目を閉じて、耳を澄ませた。
風の音。水の音。
誰かの囁く声。
笑みが浮かぶ。目を閉じたまま、一歩足を踏み出した。
かさり、と足元の枯葉が音を立てる。囁く声に、笑い声が混じる。
二歩目、足を踏み出して。枯葉を踏みしめ、さらに足を踏み出した。
さくさく、と軽快な音を立てて歩いていく。その音を楽しみ、周囲の音を楽しんで、歩く速度が速くなる。
今にも踊り出しそうなほどに、足取りは軽い。さく、さくり、と音を鳴らし。
気が緩んでいたのだろう。踏み出す足が地面を滑り。
受け身すら取れず、そのまま地面に倒れこんだ。
「っ、いたい」
強かに打ち付けた頭をさする。ちかちかと星が瞬いているかのように、瞼の裏で光が点滅する。
ふっ、と息を吐いて、目を開ける。視界に広がるいつもの光景が、ぼやけて見えた。
「何をしている」
不意に視界が陰り、男がのぞき込むようにして声をかける。
男の目は見えない。今は黒い布に覆われているものの、その内側に男の瞳がない事を知っている。
「ちょっとした好奇心。見えない分よく聞こえて、少し調子に乗った」
苦笑し、起き上がる。離れた男が差し出す手に逡巡して、そっと手を重ねた。
「遠慮をするものではない」
「遠慮というか」
言い淀めば、想像したよりも強い力で引き上げられる。
蹈鞴を踏みながらも立ち上がり。未だに揺れる視界に眉を潜めた。
目を閉じる。
「頭を打ったか。安静にするべきだ」
「問題ない。人間だった時とは違う」
深く息をして、すべての瞳を開けた。
両腕を上げる。無数に開いた瞳が、呆れたように、心配そうに、咎めるように己を見た。
「ごめんね」
刺さる視線に謝罪をする。細まり、逸れて、各々自由に視線を向ける瞳に、くすり、と声が零れた。
「軽率なのは、変わらぬらしいな。皆が案ずるのも理解できるというものだ」
「それは、弟の言葉?」
「兄として、心配になるそうだ」
男の言葉に、眉を寄せる。
相変わらずだ。己の半身は、未だに弟だとは認めないらしい。
「あたしが姉なのに」
腕の瞳に同意を求めれば、迷うように視線が揺れる。真っ直ぐに視線を向けている瞳は一つもない。
溜息を吐き、腕を下ろす。
瞳は正直だ。愛しい弟妹達は、昔から姉思いの良い子だった。
「手癖の悪い女の腕には目が生える、とは言われてたけど。まさか本当に皆の瞳が生えてくるとは思わなかった」
「盗みをした事を、後悔しているのか」
「まさか。盗まなければ皆飢えて死ぬか、間引かれるかだった。最初から覚悟は決めていたわ」
生きるため、守るために。子供の己が出来た唯一が、盗む事だった。
親に見放されぬように、あの頃は必死だったのだ。
「そういう時代だったと、今なら笑えるけれど…死んだ後も皆がついてくるとはね」
腕に視線を向け、呆れ、哀しむように笑う。
人として死した後も終はなく。何の因果か、弟妹達の瞳を腕に有し今も在る。
成ったばかりで不安定な己を妖として定め、姉として保たせてくれる。
本当に、優しくて愛しい良い子達だ。
「そう言えば、弟の瞳はどう?しっかりと見えている?」
男の手に視線を移し、問いかける。
問われた男は一つ頷き、手のひらをこちらへと向けた。
手のひらで瞳が開く。半身の瞳が己を見据え、にたり、と歪んだ。
「問題ない。望みに応えてくれた事、感謝する」
「問題はたくさんありそうだけれど。あたしの目でも良かったのに」
小さく呟けば、腕の瞳と男の手のひらの瞳がすべて己を見た。咎める皆の視線から逃げるように顔を背ければ、視線が一層きつくなった。
「分かったってば。ごめんね。もう言わないから」
「愛されているな。身を損ねる事を厭うているのだろう」
穏やかに告げる男の言葉に、己の最期を思う。穏やかではなかったのだから、皆の気持ちも分からなくはない。
はぁ、と息を吐く。先ほどのように目を閉じて、耳を澄ませた。
微かな囁き声を聞く。瞳だけとなった弟妹の思いに耳を傾ける。
「見えない事も悪くはない。皆の声も聞こえるようになるから」
聞こえるのは優しい声ばかりだ。
己を心配し、愛しんでくれる。変わらない声。
「見えないと、他の感覚が研ぎ澄まされているようだ。気にも留めていなかった音や感覚が、鋭く明確になっていく。皆がより近くに感じられる」
「人間である頃より盲いていたが、気にした事もなかったな。見えぬ不自由は生きるのに致命的だ」
確かに、と言葉にはせずに同意する。
見えぬが故に抵抗も出来ず、賊に襲われ終を迎えた男にとっては、特にその思いが強いのだろう。
「賊の顔は拝めたの?」
「ああ。首だけではあったが」
晒し首か、或いは仲間割れでもしたのか。
どちらにしても、碌な終ではない。
「満足した?」
「否。空しいだけであった」
凪いだ声音。酷く草臥れたような声だった。
「拝借していた瞳をお返しする」
「いいよ。そのまま連れて行ってあげて」
「一人にされるのは嫌だそうだ」
男の言葉に重なって、弟の不満げな囁き声が耳を掠めた。
困ったものだ。男といれば、そのまま一緒に還る事も出来るだろうに。
仕方がない、と目を開ける。
男の差し出す手に、己の手を重ね。
腕に一対の瞳が増えた。
「一人で還れるの?」
「心配無用。還り道は見えずとも感じられる」
元の老人の姿になった男は、薄く笑う。
こちらに一礼をして、踵を返した。
「叶うならば、次の生は瞳を閉じて感覚を楽しめる余裕を持ちたいものだ」
呟く男の言葉に、叶うよ、と言葉を返す。
叶うはずだ。男の魂は堕ちてはいない。
「世話になった」
しっかりとした足取りで去って行く男の背を見送って。
弟妹達の瞳を見ながら、声をかけた。
「これから何処へ行こうか?」
迷うように視線が彷徨い、真っ直ぐな視線に見据えられる。
様々な反応に、小さく笑って目を閉じる。
弟妹達の声を聞くために。
20250124 『瞳をとじて』
1/24/2025, 4:36:29 PM