本の頁を捲る。
ここではない、遠いどこかの物語。思いを馳せながら、只管に文字を追う。
「物好きだね。いつまで読んでるの?」
呆れた声に顔を上げる。
「…今回は、何があった」
目の前の男の姿に、目を瞬く。
小袖を纏ったその姿。元々中性的な容姿をしているために、呆れ顰めた表情すら女性と見紛うほどに美しい。
思わず魅入り、手にした本を取り落とす。ばさり、と地に落ちる紙の音に、はっとして本を拾いつつ視線を逸らした。
「いつもの曰く付き。業が深くて大変だよ」
まったく、と男の愚痴を聞きながら、机に本を置く。
茶でも出すか、と湯を取りに移動しようとすれば、男の手がそれを阻む。視線だけで抗議すれば、柔らかく細まる男の目と視線が合い、びくり、と肩が跳ねた。
「茶ぐらい自分で出す。お前は此処にいて」
いいね、と念を押され、渋々頷く。
急須と湯飲みを置いた盆を手に取り部屋を出る男の背を見送って、静かに息を吐いた。
甘やかされている。記憶の中の男と同一だとは考えられぬほどに。
「甘いなぁ。甘すぎて、目が覚めちまった」
部屋の隅で寝ていたはずの、男よりも若い青年が欠伸を漏らしながら起き上がる。
「起きちまったからには、おれも甘やかしてみるか」
にたり、と笑い。音もなく近づくと、そのまま膝に乗せられる。突然の事に羞恥で逃れようと暴れるも、青年はただ笑うだけで解放するつもりはないようであった。
「よしよし。ほら、とっておきの饅頭をやるから、機嫌を直せ」
「食べ物で誤魔化されると思うな。離せ」
「食べないのか?おれの気に入りの店の限定品だぞ」
「……食べる」
限定品、という言葉には弱い。
青年の手から饅頭を受け取り、おとなしく齧り付く。しっとりとした皮と甘すぎない餡子の美味しさに、これ以上文句も言えずに饅頭を無心で囓った。
「なんだ。起きたのか」
「丁度良かった。こいつが饅頭を詰まらせる前に、茶をくれ。おまえの分もやるから」
ほら、と青年は饅頭を男に手渡し、代わりに湯飲みを受け取る。そして半分ほどになってしまった饅頭を己の手から取り上げると、受け取った湯飲みを押しつけた。
「あ」
「取りあえず、茶を飲め。詰まらせたら大変だ」
「何なんだ、まったく。お前達、どうかしてるぞ」
目の前の男と、背後の青年。記憶にある限り、お互いこのように和やかな関係ではなかったはずだ。
領地を巡り、互いに争い。協定を結びこそはしたものの、それでも仲間のような気安い関係ではなかったというのに。
「何言ってんだ、おまえ」
「今のお前の体は人間の体なのだから。心配するのは当たり前だろう」
「ただでさえ足が動かないんだからさ。おれらがいないとおまえ、すぐに死ぬだろ?」
「だからって」
言葉に詰まる。
確かに、かつては二人と同じ妖であっても今の己は人間だ。歩く事すらままならぬ弱き存在でしかない。
そも、妖であった時に何処ぞの侍に切り捨てられ死んだ己が、今こうして人間として生きているのが理解し難い。終わったはずの先がこうしてある事を、未だに認める事が出来ない。
「我慢しろよ。仕方ないだろ。上手く定着できたのが、人間の体だったんだから」
「人間の望みに応えて退治された、お前のその先があってもいいだろう」
「でも」
茶を啜りながら、男に視線を向ける。
男の手に重なるようにして絡みつく、半透明の女の手を表情一つ変えぬまま握りつぶすのを見て、ひっと声が漏れた。
「鬱陶しい。いいかい。この小袖もね、菩薩所に納められて終わったものだ。けれど今もこうして人間の念を取り込んで、曰く付きとして俺の元まで来た」
「人間に怪談話として語り継がれてるんだよ、それ。だからそれを何とかしても、またどこかで現れるんだろうな。そんで誰かがそれを終わらせる。それの繰り返しだ」
「お前も同じだよ。人間を化かして悪さをして、最後には人間に殺される。その話を人間が覚えている限り、お前はずっと此処に在る。俺達は次の形に成る前のお前に別の形を与えただけだ」
よく、意味が分からない。
取られた饅頭に手を伸ばしつつ首を傾げれば、呆れた溜息が前後から聞こえた。
仕方がないだろうに。己の頭が良くない事は、己だけでなく、二人も知っているはずだ。
「お前が読んでいた物語。読み終われば、悪者は倒され平穏が訪れるだろう?だが最初から読み始めれば、悪者は再び平穏を脅かして、読み進めればまた悪者は倒される。そういう事だよ」
「おれらは終わらない物語がまた始まる前に、悪役を悪さが出来ないように攫って甘やかしてるってだけだ」
分かったような、やはり分からないような。
取り戻した饅頭を囓りながら曖昧に頷いて見せれば、男の目に憐みが浮かぶ。それを見ない振りして、残りの饅頭を口に放った。
「とにかく、俺達は堕ちたりはしないから、心配しないでいいって事だけ知ってて」
「そうか…それなら、いい」
口の中の饅頭を飲み込んで、茶を啜る。
二人が堕ちないのであれば、それでいい。
「なんだかんだ言いながら、おまえが一番おれらに甘いよな。尾を千切って戻って来た時なんかは、薬を塗って一晩中世話をしてくれたし。こいつが真っ黒になって帰ってきた時には、元に戻るまで洗ってやってたしさぁ」
「お前が最初に甘やかしたんだから、今度は俺達に甘やかされなよ…それにしても鬱陶しいな。仕方がない。燃やすか」
次々と重なる女の手を潰していきながら、男は苛立たしげに眉を寄せる。
行ってくる、と部屋を出る男を見送りながら、燃やした小袖が風に乗って空に舞わなければいいが、と一抹の不安を覚えた。
「直ぐ戻ってくるだろうし、それまでゆっくりしてるか」
「いい加減に下ろしてくれ」
「戻ってくるまでは、念のためこのままな。人間は直ぐ死ぬし」
これやるからな、と今度は煎餅を手渡される。言いたい事は山ほどあるが、仕方がない。
ばり、と音を立てて煎餅に齧り付く。素朴でありながら、香ばしく甘い米と醤油の風味を堪能して、口元を綻ばせた。
「あと一年くらいはこの部屋の中だけで我慢しろよ。七つを過ぎたら、少しずつ外へも出してやるからな」
「過保護か。このまま私一人では何も出来なくなったらどうしてくれる」
「それもいいかもな」
ぽつりと溢れ落ちた言葉に、思わず振り返る。
どこか不穏な言葉とは裏腹に、優しい目をして青年は穏やかに微笑んだ。
「そうしたらもう、野ざらしの後ろ足のない狐の骸なんて見なくてすむだろうしな」
押し黙る。遠い過去の事だとしても、それに関しては何の弁解もしようがない。
視線を逸らし、青年にもたれ掛かる。
ばりん、と音を立てて囓る煎餅の味が、やけにしょっぱく感じた。
20250126 『終わらない物語』
1/27/2025, 4:29:36 AM