sairo

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「ぁ、おはよう」

玄関を開けたタイミングで、丁度彼も家から出てくる。
挨拶をしたけれども小さく舌打ちをしただけで、こちらに視線を向ける事なく去って行ってしまった。
彼の姿が見えなくなって、一つ溜息を吐く。
こうなる事は分かっていた事だ。いつからこうだったのか、その切っ掛けすらも分からないけれど。

――私は、彼に嫌われている。

昔はそうではなかった。ここまであからさまに接触を嫌がる様子はなく、逆に仲は良かったはずだ。いつも一緒に遊んで、笑い泣いて。たくさん話をした。
幼なじみで、一番の友人だった。幼い頃は。

沈む気持ちを切り替えるように首を振る。彼を追う形で、学校へと歩き出した。



教室にいるのは、少し苦しい。
窓際の一番後ろ。自分の席からちょうど斜め後ろが、彼の席だ。
教室にいる間はそこからいつも、監視するかのように彼に見られている。
視線が合えば、嫌そうに逸らすのに。見られる事を嫌がるように、離れていくというのに。
見ていない所では、彼の視線がずっと離れない。
きゅっと唇を噛む。耐えきれなくなり、こっそり屋上へと逃げ出した。



「なぁ」

不意にかけられた声に、びくり、と体を竦ませる。
なぜ。そればかりが、頭の中を駆け巡る。
今まで彼が声をかけてくる事はなかった。少なくとも、この学校内で彼が話しかけてきた記憶はない。

「なに?」

恐る恐る彼を見る。無表情ながら、その目だけは強く睨み付けるようにこちらを見据えている。

「あんた、何なの?あいつの姿を真似して、一体何がしたいんだよ」

意味が分からない。あいつの真似とは何の事だろうか。
こちらに近づく彼の手が、強く私を突き飛ばす。突然の事に反応が出来ず、フェンスに背中を打ち付けた。
がしゃん、と大きな音を立てて、フェンスが揺れる。

「俺は、あいつの偽物なんかいらない。あいつは一人だけだ。俺を置いて帰ってこなかった、笑って逝ったあいつ、ただひとりだけだ」
「い、たい。やめて」

彼の手が強く肩を掴む。その痛みに顔を顰め、逃げようと藻掻いてもその手が離れる事はなく。さらに力が強くなり、その手は段々に首元に伸びる。

「うるさい。偽物はおとなしく消えろ。この化け物」

感じる息苦しさに、視界が揺れる。
揺れて、滲んで。別の景色を浮かび上がらせる。

家族。友人。学校。
小さくも、暖かな家。
時間を忘れて読んだ、お気に入りの小説。
白の一筋がどこまでも高く燻る、憎らしいほどに澄み切った青空。

――そこに、今の彼の姿はどこにもない。

走馬灯の如く、記憶が巡る。正しい、本当のわたしを認識させて。
すべてを思い出し。衝動のままに、彼を強く蹴り飛ばした。

「っつ、このっ!」
「はっ。いつ、までも、かわ、りに、なってると、思うな!」

必死で酸素を取り込みながら、吐き捨てる。
滲む視界が元に戻るにつれ、この世界の正しい姿が見えてきた。
古ぼけた校舎の屋上。目の前の彼は学生ではなく、大人の姿をして。

そして。
彼の周りで倒れ伏す、人。人。人。
女も、男も。老人も、子供も。すべては、彼によってこの場所に閉じ込められ、彼女の代わりをさせられた、犠牲者だ。

「そっちの、方、こそ。よっぽど、化け物じゃん」

笑う。笑ってみせる。
彼の前で、泣く事など出来るわけがない。
一歩。二歩。彼から距離を取る。
朽ちてその役目を果たさない、フェンスの向こう側まで下がる。

「真実を見ろ。あんたがしている事から、目を逸らすな!」
「煩い。あいつに似ているだけの、偽物が」
「そんなの、当たり前でしょうが」

彼の言葉を鼻で笑う。
まだ気づこうとしない滑稽さが、逆に憐れだった。
息を吸い、吐く。屋上の端まで下がり。

――わたしにとってただひとりの彼へ、告げる。


「わたしはお母さんと、お父さんの娘、なんだから」

目を見張り、息を呑んで。
手を伸ばす彼から逃れるように、飛び降りた。

無駄な事。何度繰り返しても、何一つ変わらなかった事だ。
娘だと告げた所で、母ではないわたしは最後には父に殺される。そしてまた、同じ日を繰り返す。
わたしの存在しない、父にとっての幸せだろう日々を。

