sairo

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1/23/2025, 10:36:48 PM

ぼんやりと、目の前で倒れ伏すそれを見下ろしていた。
何処へ向かう途中だったのだろうか。今は僅かにも動かない体は、最後まで前に進もうと足掻くように指先が地を掻いていた。
ふと、それの上着のポケットから、小さな白い箱が僅かに覗いているのに気づく。
誰かへの贈り物だろうか。綺麗にリボンをかけられていただろう箱は、無残にもひしゃげてしまっていた。
無意識に己のポケットを探る。中から同じような赤いリボンのかけられた箱が出てきたのを、見るとも無しに見る。
手のひらに収まる程度の小さな箱。中身は何だったか、霞み掛かる意識の中、考える。

「ぁ」

戯れにリボンをつついていればその端から解け、風に乗って飛ばされていく。それを見遣り視線を戻せば、箱が開き中が露わになっていた。
黒いオニキスのついたピアス。
大切な、あの人への贈り物。
思い出す。思い出して、自嘲した。
自分勝手に贈り物を用意して、浮かれ。そして勝手に落ち込んで、渡す事すら出来ずに逃げ出したのだ。
冷静になって思い返してみれば、彼の優しさと己の浅はかさが露わになり、耐えられずに溜息を吐く。彼は常から忙しい人だというのは分かっていた事だ。だというのに、己のためにいつも時間を作ってくれていた。それを足りないのだと嘆き、剰えその態度を冷たいと傷ついていたのだから救いようがない。
溜息を吐く。手の中のピアスをポケットに押し込み、目の前の憐れで愚かな自分の成れの果てをただ見つめていた。



「お姉さんが、大本?」

不意にかけられた言葉に視線を向ける。
まだ年若い少年だ。大人になる直前の、強い意志を秘めた目が、己を見据えている。
少年の問いに首を振る。己の影を指さし、そして繋がれた先を指させば、少年の顔があからさまに歪んだ。

「なんだ、あれ?気持ち悪ぃ」

影を繋ぐ黒い不定形の塊に、そして塊へと伸びる繋がれた影の多さに、少年は嘆息する。

「お姉さん以外は、駄目だな」

ポケットから取り出した水晶を手の中で弄びながら、少年は繋がれたいくつもの影の先を見据え、己を見据えた。
その視線を肩を竦める事で返す。己の意思が残っているからといって、無事という訳でもない。

「まぁ、いいか。さっさと終わらせないと、後が詰まってるんだ」

どこか疲れた顔で少年は視線を逸らし、影を繋ぐ塊の元へと向かう。手にした水晶の他に、同じ水晶で出来ているであろう小さなナイフを取り出した。
塊が行動を起こすよりも速く、塊目がけ水晶を投げつけ。それとほぼ同時に、塊と己の影をナイフで切り離す。
一瞬の出来事に、目を瞬き。少年のさようなら、の声と、燃え上がる塊の耳障りな叫び声をただ聞いていた。



「俺、もう行くけどさ。お姉さんはどうすんだ?」

まだ生きてるみたいだし、と倒れ伏した方の己を見ながら少年は問う。
問われて、悩む。戻れる選択肢など、考えてはいなかった。

彼に何も言えずに部屋を飛び出し、その先で事故にあった。
そして気づけば、ここに繋がれて。このまま他の繋がれた影のように朽ちていくものだとばかり思っていたのに。
困ったように、己を見下ろす。だが倒れ伏す体は次第に薄くなり。霞み消えて、後には何一つ残らない。

「どうするもなにも、選択肢は一つか。怖ぇな。男の執着って」

小さく呟き腕をさする少年に、何の事だと問いかけようとして。

強く、手を引かれた。

振り返る。黒い人影が、逃がさないとばかりに強く手を掴み。そのまま引き寄せ、抱き留められる。
触れた場所から人影に呑み込まれる。助けを求めて少年を見れば、顔を引き攣らせながらも首を振って無理だ、と告げられる。

「手を出したら、特定されて刺されそう。運良く刺されなくても、無事じゃない気がする」

大人って怖ぇ、と疲れたように呟く少年の姿を最後に、視界が黒く染まる。
落ちていく意識の中で、強く繋がれた手の熱がやけにはっきりと感じられた。





頬に触れる誰かの手の感覚に、目を開けた。
焦点の合わぬ視界に、誰かの姿がぼんやりと映り込む。
息を呑む音。掠れた低い声が、己の名を呼んだ。
ここは何処だろうか。目の前の影は、聞き覚えのあるこの声の主は誰だっただろうか。
目を瞬いて、焦点を合わせる。次第に明瞭になる視界が、目の前の誰かの姿を正しく映す。

「ようやく、起きてくれた」

震える声。嬉しそうに、悲しそうに、愛おしそうに。
彼の手が頬を撫でる。確かめるようなゆっくりとした動きに、思わず目が細まった。
こんなに弱った彼は初めて見る。どんな時でも表情一つ動かさず冷静に対処していた彼が、泣きそうに顔を歪めているなど。
己の知らない彼の姿に、何か言わなくてはと口を開く。だが溢れ落ちたのは掠れた吐息のみ。
それならばと手を伸ばそうとするも、指先すら動かす事は出来なかった。

