少年の祖母の家には、開かずの扉がある。
開かず、というよりも存在しない、と言った方が正しい。さらに正確に言うならば、子供にだけ見える扉というべきか。
知っているのは、少年や従兄弟達のような子供だけだ。
扉がある事を、少年は幼い頃より知ってはいたが、一度両親に聞いて以来、その扉について話す事をしていない。聞いた時の両親の、あの可笑しなものを見る目を思い出し、少年は口を閉ざしていた。
一昨年の暮れ。毎年の集まりで、少年ら子供だけで遊んでいた時の事。
「ねぇ。このお屋敷に、大人達には見えない開かずの扉があるのを知ってる?」
最初にその扉の話をしたのは、誰だったか。
「知ってるよ」
「おばあちゃんのお部屋よりも奥の扉だよね」
「前にお父さんに聞いても、知らないって言ってた」
「夢でも見たんだろうって、本気にしてくれなかったよ」
ひそひそと。内緒話をするように、お互いに身を寄せ合って囁いて。
子供達の話を纏めると、どうやらその扉は子供だけに見えているらしい。見た子供達がそれぞれの親にその扉の話をしても、誰一人見えていないと話していたという。
「何だろうね。あの扉」
「お祖母ちゃんには見えているのかな?」
「誰か聞いてみた事ある?」
互いを見渡せど、誰もが首を振り聞いていないと話す。
それならば聞いてみよう、と子供達の中では最年長の少年より三つ年上の少年が声を上げる。
「そんなのつまらないよ。それよりも、こっそり開けに行くのはどうかな?」
けれどやはり誰かの声が、その提案を否定した。
「勝手に開けたら怒られないかな」
戸惑う少年をよそに、他の子供達は皆好奇心を隠しきれない様子で、いつ開けに行くかの相談をし始める。
「お正月は大人達がお酒に酔っているから、どうだろう?」
「でもお祖母ちゃんは、お正月はほどんど部屋にいるはずだ」
「夜、とか?皆寝ている間なら、開けられるんじゃない?」
「ムリ。うちのお父さん、眠りが浅いから。抜け出したらすぐにバレちゃう」
どうしよう、とその時は話がまとまらず。年が明けても機会は訪れる事なく、それぞれ家へと帰っていった。
その次の年。
同じように集まった子供達の共通の話題は、あの扉の事だった。
「今回こそは開けたいね」
「何の話?」
だが不思議な事に、以前祖母に扉の話をしようと提案したはずの最年長の少年は、扉の事を覚えてはいなかった。
「そんなの、今まで見た事なんかないし。前に話した事もないはずだ」
訝しげな表情を浮かべる彼は、ふざけているようには見えない。ともすれば、他の子供達の親に話し出しかねない彼に、少年は慌てて声をかけた。
「その時、怖い話をテレビで見ていた気がする。それで記憶が混じってしまったんじゃない?」
さほど年の変わらぬ、子供達の中では自分の次に年長に当たる少年の言葉に、彼は一応の納得を見せた。開かずの扉など、怪談話では良くある類いの話である事も幸いした。
「言われてみれば、真冬の怪談特集をやってたしな」
その後、彼のいない場で皆と話し合い。あの扉は十五歳以上の大人には見えないのだ、と結論づけた。
その時彼は十五になっていた。それ故に十五を区切りに、子供達は大人と子供を分けた。
結局、彼の事もあり。その時も扉を開ける事はなかった。
そして今年。
扉が見えない彼を抜いて、子供達は三度目の扉の話をしている。
「この中で、開かずの扉について分からない子はいる?」
少年より一つ下の少女が、険しい顔で周囲を見る。
「知ってる」
「開ける開けないの話のやつ」
「大人には見えない扉の事だよね。覚えてる」
それぞれが頷き、それに少女も頷いた。
「じゃあ、今回こそ開けに行こうか」
本音で言えば、扉を開ける事に反対だった。
祖母に叱られる事を怖れたのもあるが、それ以上に得たいの知れない不安が扉の話をする度に、胸の内を渦巻いていた。
その扉に触れてはいけないような。話をする事すら障りがあるような。そんな言いようのない不安に、止めるべきだと声を上げかけ。だが周囲の雰囲気に押され、言い出す事は出来ずにいる。
「子供だけでお泊まり会。なんて案はどうだろう?」
遊び場にしているこの場所で。子供だけで泊まり込む。
子供だけと言っても、屋敷内の事だ。大人には止められる可能性は低い。
問題があるとすれば最年長の彼の事だが、きっと彼は参加する事はないだろう。進学を機に購入してもらったスマートフォンで、友人達を連絡を取る事に忙しいようだ。
そうして扉を開けるための、仮初めのお泊まり会が決まり。少年は気が乗らないながらも、布団を部屋に運び込んでいる。
両親に拒否はされなかった。集まりの限られた時間しか遊ぶ事の出来ない子供達の交流を微笑ましく思っている両親が、反対する理由はなかった。
はぁ、と溜息を吐く。見れば他の子供達も皆、無事に親の許可をもらえたようであった。
「ちょっとわくわくするね」
「寝ないでよ」
軽口を言い合いながら、電気を消す。様子を見に来た親に見咎められないように、寝ている風を装ってその時が来るのを待った。
