ぼんやりと、目の前で倒れ伏すそれを見下ろしていた。
何処へ向かう途中だったのだろうか。今は僅かにも動かない体は、最後まで前に進もうと足掻くように指先が地を掻いていた。
ふと、それの上着のポケットから、小さな白い箱が僅かに覗いているのに気づく。
誰かへの贈り物だろうか。綺麗にリボンをかけられていただろう箱は、無残にもひしゃげてしまっていた。
無意識に己のポケットを探る。中から同じような赤いリボンのかけられた箱が出てきたのを、見るとも無しに見る。
手のひらに収まる程度の小さな箱。中身は何だったか、霞み掛かる意識の中、考える。
「ぁ」
戯れにリボンをつついていればその端から解け、風に乗って飛ばされていく。それを見遣り視線を戻せば、箱が開き中が露わになっていた。
黒いオニキスのついたピアス。
大切な、あの人への贈り物。
思い出す。思い出して、自嘲した。
自分勝手に贈り物を用意して、浮かれ。そして勝手に落ち込んで、渡す事すら出来ずに逃げ出したのだ。
冷静になって思い返してみれば、彼の優しさと己の浅はかさが露わになり、耐えられずに溜息を吐く。彼は常から忙しい人だというのは分かっていた事だ。だというのに、己のためにいつも時間を作ってくれていた。それを足りないのだと嘆き、剰えその態度を冷たいと傷ついていたのだから救いようがない。
溜息を吐く。手の中のピアスをポケットに押し込み、目の前の憐れで愚かな自分の成れの果てをただ見つめていた。
「お姉さんが、大本?」
不意にかけられた言葉に視線を向ける。
まだ年若い少年だ。大人になる直前の、強い意志を秘めた目が、己を見据えている。
少年の問いに首を振る。己の影を指さし、そして繋がれた先を指させば、少年の顔があからさまに歪んだ。
「なんだ、あれ?気持ち悪ぃ」
影を繋ぐ黒い不定形の塊に、そして塊へと伸びる繋がれた影の多さに、少年は嘆息する。
「お姉さん以外は、駄目だな」
ポケットから取り出した水晶を手の中で弄びながら、少年は繋がれたいくつもの影の先を見据え、己を見据えた。
その視線を肩を竦める事で返す。己の意思が残っているからといって、無事という訳でもない。
「まぁ、いいか。さっさと終わらせないと、後が詰まってるんだ」
どこか疲れた顔で少年は視線を逸らし、影を繋ぐ塊の元へと向かう。手にした水晶の他に、同じ水晶で出来ているであろう小さなナイフを取り出した。
塊が行動を起こすよりも速く、塊目がけ水晶を投げつけ。それとほぼ同時に、塊と己の影をナイフで切り離す。
一瞬の出来事に、目を瞬き。少年のさようなら、の声と、燃え上がる塊の耳障りな叫び声をただ聞いていた。
「俺、もう行くけどさ。お姉さんはどうすんだ?」
まだ生きてるみたいだし、と倒れ伏した方の己を見ながら少年は問う。
問われて、悩む。戻れる選択肢など、考えてはいなかった。
彼に何も言えずに部屋を飛び出し、その先で事故にあった。
そして気づけば、ここに繋がれて。このまま他の繋がれた影のように朽ちていくものだとばかり思っていたのに。
困ったように、己を見下ろす。だが倒れ伏す体は次第に薄くなり。霞み消えて、後には何一つ残らない。
「どうするもなにも、選択肢は一つか。怖ぇな。男の執着って」
小さく呟き腕をさする少年に、何の事だと問いかけようとして。
強く、手を引かれた。
振り返る。黒い人影が、逃がさないとばかりに強く手を掴み。そのまま引き寄せ、抱き留められる。
触れた場所から人影に呑み込まれる。助けを求めて少年を見れば、顔を引き攣らせながらも首を振って無理だ、と告げられる。
「手を出したら、特定されて刺されそう。運良く刺されなくても、無事じゃない気がする」
大人って怖ぇ、と疲れたように呟く少年の姿を最後に、視界が黒く染まる。
落ちていく意識の中で、強く繋がれた手の熱がやけにはっきりと感じられた。
頬に触れる誰かの手の感覚に、目を開けた。
焦点の合わぬ視界に、誰かの姿がぼんやりと映り込む。
息を呑む音。掠れた低い声が、己の名を呼んだ。
ここは何処だろうか。目の前の影は、聞き覚えのあるこの声の主は誰だっただろうか。
目を瞬いて、焦点を合わせる。次第に明瞭になる視界が、目の前の誰かの姿を正しく映す。
「ようやく、起きてくれた」
震える声。嬉しそうに、悲しそうに、愛おしそうに。
彼の手が頬を撫でる。確かめるようなゆっくりとした動きに、思わず目が細まった。
こんなに弱った彼は初めて見る。どんな時でも表情一つ動かさず冷静に対処していた彼が、泣きそうに顔を歪めているなど。
己の知らない彼の姿に、何か言わなくてはと口を開く。だが溢れ落ちたのは掠れた吐息のみ。
それならばと手を伸ばそうとするも、指先すら動かす事は出来なかった。
「俺が悪かった」
頬を撫でる指が唇に触れる。何も言うなと言われているようで、静かに口を閉じた。
「恨んでくれても構わない。お前が生きているならば、俺を愛さなくてもいい」
唇に触れていた手が静かに離れ、左手を取る。
繊細な壊れ物を扱うような手つきで、己の眼前に上げられて。
「結婚しよう」
その薬指に嵌まった銀色に、困惑する。
さっきから彼は何を言っているのだろうか。
分からない。理解したくないだけなのかもしれない。
最後に見た彼と、今の彼の差異に目眩がしそうだった。
「愛している。今までも、これからもずっと。お前だけを」
指輪に口付けて、彼は微笑む。
こんな彼は知らない。彼はこんな事をするような人ではなかった。
不意に彼の耳元の何かが光が反射した。
目を凝らす。焦点を合わせ、耳につけられたそれをはっきりと認め、息を呑んだ。
割れたオニキス。彼のための贈り物。
彼を祝うための贈り物が。
彼を縛り付ける呪いになってしまっていた。
20250123 『あなたへの贈り物』
1/23/2025, 10:36:48 PM