「俺が悪かった」

頬を撫でる指が唇に触れる。何も言うなと言われているようで、静かに口を閉じた。

「恨んでくれても構わない。お前が生きているならば、俺を愛さなくてもいい」

唇に触れていた手が静かに離れ、左手を取る。
繊細な壊れ物を扱うような手つきで、己の眼前に上げられて。

「結婚しよう」

その薬指に嵌まった銀色に、困惑する。
さっきから彼は何を言っているのだろうか。
分からない。理解したくないだけなのかもしれない。
最後に見た彼と、今の彼の差異に目眩がしそうだった。

「愛している。今までも、これからもずっと。お前だけを」

指輪に口付けて、彼は微笑む。
こんな彼は知らない。彼はこんな事をするような人ではなかった。

不意に彼の耳元の何かが光が反射した。
目を凝らす。焦点を合わせ、耳につけられたそれをはっきりと認め、息を呑んだ。
割れたオニキス。彼のための贈り物。


彼を祝うための贈り物が。
彼を縛り付ける呪いになってしまっていた。



20250123 『あなたへの贈り物』

1/22/2025, 10:39:45 PM

「あなたは直ぐに迷子になってしまうから、これをあげるわ」

そう言って首にかけられた、銀色の何か。丸くて銀色で、まるで懐中時計のようなそれに首を傾げれば、母は柔らかく微笑んで頭を撫でた。

「これは、羅針盤。星の燦めきが見えないあなたのための、道標よ」
「みちしるべ?」
「そうよ。これから先、あなたが迷ってしまった時には、羅針盤の声を聞きなさい。進むべき道を示してくれるから」
「うん。分かったよ、おかあさん」

母の言葉全てを理解した訳ではないが、大切なものだと言う事だけは確かだ。真剣な顔をして頷けば、母の笑みはさらに優しくなった。

「あなたの道行く先が、少しでも光に溢れていますように」

額に口付け願う言葉に、ごめんなさいと、声には出さずに謝罪をする。
遠くない未来は暗闇でしかない事は、自分が一番よく知っていた。





「朝だよ!起きて」

賑やかな声に、目を覚ます。
目を開けたとて然程変わらぬ視界に、苦笑しながら身を起こした。
随分と懐かしい夢を見た。
優しい母との暖かな記憶。彼女と出会った始まりの日を。

「足下、注意して。そのまま真っ直ぐ進んで」

彼女の声に従い、ベッドから抜け出し歩く。

「止まって。右を向いて十四歩」

いち、に、と心の中で数を数え。彼女の言う十四歩目で止まる。
手を伸ばす。把手を掴んで、扉を開けた。
今日も変わらず、正確だ。

「右に進んで。途中でお父さんに会うから、挨拶を忘れないで」

彼女の言葉の通りに、右に進む。
途中、僅かに浮かび上がる人の輪郭に、立ち止まり。

「お父さん。距離は十歩」

きゅう、はち、と近づく距離に、耳を澄ませ。

「六、五。止まった」
「おはよう、父さん」

笑顔で父に挨拶をする。

「ああ、おはよう。今日も調子が良さそうだな」

さらに近づく距離を聞き、頭を撫でられる感覚に声を上げて笑う。
普段通り。変わらない朝のやりとり。
彼女の声も姿も見えない周りは、誰一人として自分の目が殆ど機能していない事に気づいていないだろう。
それでいい。心配させるのは本意ではない。

「時間。そろそろ進んで」
「あんまり髪の毛、ぐちゃぐちゃにしないでよ。顔洗いに行くから、もうおしまい」
「すまん。父さんはもう仕事に行くが、お前も今日は学校だろう。気をつけて行くんだぞ」
「分かってるって。行ってらっしゃい」

手を振り、父の横を通り抜ける。
彼女の指示で洗面台で顔を洗い、着替えを済ませ、リビングに向かう。
一つ一つ確認しながら、彼女の声を聞いていた。



「お願いがあるんだけど」

不意に聞こえた声に、周囲を見渡す。
何処にも人の輪郭がない事に首を傾げ。思いついて彼女に声をかける。

「お願いって、何?僕に出来る事?」

彼女の指示がなければ、何一つ出来ない自分でも大丈夫だろうか。不安を抱きながら問う言葉に、彼女はあのね、と控えめに囁いた。

「行ってほしい場所があるの」
「遠いの?」
「そんなに遠くない。歩いて行けるから」
「あまり遅くならないならいいよ」

遅くなれば、母が心配する。それだけを伝えて了承すれば、ありがとう、と彼女とはまた違う声が聞こえた。

「誰?」

聞いても答えはない。人の輪郭が見えない事から、おそらく人ではないのだろう。
彼女が何も言わないのであれば、特に気にすることはない。害があるモノを遠ざけてくれるのは、彼女の得意とする所だから。
意識を切り替えるように、緩く首を振る。彼女の声を聞いて動けるように、前を向いた。