「そろそろいいんじゃない?」
誰かの囁く声に、体を起こす。
他の子供達も皆、目を擦りながらも起き上がる。
「行こうか」
全員が起きた事を確認し、少年は声をかける。
部屋を出て扉まで行く時の先頭は、この場にいる子供達の中で最年長の少年だと、話し合いで決めていた。
「気をつけて。大人に見つからないようにしてよ」
最後尾は少年より一つ年下の少女だ。間には九歳と七歳の兄妹が、互いに身を寄せ合うようにして少年に続いている。
皆瞳に隠しきれない不安や怖れを乗せながら、それでも誰一人として立ち止まり、引き返そうと声をかける者はいない。未知への好奇心や子供だけという特別感が、小さな勇気に変わり、足を進ませていた。
暗い廊下を、月明かりだけを頼りに歩く。出来る限り足音を殺して、周囲を窺いながら慎重に。
途中、全員が食事を取る広間の前を通ったが、灯りの消えた広間の向こうからは何の音もせず、誰もいない事に密かに少年は安堵の息を吐いた。
広間の先。祖母の部屋の前を、殊更慎重に進む。
板張りの廊下が軋まぬようゆっくりと。だがあまり時間をかける訳にもいかない。音を立てぬ程度を見極めて、出来るだけ速く祖母の部屋の前を通り抜けた。
そしてその奥。
突き当たりに、その扉はあった。
何の変哲もない扉。だが障子戸などのように、引き戸の多いこの屋敷には珍しい、開き扉だ。
「開くかな?」
少年の後ろにいた最年少の少女が、不安そうに口を開く。
その言葉に扉を見るが、暗い中では鍵の有無は分からなかった。
「開けて確かめればいいわ。開かなかったら、残念だけど戻りましょう」
最後尾の少女が声をかけ、少年は恐る恐る把手に手をかける。扉を開けるのも、先頭の少年の役割だった。
金属の冷たさに眉を寄せ、体温が奪われる前にと把手を回す。然程抵抗はなく、把手は回り。
きぃ、と軋む音を立てて、ゆっくりと扉は開いた。
「開いた!」
「中は、どうなってるの?」
兄妹が興奮を隠しきれないように、身を乗り出す。それを宥めながら、開いた隙間から中を覗き込む。
そこは八畳ほどの部屋であるらしかった。四方の行灯の灯りが、ぼんやりと室内を照らしている。
調度品の類いのない部屋。しかしその部屋は屋敷のどの部屋よりも異様であった。
「扉」
思わず呟く。部屋の奥の大きな白の扉が、薄暗い室内に浮かび上がり異様さを際立たせている。
「扉?」
少年の横から室内を覗う兄が、少年を押しのけ惹かれるように室内に足を踏み入れる。続いて妹が、そして最後尾の少女が入り込み、少年は己も入るべきかを迷い視線を彷徨わせる。
込み上げる不安が、この部屋の立ち入りを拒んでいる。ここは危険だと、少年の本能が警鐘を鳴らしていた。
「あんたも早く来なさいよ。そこにいたら、大人達に見つかっちゃう」
最後尾にいた少女に促され、兄妹の視線を受けて少年は一つ息を吐く。今は己が最年長なのだ。怖がっている場合ではないと、勇気を振り絞り震える足を踏み出した。
室内に入り、静かに扉を閉める。逃げ出したい気持ちを、手を握り締める事で押し殺して、白の扉の前へ立った。
――と。
「誰か、そこにいるのかい?」
くぐもった、大人の男の声が扉の向こうから聞こえた。
――こんこん。とんとん。
「誰かいるなら、ここを開けてくれないか。こちら側からは開けられないんだ」
扉を叩く音がする。困ったような男の声が、扉を開けるよう懇願する。
「誰だろう?」
「開けてみようか。困ってるみたいだし」
警戒心のない兄妹が扉に近づくのを、咄嗟に阻む。そのまま少女の方へと押し出せば、強張った表情の少女は少年の意図を汲んで、入ってきた扉の方へ兄妹と共に向かった。
――とんとん。とんとん。
「なあ。誰かいるんだろう?開けてくれよ。ここを開けて。出してくれ。なあ。頼むよ。なあっ!」
――とんとん。どんっ。どんどん。
扉を叩く音が強くなる。叩きつけるような強さに、叫ぶような声に、ひぃ、と誰かが引き攣った声を上げる。
泣き出す声は妹のものだろうか。
「早く外に出ろ!」
視線を扉から離さずに、少年は少女達に向かい叫ぶ。視線を逸らしてしまえば、その瞬間に扉が開いてしまいそうな気がした。
「出られないの!扉が開かないの!」
悲鳴にも似た少女の叫ぶ声に、少年は強く手を握り閉める。
ここから出られない。その絶望が少年の判断を鈍らせる。
「扉を開けて!」
泣き喚く兄妹の声に、扉を開けろと指示が混じる。
内側から開かないのであれば、外側からならあるいは。
混乱する思考では、まともな判断も出来ず。少年は扉へと手を伸ばし。
――がんっ。
手を伸ばしたその横。誰かの足が強く扉を蹴る。
「惑わされるな。開ければ連れていかれるだけだ」
硬直する少年を誰かが窘める。扉に伸ばしていた手を下ろし視線を向けると、長身の男にも女にも見える大人が、少年を見下ろしていた。
「お前は何故、此処にいる。どうやって入り込んだ」
足を下ろし、見下ろす誰かは無感情に問いかける。静かでありながらもその声は、両親に叱られる時よりも怖ろしい。
