sairo

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「おや、いらっしゃい」

穏やかな声に、微睡んでいた意識が覚醒する。

「初めまして。ゆっくりとしていくといい」

囲炉裏を挟んだ向こう側に、柔らかく微笑む誰かの姿。
男、のように見える。だが確証はない。低めの声も、中性的な容姿も一見男に見えるが、女だと言われればそうにも見える。
ここはどこなのか。そもそも、自分は何故このような所にいるのだろうか。
随分と長い間、微睡んでいたようだ。此処にいる前の記憶が、酷く曖昧だった。

「此処は、君の夢の中さ」

疑問が顔に出ていたのか、男はくすり、と笑い答える。
夢。言われてみれば、それが一番しっくりくる気がした。
そうか。自分は眠っているのか。

「久方ぶりのお客人だ。今宵の刹那の逢瀬を楽しもうか」

ぱちん、と囲炉裏の炎が弾ける。
揺らめく炎の向こう側。男の姿に、長い黒髪の女の姿が揺らいだように見えた。
すっ、と隣から床を擦る音が聞こえ、視線を向ける。
囲炉裏の火の灯りが届かない暗がりから、小袖を纏った女の手が、盆に乗った茶を床に置き。そのまま暗がりの向こうに音もなく消えた。

「茶ぐらいしか出せるものがなくてすまないね」

苦笑する男に気にするなと首を振り、盆の上の湯飲みを手に取る。
温かい。夢だと思えぬ程に。
湯飲みを手にしたまま、口を付けるか迷い。盆に戻す事も口を付ける事もせず、湯飲みを手にしたまま男に視線を戻した。

「君は、怖い話は好きかい?」

前触れもない男の問いに、首を傾げた。
好きか嫌いかの二択であれば、好きな部類に入るだろう。

「この逢瀬の語らいとして、こんなものは如何かな?君は一つ題を出し、僕がその題を元に一つ語る」

如何だろうか、と微笑む男に頷き了承する。

さて、どんなものが良いだろうか。思考を巡らせる。
どうせならば、男の笑みが崩れるほど困惑するようなものを。

悩んで告げた一つの題に、けれど男は微笑みを崩す事なく眼を細めた。

「随分と奇抜な題だ…では、こんな話は如何だろう」

そして、男は語り出す。





沈む夕陽に背を向けて、帰り道を歩いていた。
無意識に何度目かの溜息を吐く。明日が来るのが憂鬱だった。
明日もきっと、今日と同じ事の繰り返しだ。朝に目覚ましの音で起き、朝食を食べて学校に行く。つまらない授業を聞いて、帰る。
明日もきっと、部室に顔を出す事はないのだろう。課題の絵は、構想すら決まらない。
明日が来るのが憂鬱だ。また一つ溜息を吐いた。

ふと、声がした。
誰かを呼んでいるような。笑っているような、怒っているような声がした。
振り返る。沈む赤い夕日以外に見えるものは何もなく、聞き間違いだったかと向き直った。
影の動きが僅かに遅い気がした。己の動きの真似がぎこちなく遅くなったような錯覚に、腕を上げ下ろしし確かめる。早い遅いの違いなど分かるはずもなかった。
首を振り、軽く両頬を叩く。
代わり映えのない日常に、脳が刺激を求めている。だから違和感を覚えるのだ。
自嘲して、帰り道を急いだ。


その日は、珍しく夢を見た。



目覚めて直ぐに机に向かう。
退廃的な夢を見た。創作意欲をかき立てるような、そんな素晴らしい夢だった。
忘れてしまう前にと、必死で見たものを描き起こす。
誰もいない街。朽ちた廃墟に絡みつく蔦。色とりどりの草花。
美しい光景を、思い出せるだけ何枚もスケッチブックに描き留めて。また一枚スケッチブックを捲った所で、時計のアラームが鳴り響いた。
学校に行く時間だ。はぁ、と息を吐いて描き途中のスケッチブックを鞄に入れ、朝の準備をし始めた。



キャンバスを前に、無心で絵を描く。
あの荒廃した、美しい光景を形にする。時間が経ち、薄れて来た記憶を保管するために、スケッチブックを開いた。
一枚、また一枚と捲り。あの光景を思い出し。
一枚捲り、その手が止まった。

――描いた覚えのない絵があった。

倒れ伏す人。悲鳴を上げ、泣きながら逃げ惑う人。
その向こう側に小さく立ち尽くす、黒い人影。

なんだこれは。こんな悍ましいものをいつの間に。
気味が悪くなり、スケッチブックを閉じる。急いで片付けをして、逃げるように学校を出た。


昨日と同じような夕日を背に、帰り道を急ぐ。
ふと、誰かの笑い声を聞いた。辺りを見渡せど誰もおらず、自然と目の前の自分の影に視線が向く。
いつもと変わらない影。自分と同じ動きをする、影法師。