「正面。そのまま進んで」

彼女の指示の通りに足を踏み出す。
普段とは異なる道に、それでも恐怖はなかった。





「止まって。ここでおしまい」
「ここ?」

見えないと知りながらも、辺りを見渡す。
湿った土の匂い。木の匂い。冷たく吹き抜ける風の感覚。
木々に囲まれた場所。知らない場所だった。

「おい。これは違うだろうが」

一際強い風が吹き抜ける。羽ばたく翼の音がして、誰かが上から下りてくる。
人の輪郭は見えない。目の前にいるだろう誰かは人ではないモノだ。

「お前は人間と妖の区別のつかねぇのか。阿呆が」
「うるせ。だって困ってるみたいだったから」

低い男の声と、それに答える少し高めの声。

「困ってるってなぁ。それだけで俺らの領分を超えて応えるもんじゃねぇ事くらい、分かんだろうが」
「だから態々来てもらったんだ。何も考えてないわけじゃない」

何かを言い争っている声に、困惑する。状況が分からないため何も言うことは出来ないが、これは自分が原因なのではないだろうか。

「ねえ」

彼女の声がする。意識を向ければ、それだけで彼女以外の声は遠く、気にもならなくなった。

「今から言う言葉を繰り返して」

意味が分からないが、頷き了承する。彼女のためにここまで来たのだから、分からないからと言って断るつもりはまったくない。

「私の目の」
「私の目の」
「呪いを解いて下さい」
「のろいをといて下さい」

彼女の言葉を繰り返す。
目の前の誰かに願う形になってしまったが、そもそも呪いとは何の事だろうか。
声が止まる。痛いほど突き刺さる視線に、願ってはいけないものだったろうかと少しだけ不安になった。

「これは、あり?」
「言わせられてんだろうが。なしだ、なし」
「けちだ」
「うるせぇよ。ったく、仕方ねぇな」

男の声が疲れたように嘆息する。おい、と声をかけられて、声のする方へと見えない視線を向けた。

「お前、呪いを解きたいのか?」

首を傾げた。呪いが分からないのに、解きたいかそうでないかは答えられない。

「そっからか。ちゃんと説明しとけよ」
「解いた方がいいの?」
「解かなきゃお前の目はそのままだ。近い内に、完全に目を奪われる」

思わず、目に手を当てた。
誰かに奪われる。全部奪われてしまったら、皆に目が見えない事を知られてしまうだろうか。

「目が見えるようになりたいなら、ちゃんと望め。望まない限りは、応えてやる事が出来ねぇぞ」

望み。昔、彼女が教えてくれた事だ。
妖は人に望まれ、応える事で在り続ける事が出来る。
見る事が出来る様になれば、妖である彼女に望むものがなくなる。そうしたら、彼女はどうなってしまうのだろう。

「目が見えても変わらない。私はあなたの側で道を示すだけ」

彼女の声が聞こえた。
自分の考えを全て見通す彼女は、最初から変わらない。
道を示す、羅針盤の針はいつでも正しい方向を指し示してくれている。
俯きそうになる顔を上げる。
息を吸って、しっかりと言葉を紡ぐ。

「私の目の、呪いを解いて下さい」

風が吹き抜ける。目を覆い尽くす何かを奪い、駆け抜けて行く。

「こら。はしゃぐな」
「はしゃいでない。望まれたから応えた。それだけ」
「今のは俺に望んだようなものじゃねぇか」
「連れてきたのは俺。だから俺が応えた」
「だからはしゃぐなって。勝手にふらふらして、また迷子になるだろうが」

風と共に遠くなる声に、思わず閉じていた目を開けた。
空を見上げる。空の青の向こうに、黒い翼を持つ二つの影が消えて行くのがはっきりと見えた。
目を擦る。生まれて初めてはっきりと見える事に、戸惑いを隠せない。
世界は、こんなにもきらきらと燦めいているのか。

「自分の目で見る世界はどう?」

彼女の声がして、視線を落とす。胸元にかけたままの羅針盤の銀色が、光を反射して燦めいた。
もう一度見る事の出来た彼女に、嬉しくなって頬が緩む。母から渡された時から、その輝きは変わらない。

「とても綺麗だよ」
「そういう意味じゃない」

呆れる声に、小さく笑う。
心が弾む。こんなにわくわくするのは本当に久しぶりだった。

「そろそろ帰る時間」
「そうだね。帰らないと皆心配する」

彼女の声に歩き出す。一人で歩く事も久しぶりで、それだけで嬉しくなってしまう。

「そっちは反対方向。立ち止まって、戻って」
「え?」
「見えても、見えなくても迷子は変わらないね」

楽しそうに笑われて、恥ずかしさに顔を赤くする。
くるりと振り返り、早足で歩き出した。
けれど木の根に足を取られ、そのまま派手に転ぶ。
痛い。こうして転ぶのも久しぶりではあるが、これはまったく嬉しくはなかった。

「足下に注意してって言ってるのに。見えてる方が危なっかしいのは何故?」
「ちょっと、浮かれてただけだから。痛みで少し落ち着いた」
「道案内は必要?」
「よろしくお願いします」