「ぇ、と。皆で、開かずの扉を、見に行こうって。それで」
「皆?此処にはお前しかいないだろう」
訝しげな声に、そんなはずはない、と振り返る。兄妹と少女と、四人でこの場所に来たはずだ。
だがそこには誰もおらず。
誰かがいた形跡すらなかった。
「え?なんで。だって、皆で開かずの扉があるって。子供だけが見える扉があって、それで開けてみようって誰かが言って」
「子供だけ、か。他の子らは皆寝ているな。起きているのはお前だけだ」
何故。どうして、とそればかりが少年の頭の中で回る。
最初から皆がいなかったとしたら、一緒にいた少女達は一体。
「あぁ。そうだな…夢だ。これは夢の中で、お前も寝ている。此処で起きた事はすべて夢であって、現実ではない」
「夢?」
「夢だ。夢だからこそ忘れてしまうといい」
かたかたと震える少年を宥めるように声をかける。
大丈夫だと頭を撫でられ。
その先を、少年は覚えていない。
気づけば、朝。
いつもの遊び場として使用している部屋で、他の子供達と共に少年は目覚めた。
「お泊まり会、楽しかったね」
「もっと夜更かしすればよかった」
「そうね。大人がいないのだから、色々な事が出来たのに」
子供達は誰も、昨夜の出来事を覚えてはいなかった。それ以前に扉の事すら、皆の記憶からなくなっているようであった。
また泊まろうよ、と楽しげに話し合う他の子供達を見ながら準備を済ませ、少年は一足先に部屋を出る。不用意な事を言ってしまう前に、一人で昨夜について考えたかったからだ。
差し込む陽の光に、目を細める。こうして明るい場所で屋敷内を見渡せば、やはり昨夜の事は夢のように思えてくる。
昨夜出会った誰かも夢だと言った。ならば全部を夢にして、忘れてしまえばいい。
「酷い」
不意に声が聞こえ、少年は顔を上げた。
廊下の先に、長い髪の女が俯いて立っている。見覚えのない姿に、誰だろうかと首を傾げ。
瞬きを一つ。
「ひっ!?」
目を閉じ、開ける。そんな刹那の時間で、女は少年の目の前に立っていた。
長い髪の間から、虚ろな黒目が少年を睨み付けている。青白い女の両手が徐に伸ばされ、恐怖で硬直する少年の首に絡みつく。
「開けてって言ったのに。あの時開けてくれたら、皆出られたのに。お前のせいで」
憎い、と抑揚のない声音で女は呟く。絡みつく手に徐々に力が込められ、少年は息苦しさから逃れようと女の腕を掴み。
強く目を閉じる。
「え?」
再び目を開ければ、女の姿は何処にもなく。
「どうしたの?」
遅れて出てきた少女に、何でもないと少年は首を振る。
部屋を出てきた他の子供達と共に広間へと向かいながら。
そっと、首に手を当てる。
全てが夢だとして。それでも。
氷のような手の冷たさを、忘れられそうにはなかった。
20250128 『小さな勇気』
「わぁ!」
誰もいない、古びた神社。鳥居の上から振ってきた妖に、けれども少女は表情を変える事なく一瞥する。
「何か、用?」
「アナタ、相変わらず可愛げがないね」
興ざめだと言わんばかりに顔を顰め、妖は鼻を鳴らす。
少女とはそれなりに長い付き合いではあるが、彼女が表情を崩す様子を妖は見た事はなかった。いくら脅かそうと、身の毛もよだつ怖ろしい姿に化けようと、少女は眉一つ動かさない。
「ごめんなさい。不快にさせたのなら謝るわ」
「そういう所。ほんっとうに、可愛くない!」
素直に謝罪する少女に、妖は気に入らない、と頬を膨らませる。嫌みの一つや二つ言ってやろうかと少女の顔を覗き込み、そこで妖は違和感に気づいた。
「なんか、あったの?」
普段と何も変わらないように見えるほど、些細な違和感。少女の表情を崩すためにあの手この手で驚かし続けてきた妖だからこそ、気づけたのだろう。
僅かに瞳が揺れている。泣くのを耐えるような、深い悲しみを奥底に隠して、少女は必死で何もない振りをしていた。
「別に、何もない」
「嘘つき。隠しても無駄なんだから。正直に言って」
逃げるように神社の敷地内へと、少女は足を踏み入れる。だがそれを妖は許さず、少女の腕を掴んで引き寄せた。
「誰かに何かされた?それとも酷い事を言われでもしたの?」
「だから別に…本当の事を言われただけよ」
瞳を覗き込むようにして強く問えば、少女の瞳の揺らぎが大きくなる。ぽつり、と零れ落ちた言葉に、妖は眉間に皺を寄せた。
本当の事。それはおそらく悪意のある言葉だ。少女の繊細な心の内を無遠慮に踏み荒し、傷つけるもの。
気に入らぬ、と妖は瞳に鋭さを宿す。少女の腕を掴んだまま神社の奥へと歩き出した。
「ちょっ、と。どうしたの、急に」
戸惑う少女に何も言葉を返さず、社へと向かう。
賽銭箱や本坪鈴のない社に上がり、扉を迷いなく開けて中へと入った。
窓のない、畳敷きの和室。靴も脱がずに入り込み、少女を引き寄せその場に座る。
「泣け」
感情を押し殺した低い声で、妖は命ずる。
「でも」
「泣け。泣いてしまえ」
迷い揺れる少女の頭を己の肩口に押しつけ、妖は繰り返す。その背を幼子にするように撫で摩れば、少女は声もなく静かに泣き始めた。
