sairo

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少年の祖母の家には、開かずの扉がある。
開かず、というよりも存在しない、と言った方が正しい。さらに正確に言うならば、子供にだけ見える扉というべきか。
知っているのは、少年や従兄弟達のような子供だけだ。
扉がある事を、少年は幼い頃より知ってはいたが、一度両親に聞いて以来、その扉について話す事をしていない。聞いた時の両親の、あの可笑しなものを見る目を思い出し、少年は口を閉ざしていた。

一昨年の暮れ。毎年の集まりで、少年ら子供だけで遊んでいた時の事。

「ねぇ。このお屋敷に、大人達には見えない開かずの扉があるのを知ってる?」

最初にその扉の話をしたのは、誰だったか。

「知ってるよ」
「おばあちゃんのお部屋よりも奥の扉だよね」
「前にお父さんに聞いても、知らないって言ってた」
「夢でも見たんだろうって、本気にしてくれなかったよ」

ひそひそと。内緒話をするように、お互いに身を寄せ合って囁いて。
子供達の話を纏めると、どうやらその扉は子供だけに見えているらしい。見た子供達がそれぞれの親にその扉の話をしても、誰一人見えていないと話していたという。

「何だろうね。あの扉」
「お祖母ちゃんには見えているのかな?」
「誰か聞いてみた事ある?」

互いを見渡せど、誰もが首を振り聞いていないと話す。
それならば聞いてみよう、と子供達の中では最年長の少年より三つ年上の少年が声を上げる。

「そんなのつまらないよ。それよりも、こっそり開けに行くのはどうかな?」

けれどやはり誰かの声が、その提案を否定した。

「勝手に開けたら怒られないかな」

戸惑う少年をよそに、他の子供達は皆好奇心を隠しきれない様子で、いつ開けに行くかの相談をし始める。

「お正月は大人達がお酒に酔っているから、どうだろう?」
「でもお祖母ちゃんは、お正月はほどんど部屋にいるはずだ」
「夜、とか?皆寝ている間なら、開けられるんじゃない?」
「ムリ。うちのお父さん、眠りが浅いから。抜け出したらすぐにバレちゃう」

どうしよう、とその時は話がまとまらず。年が明けても機会は訪れる事なく、それぞれ家へと帰っていった。



その次の年。
同じように集まった子供達の共通の話題は、あの扉の事だった。

「今回こそは開けたいね」
「何の話?」

だが不思議な事に、以前祖母に扉の話をしようと提案したはずの最年長の少年は、扉の事を覚えてはいなかった。

「そんなの、今まで見た事なんかないし。前に話した事もないはずだ」

訝しげな表情を浮かべる彼は、ふざけているようには見えない。ともすれば、他の子供達の親に話し出しかねない彼に、少年は慌てて声をかけた。

「その時、怖い話をテレビで見ていた気がする。それで記憶が混じってしまったんじゃない?」

さほど年の変わらぬ、子供達の中では自分の次に年長に当たる少年の言葉に、彼は一応の納得を見せた。開かずの扉など、怪談話では良くある類いの話である事も幸いした。

「言われてみれば、真冬の怪談特集をやってたしな」


その後、彼のいない場で皆と話し合い。あの扉は十五歳以上の大人には見えないのだ、と結論づけた。
その時彼は十五になっていた。それ故に十五を区切りに、子供達は大人と子供を分けた。
結局、彼の事もあり。その時も扉を開ける事はなかった。



そして今年。
扉が見えない彼を抜いて、子供達は三度目の扉の話をしている。

「この中で、開かずの扉について分からない子はいる?」

少年より一つ下の少女が、険しい顔で周囲を見る。

「知ってる」
「開ける開けないの話のやつ」
「大人には見えない扉の事だよね。覚えてる」

それぞれが頷き、それに少女も頷いた。

「じゃあ、今回こそ開けに行こうか」

本音で言えば、扉を開ける事に反対だった。
祖母に叱られる事を怖れたのもあるが、それ以上に得たいの知れない不安が扉の話をする度に、胸の内を渦巻いていた。
その扉に触れてはいけないような。話をする事すら障りがあるような。そんな言いようのない不安に、止めるべきだと声を上げかけ。だが周囲の雰囲気に押され、言い出す事は出来ずにいる。


「子供だけでお泊まり会。なんて案はどうだろう?」

遊び場にしているこの場所で。子供だけで泊まり込む。
子供だけと言っても、屋敷内の事だ。大人には止められる可能性は低い。
問題があるとすれば最年長の彼の事だが、きっと彼は参加する事はないだろう。進学を機に購入してもらったスマートフォンで、友人達を連絡を取る事に忙しいようだ。