小さな声で頼むと、くすり、と笑い声が返る。
ゆっくりと立ち上がり、埃を払って意識を集中させる。
彼女の、声を聞くために。

「落ち着いたら、真っ直ぐ進んで。足下に注意して」

彼女の声に導かれ、歩き出す。
一人だけで歩く時よりも安心するのは、きっと彼女だからなのだろう。



20250122 『羅針盤』

1/21/2025, 10:08:35 PM

「おや、いらっしゃい」

穏やかな声に、微睡んでいた意識が覚醒する。

「初めまして。ゆっくりとしていくといい」

囲炉裏を挟んだ向こう側に、柔らかく微笑む誰かの姿。
男、のように見える。だが確証はない。低めの声も、中性的な容姿も一見男に見えるが、女だと言われればそうにも見える。
ここはどこなのか。そもそも、自分は何故このような所にいるのだろうか。
随分と長い間、微睡んでいたようだ。此処にいる前の記憶が、酷く曖昧だった。

「此処は、君の夢の中さ」

疑問が顔に出ていたのか、男はくすり、と笑い答える。
夢。言われてみれば、それが一番しっくりくる気がした。
そうか。自分は眠っているのか。

「久方ぶりのお客人だ。今宵の刹那の逢瀬を楽しもうか」

ぱちん、と囲炉裏の炎が弾ける。
揺らめく炎の向こう側。男の姿に、長い黒髪の女の姿が揺らいだように見えた。
すっ、と隣から床を擦る音が聞こえ、視線を向ける。
囲炉裏の火の灯りが届かない暗がりから、小袖を纏った女の手が、盆に乗った茶を床に置き。そのまま暗がりの向こうに音もなく消えた。

「茶ぐらいしか出せるものがなくてすまないね」

苦笑する男に気にするなと首を振り、盆の上の湯飲みを手に取る。
温かい。夢だと思えぬ程に。
湯飲みを手にしたまま、口を付けるか迷い。盆に戻す事も口を付ける事もせず、湯飲みを手にしたまま男に視線を戻した。

「君は、怖い話は好きかい?」

前触れもない男の問いに、首を傾げた。
好きか嫌いかの二択であれば、好きな部類に入るだろう。

「この逢瀬の語らいとして、こんなものは如何かな?君は一つ題を出し、僕がその題を元に一つ語る」

如何だろうか、と微笑む男に頷き了承する。

さて、どんなものが良いだろうか。思考を巡らせる。
どうせならば、男の笑みが崩れるほど困惑するようなものを。

悩んで告げた一つの題に、けれど男は微笑みを崩す事なく眼を細めた。

「随分と奇抜な題だ…では、こんな話は如何だろう」

そして、男は語り出す。





沈む夕陽に背を向けて、帰り道を歩いていた。
無意識に何度目かの溜息を吐く。明日が来るのが憂鬱だった。
明日もきっと、今日と同じ事の繰り返しだ。朝に目覚ましの音で起き、朝食を食べて学校に行く。つまらない授業を聞いて、帰る。
明日もきっと、部室に顔を出す事はないのだろう。課題の絵は、構想すら決まらない。
明日が来るのが憂鬱だ。また一つ溜息を吐いた。

ふと、声がした。
誰かを呼んでいるような。笑っているような、怒っているような声がした。
振り返る。沈む赤い夕日以外に見えるものは何もなく、聞き間違いだったかと向き直った。
影の動きが僅かに遅い気がした。己の動きの真似がぎこちなく遅くなったような錯覚に、腕を上げ下ろしし確かめる。早い遅いの違いなど分かるはずもなかった。
首を振り、軽く両頬を叩く。
代わり映えのない日常に、脳が刺激を求めている。だから違和感を覚えるのだ。
自嘲して、帰り道を急いだ。


その日は、珍しく夢を見た。



目覚めて直ぐに机に向かう。
退廃的な夢を見た。創作意欲をかき立てるような、そんな素晴らしい夢だった。
忘れてしまう前にと、必死で見たものを描き起こす。
誰もいない街。朽ちた廃墟に絡みつく蔦。色とりどりの草花。
美しい光景を、思い出せるだけ何枚もスケッチブックに描き留めて。また一枚スケッチブックを捲った所で、時計のアラームが鳴り響いた。
学校に行く時間だ。はぁ、と息を吐いて描き途中のスケッチブックを鞄に入れ、朝の準備をし始めた。



キャンバスを前に、無心で絵を描く。
あの荒廃した、美しい光景を形にする。時間が経ち、薄れて来た記憶を保管するために、スケッチブックを開いた。
一枚、また一枚と捲り。あの光景を思い出し。
一枚捲り、その手が止まった。

――描いた覚えのない絵があった。

倒れ伏す人。悲鳴を上げ、泣きながら逃げ惑う人。
その向こう側に小さく立ち尽くす、黒い人影。

なんだこれは。こんな悍ましいものをいつの間に。
気味が悪くなり、スケッチブックを閉じる。急いで片付けをして、逃げるように学校を出た。


昨日と同じような夕日を背に、帰り道を急ぐ。
ふと、誰かの笑い声を聞いた。辺りを見渡せど誰もおらず、自然と目の前の自分の影に視線が向く。
いつもと変わらない影。自分と同じ動きをする、影法師。