それすら気に入らぬ、と妖の瞳が険を帯びる。声を上げず、表情すら変える事なく泣く少女は、いっそ憐れにすら見えた。
「ごめん、なさい。私」
「何も言うな。泣け」
少女の言葉を遮り、妖はただ泣けと命ずる。
少女を泣かせたのが己ではない事が気に入らぬが、ようやく泣けた事に比べれば、それは些事でしかない。
ふっ、と短く息を吐き。少女が泣き疲れて眠るまで、妖はその背をなで続けた。
「寝たの?」
聞こえた声に、妖は顔を上げた。
声の聞こえた先。和室の隅に置かれた葛籠へと視線を向け、妖は低く、ああ、とだけ答える。
かたん、と葛籠が揺れた。
かた、かたん、と内側から葛籠がゆっくりと開き、白く細い女の指が中の暗がりから現れる。空を彷徨う指が葛籠の縁を掴み、隙間を広げ。手が、腕が、内から外へと抜け出てくる。
ざらり、と長く細い翠の黒髪が、葛籠の隙間から零れ落ち。女の頭が、首や胸が葛籠から這い出て畳に落ちた。そうして最後にずるり、と女の下半身が外へと出て、葛籠は音もなく閉じ、それきり沈黙する。
「可哀想に」
葛篭から出た女が歌うように囁いて、静かに起き上がる。
ゆらり、ゆらり、と揺れながら、妖と少女の元まで歩み寄り、眠る少女の涙に濡れる頬を撫ぜた。
「信じる者がいなくとも、記憶する者がある限りなくなる事はない」
可哀想に、と葛籠から数多の声がする。
おぎゃあ、と声に紛れて、赤子の泣く声が聞こえた。
「丙午の年に生まれたというだけの、可哀想な子。私達のように堕ろされる事も、間引かれる事もなく。けれどもその呪いのような妄言に、身を蝕まれ続ける悲劇の子」
「呪いだよ。これは既に呪いだ」
女の言葉に、妖は忌々しいと吐き捨てる。
――丙午の年に生まれた女は気性が激しく夫を殺す。
迷信に囚われ、妄執に取り憑かれた思いは最早呪いと変わらない。
迷信だと笑いながらも、その根底では可能性に怯えている。愚かな人間のその思いが少女を縛りつけ、感情を封じ込めている事が妖は酷く気に入らなかった。
「私達の悲しみを、貴女は継がなくていい。貴女の幸せを見届けるために、私達はここにいる」
だから、と女は血のように紅い唇を歪めて嗤う。
少女を悲しませる者が男だというならば、排除は簡単だ。
迷わせ、破滅の道へ誘えばいい。女が声をかけ、微笑みかけるだけで、面白いように転がり落ちてくれるだろう。
かつて人間が望んだ通りに。人間が望んだからこそ、それに応えて女は在る。
迷信に殺された女達の悲しみが人間の噂話から形を持ち、迷信通りに男を滅ぼすなど、なんて皮肉なのだろうか。
「貴女の憂いを取り除きましょう」
わぁ、と葛籠から歓声があがる。愉しげにくすくす笑いが零れて反響する。
「女の方は、男を使って適当な場所につれておいで。少し脅かしてあげるから」
「少し、ですまないでしょうに」
妖の険を帯びたままの瞳を見ながら、女は囁く。否はないため了承し、扉へを向かう。
扉に手をかけ、振り返る。
「暫しの夢を見るといい。悲しみを忘れるほど、幸せな夢を」
少女に向けてそれだけを告げると、女は扉を開けて外に出た。
とん、と軽い音を立てて扉が閉まる。
刹那、室内ががらりと姿を変えた。澄み切った青空の下。鮮やかな花が咲く丘の大きな桜の木の下に、妖と少女は座っていた。
「っん…あれ」
馨しい花の香りに、少女の意識が浮上する。記憶にない場所に、不思議そうに辺りを見回した。
「わっ」
「ひゃっ!?急に、何?」
「驚いた?」
ぼんやりする少女の視界に入り込み、妖はにんまりと笑う。
初めて見た少女の驚く顔に、満足げに頷き立ち上がる。
「驚いた。というか、ここは何処なの?」
「秘密の場所。綺麗でしょ?」
「えっ。ちょっと!」
笑いながら少女を抱き上げる。
宥めるように背を撫でて、とん、と軽く地を蹴り飛び上がる。
桜の木の一番高い枝に音もなく下り、指を差す。
「わぁ!」
「ね。綺麗でしょ」
何処までも広がる、色鮮やかな花畑。極彩色の光景が、少女の瞳の中でゆらりと揺れた。
「きれい」
零れ落ちた柔らかな響きの言葉。僅かに微笑むその横顔を、妖は目を細めて見つめる。
「ようやく、笑った」
驚かせて、笑わせる。
少女が幼い頃にした一方的な賭に勝った事に満足して、妖はにんまりと笑った。
20250127 『わぁ!』
本の頁を捲る。
ここではない、遠いどこかの物語。思いを馳せながら、只管に文字を追う。
「物好きだね。いつまで読んでるの?」
呆れた声に顔を上げる。
「…今回は、何があった」
目の前の男の姿に、目を瞬く。
小袖を纏ったその姿。元々中性的な容姿をしているために、呆れ顰めた表情すら女性と見紛うほどに美しい。
思わず魅入り、手にした本を取り落とす。ばさり、と地に落ちる紙の音に、はっとして本を拾いつつ視線を逸らした。
「いつもの曰く付き。業が深くて大変だよ」
まったく、と男の愚痴を聞きながら、机に本を置く。
