼びたいなって。帰った時に呼んだら驚くかな」
思わず空を仰ぐ。雲一つない青空に、男の姿はどこにも見えない。
「驚くだろうな。驚きすぎて、泣くかもしれない」
「あいつが泣くはずないだろ。流されるか、笑いながら怒られるかのどっちかだ」
「そこは気づいていないんだな」
男がどれほど彼を大切に思っているのか、彼は欠片も気づいていないらしい。
男の想いを告げようとして、口を噤む。余計な事を言うなと釘を刺されていた事を思い出した。
視線を空から彼へと移す。曖昧な笑みを浮かべ、話題を変える事にした。
「次は何処へ行こうか」
「どうした、急に?いつも通り、気の向いた方に行けばいいだろ?」
そうだな、と呟いて、緩く頭を振る。数歩先を行く彼を追うように、歩き出す。
本当に、難儀なものだ。父子というものは。
素直でない二人に、心の内で溜息を吐いた。
20250201 『旅の途中』
また、新しい子が来た。
「よろしくお願いします」
どこか緊張した面持ちで、頭を下げる幼い子。これから一年間、この隔離された牢獄のような場所で、後継者として相応しいか否かを見極められるのだろう。
きっとこの幼い子はまだ何も知らない。最後まで何も知る事はないのだろう。
傍らの世話役の男に連れられ、去って行くその背を見送って。
可哀想に、といつもと同じような事をぼんやり思った。
彼女は想像していたよりも優秀だった。
聡明で、両親を思って泣く事もなく。与えられる課題を、特に苦もなく熟していく。
彼女の前に来た子は彼女よりも一回り年上だと言うのに、一月も保たなかった。比較してしまうと、余計に彼女の優秀さが目立ってしまう。
ふわり、と彼女の打った式が飛ぶ。優雅に室内を巡り、彼女の手の平へと収まる式に、回りの大人達が騒めいた。
「これで、いい?」
「はい。上出来です」
彼女と世話役の男の和やかな談笑を聞きながら、目を伏せる。
彼女は優秀だ。きっと全ての課題を熟してしまうのだろう。
何も知らない彼女が憐れで、耐えきれず静かに部屋を出た。
深夜。誰もいなくなった部屋に、一人きり。
昼間の彼女がいた場所に立ち尽くし。彼女の先を思っていた。
不意に音もなく戸が開く。視線を向けると彼女が一人、静かに室内へと入り込んできた。
忘れ物でもしたのだろうか。動く事なく視線だけで彼女を追えば、彼女はこちらに歩み寄り、目の前で止まった。
「あなたも、ここにお勉強に来たの?」
真っ直ぐにこちらを見つめ、問いかける彼女に息を呑む。
彼女が自分を見て、声をかけている。想像していなかった出来事に、思考が忙しく回り出す。
「僕が、見えるの?」
彼女の問い答えず、逆に問う。
今まで自分の事が見えている者などいなかった。ここに訪れた子も、ここにいる大人達ですら、誰一人自分が見えて声をかける者はなかったというのに。
「見えるよ。見えてはいけなかった?」
問いを問いで返された事に気分を害する事なく、彼女は肯定する。
微かな希望に、思わず一歩彼女に近づいた。
「君は僕が見えて、声が聞こえるんだね」
確認のために再度問えば、彼女ははっきりと頷いた。
それならば、自分が言える事は一つだけだ。
「ねぇ、君。まだ何も知らない君。お願いだから、ここから逃げるんだ」
彼女は助かる。聡明な彼女なら、一人でも生きる術を見つけられるはずだ。
「ここを出るまでは、僕も出来る範囲で助けてあげるから。だから、逃げて」
「どうして?」
首を傾げる彼女に、伝えてもいいものか逡巡する。
幼い彼女には酷な話だ。だが彼女ならば、すべてを伝えてもいいのかもしれない。
知らないまま、は酷だろう。
「課題をこなしても、こなせなくても、ここからは出られなくなるから」
「出られないの?」
「そうだよ。皆、食べられちゃうから」
彼女の目が瞬く。意味を理解しきれていないのかもしれない。
「後継者は関係ないの?」
「後継者なんて建前だ。ここの当主がほしいのは、後継者じゃなくて式だから」
ここに呼ばれるのは後継者ではなく、当主の生きた式の候補だ。課題をすべて熟した子は最後に当主と会い、影を切り離される。
残ったもの、途中で脱落したものの行き着く先は、誰かの腹の中だ。
「あなたも、影を切られてしまったのね」
「そうだよ。だからせめて君には逃げてほしいんだ」
自分のようにならないために。
そう願いを込めて逃げて、と繰り返す。