それが一瞬だけ、笑ったような気がした。

目を擦る。もう一度見ても変わった所はなく、自分と違う動きをする事もない。
息を吐く。見間違いだと自身に言い聞かせる。
だがどうにも言えぬ不安に、走るように家路を急いだ。


その日も、夢を見た。



目が覚めて、机に向かう。
海に沈む街の夢を見た。地上にあるのはマンションやビルの高層部分だけで、それ以外はすべて水の底にある、そんな夢。
少し悩んだが、スケッチブックを取り出して開く。
あの美しい光景を描き留めるため、鉛筆を走らせた。



キャンバスを前に、絵を描く。
だが手は直ぐに止まり、傍らに置かれたスケッチブックに伸びた。
スケッチブックを手に取り、ぱらぱらと捲る。
荒廃した人の絶えた夢の世界を思いながら頁を捲り、その手は例の記憶にない絵で止まる。
これだけが異様だ。今日描いた絵の中にはない事に密かに安堵しながらも、改めてその絵を見た。
彼らはこの人影から逃げているのだろうか。では倒れ伏している人達はどうだろう。一体この絵はどんな瞬間を切り取った絵なのか。この人影は誰なのか。
そこで違和感に気づく。耐えきれずにスケッチブックを閉じ、帰り支度を始める。

――黒い人影が、昨日よりもこちらに近づいている。



あれからも夢は見続けている。
しかしもう絵を描く気にはなれず。学校に行き、帰るだけの日々を繰り返している。
絵を描いてはいけない。絵の続きを描く事が怖ろしい。
気のせいなのだろう。あのスケッチブックの絵も、寝ぼけた自分が偶然描いたもので、描かれた人影の大きさも変わってはいない。
頭では理解していても、感情がそれを否定する。
描いた覚えのない絵。近づく絵の中の人影。
思い出すだけでも怖ろしい。


今日もまた夕日を背に、帰り道を急ぐ。
聞かぬ振り、気づかぬ振りをして、込み上げる恐怖を押さえ込む。
声も違和感も、全てが気のせいだ。何度も胸中で繰り返した。


「なんで」

声が聞こえた。いつもよりもはっきりと。
思わず立ち止まる。視線が自身の影に向かう。
ひゅっ、と息を呑んだ。抑えきれなくなった恐怖が足を縫い止め、この場から逃げ出すことを許さない。

――影が、笑っている。

「描けよ」

自分の直ぐ後ろ。吐息すらはっきりと感じ取れるほど近くで、声が冷たく告げる。
男のような、女のような。いくつもの声を合わせたような耳障りな声が脳を直接揺さぶり、命じる。

「描けよ。おまえの明日のために」

ずるり、と地面から抜け出した影が腕を掴む。
引き摺られて行く先は、学校だ。あの絵を完成させるために。

「退屈なんだろう?変えたいんだろう?」

声は変わらず耳元で囁き続ける。嫌だと首を振れど、それが聞き入れられる事はない。足に力を入れて抵抗しても、それ以上の力で腕を引かれ、止まる事が出来ない。

「歩け。描け。明日のために」

明日。
明日とは何だ。絵を描く事が何故明日のためになるのか。
影が振り返る。黒一色でしかない影が、それでもにたり、と歪んだ笑みを浮かべたのが分かった。
その瞬間に、気づく。
描いた記憶のない絵。
逃げ惑い、倒れ伏す人々と、それを眺めて嗤う人影。


――あの黒い人影は、自分自身だった。






「如何かな。少しでもお気に召してくれたのなら嬉しいよ」

男の柔らかな声に、詰めていた息を吐き出した。
即席の話としては大変面白いものであった。思わず聞き入ってしまったほどに。
手にしたままの湯飲みを盆に戻す。結局一口も口をつけずに、中の茶はすっかり冷めてしまっていた。

「そろそろ時間だね。名残惜しいが楽しかったよ。君さえ良ければ、また此処においで」

おいで、と言われても、どのように此処に来たのかは分からない。曖昧に笑みを浮かべて、誤魔化した。
くらり、と目眩にも似た感覚。虚ろいでいく意識に、目覚めるのだと理解する。

「明日とは誰にでも平等に訪れるように見えて、そうではないんだよ。選択を誤れば、いとも簡単に壊れてしまう。歩くその先が本当に明日に続いているのか、しっかり見極めるといい。今宵の君の選択は、実に素晴らしいものだった」

男に視線を向ける。
笑う男の姿が揺らいで、長い黒髪の角の生えた女の姿が重なって見えた。



20250121 『明日に向かって歩く、でも』

1/21/2025, 1:56:49 AM

「ぁ、おはよう」

玄関を開けたタイミングで、丁度彼も家から出てくる。
挨拶をしたけれども小さく舌打ちをしただけで、こちらに視線を向ける事なく去って行ってしまった。
彼の姿が見えなくなって、一つ溜息を吐く。
こうなる事は分かっていた事だ。いつからこうだったのか、その切っ掛けすらも分からないけれど。