茶でも出すか、と湯を取りに移動しようとすれば、男の手がそれを阻む。視線だけで抗議すれば、柔らかく細まる男の目と視線が合い、びくり、と肩が跳ねた。
「茶ぐらい自分で出す。お前は此処にいて」
いいね、と念を押され、渋々頷く。
急須と湯飲みを置いた盆を手に取り部屋を出る男の背を見送って、静かに息を吐いた。
甘やかされている。記憶の中の男と同一だとは考えられぬほどに。
「甘いなぁ。甘すぎて、目が覚めちまった」
部屋の隅で寝ていたはずの、男よりも若い青年が欠伸を漏らしながら起き上がる。
「起きちまったからには、おれも甘やかしてみるか」
にたり、と笑い。音もなく近づくと、そのまま膝に乗せられる。突然の事に羞恥で逃れようと暴れるも、青年はただ笑うだけで解放するつもりはないようであった。
「よしよし。ほら、とっておきの饅頭をやるから、機嫌を直せ」
「食べ物で誤魔化されると思うな。離せ」
「食べないのか?おれの気に入りの店の限定品だぞ」
「……食べる」
限定品、という言葉には弱い。
青年の手から饅頭を受け取り、おとなしく齧り付く。しっとりとした皮と甘すぎない餡子の美味しさに、これ以上文句も言えずに饅頭を無心で囓った。
「なんだ。起きたのか」
「丁度良かった。こいつが饅頭を詰まらせる前に、茶をくれ。おまえの分もやるから」
ほら、と青年は饅頭を男に手渡し、代わりに湯飲みを受け取る。そして半分ほどになってしまった饅頭を己の手から取り上げると、受け取った湯飲みを押しつけた。
「あ」
「取りあえず、茶を飲め。詰まらせたら大変だ」
「何なんだ、まったく。お前達、どうかしてるぞ」
目の前の男と、背後の青年。記憶にある限り、お互いこのように和やかな関係ではなかったはずだ。
領地を巡り、互いに争い。協定を結びこそはしたものの、それでも仲間のような気安い関係ではなかったというのに。
「何言ってんだ、おまえ」
「今のお前の体は人間の体なのだから。心配するのは当たり前だろう」
「ただでさえ足が動かないんだからさ。おれらがいないとおまえ、すぐに死ぬだろ?」
「だからって」
言葉に詰まる。
確かに、かつては二人と同じ妖であっても今の己は人間だ。歩く事すらままならぬ弱き存在でしかない。
そも、妖であった時に何処ぞの侍に切り捨てられ死んだ己が、今こうして人間として生きているのが理解し難い。終わったはずの先がこうしてある事を、未だに認める事が出来ない。
「我慢しろよ。仕方ないだろ。上手く定着できたのが、人間の体だったんだから」
「人間の望みに応えて退治された、お前のその先があってもいいだろう」
「でも」
茶を啜りながら、男に視線を向ける。
男の手に重なるようにして絡みつく、半透明の女の手を表情一つ変えぬまま握りつぶすのを見て、ひっと声が漏れた。
「鬱陶しい。いいかい。この小袖もね、菩薩所に納められて終わったものだ。けれど今もこうして人間の念を取り込んで、曰く付きとして俺の元まで来た」
「人間に怪談話として語り継がれてるんだよ、それ。だからそれを何とかしても、またどこかで現れるんだろうな。そんで誰かがそれを終わらせる。それの繰り返しだ」
「お前も同じだよ。人間を化かして悪さをして、最後には人間に殺される。その話を人間が覚えている限り、お前はずっと此処に在る。俺達は次の形に成る前のお前に別の形を与えただけだ」
よく、意味が分からない。
取られた饅頭に手を伸ばしつつ首を傾げれば、呆れた溜息が前後から聞こえた。
仕方がないだろうに。己の頭が良くない事は、己だけでなく、二人も知っているはずだ。
「お前が読んでいた物語。読み終われば、悪者は倒され平穏が訪れるだろう?だが最初から読み始めれば、悪者は再び平穏を脅かして、読み進めればまた悪者は倒される。そういう事だよ」
「おれらは終わらない物語がまた始まる前に、悪役を悪さが出来ないように攫って甘やかしてるってだけだ」
分かったような、やはり分からないような。
取り戻した饅頭を囓りながら曖昧に頷いて見せれば、男の目に憐みが浮かぶ。それを見ない振りして、残りの饅頭を口に放った。
「とにかく、俺達は堕ちたりはしないから、心配しないでいいって事だけ知ってて」
「そうか…それなら、いい」
口の中の饅頭を飲み込んで、茶を啜る。
二人が堕ちないのであれば、それでいい。
「なんだかんだ言いながら、おまえが一番おれらに甘いよな。尾を千切って戻って来た時なんかは、薬を塗って一晩中世話をしてくれたし。こいつが真っ黒になって帰ってきた時には、元に戻るまで洗ってやってたしさぁ」
「お前が最初に甘やかしたんだから、今度は俺達に甘やかされなよ…それにしても鬱陶しいな。仕方がない。燃やすか」
次々と重なる女の手を潰していきながら、男は苛立たしげに眉を寄せる。
行ってくる、と部屋を出る男を見送りながら、燃やした小袖が風に乗って空に舞わなければいいが、と一抹の不安を覚えた。
「直ぐ戻ってくるだろうし、それまでゆっくりしてるか」
「いい加減に下ろしてくれ」
「戻ってくるまでは、念のためこのままな。人間は直ぐ死ぬし」