だが彼女は、淡く微笑みを浮かべ、首を振って否を示した。
「どうしてっ!?」
「ごめんなさい。でもね」
彼女の姿が揺らぐ。幼い姿が大人になりきる前の少女の姿にまで成長していく。
何が起こっているのだろう。目の前の彼女は、誰だ。
混乱する自分の置き去りに、成長した彼女が徐に腕を上げる。それを合図に部屋が明るくなり、急な眩しさに目を細めた。
「おしごとを終わらせないと、帰れないんだよね」
勝ち気な笑みを浮かべ、ごめんね、と彼女は繰り返す。足下の影が不自然に揺れて、いくつもの小さな獣の影を作り出した。
「優しい君。何も知らないでここを訪れる子達を助けようと踠いて、一人苦しんできた君。その苦しみは終わるよ。ここから解放してあげる」
「本当に?僕は還れる、の?」
「わたしはそのために来たんだから」
真っ直ぐな、煌めく目をして彼女は頷く。そして視線を横にずらして、ある一点を指し示した。
「行って。人の影を式にしたとして、皆の方が強い」
彼女の影から分かれた獣の影が、一斉に彼女の指し示した方角へと向かって行く。壁をすり抜け、消えていく影の向かう先が何処であるのかを思い、あぁ、と吐息に似た声が漏れた。
影の向かう先、彼女の指し示す方向には当主がいるはずだ。
「他の者は、如何致しましょうか」
いつの間にか現れた世話役の男が、彼女に声をかける。
男に視線を向けず、彼女は少し悩んでこちらを見た。
「食べちゃったみたいだしね。人から外れた者はここから出さないで。いるか分からないけれど、まだ人でいる者は、記憶を抜いて外に放り出しといて」
「仰せのままに」
恭しく一礼をして、男もまた獣の影になり壁の向こうに消えていく。
夢見心地で影が消えていった壁を見ていれば、暖かな手が頭に触れた。
「もう大丈夫だからね。わたしの管がすぐに終わらせてくれるから」
優しく頭を撫でられる。その温もりに段々と力が抜けていき、耐えきれず視界が滲み出す。
「君は、誰なの?」
「通りすがりの正義の味方。なんてね」
ふふ、と彼女は笑みを浮かべる。
何も知らないと思っていた彼女の知らない姿に、つられて笑い。
「あり、が、とう」
笑った事で零れだした涙が堰を切ったように溢れだして。
彼女に頭を撫でられながら、声を上げて只管に泣いた。
20250131 『まだ知らない君』
「昔。弟が影を怖がっていた時があってさ」
粉々に砕けた硝子を踏み締め、少年は歩く。
路地裏。廃墟となったビルの合間を抜けていく少年は一人きりだ。だが親しい誰かと語りあっているかのように、少年は笑みを浮かべて言葉を紡ぐ。
「特に人の影が駄目だったな。夕方、長く伸びた誰かの影を見ただけで泣き出したもんだ」
懐かしいな、と語る少年に相づちを打つ者は誰もいない。
それを気にする事もなく、少年は前を見据えながら話し続けている。
「今、は…どうだろうな。少し前に見た時には、俺よりも大きくなってたし。友達と楽しそうに遊んでたから、もう泣かなくなったんじゃないかな」
瞳の僅かばかりの寂しさを浮かべ。それでも弟を想い、少年は微笑んだ。
砕けた硝子の終わりを探すように。入り組んだ路地の出口を探すように、少年の足は止まらない。
言葉を止めず。足を止めず。
「今思うと、あれだよな。弟は影を怖がっていたんじゃなかったんだ」
少年の歩む道先で、黒い影が形を纏う。耳障りな、言葉にならない声が周囲に反響する。
いくつもの人の形をとった影に、それでも少年の足は止まる事はない。
「弟は陰を見てた。日に照らされて伸びた人の影を通して、そいつの陰を見て怖がってたんだ」
襲いかかる影を躱し、蹴り上げる。
ばりん、と割れた音を立てて硝子に変わる影を見向きもせず、少年は変わらず前だけを見つめていた。
廃墟と硝子、蠢く影しかない、変わらぬ夜の空間に少年が迷い込んでどれくらいの時間が経ったのか。
切っ掛けは、影だった。炎天下で疲労した脳が思考を鈍らせ、違和感に気づく事が出来なかった。
遊んでいた公園で、涼を求めて木々の下へ弟の手を引いて向かった。強い日差しを避けられるものは木陰くらいしかなかった。
今になって思い返せば、木陰にしてはやけに影が濃かったようにも思う。木陰を真似た影の不自然さに気づいた時には、少年は弟と共に影の中に足を取られていた。
まるで底なし沼のように沈んでいく体。咄嗟の判断で弟を影の外へと投げ飛ばす事は出来たが、少年の体は泣きじゃくる弟の目の前で影に飲み込まれてしまった。