――私は、彼に嫌われている。

昔はそうではなかった。ここまであからさまに接触を嫌がる様子はなく、逆に仲は良かったはずだ。いつも一緒に遊んで、笑い泣いて。たくさん話をした。
幼なじみで、一番の友人だった。幼い頃は。

沈む気持ちを切り替えるように首を振る。彼を追う形で、学校へと歩き出した。



教室にいるのは、少し苦しい。
窓際の一番後ろ。自分の席からちょうど斜め後ろが、彼の席だ。
教室にいる間はそこからいつも、監視するかのように彼に見られている。
視線が合えば、嫌そうに逸らすのに。見られる事を嫌がるように、離れていくというのに。
見ていない所では、彼の視線がずっと離れない。
きゅっと唇を噛む。耐えきれなくなり、こっそり屋上へと逃げ出した。



「なぁ」

不意にかけられた声に、びくり、と体を竦ませる。
なぜ。そればかりが、頭の中を駆け巡る。
今まで彼が声をかけてくる事はなかった。少なくとも、この学校内で彼が話しかけてきた記憶はない。

「なに?」

恐る恐る彼を見る。無表情ながら、その目だけは強く睨み付けるようにこちらを見据えている。

「あんた、何なの?あいつの姿を真似して、一体何がしたいんだよ」

意味が分からない。あいつの真似とは何の事だろうか。
こちらに近づく彼の手が、強く私を突き飛ばす。突然の事に反応が出来ず、フェンスに背中を打ち付けた。
がしゃん、と大きな音を立てて、フェンスが揺れる。

「俺は、あいつの偽物なんかいらない。あいつは一人だけだ。俺を置いて帰ってこなかった、笑って逝ったあいつ、ただひとりだけだ」
「い、たい。やめて」

彼の手が強く肩を掴む。その痛みに顔を顰め、逃げようと藻掻いてもその手が離れる事はなく。さらに力が強くなり、その手は段々に首元に伸びる。

「うるさい。偽物はおとなしく消えろ。この化け物」

感じる息苦しさに、視界が揺れる。
揺れて、滲んで。別の景色を浮かび上がらせる。

家族。友人。学校。
小さくも、暖かな家。
時間を忘れて読んだ、お気に入りの小説。
白の一筋がどこまでも高く燻る、憎らしいほどに澄み切った青空。

――そこに、今の彼の姿はどこにもない。

走馬灯の如く、記憶が巡る。正しい、本当のわたしを認識させて。
すべてを思い出し。衝動のままに、彼を強く蹴り飛ばした。

「っつ、このっ!」
「はっ。いつ、までも、かわ、りに、なってると、思うな!」

必死で酸素を取り込みながら、吐き捨てる。
滲む視界が元に戻るにつれ、この世界の正しい姿が見えてきた。
古ぼけた校舎の屋上。目の前の彼は学生ではなく、大人の姿をして。

そして。
彼の周りで倒れ伏す、人。人。人。
女も、男も。老人も、子供も。すべては、彼によってこの場所に閉じ込められ、彼女の代わりをさせられた、犠牲者だ。

「そっちの、方、こそ。よっぽど、化け物じゃん」

笑う。笑ってみせる。
彼の前で、泣く事など出来るわけがない。
一歩。二歩。彼から距離を取る。
朽ちてその役目を果たさない、フェンスの向こう側まで下がる。

「真実を見ろ。あんたがしている事から、目を逸らすな!」
「煩い。あいつに似ているだけの、偽物が」
「そんなの、当たり前でしょうが」

彼の言葉を鼻で笑う。
まだ気づこうとしない滑稽さが、逆に憐れだった。
息を吸い、吐く。屋上の端まで下がり。

――わたしにとってただひとりの彼へ、告げる。


「わたしはお母さんと、お父さんの娘、なんだから」

目を見張り、息を呑んで。
手を伸ばす彼から逃れるように、飛び降りた。

無駄な事。何度繰り返しても、何一つ変わらなかった事だ。
娘だと告げた所で、母ではないわたしは最後には父に殺される。そしてまた、同じ日を繰り返す。
わたしの存在しない、父にとっての幸せだろう日々を。

「お父さん」

黒く歪んでいく世界の底に落ちながら、父と過ごした僅かな記憶を思う。
優しい人だった。父であり、母としてわたしを育ててくれた。
仕事に疲れた体で、家事をこなす。そんな優しい人を前にして、わたしは自分の事ばかりで。母がいないと泣いて、我が儘ばかりで。
だから父は疲れてしまったのだ。我が儘しか言えないわたしから逃げ出して、甘い夢に逃げ出す程に。

「ごめんなさい」

目を閉じる。訪れる終をただ思う。
また同じ日に戻るのだろう。けれどもおそらく、そこにわたしはいない。
繰り返しすぎて摩耗した心は、もう自我を保つ事は出来ないだろう。次に繰り返す私は彼の望む彼女になり、彼の抱く記憶の綻びで破綻して。
彼女の偽物にしかなれない私は彼に殺され、あの屋上に新しい骸を積み上げるのだ。

