「あなたは直ぐに迷子になってしまうから、これをあげるわ」
そう言って首にかけられた、銀色の何か。丸くて銀色で、まるで懐中時計のようなそれに首を傾げれば、母は柔らかく微笑んで頭を撫でた。
「これは、羅針盤。星の燦めきが見えないあなたのための、道標よ」
「みちしるべ?」
「そうよ。これから先、あなたが迷ってしまった時には、羅針盤の声を聞きなさい。進むべき道を示してくれるから」
「うん。分かったよ、おかあさん」
母の言葉全てを理解した訳ではないが、大切なものだと言う事だけは確かだ。真剣な顔をして頷けば、母の笑みはさらに優しくなった。
「あなたの道行く先が、少しでも光に溢れていますように」
額に口付け願う言葉に、ごめんなさいと、声には出さずに謝罪をする。
遠くない未来は暗闇でしかない事は、自分が一番よく知っていた。
「朝だよ!起きて」
賑やかな声に、目を覚ます。
目を開けたとて然程変わらぬ視界に、苦笑しながら身を起こした。
随分と懐かしい夢を見た。
優しい母との暖かな記憶。彼女と出会った始まりの日を。
「足下、注意して。そのまま真っ直ぐ進んで」
彼女の声に従い、ベッドから抜け出し歩く。
「止まって。右を向いて十四歩」
いち、に、と心の中で数を数え。彼女の言う十四歩目で止まる。
手を伸ばす。把手を掴んで、扉を開けた。
今日も変わらず、正確だ。
「右に進んで。途中でお父さんに会うから、挨拶を忘れないで」
彼女の言葉の通りに、右に進む。
途中、僅かに浮かび上がる人の輪郭に、立ち止まり。
「お父さん。距離は十歩」
きゅう、はち、と近づく距離に、耳を澄ませ。
「六、五。止まった」
「おはよう、父さん」
笑顔で父に挨拶をする。
「ああ、おはよう。今日も調子が良さそうだな」
さらに近づく距離を聞き、頭を撫でられる感覚に声を上げて笑う。
普段通り。変わらない朝のやりとり。
彼女の声も姿も見えない周りは、誰一人として自分の目が殆ど機能していない事に気づいていないだろう。
それでいい。心配させるのは本意ではない。
「時間。そろそろ進んで」
「あんまり髪の毛、ぐちゃぐちゃにしないでよ。顔洗いに行くから、もうおしまい」
「すまん。父さんはもう仕事に行くが、お前も今日は学校だろう。気をつけて行くんだぞ」
「分かってるって。行ってらっしゃい」
手を振り、父の横を通り抜ける。
彼女の指示で洗面台で顔を洗い、着替えを済ませ、リビングに向かう。
一つ一つ確認しながら、彼女の声を聞いていた。
「お願いがあるんだけど」
不意に聞こえた声に、周囲を見渡す。
何処にも人の輪郭がない事に首を傾げ。思いついて彼女に声をかける。
「お願いって、何?僕に出来る事?」
彼女の指示がなければ、何一つ出来ない自分でも大丈夫だろうか。不安を抱きながら問う言葉に、彼女はあのね、と控えめに囁いた。
「行ってほしい場所があるの」
「遠いの?」
「そんなに遠くない。歩いて行けるから」
「あまり遅くならないならいいよ」
遅くなれば、母が心配する。それだけを伝えて了承すれば、ありがとう、と彼女とはまた違う声が聞こえた。
「誰?」
聞いても答えはない。人の輪郭が見えない事から、おそらく人ではないのだろう。
彼女が何も言わないのであれば、特に気にすることはない。害があるモノを遠ざけてくれるのは、彼女の得意とする所だから。
意識を切り替えるように、緩く首を振る。彼女の声を聞いて動けるように、前を向いた。
「正面。そのまま進んで」
彼女の指示の通りに足を踏み出す。
普段とは異なる道に、それでも恐怖はなかった。
「止まって。ここでおしまい」
「ここ?」
見えないと知りながらも、辺りを見渡す。
湿った土の匂い。木の匂い。冷たく吹き抜ける風の感覚。
木々に囲まれた場所。知らない場所だった。
「おい。これは違うだろうが」
一際強い風が吹き抜ける。羽ばたく翼の音がして、誰かが上から下りてくる。
人の輪郭は見えない。目の前にいるだろう誰かは人ではないモノだ。
「お前は人間と妖の区別のつかねぇのか。阿呆が」
「うるせ。だって困ってるみたいだったから」
低い男の声と、それに答える少し高めの声。
「困ってるってなぁ。それだけで俺らの領分を超えて応えるもんじゃねぇ事くらい、分かんだろうが」
「だから態々来てもらったんだ。何も考えてないわけじゃない」