そして気づけば、この不可解な夜の空間に迷い込んでいて。
あれからずっと、出口を求めて少年は彷徨っている。
「あれだけ割ったのに、まだ残ってるもんだな」
「逃がしたくないのだろうね。無駄だと言うのに」
少年の声に誰かの声が相づちを打つ。
「これだけ壊したんだから、諦めて帰してくれてもいいのにさ」
「もう少しの辛抱だよ。前に元の世界の様子が硝子を通して見えたのだから。きっと見えるだけでなく、通る事だって出来る」
「そうだよな。影はしつこいし、聞こえる声はうるさいけどもう少し頑張るか」
肩を竦め、少年は笑う。その手に乗せた、白い折り紙で折られた小鳥を指先でそっと触れた。
「ありがとうな。姉ちゃんがいなかったら俺、とっくの昔に影になってた」
「全くだね。じいちゃん家で会った時にあげた、折り紙を持っててくれて助かった」
少年の手の上の小鳥が、心底安堵したように声を上げる。ばさり、と翼を羽ばたかせ空高く舞い上がり、周囲を旋回した後少年の頭に落ち着いた。
「変化はないな。静かなものだ。出口を見つけるよりも、大本が消える方が先かもしれない」
「ラスボス倒せば元に戻れるだろうし、俺はどっちでもいい」
「ぴいぴい泣いてるだけだったお子様が、よく言う」
「しょうがねぇじゃん。姉ちゃんみたいなのと一緒にすんな。俺は一般市民だぞ」
態とらしく溜息を吐いて見せる少年の頭を、小鳥はつつき毛をむしる。
「いてっ。止めろって。ハゲになったらどうすんだ」
大げさに痛がり、頭の上の小鳥を摘まみ手に乗せる。宥めるように小鳥の頭を撫でて、ありがとうな、と少年は小さく呟いた。
この場所で少年が折れずにいられるのは、偏に従姉妹からもらったこの小鳥がいるからだ。
泣くだけしかできなかった少年に知識を与え、戻れる希望を与えてくれたからこそ、少年は今もここにいる。
「なあ、姉ちゃん。俺が壊してきた影ってさ、弟の怖がった陰なのかな」
「違いはないな。あれは人の負の感情だから。人前では見せる事のない、日陰の部分が寄り集まってここは出来ている」
「弟は、ずっとこんな嫌なものを見てきたのか」
呟いて、少年は弟を思う。
以前、影を砕いた硝子が反射して元の世界を映した事があった。その中で成長したであろう弟の姿を垣間見て、少年は一抹の寂しさを抱きながらも安堵したのだ。
弟が笑っている。兄である少年や家族以外には、怖がってばかりだったあの弟が、友人と笑い合っていた。
「もう見えなくなってんのかな。そうだといいけどな」
切に願う。
この空間で見てきたようなものを、いつまでも見続ける事は苦しいだけだ。苦しめるくらいならば、いっそ自分の事も含めて全て忘れてしまえばいいとすら、少年は思う。
「それは本人に聞くしかないだろうね。取り繕うのが得意になってしまっただけかもしれないから」
「姉ちゃんのように?」
「うるさいよ」
少年の手をつつき、小鳥は飛ぶ。
今のあんたも変わらないだろう、と小鳥が鳴けば、違いない、と少年は笑った。
「ほら、行くよ。必ず戻る道は見つかるはずだ」
「そうだよな。帰らないと」
歩き出す。後ろを振り返りはせずに。
寂しい。苦しい。羨ましい。許さない。
背後の砕けた硝子の囁きなど、気にもかけず。
帰るために、一人と一匹は進み続ける。
20250130 『日陰』
帽子かぶって、どこ行こう。
当主様から頂いた、大切な帽子。引きこもってばかりの己が外へ出られるように、と思いの籠ったそれをかぶり、今日も外へ出る。
木漏れ日がきらきらと煌めいて、道の先に降り注いでいる。落ち葉を踏む時の、さくっ、と軽い音が鼓膜を揺らす。
ふふ、と笑い、くるりと回る。ふわり、と帽子のリボンが空を揺らめいて、まるで綺麗な魚が空を泳いでいるよう。
思わずリボンに手を伸ばし。
急に風が吹き抜けた。
悪戯か、それとも競い合ってでもいたのか。強い風が帽子を空高く舞い上がらせて、瞬きの間に見えなくなってしまう。
大切な帽子。外に出るために必要な。
じわり、と涙が滲む。その場に崩れ、膝を抱えて蹲る。
ぽたり、と涙が零れ落ち。しゃくり上げ、ただ泣く事しか出来なくなった。
「泣いてるの?だいじょうぶ?」
知らない声。近づく足音に、びくり、と体を震わせる。
一族以外は誰であろうと怖かった。今は、お守り代わりの帽子もない。