「お願いします。どうか」

好きだった小説の登場人物に、願う。
常世と呼ばれる、死んだ人が行き着く先。永遠の暗闇を統べる長が己の一部から作り上げた、名もなき少女。
還れぬ魂を導く、常世の迎え。
作り話だとしても、今はそれ以外に縋れるものはなかった。

「お父さんを、止めて」

次の私が作られる前に。





力なく座り込む男を前に、如何するべきかを悩む。
男によって閉じられ留まっていた魂は既に胎の中に収め、後は男とその腕に抱かれた少女を残すのみだ。
如何するべきか。表には出さずに繰り返す。
無理矢理引き剥がせば、男はさらに歪む。だがこのままでは二つは癒着し、元の形には戻せない。
どちらも後が大変で、どちらにしても最後は変わらない。
そう思い直し、一歩男に近づいた。

「この子だけでも、元に戻せますか」

凪いだ男の声に聞かれ、腕の中の少女に視線を向ける。
己を呼んだ少女。強く願われ、この場所に辿り着いた。
だがその生は、既に終を迎えている。閉じたこの空間で終の前に戻したとして、それは少女の抜け殻にしかならないだろう。

「戻せない。心が死を受け入れているから」

答えれば、男の腕に僅かに力が籠もる。

「この子が泣くんだ。一人ぼっちで泣いて、けど次第に泣けなくなって。そして作り物の笑顔を浮かべ始めた…この子は、きらきらした瞳をして笑うのに。あんな、無理矢理作った、あんな偽物の」

二度と目覚める事のない少女の亡骸を抱いて、男は笑う。
笑い、怒り。そして泣いていた。

「彼女がいればこの子は元のように笑える。戻らない事は分かっていた。だがこの子のために。俺のただひとりの、大切な娘のために。もう一度、もう一度だけ」
「過去は戻らない。死者が生者になる事はない。魂は常世へと還り、現世へ生まれ出ずるだけ」

近づいて、少女に手を伸ばす。もう一度、と繰り返す男とこれ以上話しても、意味がない。
手間は掛かるが、これは無理矢理にでも引き剥がすしかない。

「やめろ。この子を連れて行くなっ!」

男の顔が怒りに染まる。歪みだした周囲に胸中で嘆息し、距離を取る男を捕らえるために足を踏み出し。

――きん、と。

澄んだ音を立て、漆黒の燦めきが男を薙ぎ。
刹那には黒と白の魂魄が、音も立てずに地に落ちた。

「面倒な男だ。戻らぬと知りながらも、尚足掻くか」

納刀の音と呆れを滲ませる声を聞きながら、落ちた魂魄を取り込んだ。

「戻るぞ」

変わらず眉間に皺を寄せた黒い男に頷き、その隣に駆け寄る。機嫌が悪いのはいつもの事ではあるが、今日はいつにも増して機嫌が悪い気がする。

「何かあった?」

首を傾げ、問いかける。

「我らは妖ではない。それを忘れるな」
「忘れた事などないけれど。妖でないのは当然の事でしょう?」

意味が分からず、さらに首を傾げる。
だが男はこれ以上答える気配はなく。仕方がない、と男から視線を逸らした。

「まったく。あれと話をつけに行かねばならないか」

呟く男の言葉が気になるものの、聞いた所で答えはないだろう。
ふっ、と小さく息を吐く。
胎に収めた魂魄が、かちり、と音を立てた気がした。



20250120 『ただひとりの君へ』

1/19/2025, 10:33:47 PM

「旅に出よう!」

そう言って、彼に手を引かれ外へと飛び出した。
跳ねるように、夜道を駆け抜けて。当てもなく、気の向いた方へと向かう。

最初に訪れたのは、湧き出た小さな温泉のある山奥だった。

「温かい」
「気持ちがいいね」

足を温泉に浸け、その温かさに笑い合う。
温泉に浸かる動物たちの緩んだ顔を見て、いいなぁ、と呟いた。

「えいっ!」

とん、と背を押され。服を着たまま温泉へと倒れ込む。
少し遅れて、ばしゃん、と大きな水音。彼も飛び込んだようだ。

「ちょっと。急に何するの。というか、何してるの」
「折角の温泉。堪能しないとね」
「服、どうするの。びしょびしょなんだけど」
「温泉から出たら、直ぐに乾くよ。問題ない」

文句を言っても、彼は楽しそうに笑うだけ。仕方ない、と溜息を吐いた。
突然の事に距離を取っていた動物たちも、こちらの様子を伺いながら、温泉に浸かっている。
温かい。服を着たままだというのに、とても心地が良い。
少し微睡み細まる目に気づいて、彼はにこにこ笑って手を取り、立ち上がる。

「さあ。次はどこへ行こうか」



次に訪れたのは、月明かり差し込む森の広場。
手ぬぐい片手に踊る猫や、腹鼓を打って楽しそうに騒ぐ狸たちの宴会を見ていた。

「すごい、上手」
「一緒に踊ろうか。おいで」

彼に手を引かれ宴会の場に躍り出る。
突然の事に、踊り騒いでいた猫や狸の動きが止まり騒くが、直ぐに楽しそうに声を上げて、先ほど以上に盛り上がった。
彼と共に、踊り出す。踊り方など知らない。見よう見まね。腹鼓の音に合わせて、夢中になって踊る。
とても楽しい。気づけば声を上げて笑っていた。



