「わぁ!」
誰もいない、古びた神社。鳥居の上から振ってきた妖に、けれども少女は表情を変える事なく一瞥する。
「何か、用?」
「アナタ、相変わらず可愛げがないね」
興ざめだと言わんばかりに顔を顰め、妖は鼻を鳴らす。
少女とはそれなりに長い付き合いではあるが、彼女が表情を崩す様子を妖は見た事はなかった。いくら脅かそうと、身の毛もよだつ怖ろしい姿に化けようと、少女は眉一つ動かさない。
「ごめんなさい。不快にさせたのなら謝るわ」
「そういう所。ほんっとうに、可愛くない!」
素直に謝罪する少女に、妖は気に入らない、と頬を膨らませる。嫌みの一つや二つ言ってやろうかと少女の顔を覗き込み、そこで妖は違和感に気づいた。
「なんか、あったの?」
普段と何も変わらないように見えるほど、些細な違和感。少女の表情を崩すためにあの手この手で驚かし続けてきた妖だからこそ、気づけたのだろう。
僅かに瞳が揺れている。泣くのを耐えるような、深い悲しみを奥底に隠して、少女は必死で何もない振りをしていた。
「別に、何もない」
「嘘つき。隠しても無駄なんだから。正直に言って」
逃げるように神社の敷地内へと、少女は足を踏み入れる。だがそれを妖は許さず、少女の腕を掴んで引き寄せた。
「誰かに何かされた?それとも酷い事を言われでもしたの?」
「だから別に…本当の事を言われただけよ」
瞳を覗き込むようにして強く問えば、少女の瞳の揺らぎが大きくなる。ぽつり、と零れ落ちた言葉に、妖は眉間に皺を寄せた。
本当の事。それはおそらく悪意のある言葉だ。少女の繊細な心の内を無遠慮に踏み荒し、傷つけるもの。
気に入らぬ、と妖は瞳に鋭さを宿す。少女の腕を掴んだまま神社の奥へと歩き出した。
「ちょっ、と。どうしたの、急に」
戸惑う少女に何も言葉を返さず、社へと向かう。
賽銭箱や本坪鈴のない社に上がり、扉を迷いなく開けて中へと入った。
窓のない、畳敷きの和室。靴も脱がずに入り込み、少女を引き寄せその場に座る。
「泣け」
感情を押し殺した低い声で、妖は命ずる。
「でも」
「泣け。泣いてしまえ」
迷い揺れる少女の頭を己の肩口に押しつけ、妖は繰り返す。その背を幼子にするように撫で摩れば、少女は声もなく静かに泣き始めた。
それすら気に入らぬ、と妖の瞳が険を帯びる。声を上げず、表情すら変える事なく泣く少女は、いっそ憐れにすら見えた。
「ごめん、なさい。私」
「何も言うな。泣け」
少女の言葉を遮り、妖はただ泣けと命ずる。
少女を泣かせたのが己ではない事が気に入らぬが、ようやく泣けた事に比べれば、それは些事でしかない。
ふっ、と短く息を吐き。少女が泣き疲れて眠るまで、妖はその背をなで続けた。
「寝たの?」
聞こえた声に、妖は顔を上げた。
声の聞こえた先。和室の隅に置かれた葛籠へと視線を向け、妖は低く、ああ、とだけ答える。
かたん、と葛籠が揺れた。
かた、かたん、と内側から葛籠がゆっくりと開き、白く細い女の指が中の暗がりから現れる。空を彷徨う指が葛籠の縁を掴み、隙間を広げ。手が、腕が、内から外へと抜け出てくる。
ざらり、と長く細い翠の黒髪が、葛籠の隙間から零れ落ち。女の頭が、首や胸が葛籠から這い出て畳に落ちた。そうして最後にずるり、と女の下半身が外へと出て、葛籠は音もなく閉じ、それきり沈黙する。
「可哀想に」
葛篭から出た女が歌うように囁いて、静かに起き上がる。
ゆらり、ゆらり、と揺れながら、妖と少女の元まで歩み寄り、眠る少女の涙に濡れる頬を撫ぜた。
「信じる者がいなくとも、記憶する者がある限りなくなる事はない」
可哀想に、と葛籠から数多の声がする。
おぎゃあ、と声に紛れて、赤子の泣く声が聞こえた。
「丙午の年に生まれたというだけの、可哀想な子。私達のように堕ろされる事も、間引かれる事もなく。けれどもその呪いのような妄言に、身を蝕まれ続ける悲劇の子」
「呪いだよ。これは既に呪いだ」
女の言葉に、妖は忌々しいと吐き捨てる。
――丙午の年に生まれた女は気性が激しく夫を殺す。
迷信に囚われ、妄執に取り憑かれた思いは最早呪いと変わらない。
迷信だと笑いながらも、その根底では可能性に怯えている。愚かな人間のその思いが少女を縛りつけ、感情を封じ込めている事が妖は酷く気に入らなかった。
「私達の悲しみを、貴女は継がなくていい。貴女の幸せを見届けるために、私達はここにいる」
だから、と女は血のように紅い唇を歪めて嗤う。
少女を悲しませる者が男だというならば、排除は簡単だ。
迷わせ、破滅の道へ誘えばいい。女が声をかけ、微笑みかけるだけで、面白いように転がり落ちてくれるだろう。
かつて人間が望んだ通りに。人間が望んだからこそ、それに応えて女は在る。
迷信に殺された女達の悲しみが人間の噂話から形を持ち、迷信通りに男を滅ぼすなど、なんて皮肉なのだろうか。
「貴女の憂いを取り除きましょう」
わぁ、と葛籠から歓声があがる。愉しげにくすくす笑いが零れて反響する。
「女の方は、男を使って適当な場所につれておいで。少し脅かしてあげるから」
「少し、ですまないでしょうに」
妖の険を帯びたままの瞳を見ながら、女は囁く。否はないため了承し、扉へを向かう。
扉に手をかけ、振り返る。
「暫しの夢を見るといい。悲しみを忘れるほど、幸せな夢を」
少女に向けてそれだけを告げると、女は扉を開けて外に出た。
とん、と軽い音を立てて扉が閉まる。
刹那、室内ががらりと姿を変えた。澄み切った青空の下。鮮やかな花が咲く丘の大きな桜の木の下に、妖と少女は座っていた。
「っん…あれ」
馨しい花の香りに、少女の意識が浮上する。記憶にない場所に、不思議そうに辺りを見回した。
「わっ」
「ひゃっ!?急に、何?」
「驚いた?」
ぼんやりする少女の視界に入り込み、妖はにんまりと笑う。
初めて見た少女の驚く顔に、満足げに頷き立ち上がる。
「驚いた。というか、ここは何処なの?」
「秘密の場所。綺麗でしょ?」
「えっ。ちょっと!」
笑いながら少女を抱き上げる。
宥めるように背を撫でて、とん、と軽く地を蹴り飛び上がる。
桜の木の一番高い枝に音もなく下り、指を差す。
「わぁ!」
「ね。綺麗でしょ」
何処までも広がる、色鮮やかな花畑。極彩色の光景が、少女の瞳の中でゆらりと揺れた。
「きれい」
零れ落ちた柔らかな響きの言葉。僅かに微笑むその横顔を、妖は目を細めて見つめる。
「ようやく、笑った」
驚かせて、笑わせる。
少女が幼い頃にした一方的な賭に勝った事に満足して、妖はにんまりと笑った。
20250127 『わぁ!』
1/28/2025, 5:28:48 AM