恐怖でさらに涙が零れる。どうしよう、と焦る思考が、判断を鈍らせた。
「おさら?」
小さな手が、頭上の皿に触れた。ぞわり、と駆け上がる、本能的な恐怖に逃げなくてはと立ち上がり。けれどその瞬間に強い目眩に襲われて、立ち上がろうとした体は、地面へと倒れ込んだ。
「だいじょうぶっ!?」
知らない誰かが、焦ったように声をかける。倒れた己の正面に回った誰かの足を歪む視界の中に捕らえて、そのまま視線を上へとあげた。
幼い人間の子供。その手には、長いリボンのついた帽子。
歪む視界の中でもはっきりと分かる己の帽子を認めて、必死に手を伸ばした。
「帽子。わたしの、帽子」
「これ?きみのだったんだ」
手にした帽子を頭に乗せてもらい、ほっと息を吐く。まだ目眩は続いているが、外でも頭の皿が乾かぬように特別な術を施された帽子が戻って来ただけで、大分体は楽になった。
ふらつく体を起こし、立ち上がる。己とさほど変わらぬ背丈の子供を前に、少し俯きながら帽子を深く被り直した。
「ありがとう。大切な帽子なの」
「どういたしまして。見つかってよかったね」
優しい声に、俯く顔を上げて子供を見る。
「その帽子。きみにとってもにあってるよ」
柔らかな、陽だまりみたいな微笑みに。
とくん、と胸の鼓動が跳ねた。
「話は大体分かった」
頬を染めて俯く妖を前にして少女は一つ頷くと、湯飲みに口をつける。
「それで、その子と恋仲になりたい、と」
「ち、違いますっ。え、と。その。帽子のお礼、が、したくて」
慌てたように両手を振り否定する妖の頬はさらに赤く。頬だけでなく、耳まで赤くなっているその様は、とても初々しい。妖に気づかれぬよう少女は密かに笑い茶を飲み干すと、湯飲みの底に残った角切りの昆布を黒文字で刺し囓る。
「以前、風の方に頼んで魚をいくつか届けてもらったんですけど、あまり嬉しそうではなくて」
「そりゃあ、急に空から魚が降ってきたら驚くと思うよ」
「魚よりも獣の肉の方が良かったでしょうか」
「いや、だからそういう問題でなくて」
少し呆れて少女は声をかけるが、妖にはその言葉は届いていない。
必死なのだろう。初めて抱いた感情に、余裕がないとも言える。
真剣に考え込む妖を微笑ましく見ながら、少女はそうだねぇ、と昆布を囓りながら妖を指さした。
「お礼とか建前抜きで、その子とどうなりたいの?」
「どうって。その。そんな、事、考えた事もない、です」
「お礼してさよなら?その後は会えなくてもいいと?」
「そ、れは…いや、です」
瞳を揺らし、妖は首を振る。
「でも、わたしは妖、だから」
泣くのを耐えるように強く目を瞑り、俯く。
人間と妖。ただ一人に深く関わる事で幸せになれた例は、ごく僅かだ。特に人間が生きる現世で穏やかな関係を築いているモノを、少女は片手で数えるくらいしか知らない。
「まあ、そうなんだけれど。でもそれだけで諦めるのは、ちょっとね」
「わたし、傷つけたくはないです。帽子、似合ってるって言ってもらえて、すごく嬉しくて。優しくされたのも、心配されたのも初めてで。だから」
「その子さ。それきり会いに来てはくれないの?」
少女の問いかけに、妖は目を開けて顔を上げる。
首を振り、穏やかに微笑んだ。
「何度か来てくれて。一緒に、遊んだりもしてます」
「それなら、今はそのままでいいんじゃないかな」
妖からではなく、相手から訪れて来てくれているのであれば、その関係を続けていればいい。人間が成長し、関係が変わっていく時に、その先を改めて悩めばいいのではないか。
最初から先ばかりを見ていては疲れてしまう、と少女は笑う。
「会いに来た、その子の望みに応えていればいい。一緒に遊んで、笑って。何だったら喧嘩もして。それを積み重ねるだけで今はいいと思うよ。駄目になりそうなら、その時はまた話くらいは聞いてあげるから」
「それで、本当に大丈夫でしょうか?」
「心配ならいつでもおいで」
少女の言葉に、妖は頷く。
ありがとうございました、と一礼し、暇を告げる妖を見送って。少女は一つ息を吐いた。
「じいちゃんめ。帽子を作るだけで終わりだと思ったのに」
引きこもっているよりはいいのだが。
それでもきらきらした話は甘すぎて、胸焼けがする。
「茶でもいれるか」
こんな時は、やはり昆布茶がいい。
誰にでもなく呟いて、少女は茶を入れるため踵を返した。
20250129 『帽子かぶって』