何かを言い争っている声に、困惑する。状況が分からないため何も言うことは出来ないが、これは自分が原因なのではないだろうか。
「ねえ」
彼女の声がする。意識を向ければ、それだけで彼女以外の声は遠く、気にもならなくなった。
「今から言う言葉を繰り返して」
意味が分からないが、頷き了承する。彼女のためにここまで来たのだから、分からないからと言って断るつもりはまったくない。
「私の目の」
「私の目の」
「呪いを解いて下さい」
「のろいをといて下さい」
彼女の言葉を繰り返す。
目の前の誰かに願う形になってしまったが、そもそも呪いとは何の事だろうか。
声が止まる。痛いほど突き刺さる視線に、願ってはいけないものだったろうかと少しだけ不安になった。
「これは、あり?」
「言わせられてんだろうが。なしだ、なし」
「けちだ」
「うるせぇよ。ったく、仕方ねぇな」
男の声が疲れたように嘆息する。おい、と声をかけられて、声のする方へと見えない視線を向けた。
「お前、呪いを解きたいのか?」
首を傾げた。呪いが分からないのに、解きたいかそうでないかは答えられない。
「そっからか。ちゃんと説明しとけよ」
「解いた方がいいの?」
「解かなきゃお前の目はそのままだ。近い内に、完全に目を奪われる」
思わず、目に手を当てた。
誰かに奪われる。全部奪われてしまったら、皆に目が見えない事を知られてしまうだろうか。
「目が見えるようになりたいなら、ちゃんと望め。望まない限りは、応えてやる事が出来ねぇぞ」
望み。昔、彼女が教えてくれた事だ。
妖は人に望まれ、応える事で在り続ける事が出来る。
見る事が出来る様になれば、妖である彼女に望むものがなくなる。そうしたら、彼女はどうなってしまうのだろう。
「目が見えても変わらない。私はあなたの側で道を示すだけ」
彼女の声が聞こえた。
自分の考えを全て見通す彼女は、最初から変わらない。
道を示す、羅針盤の針はいつでも正しい方向を指し示してくれている。
俯きそうになる顔を上げる。
息を吸って、しっかりと言葉を紡ぐ。
「私の目の、呪いを解いて下さい」
風が吹き抜ける。目を覆い尽くす何かを奪い、駆け抜けて行く。
「こら。はしゃぐな」
「はしゃいでない。望まれたから応えた。それだけ」
「今のは俺に望んだようなものじゃねぇか」
「連れてきたのは俺。だから俺が応えた」
「だからはしゃぐなって。勝手にふらふらして、また迷子になるだろうが」
風と共に遠くなる声に、思わず閉じていた目を開けた。
空を見上げる。空の青の向こうに、黒い翼を持つ二つの影が消えて行くのがはっきりと見えた。
目を擦る。生まれて初めてはっきりと見える事に、戸惑いを隠せない。
世界は、こんなにもきらきらと燦めいているのか。
「自分の目で見る世界はどう?」
彼女の声がして、視線を落とす。胸元にかけたままの羅針盤の銀色が、光を反射して燦めいた。
もう一度見る事の出来た彼女に、嬉しくなって頬が緩む。母から渡された時から、その輝きは変わらない。
「とても綺麗だよ」
「そういう意味じゃない」
呆れる声に、小さく笑う。
心が弾む。こんなにわくわくするのは本当に久しぶりだった。
「そろそろ帰る時間」
「そうだね。帰らないと皆心配する」
彼女の声に歩き出す。一人で歩く事も久しぶりで、それだけで嬉しくなってしまう。
「そっちは反対方向。立ち止まって、戻って」
「え?」
「見えても、見えなくても迷子は変わらないね」
楽しそうに笑われて、恥ずかしさに顔を赤くする。
くるりと振り返り、早足で歩き出した。
けれど木の根に足を取られ、そのまま派手に転ぶ。
痛い。こうして転ぶのも久しぶりではあるが、これはまったく嬉しくはなかった。
「足下に注意してって言ってるのに。見えてる方が危なっかしいのは何故?」
「ちょっと、浮かれてただけだから。痛みで少し落ち着いた」
「道案内は必要?」
「よろしくお願いします」
小さな声で頼むと、くすり、と笑い声が返る。
ゆっくりと立ち上がり、埃を払って意識を集中させる。
彼女の、声を聞くために。
「落ち着いたら、真っ直ぐ進んで。足下に注意して」
彼女の声に導かれ、歩き出す。
一人だけで歩く時よりも安心するのは、きっと彼女だからなのだろう。
20250122 『羅針盤』
1/22/2025, 10:39:45 PM