それが一瞬だけ、笑ったような気がした。

目を擦る。もう一度見ても変わった所はなく、自分と違う動きをする事もない。
息を吐く。見間違いだと自身に言い聞かせる。
だがどうにも言えぬ不安に、走るように家路を急いだ。


その日も、夢を見た。



目が覚めて、机に向かう。
海に沈む街の夢を見た。地上にあるのはマンションやビルの高層部分だけで、それ以外はすべて水の底にある、そんな夢。
少し悩んだが、スケッチブックを取り出して開く。
あの美しい光景を描き留めるため、鉛筆を走らせた。



キャンバスを前に、絵を描く。
だが手は直ぐに止まり、傍らに置かれたスケッチブックに伸びた。
スケッチブックを手に取り、ぱらぱらと捲る。
荒廃した人の絶えた夢の世界を思いながら頁を捲り、その手は例の記憶にない絵で止まる。
これだけが異様だ。今日描いた絵の中にはない事に密かに安堵しながらも、改めてその絵を見た。
彼らはこの人影から逃げているのだろうか。では倒れ伏している人達はどうだろう。一体この絵はどんな瞬間を切り取った絵なのか。この人影は誰なのか。
そこで違和感に気づく。耐えきれずにスケッチブックを閉じ、帰り支度を始める。

――黒い人影が、昨日よりもこちらに近づいている。



あれからも夢は見続けている。
しかしもう絵を描く気にはなれず。学校に行き、帰るだけの日々を繰り返している。
絵を描いてはいけない。絵の続きを描く事が怖ろしい。
気のせいなのだろう。あのスケッチブックの絵も、寝ぼけた自分が偶然描いたもので、描かれた人影の大きさも変わってはいない。
頭では理解していても、感情がそれを否定する。
描いた覚えのない絵。近づく絵の中の人影。
思い出すだけでも怖ろしい。


今日もまた夕日を背に、帰り道を急ぐ。
聞かぬ振り、気づかぬ振りをして、込み上げる恐怖を押さえ込む。
声も違和感も、全てが気のせいだ。何度も胸中で繰り返した。


「なんで」

声が聞こえた。いつもよりもはっきりと。
思わず立ち止まる。視線が自身の影に向かう。
ひゅっ、と息を呑んだ。抑えきれなくなった恐怖が足を縫い止め、この場から逃げ出すことを許さない。

――影が、笑っている。

「描けよ」

自分の直ぐ後ろ。吐息すらはっきりと感じ取れるほど近くで、声が冷たく告げる。
男のような、女のような。いくつもの声を合わせたような耳障りな声が脳を直接揺さぶり、命じる。

「描けよ。おまえの明日のために」

ずるり、と地面から抜け出した影が腕を掴む。
引き摺られて行く先は、学校だ。あの絵を完成させるために。

「退屈なんだろう?変えたいんだろう?」

声は変わらず耳元で囁き続ける。嫌だと首を振れど、それが聞き入れられる事はない。足に力を入れて抵抗しても、それ以上の力で腕を引かれ、止まる事が出来ない。

「歩け。描け。明日のために」

明日。
明日とは何だ。絵を描く事が何故明日のためになるのか。
影が振り返る。黒一色でしかない影が、それでもにたり、と歪んだ笑みを浮かべたのが分かった。
その瞬間に、気づく。
描いた記憶のない絵。
逃げ惑い、倒れ伏す人々と、それを眺めて嗤う人影。


――あの黒い人影は、自分自身だった。






「如何かな。少しでもお気に召してくれたのなら嬉しいよ」

男の柔らかな声に、詰めていた息を吐き出した。
即席の話としては大変面白いものであった。思わず聞き入ってしまったほどに。
手にしたままの湯飲みを盆に戻す。結局一口も口をつけずに、中の茶はすっかり冷めてしまっていた。

「そろそろ時間だね。名残惜しいが楽しかったよ。君さえ良ければ、また此処においで」

おいで、と言われても、どのように此処に来たのかは分からない。曖昧に笑みを浮かべて、誤魔化した。
くらり、と目眩にも似た感覚。虚ろいでいく意識に、目覚めるのだと理解する。

「明日とは誰にでも平等に訪れるように見えて、そうではないんだよ。選択を誤れば、いとも簡単に壊れてしまう。歩くその先が本当に明日に続いているのか、しっかり見極めるといい。今宵の君の選択は、実に素晴らしいものだった」

男に視線を向ける。
笑う男の姿が揺らいで、長い黒髪の角の生えた女の姿が重なって見えた。



20250121 『明日に向かって歩く、でも』

1/21/2025, 10:08:35 PM