そうして扉を開けるための、仮初めのお泊まり会が決まり。少年は気が乗らないながらも、布団を部屋に運び込んでいる。
両親に拒否はされなかった。集まりの限られた時間しか遊ぶ事の出来ない子供達の交流を微笑ましく思っている両親が、反対する理由はなかった。
はぁ、と溜息を吐く。見れば他の子供達も皆、無事に親の許可をもらえたようであった。


「ちょっとわくわくするね」
「寝ないでよ」

軽口を言い合いながら、電気を消す。様子を見に来た親に見咎められないように、寝ている風を装ってその時が来るのを待った。



「そろそろいいんじゃない?」

誰かの囁く声に、体を起こす。
他の子供達も皆、目を擦りながらも起き上がる。

「行こうか」

全員が起きた事を確認し、少年は声をかける。
部屋を出て扉まで行く時の先頭は、この場にいる子供達の中で最年長の少年だと、話し合いで決めていた。

「気をつけて。大人に見つからないようにしてよ」

最後尾は少年より一つ年下の少女だ。間には九歳と七歳の兄妹が、互いに身を寄せ合うようにして少年に続いている。
皆瞳に隠しきれない不安や怖れを乗せながら、それでも誰一人として立ち止まり、引き返そうと声をかける者はいない。未知への好奇心や子供だけという特別感が、小さな勇気に変わり、足を進ませていた。
暗い廊下を、月明かりだけを頼りに歩く。出来る限り足音を殺して、周囲を窺いながら慎重に。
途中、全員が食事を取る広間の前を通ったが、灯りの消えた広間の向こうからは何の音もせず、誰もいない事に密かに少年は安堵の息を吐いた。
広間の先。祖母の部屋の前を、殊更慎重に進む。
板張りの廊下が軋まぬようゆっくりと。だがあまり時間をかける訳にもいかない。音を立てぬ程度を見極めて、出来るだけ速く祖母の部屋の前を通り抜けた。

そしてその奥。
突き当たりに、その扉はあった。
何の変哲もない扉。だが障子戸などのように、引き戸の多いこの屋敷には珍しい、開き扉だ。

「開くかな?」

少年の後ろにいた最年少の少女が、不安そうに口を開く。
その言葉に扉を見るが、暗い中では鍵の有無は分からなかった。

「開けて確かめればいいわ。開かなかったら、残念だけど戻りましょう」

最後尾の少女が声をかけ、少年は恐る恐る把手に手をかける。扉を開けるのも、先頭の少年の役割だった。
金属の冷たさに眉を寄せ、体温が奪われる前にと把手を回す。然程抵抗はなく、把手は回り。
きぃ、と軋む音を立てて、ゆっくりと扉は開いた。

「開いた!」
「中は、どうなってるの?」

兄妹が興奮を隠しきれないように、身を乗り出す。それを宥めながら、開いた隙間から中を覗き込む。

そこは八畳ほどの部屋であるらしかった。四方の行灯の灯りが、ぼんやりと室内を照らしている。
調度品の類いのない部屋。しかしその部屋は屋敷のどの部屋よりも異様であった。

「扉」

思わず呟く。部屋の奥の大きな白の扉が、薄暗い室内に浮かび上がり異様さを際立たせている。

「扉?」

少年の横から室内を覗う兄が、少年を押しのけ惹かれるように室内に足を踏み入れる。続いて妹が、そして最後尾の少女が入り込み、少年は己も入るべきかを迷い視線を彷徨わせる。
込み上げる不安が、この部屋の立ち入りを拒んでいる。ここは危険だと、少年の本能が警鐘を鳴らしていた。

「あんたも早く来なさいよ。そこにいたら、大人達に見つかっちゃう」

最後尾にいた少女に促され、兄妹の視線を受けて少年は一つ息を吐く。今は己が最年長なのだ。怖がっている場合ではないと、勇気を振り絞り震える足を踏み出した。
室内に入り、静かに扉を閉める。逃げ出したい気持ちを、手を握り締める事で押し殺して、白の扉の前へ立った。