その後も、色々な所へ訪れた。
雪山では、皆で雪合戦をして。季節外れに咲く満開の桜の木の下で、花見もした。
川や海へも訪れた。海の上を漂うたくさんの綺麗な光を、けれども彼は気に入らないようで、直ぐに別の場所へと向かってしまったけれど。

そして今、山頂で星空を見ている。

「きれい」
「今の季節は空気が澄んで、星がよく見えるからね」

両手を伸ばす。親指と人差し指で四角を作り、燦めく星を閉じ込めた。
くすくす笑う。手の中に閉じ込めた星か、ちかり、と瞬いた。

「じゃあ、そろそろ最後の旅に出ようか」

おいで、と手を差し出される。
閉じ込めた星を解き放ち、彼の手を取った。

「目を閉じていて。一気に飛ぶから、揺れるよ」
「分かった」

言われるままに目を閉じる。
離れないように彼の手を強く握り、側に寄った。

「行くよ!」

彼の言葉とほぼ同時。地面がぐにゃり、と歪んだ感覚がした。
不安になって彼にしがみつく。小さく笑う気配と、優しく頭を撫でる手の温かさに、さらに強く彼の手を握った。


「着いたよ。もう目を開けても大丈夫」

彼の言葉に、恐る恐る目を開ける。

「っ、わぁ!」

目を見張る。あまりの美しさに息を呑んだ。

一面の星の海。さっき見ていた空よりも近く、手を伸ばせば届きそうな距離で瞬いている。
白、赤、青。たくさんの色の光に囲まれて、鼓動が跳ねる。

「気に入った?」
「うん!ここはどこなの?」
「宙だよ。現世じゃなくて、ぼくたちのいる方の宙だけど」

こっち、と手を引かれ歩き出す。地面がないここでは、歩いているというよりも空中を漂っていると言った方が正しいのかもしれない。
ふわふわと、彼に手を引かれるままについていく。燦めく星が近くを通り過ぎる度に瞬いて、きん、と澄んだ音を立てた。
綺麗だ。とても。星の瞬きを、音を聞きながら、弾む気持ちで微笑んだ。


「到着」
「ここ?」
「そうだよ。ちょっと待っててね」

彼に連れられ辿り着いたのは、七つ並んだ星の場所。
手を離されて、おとなしく彼を待つ。一番端の星に手を差し入れて何かを探すように手を動かす彼は、やがて何かを手にして戻ってきた。

「はいこれ。旅の終わりの記念品」
「ありがとう」

差し出された何かを受け取る。きらきらした青くて白い光が、手のひらの中でちかり、と瞬いた。

「これって、お星様?」
「星の欠片。お守り代わりにね」

手のひらの上の星の欠片ごと手を包まれる。視線を合わせて、彼は優しく微笑んだ。

「今回の旅は、これでおしまい。また来年、迎えに行くよ」
「うん。ありがとう」
「必ず迎えに行くから。手術、頑張って」
「知ってたんだ…ちゃんとがんばる。お星様と一緒に、待ってるから」

彼の目を真っ直ぐ見返して、告げる。
約束だ。一年、諦めないための。優しい彼との、優しい約束。
また彼に会えるように。そう願いを込めて、微笑った。


「そろそろ戻ろうか。目を瞑って」

彼に促されて、目を閉じる。地面が歪む感触は、来た時よりも怖くはなかった。





目が覚めた。
四方を覆う、白いカーテン。白のベッド。
鼻につく、薬品の匂い。
いつもと変わらない。長くいても好きにはなれない病室。

幸せな夢を見ていた。まともに動かす事も侭ならない、欠陥だらけの体で自由な旅に出る。温かくて、優しくて、残酷な夢。
はぁ、と溜息を吐く。
夢は、所詮夢だ。目が覚めてしまえば、いずれ忘れていくだけの、儚いもの。今日見た夢も、きっと直ぐに忘れてしまうのだろう。

ふと、手の中の違和感に気づく。開いてみると、手のひらの中に、小さな石が一つ。
そこらに転がっているのと差異はない、小さな石。手の中で転がしても、やはり石はただの石だった。
捨ててしまおうか。そんな思いが過る。このまま持っていても、もうすぐ検温に来る看護師に見つかれば捨てられてしまうだろう。
少し悩み、床頭台の引き出しを開けた。
中からお菓子の缶を取り出して、蓋を開ける。
中には、落ち葉や枯れた花、木の実が無造作に転がっている。まるで小さな子供が集めた宝物のように。
缶の中に石を入れる。かたん、と小さな音を立てて、また一つ不思議な宝物が増えた。
小さく笑う。鼓動が跳ねた。

「今日も、がんばろ」

呟いて、缶を閉じ。また引き出しの中にしまう。
何故か、今日はとても調子がいい気がした。



20250119 『手のひらの宇宙』

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