「バイバイ」
立ち止まって振り返り、少女は誰かに手を振った。
「今、誰に手を振ったの?」
同じように振り返る少年が、不思議そうに首を傾げて少女に問う。
少女の手を振る先には、誰一人いなかった。
「あそこ」
少年の言葉に、少女は徐に指を差す。そこには、先ほどまで少年が少女と一緒に作っていた雪だるまが一体。
あぁ、と少年は微笑み。少女の頭を撫でて、その手を取った。
「また明日、だね。帰ろうか」
「うん。帰ろ」
優しい少年に手を引かれ、少女はにこにこ笑う。繋いだ手を大きく振って、夕焼けに染まる帰り道を急いだ。
「バイバイ」
少女は手を振る。その先には誰もおらず。しんしん、と雪の降り頻る中、誰かの作った雪兎が一つぽつんと残されている。
こうして少女が手を振るのを、何度目にした事だろう。
雪だるま、雪兎、かまくら、雪玉。
最初は微笑ましく見ていた少年も、その違和感に眉を潜めた。崩れた雪玉に手を振り出した辺りから、少女が手を振る対象が雪である事に気づいていた。
「どうして雪に手を振っているの?」
少年は少女に問いかける。問いかけた所で、その答えを少女が言葉にする事はない。
ただ指を差すだけだ。手を振る先を指差すだけ。
少女に見えているものがあるとして、少年には雪以外何も見えなかった。
少年の困惑が伝わったのだろう。少女は首を傾げると、指を差したまま囁いた。
「おかあさん」
その言葉を、少年は直ぐに理解する事が出来ず。一つ遅れて理解して、少女を思い少年は目を伏せた。
少女は一年前に少年の新しい家族になった。少女の父が少年の母の弟であった縁で、少年の家に養子として引き取られた。
少女は父との二人暮らしだった。他に兄弟はなく、母もいない。生きているのか、亡くなっているのかすら、少女の父が亡くなった今、知りようがなかった。
その少女が、雪を指差して母と呼んだ。おそらくは少女の母との別れが、雪の日だったのだろう。まだ幼い少女の記憶に刻まれた母と雪が混ざり合い、母を思って雪に手を振り別れを告げているのかもしれない。
「おやつ、食べに行こうよ。今日は特別に、ぼくの一個あげるね」
手を引いて、少年は少女を窓から離す。いつも通りに見えるように特別だよ、と戯けてみせて、少女と二人部屋を出る。
「ありがと。おにいちゃん、大好き」
きらきらと煌めく目をして、少女は笑う。きゅっと少年の腕に抱きつくと、今にも走り出しそうな軽やかさでリビングへと向かった。
「そんなに急がなくても、おやつは逃げないよ」
「や。早く行く」
「食いしん坊さんめ」
早く早く、と急かす少女を見ながら、少年はくすくす笑う。折角家族になれたのだ。寂しい思いをさせないように、側で楽しい思い出を作っていかなければ、と少年は笑顔の裏で密かに決意した。
不意に目が覚めた。
辺りは暗い。まだ夜なのだろう。
寝直そう、と少年は目を閉じて。しかし何かを感じて体を起こす。
きん、と冷えた空気が体から容赦なく熱を奪う。腕をさすり体を震わせながら、掛けてあった上着を羽織った。
窓に寄り、カーテンを開ける。音もなく降り続く雪に目を細め、そのまま視線を庭へと下ろし――。
暗がりに見えた小さな人影を認め、息を呑んだ。
弾かれるようにして部屋を出る。階段を駆け下り、玄関を開けて外へと飛び出した。
息が白く染まる。室内とは比べものにならぬほどの凍てつく空気が、呼吸をする度に肺に突き刺す痛みを与えるが気にしてなどいられなかった。
荒く息をしながら庭へと駆け込む。暗がりで一人佇む影に。飛びつくようにして抱きしめた。
「ばかっ!こんな真夜中になにしてるの!」
「おにいちゃん」
きょとん、と目を瞬かせ。己を抱きしめているのが少年だと認識し、笑顔で抱きしめ返す。あったかい、と呟く少女に文句を言いかけ、けれども言えずに深く息を吐いた。
抱きつく少女を少しだけ離し、目線を合わせ問いかける。
「何をしていたの?」
「おかあさん」
にこり、と少女は笑う。少年の腕の中で身じろぎし、後ろの暗がりに指を差す。
少女はまだ過去にいる。それが悲しくて、少年は指差す少女の腕に触れ。
「おかあさん。見える?」
繰り返す少女の指差す方へ、何気なく視線を向けた。
「…え?」
誰かが、いた。黒く長い髪を垂らした、雪のように白い女が、腕に赤子を抱えて立っていた。
少年の腕から抜け出して、少女は今度はその女の腰に抱きつく。無邪気に笑い、少年を手招いた。
「おにいちゃん。こっち」
立ち尽くす少年に焦れて、少女は駆け寄り手を引いた。引かれるままに女の側に寄れば、少女は胸を張って少年の背を押した。
「おにいちゃんだよ。優しくてね、あったかくて。大好きなの」
満面の笑みを浮かべる少女に、少年はただ困惑するばかりだ。
母と呼ばれた女。妹になった少女。二人が母子だと言うのならば、それは、つまり。
「おかあさん。バイバイ」
少女は手を振り別れを告げる。別れを告げられた女は優しく微笑み、そしてこちらに視線を向けると一礼し、雪に紛れて消えていく。
まるで最初から何もなかったかのように。夢の出来事のように、何一つ残さずに。
「今のって」
「おかあさんだよ…おとうさんはね、わたしを人にしたかったんだって」
何一つ理解が出来ず、少女を見る。少女は変わらずにこにこ笑い、そして少年の手を引いた。
「戻ろ、おにいちゃん。もう寝ないと、朝が来ちゃう」
少女に手を引かれ、家の中へと戻る。
冷たい少女の手に、これは全て夢だと少年は思う事にした。
夢を見た。
暗い夜道で女が男に赤子を抱くよう、頼んでいる。
それを了承する男は、口に刃物を加え赤子を抱いた。赤子の頭すれすれに刃の位置を調整し、しばらくして男は女に赤子を返す。
「子を抱いてくれた礼に、欲しいものを与えましょう」
微笑む女を男は表情一つ変えずに見据え、徐に口を開く。
「ならば、その子を寄越せ。その子は人として生きられる。この日から、無事に七つを迎えたのならば、代わりにお前の元に俺がいてやろう」
無感情な男に、女は迷うように瞳を揺らし。やがて恐る恐る赤子を男に渡す。
「この子を、お願い致します」
「任された。なに、心配するな。俺には姉が一人いる。俺がいなくなった後も、この子は愛されて育つだろう」
僅かに表情を緩ませ、男は赤子を見つめ女に告げる。
そして静かに去って行く男の背を、女はいつまでも見つめていた。
その表情は、子と別れる悲しみではなく。
愛しき子の幸福な先を想う、穏やかな母の眼差しで微笑んでいた。
20250202 『バイバイ』
2/3/2025, 3:58:17 AM