「昔。弟が影を怖がっていた時があってさ」
粉々に砕けた硝子を踏み締め、少年は歩く。
路地裏。廃墟となったビルの合間を抜けていく少年は一人きりだ。だが親しい誰かと語りあっているかのように、少年は笑みを浮かべて言葉を紡ぐ。
「特に人の影が駄目だったな。夕方、長く伸びた誰かの影を見ただけで泣き出したもんだ」
懐かしいな、と語る少年に相づちを打つ者は誰もいない。
それを気にする事もなく、少年は前を見据えながら話し続けている。
「今、は…どうだろうな。少し前に見た時には、俺よりも大きくなってたし。友達と楽しそうに遊んでたから、もう泣かなくなったんじゃないかな」
瞳の僅かばかりの寂しさを浮かべ。それでも弟を想い、少年は微笑んだ。
砕けた硝子の終わりを探すように。入り組んだ路地の出口を探すように、少年の足は止まらない。
言葉を止めず。足を止めず。
「今思うと、あれだよな。弟は影を怖がっていたんじゃなかったんだ」
少年の歩む道先で、黒い影が形を纏う。耳障りな、言葉にならない声が周囲に反響する。
いくつもの人の形をとった影に、それでも少年の足は止まる事はない。
「弟は陰を見てた。日に照らされて伸びた人の影を通して、そいつの陰を見て怖がってたんだ」
襲いかかる影を躱し、蹴り上げる。
ばりん、と割れた音を立てて硝子に変わる影を見向きもせず、少年は変わらず前だけを見つめていた。
廃墟と硝子、蠢く影しかない、変わらぬ夜の空間に少年が迷い込んでどれくらいの時間が経ったのか。
切っ掛けは、影だった。炎天下で疲労した脳が思考を鈍らせ、違和感に気づく事が出来なかった。
遊んでいた公園で、涼を求めて木々の下へ弟の手を引いて向かった。強い日差しを避けられるものは木陰くらいしかなかった。
今になって思い返せば、木陰にしてはやけに影が濃かったようにも思う。木陰を真似た影の不自然さに気づいた時には、少年は弟と共に影の中に足を取られていた。
まるで底なし沼のように沈んでいく体。咄嗟の判断で弟を影の外へと投げ飛ばす事は出来たが、少年の体は泣きじゃくる弟の目の前で影に飲み込まれてしまった。
そして気づけば、この不可解な夜の空間に迷い込んでいて。
あれからずっと、出口を求めて少年は彷徨っている。
「あれだけ割ったのに、まだ残ってるもんだな」
「逃がしたくないのだろうね。無駄だと言うのに」
少年の声に誰かの声が相づちを打つ。
「これだけ壊したんだから、諦めて帰してくれてもいいのにさ」
「もう少しの辛抱だよ。前に元の世界の様子が硝子を通して見えたのだから。きっと見えるだけでなく、通る事だって出来る」
「そうだよな。影はしつこいし、聞こえる声はうるさいけどもう少し頑張るか」
肩を竦め、少年は笑う。その手に乗せた、白い折り紙で折られた小鳥を指先でそっと触れた。
「ありがとうな。姉ちゃんがいなかったら俺、とっくの昔に影になってた」
「全くだね。じいちゃん家で会った時にあげた、折り紙を持っててくれて助かった」
少年の手の上の小鳥が、心底安堵したように声を上げる。ばさり、と翼を羽ばたかせ空高く舞い上がり、周囲を旋回した後少年の頭に落ち着いた。
「変化はないな。静かなものだ。出口を見つけるよりも、大本が消える方が先かもしれない」
「ラスボス倒せば元に戻れるだろうし、俺はどっちでもいい」
「ぴいぴい泣いてるだけだったお子様が、よく言う」
「しょうがねぇじゃん。姉ちゃんみたいなのと一緒にすんな。俺は一般市民だぞ」
態とらしく溜息を吐いて見せる少年の頭を、小鳥はつつき毛をむしる。
「いてっ。止めろって。ハゲになったらどうすんだ」
大げさに痛がり、頭の上の小鳥を摘まみ手に乗せる。宥めるように小鳥の頭を撫でて、ありがとうな、と少年は小さく呟いた。
この場所で少年が折れずにいられるのは、偏に従姉妹からもらったこの小鳥がいるからだ。
泣くだけしかできなかった少年に知識を与え、戻れる希望を与えてくれたからこそ、少年は今もここにいる。
「なあ、姉ちゃん。俺が壊してきた影ってさ、弟の怖がった陰なのかな」
「違いはないな。あれは人の負の感情だから。人前では見せる事のない、日陰の部分が寄り集まってここは出来ている」
「弟は、ずっとこんな嫌なものを見てきたのか」
呟いて、少年は弟を思う。
以前、影を砕いた硝子が反射して元の世界を映した事があった。その中で成長したであろう弟の姿を垣間見て、少年は一抹の寂しさを抱きながらも安堵したのだ。
弟が笑っている。兄である少年や家族以外には、怖がってばかりだったあの弟が、友人と笑い合っていた。
「もう見えなくなってんのかな。そうだといいけどな」
切に願う。
この空間で見てきたようなものを、いつまでも見続ける事は苦しいだけだ。苦しめるくらいならば、いっそ自分の事も含めて全て忘れてしまえばいいとすら、少年は思う。
「それは本人に聞くしかないだろうね。取り繕うのが得意になってしまっただけかもしれないから」
「姉ちゃんのように?」
「うるさいよ」
少年の手をつつき、小鳥は飛ぶ。
今のあんたも変わらないだろう、と小鳥が鳴けば、違いない、と少年は笑った。
「ほら、行くよ。必ず戻る道は見つかるはずだ」
「そうだよな。帰らないと」
歩き出す。後ろを振り返りはせずに。
寂しい。苦しい。羨ましい。許さない。
背後の砕けた硝子の囁きなど、気にもかけず。
帰るために、一人と一匹は進み続ける。
20250130 『日陰』
1/31/2025, 12:32:19 AM