――と。

「誰か、そこにいるのかい?」

くぐもった、大人の男の声が扉の向こうから聞こえた。

――こんこん。とんとん。

「誰かいるなら、ここを開けてくれないか。こちら側からは開けられないんだ」

扉を叩く音がする。困ったような男の声が、扉を開けるよう懇願する。

「誰だろう?」
「開けてみようか。困ってるみたいだし」

警戒心のない兄妹が扉に近づくのを、咄嗟に阻む。そのまま少女の方へと押し出せば、強張った表情の少女は少年の意図を汲んで、入ってきた扉の方へ兄妹と共に向かった。

――とんとん。とんとん。

「なあ。誰かいるんだろう?開けてくれよ。ここを開けて。出してくれ。なあ。頼むよ。なあっ!」

――とんとん。どんっ。どんどん。

扉を叩く音が強くなる。叩きつけるような強さに、叫ぶような声に、ひぃ、と誰かが引き攣った声を上げる。
泣き出す声は妹のものだろうか。

「早く外に出ろ!」

視線を扉から離さずに、少年は少女達に向かい叫ぶ。視線を逸らしてしまえば、その瞬間に扉が開いてしまいそうな気がした。

「出られないの!扉が開かないの!」

悲鳴にも似た少女の叫ぶ声に、少年は強く手を握り閉める。
ここから出られない。その絶望が少年の判断を鈍らせる。

「扉を開けて!」

泣き喚く兄妹の声に、扉を開けろと指示が混じる。
内側から開かないのであれば、外側からならあるいは。
混乱する思考では、まともな判断も出来ず。少年は扉へと手を伸ばし。

――がんっ。

手を伸ばしたその横。誰かの足が強く扉を蹴る。

「惑わされるな。開ければ連れていかれるだけだ」

硬直する少年を誰かが窘める。扉に伸ばしていた手を下ろし視線を向けると、長身の男にも女にも見える大人が、少年を見下ろしていた。

「お前は何故、此処にいる。どうやって入り込んだ」

足を下ろし、見下ろす誰かは無感情に問いかける。静かでありながらもその声は、両親に叱られる時よりも怖ろしい。
「ぇ、と。皆で、開かずの扉を、見に行こうって。それで」
「皆?此処にはお前しかいないだろう」

訝しげな声に、そんなはずはない、と振り返る。兄妹と少女と、四人でこの場所に来たはずだ。
だがそこには誰もおらず。
誰かがいた形跡すらなかった。

「え?なんで。だって、皆で開かずの扉があるって。子供だけが見える扉があって、それで開けてみようって誰かが言って」
「子供だけ、か。他の子らは皆寝ているな。起きているのはお前だけだ」

何故。どうして、とそればかりが少年の頭の中で回る。
最初から皆がいなかったとしたら、一緒にいた少女達は一体。

「あぁ。そうだな…夢だ。これは夢の中で、お前も寝ている。此処で起きた事はすべて夢であって、現実ではない」
「夢?」
「夢だ。夢だからこそ忘れてしまうといい」

かたかたと震える少年を宥めるように声をかける。
大丈夫だと頭を撫でられ。

その先を、少年は覚えていない。


気づけば、朝。
いつもの遊び場として使用している部屋で、他の子供達と共に少年は目覚めた。

「お泊まり会、楽しかったね」
「もっと夜更かしすればよかった」
「そうね。大人がいないのだから、色々な事が出来たのに」

子供達は誰も、昨夜の出来事を覚えてはいなかった。それ以前に扉の事すら、皆の記憶からなくなっているようであった。
また泊まろうよ、と楽しげに話し合う他の子供達を見ながら準備を済ませ、少年は一足先に部屋を出る。不用意な事を言ってしまう前に、一人で昨夜について考えたかったからだ。
差し込む陽の光に、目を細める。こうして明るい場所で屋敷内を見渡せば、やはり昨夜の事は夢のように思えてくる。
昨夜出会った誰かも夢だと言った。ならば全部を夢にして、忘れてしまえばいい。


「酷い」

不意に声が聞こえ、少年は顔を上げた。
廊下の先に、長い髪の女が俯いて立っている。見覚えのない姿に、誰だろうかと首を傾げ。
瞬きを一つ。

「ひっ!?」

目を閉じ、開ける。そんな刹那の時間で、女は少年の目の前に立っていた。
長い髪の間から、虚ろな黒目が少年を睨み付けている。青白い女の両手が徐に伸ばされ、恐怖で硬直する少年の首に絡みつく。

「開けてって言ったのに。あの時開けてくれたら、皆出られたのに。お前のせいで」

憎い、と抑揚のない声音で女は呟く。絡みつく手に徐々に力が込められ、少年は息苦しさから逃れようと女の腕を掴み。
強く目を閉じる。

「え?」

再び目を開ければ、女の姿は何処にもなく。


「どうしたの?」

遅れて出てきた少女に、何でもないと少年は首を振る。
部屋を出てきた他の子供達と共に広間へと向かいながら。

そっと、首に手を当てる。
全てが夢だとして。それでも。
氷のような手の冷たさを、忘れられそうにはなかった。



20250128 『小さな勇気』

1/29/2025, 12:18:14 AM