「お父さん」

黒く歪んでいく世界の底に落ちながら、父と過ごした僅かな記憶を思う。
優しい人だった。父であり、母としてわたしを育ててくれた。
仕事に疲れた体で、家事をこなす。そんな優しい人を前にして、わたしは自分の事ばかりで。母がいないと泣いて、我が儘ばかりで。
だから父は疲れてしまったのだ。我が儘しか言えないわたしから逃げ出して、甘い夢に逃げ出す程に。

「ごめんなさい」

目を閉じる。訪れる終をただ思う。
また同じ日に戻るのだろう。けれどもおそらく、そこにわたしはいない。
繰り返しすぎて摩耗した心は、もう自我を保つ事は出来ないだろう。次に繰り返す私は彼の望む彼女になり、彼の抱く記憶の綻びで破綻して。
彼女の偽物にしかなれない私は彼に殺され、あの屋上に新しい骸を積み上げるのだ。

「お願いします。どうか」

好きだった小説の登場人物に、願う。
常世と呼ばれる、死んだ人が行き着く先。永遠の暗闇を統べる長が己の一部から作り上げた、名もなき少女。
還れぬ魂を導く、常世の迎え。
作り話だとしても、今はそれ以外に縋れるものはなかった。

「お父さんを、止めて」

次の私が作られる前に。





力なく座り込む男を前に、如何するべきかを悩む。
男によって閉じられ留まっていた魂は既に胎の中に収め、後は男とその腕に抱かれた少女を残すのみだ。
如何するべきか。表には出さずに繰り返す。
無理矢理引き剥がせば、男はさらに歪む。だがこのままでは二つは癒着し、元の形には戻せない。
どちらも後が大変で、どちらにしても最後は変わらない。
そう思い直し、一歩男に近づいた。

「この子だけでも、元に戻せますか」

凪いだ男の声に聞かれ、腕の中の少女に視線を向ける。
己を呼んだ少女。強く願われ、この場所に辿り着いた。
だがその生は、既に終を迎えている。閉じたこの空間で終の前に戻したとして、それは少女の抜け殻にしかならないだろう。

「戻せない。心が死を受け入れているから」

答えれば、男の腕に僅かに力が籠もる。

「この子が泣くんだ。一人ぼっちで泣いて、けど次第に泣けなくなって。そして作り物の笑顔を浮かべ始めた…この子は、きらきらした瞳をして笑うのに。あんな、無理矢理作った、あんな偽物の」

二度と目覚める事のない少女の亡骸を抱いて、男は笑う。
笑い、怒り。そして泣いていた。

「彼女がいればこの子は元のように笑える。戻らない事は分かっていた。だがこの子のために。俺のただひとりの、大切な娘のために。もう一度、もう一度だけ」
「過去は戻らない。死者が生者になる事はない。魂は常世へと還り、現世へ生まれ出ずるだけ」

近づいて、少女に手を伸ばす。もう一度、と繰り返す男とこれ以上話しても、意味がない。
手間は掛かるが、これは無理矢理にでも引き剥がすしかない。

「やめろ。この子を連れて行くなっ!」

男の顔が怒りに染まる。歪みだした周囲に胸中で嘆息し、距離を取る男を捕らえるために足を踏み出し。

――きん、と。

澄んだ音を立て、漆黒の燦めきが男を薙ぎ。
刹那には黒と白の魂魄が、音も立てずに地に落ちた。

「面倒な男だ。戻らぬと知りながらも、尚足掻くか」

納刀の音と呆れを滲ませる声を聞きながら、落ちた魂魄を取り込んだ。

「戻るぞ」

変わらず眉間に皺を寄せた黒い男に頷き、その隣に駆け寄る。機嫌が悪いのはいつもの事ではあるが、今日はいつにも増して機嫌が悪い気がする。

「何かあった?」

首を傾げ、問いかける。

「我らは妖ではない。それを忘れるな」
「忘れた事などないけれど。妖でないのは当然の事でしょう?」

意味が分からず、さらに首を傾げる。
だが男はこれ以上答える気配はなく。仕方がない、と男から視線を逸らした。

「まったく。あれと話をつけに行かねばならないか」

呟く男の言葉が気になるものの、聞いた所で答えはないだろう。
ふっ、と小さく息を吐く。
胎に収めた魂魄が、かちり、と音を立てた気がした。



20250120 『ただひとりの君へ』

1/21/2025, 1:56:49 AM