これやるからな、と今度は煎餅を手渡される。言いたい事は山ほどあるが、仕方がない。
ばり、と音を立てて煎餅に齧り付く。素朴でありながら、香ばしく甘い米と醤油の風味を堪能して、口元を綻ばせた。
「あと一年くらいはこの部屋の中だけで我慢しろよ。七つを過ぎたら、少しずつ外へも出してやるからな」
「過保護か。このまま私一人では何も出来なくなったらどうしてくれる」
「それもいいかもな」
ぽつりと溢れ落ちた言葉に、思わず振り返る。
どこか不穏な言葉とは裏腹に、優しい目をして青年は穏やかに微笑んだ。
「そうしたらもう、野ざらしの後ろ足のない狐の骸なんて見なくてすむだろうしな」
押し黙る。遠い過去の事だとしても、それに関しては何の弁解もしようがない。
視線を逸らし、青年にもたれ掛かる。
ばりん、と音を立てて囓る煎餅の味が、やけにしょっぱく感じた。
20250126 『終わらない物語』
妹が帰ってきた。
その知らせを受けて、考えるよりも早く体は実家へと向かっていた。
会ってまず、何を言うべきか。
いなくなった事を叱ればいいのか。それとも帰ってきた事を喜べばいいのか。
思考は渦を巻き、同じような事を考えては打ち消していく。迷う事のない体とは裏腹に、何一つ決められない。
だが、結局は。
何か言葉をかけるよりも、ただ確かめたかったのだ。
妹の、己の半身の無事を。この目で確かめたかった。
妹が行方不明になってから、彼此七年が経とうとしている。
いつもと変わりのない、あの日。後悔している事があった。
――会いたい。
別々の高校へと進学し、会う機会の減った妹からの連絡を、いつものように適当な嘘で断った。
双子と言えど、男と女だ。いつまでも二人一緒という訳にもいかない。
それは成長と共に顕著になり。進学を機に、実家から離れた。
泣き喚く妹に辟易し、嘘をついた。
それは己のための嘘であった。妹を納得させるためだけの作り話だ。
重苦しい息を吐き、手にしたままのそれに視線を落とす。
草臥れ、薄汚れた紅い紐。あの日に千切れてしまった、二人を繋ぐ糸。
――お互いに紅い紐を結べば、離れていても繋がっている事が出来る。
即席の作り話。それでも妹は納得して、縋りついた手を離した。
ようやく自由になれたのだと、心の内で安堵した。ようやく一人になる事が出来るのだと、その時は本気で喜んでいたのだ。
今は、後悔しかない。
――次は――駅。――駅。
電車がゆっくりと速度を落とす。窓の外の見慣れた景色に、戻って来たのだと実感した。
電車が停止するのを待てず、席を立つ。扉が開いた瞬間に、速足で改札へと向かった。
改札を抜け、走り出す。ここではバスを待つよりも、歩いた方が早く家に着く。
無心で走り続ける。握る手の中の紐が、ただの偶然なのだと笑って欲しかった。
「そんなに急いでどうしたの?」
無人のバス停。ベンチに一人座るその姿に、足を止めた。
荒い息を整え、ゆっくりと歩み寄る。記憶にあるまま変わらない姿に、手の中の紐を強く握り締めた。
「え、と。久しぶり」
「馬鹿やろう。勝手にいなくなりやがって」
「ごめん。でもどうしようもなかったの」
眉を下げて微笑う。困った時の癖も変わらない。
数歩、距離を開けて立ち止まる。視線だけで促せば、妹はベンチから立ち上がり己の隣に立った。
「帰ろうか」
差し出しかけた手は、ポケットの中に仕舞い込む。
今更だ。逃げ出した己が、触れられる訳がない。
視線を逸らし、俯いた。
家への帰り道を、肩を並べて、二人歩く。
昔から変わらない。異なるのは、手を繋いでいない事くらいか。
「懐かしいね。昔はよくこうして一緒に帰ったのを思い出す」
穏やかな声に、肯定する。
何も考えず、お互いがすべてだったあの頃が懐かしい。煩わしいと思っていたこの距離が、今はただ愛おしかった。
「本当に、帰ってきたんだな」
「そうだね。ようやく、かえって来れた」
「今まで何処で何をしてたんだ」
「ずっと学校にいたよ。ごっこ遊びをしてた」
哀しい誰かと、と笑う妹に気づかれないように、拳を握る。
妹は思っていたよりも側にいた。それに両親も妹の友人達も、誰一人気づかなかった。
己がそこにいたのなら、きっと直ぐにでも見つけて連れ戻す事が出来ただろうに。
離れるべきではなかった、と思い上がった思考に吐き気がする。どこまでも自分勝手で傲慢で、酷く滑稽だった。
「お袋達はどうしてる?」
「今はすごく忙しくしてるよ。急だったから、準備が大変みたい」
「側にいれば良いだろ。お前がいなくなって何年経ってると思ってんだ」
帰らぬ妹を探し続ける事も待ち続ける事も、苦痛を伴うものだ。僅かな希望が、諦める事を否定する。
諦めてしまえば楽になれると、何度思った事だろうか。
特に両親は、見ている周囲が耐えられぬほど必死だった。只管に。どんな形であれ、帰って来る事を願い続けていた。
ようやく帰ってきたのだ。
「ごめんね。皆に心配かけてばっかりだ」
「気にするな。帰ってきたから、もうそれだけで報われる」
不意に、妹の足が止まる。
数歩遅れて立ち止まり、振り返る。変わらず眉を下げて微笑う妹に手を伸ばしたくなるのを、作った笑みで誤魔化した。
「どうした?」
「ありがとう、って言ってなかったなって思って」
意図が分からず首を傾げれば、妹は左手を上げ袖をまくった。
「これがあったから、かえって来れた」
左手首に結ばれた紅い紐。慈しむように視線を向けて、妹はありがとう、と繰り返す。
「同じ時間を繰り返して気が狂いそうになっても、私にはこれがあった。繋がってるって感じられたから、他の子が皆壊れていっても、こうして私を保っていられた」
ゆっくりと歩き出す。その視線は己ではなく、家の方を向いていた。
足は止まる事なく、己の横を通り過ぎ。妹の背を追う形で、続いて歩き出す。
「私はもう大丈夫だよ」
凪いだ声音で妹は呟く。
「私にはこれがあるから。一人でも大丈夫」
「嘘をつくなよ」
「本当だよ。だから忘れてくれてもいいよ」
何を言っているのか。
思わず立ち止まる。だが妹は立ち止まる事も、振り返る事もなく先を行く。
「かえって来れたから。父さんも母さんも落ち着いてる。だから無理に帰ってくる必要はないよ」
「お前は俺に、帰ってきてほしくないのか?」
「そうじゃないけど」
妹を追いかけながら問いかける。
忘れていい、帰らなくていいなどと。これではまるで、ここから追い出そうとしているようではないか。
「そうじゃない。けど、傷になるくらいなら、いっそ忘れてほしい」
ぽつり、と呟かれたその言葉に、耐えきれず妹の腕を掴んだ。
驚き瞬く妹の目と視線を合わせる。涙一つ見えない瞳が苦しいほどに憎く、温もり一つない腕の冷たさが狂いそうなほどに悲しかった。
「いい加減にしろよ。俺達は双子なんだぞ。生まれる前から一緒にいた特別なんだ。お前が言っていた事だろうが。忘れるなんて出来ない事くらい分かれよ!」
家を出ると決めた時のように、感情のままに縋ってほしかった。行かないでと、離れないでと一言でも言ってくれたのなら、今度こそこの手を離す事はないというのに。
後悔していた。
離れた事。嘘を吐いた事。その全てを後悔していた。
一時の感情に流されずにいれば、この手はまだ温もりを抱いていられたはずだ。一人の空しさを思い知る事もなかった。
あの日からずっと、後悔ばかりだった。
「大丈夫だよ」
静かで柔らかな声音。
腕を掴んだままの己の手に触れ、妹は穏やかに微笑んだ。
「大丈夫。忘れられるよ。怪異に攫われた私なんて忘れて、幸せになれるよ。これから先、好きな人が出来て、結婚して。そういえばって、思い出にする事が出来る」
「出来るかよ。お前がいないのに」
「出来るって。大丈夫。それでも哀しいって、幸せでないって言うなら。その時は仕方がないから、会いに行ってあげる」
嘘つき。と胸中では思いながらも、妹の腕を放す。
泣くのを耐えた不格好な笑みを浮かべ、約束だぞ、と嘯いた。
「会いに来いよ。待ってる」
「今から待たないで。幸せになる努力をしなよ」
「気が向いたらな」
くすくすと妹は笑う。
数歩下がり、後ろを振り返った。
「おかえり。父さんと母さんが待ってるよ」
いつの間にか家についていたらしい。
門扉を抜けて振り返る妹に、馬鹿だな、と笑った。
「お前が言う言葉じゃないだろ」
「そっか。うん。そうだね」
家を見上げ。眩しそうに目を細めて。
妹は、笑いながらも静かに泣いた。
「ただいま」
「おかえり。皆、ずっとお前を待ってた」
玄関扉の向こう側へと消えていく、妹の背を見送る。
黒と白の鯨幕を視界の隅に入れ、どこからか薫る線香の匂いを取り込むように深く呼吸をする。
妹が帰ってきた。
化生と呼ばれる、妄執に狂った人ではないモノの檻の中から戻ってきた。
化生に一度でも囚われれば、その生存は絶望的だ。五体満足で戻れるだけで、奇跡と言えるだろう。
最初から覚悟はしていた。妹が行方不明になった状況が、化生の存在を示していた。
妹が帰ってきた。
もしもの希望を見出す時間は終わった。生きていなくとも帰ってきたのだから、先に進まなくてはならない。
今だけだ。今この時だけは、と誰にでもなく言い訳をして。
声を殺して、只管に泣き続けた。
20250125 『やさしい嘘』
目を閉じて、耳を澄ませた。
風の音。水の音。
誰かの囁く声。
笑みが浮かぶ。目を閉じたまま、一歩足を踏み出した。
かさり、と足元の枯葉が音を立てる。囁く声に、笑い声が混じる。
二歩目、足を踏み出して。枯葉を踏みしめ、さらに足を踏み出した。
さくさく、と軽快な音を立てて歩いていく。その音を楽しみ、周囲の音を楽しんで、歩く速度が速くなる。
今にも踊り出しそうなほどに、足取りは軽い。さく、さくり、と音を鳴らし。
気が緩んでいたのだろう。踏み出す足が地面を滑り。
受け身すら取れず、そのまま地面に倒れこんだ。
「っ、いたい」
強かに打ち付けた頭をさする。ちかちかと星が瞬いているかのように、瞼の裏で光が点滅する。
ふっ、と息を吐いて、目を開ける。視界に広がるいつもの光景が、ぼやけて見えた。
「何をしている」
不意に視界が陰り、男がのぞき込むようにして声をかける。
男の目は見えない。今は黒い布に覆われているものの、その内側に男の瞳がない事を知っている。
「ちょっとした好奇心。見えない分よく聞こえて、少し調子に乗った」
苦笑し、起き上がる。離れた男が差し出す手に逡巡して、そっと手を重ねた。
「遠慮をするものではない」
「遠慮というか」
言い淀めば、想像したよりも強い力で引き上げられる。
蹈鞴を踏みながらも立ち上がり。未だに揺れる視界に眉を潜めた。
目を閉じる。
「頭を打ったか。安静にするべきだ」
「問題ない。人間だった時とは違う」
深く息をして、すべての瞳を開けた。
両腕を上げる。無数に開いた瞳が、呆れたように、心配そうに、咎めるように己を見た。
「ごめんね」
刺さる視線に謝罪をする。細まり、逸れて、各々自由に視線を向ける瞳に、くすり、と声が零れた。
「軽率なのは、変わらぬらしいな。皆が案ずるのも理解できるというものだ」
「それは、弟の言葉?」
「兄として、心配になるそうだ」
男の言葉に、眉を寄せる。
相変わらずだ。己の半身は、未だに弟だとは認めないらしい。
「あたしが姉なのに」
腕の瞳に同意を求めれば、迷うように視線が揺れる。真っ直ぐに視線を向けている瞳は一つもない。
溜息を吐き、腕を下ろす。
瞳は正直だ。愛しい弟妹達は、昔から姉思いの良い子だった。
「手癖の悪い女の腕には目が生える、とは言われてたけど。まさか本当に皆の瞳が生えてくるとは思わなかった」
「盗みをした事を、後悔しているのか」
「まさか。盗まなければ皆飢えて死ぬか、間引かれるかだった。最初から覚悟は決めていたわ」
生きるため、守るために。子供の己が出来た唯一が、盗む事だった。
親に見放されぬように、あの頃は必死だったのだ。
「そういう時代だったと、今なら笑えるけれど…死んだ後も皆がついてくるとはね」
腕に視線を向け、呆れ、哀しむように笑う。
人として死した後も終はなく。何の因果か、弟妹達の瞳を腕に有し今も在る。
成ったばかりで不安定な己を妖として定め、姉として保たせてくれる。
本当に、優しくて愛しい良い子達だ。
「そう言えば、弟の瞳はどう?しっかりと見えている?」
男の手に視線を移し、問いかける。
問われた男は一つ頷き、手のひらをこちらへと向けた。
手のひらで瞳が開く。半身の瞳が己を見据え、にたり、と歪んだ。
「問題ない。望みに応えてくれた事、感謝する」
「問題はたくさんありそうだけれど。あたしの目でも良かったのに」
小さく呟けば、腕の瞳と男の手のひらの瞳がすべて己を見た。咎める皆の視線から逃げるように顔を背ければ、視線が一層きつくなった。
「分かったってば。ごめんね。もう言わないから」
「愛されているな。身を損ねる事を厭うているのだろう」
穏やかに告げる男の言葉に、己の最期を思う。穏やかではなかったのだから、皆の気持ちも分からなくはない。
はぁ、と息を吐く。先ほどのように目を閉じて、耳を澄ませた。
微かな囁き声を聞く。瞳だけとなった弟妹の思いに耳を傾ける。
「見えない事も悪くはない。皆の声も聞こえるようになるから」
聞こえるのは優しい声ばかりだ。
己を心配し、愛しんでくれる。変わらない声。
「見えないと、他の感覚が研ぎ澄まされているようだ。気にも留めていなかった音や感覚が、鋭く明確になっていく。皆がより近くに感じられる」
「人間である頃より盲いていたが、気にした事もなかったな。見えぬ不自由は生きるのに致命的だ」
確かに、と言葉にはせずに同意する。
見えぬが故に抵抗も出来ず、賊に襲われ終を迎えた男にとっては、特にその思いが強いのだろう。
「賊の顔は拝めたの?」
「ああ。首だけではあったが」
晒し首か、或いは仲間割れでもしたのか。
どちらにしても、碌な終ではない。
「満足した?」
「否。空しいだけであった」
凪いだ声音。酷く草臥れたような声だった。
「拝借していた瞳をお返しする」
「いいよ。そのまま連れて行ってあげて」
「一人にされるのは嫌だそうだ」
男の言葉に重なって、弟の不満げな囁き声が耳を掠めた。
困ったものだ。男といれば、そのまま一緒に還る事も出来るだろうに。
仕方がない、と目を開ける。
男の差し出す手に、己の手を重ね。
腕に一対の瞳が増えた。
「一人で還れるの?」
「心配無用。還り道は見えずとも感じられる」
元の老人の姿になった男は、薄く笑う。
こちらに一礼をして、踵を返した。
「叶うならば、次の生は瞳を閉じて感覚を楽しめる余裕を持ちたいものだ」
呟く男の言葉に、叶うよ、と言葉を返す。
叶うはずだ。男の魂は堕ちてはいない。
「世話になった」
しっかりとした足取りで去って行く男の背を見送って。
弟妹達の瞳を見ながら、声をかけた。
「これから何処へ行こうか?」
迷うように視線が彷徨い、真っ直ぐな視線に見据えられる。
様々な反応に、小さく笑って目を閉じる。
弟妹達の声を聞くために。
20250124 『瞳をとじて』