sairo

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妹が帰ってきた。


その知らせを受けて、考えるよりも早く体は実家へと向かっていた。
会ってまず、何を言うべきか。
いなくなった事を叱ればいいのか。それとも帰ってきた事を喜べばいいのか。
思考は渦を巻き、同じような事を考えては打ち消していく。迷う事のない体とは裏腹に、何一つ決められない。

だが、結局は。
何か言葉をかけるよりも、ただ確かめたかったのだ。
妹の、己の半身の無事を。この目で確かめたかった。

妹が行方不明になってから、彼此七年が経とうとしている。
いつもと変わりのない、あの日。後悔している事があった。

――会いたい。

別々の高校へと進学し、会う機会の減った妹からの連絡を、いつものように適当な嘘で断った。
双子と言えど、男と女だ。いつまでも二人一緒という訳にもいかない。
それは成長と共に顕著になり。進学を機に、実家から離れた。
泣き喚く妹に辟易し、嘘をついた。
それは己のための嘘であった。妹を納得させるためだけの作り話だ。

重苦しい息を吐き、手にしたままのそれに視線を落とす。
草臥れ、薄汚れた紅い紐。あの日に千切れてしまった、二人を繋ぐ糸。

――お互いに紅い紐を結べば、離れていても繋がっている事が出来る。

即席の作り話。それでも妹は納得して、縋りついた手を離した。
ようやく自由になれたのだと、心の内で安堵した。ようやく一人になる事が出来るのだと、その時は本気で喜んでいたのだ。
今は、後悔しかない。


――次は――駅。――駅。

電車がゆっくりと速度を落とす。窓の外の見慣れた景色に、戻って来たのだと実感した。
電車が停止するのを待てず、席を立つ。扉が開いた瞬間に、速足で改札へと向かった。

改札を抜け、走り出す。ここではバスを待つよりも、歩いた方が早く家に着く。
無心で走り続ける。握る手の中の紐が、ただの偶然なのだと笑って欲しかった。





「そんなに急いでどうしたの?」

無人のバス停。ベンチに一人座るその姿に、足を止めた。
荒い息を整え、ゆっくりと歩み寄る。記憶にあるまま変わらない姿に、手の中の紐を強く握り締めた。

「え、と。久しぶり」
「馬鹿やろう。勝手にいなくなりやがって」
「ごめん。でもどうしようもなかったの」

眉を下げて微笑う。困った時の癖も変わらない。
数歩、距離を開けて立ち止まる。視線だけで促せば、妹はベンチから立ち上がり己の隣に立った。

「帰ろうか」

差し出しかけた手は、ポケットの中に仕舞い込む。
今更だ。逃げ出した己が、触れられる訳がない。
視線を逸らし、俯いた。



家への帰り道を、肩を並べて、二人歩く。
昔から変わらない。異なるのは、手を繋いでいない事くらいか。

「懐かしいね。昔はよくこうして一緒に帰ったのを思い出す」

穏やかな声に、肯定する。
何も考えず、お互いがすべてだったあの頃が懐かしい。煩わしいと思っていたこの距離が、今はただ愛おしかった。

「本当に、帰ってきたんだな」
「そうだね。ようやく、かえって来れた」
「今まで何処で何をしてたんだ」
「ずっと学校にいたよ。ごっこ遊びをしてた」

哀しい誰かと、と笑う妹に気づかれないように、拳を握る。
妹は思っていたよりも側にいた。それに両親も妹の友人達も、誰一人気づかなかった。
己がそこにいたのなら、きっと直ぐにでも見つけて連れ戻す事が出来ただろうに。
離れるべきではなかった、と思い上がった思考に吐き気がする。どこまでも自分勝手で傲慢で、酷く滑稽だった。

「お袋達はどうしてる?」
「今はすごく忙しくしてるよ。急だったから、準備が大変みたい」
「側にいれば良いだろ。お前がいなくなって何年経ってると思ってんだ」

帰らぬ妹を探し続ける事も待ち続ける事も、苦痛を伴うものだ。僅かな希望が、諦める事を否定する。
諦めてしまえば楽になれると、何度思った事だろうか。
特に両親は、見ている周囲が耐えられぬほど必死だった。只管に。どんな形であれ、帰って来る事を願い続けていた。

ようやく帰ってきたのだ。


「ごめんね。皆に心配かけてばっかりだ」
「気にするな。帰ってきたから、もうそれだけで報われる」

不意に、妹の足が止まる。
数歩遅れて立ち止まり、振り返る。変わらず眉を下げて微笑う妹に手を伸ばしたくなるのを、作った笑みで誤魔化した。

「どうした?」
「ありがとう、って言ってなかったなって思って」

意図が分からず首を傾げれば、妹は左手を上げ袖をまくった。

「これがあったから、かえって来れた」

左手首に結ばれた紅い紐。慈しむように視線を向けて、妹はありがとう、と繰り返す。

「同じ時間を繰り返して気が狂いそうになっても、私にはこれがあった。繋がってるって感じられたから、他の子が皆壊れていっても、こうして私を保っていられた」

ゆっくりと歩き出す。その視線は己ではなく、家の方を向いていた。
足は止まる事なく、己の横を通り過ぎ。妹の背を追う形で、続いて歩き出す。

「私はもう大丈夫だよ」

凪いだ声音で妹は呟く。

「私にはこれがあるから。一人でも大丈夫」
「嘘をつくなよ」
「本当だよ。だから忘れてくれてもいいよ」

何を言っているのか。
思わず立ち止まる。だが妹は立ち止まる事も、振り返る事もなく先を行く。

「かえって来れたから。父さんも母さんも落ち着いてる。だから無理に帰ってくる必要はないよ」
「お前は俺に、帰ってきてほしくないのか?」
「そうじゃないけど」

妹を追いかけながら問いかける。
忘れていい、帰らなくていいなどと。これではまるで、ここから追い出そうとしているようではないか。

「そうじゃない。けど、傷になるくらいなら、いっそ忘れてほしい」

ぽつり、と呟かれたその言葉に、耐えきれず妹の腕を掴んだ。
驚き瞬く妹の目と視線を合わせる。涙一つ見えない瞳が苦しいほどに憎く、温もり一つない腕の冷たさが狂いそうなほどに悲しかった。

「いい加減にしろよ。俺達は双子なんだぞ。生まれる前から一緒にいた特別なんだ。お前が言っていた事だろうが。忘れるなんて出来ない事くらい分かれよ!」

家を出ると決めた時のように、感情のままに縋ってほしかった。行かないでと、離れないでと一言でも言ってくれたのなら、今度こそこの手を離す事はないというのに。
後悔していた。
離れた事。嘘を吐いた事。その全てを後悔していた。
一時の感情に流されずにいれば、この手はまだ温もりを抱いていられたはずだ。一人の空しさを思い知る事もなかった。
あの日からずっと、後悔ばかりだった。

「大丈夫だよ」

静かで柔らかな声音。
腕を掴んだままの己の手に触れ、妹は穏やかに微笑んだ。

「大丈夫。忘れられるよ。怪異に攫われた私なんて忘れて、幸せになれるよ。これから先、好きな人が出来て、結婚して。そういえばって、思い出にする事が出来る」
「出来るかよ。お前がいないのに」
「出来るって。大丈夫。それでも哀しいって、幸せでないって言うなら。その時は仕方がないから、会いに行ってあげる」

嘘つき。と胸中では思いながらも、妹の腕を放す。
泣くのを耐えた不格好な笑みを浮かべ、約束だぞ、と嘯いた。

「会いに来いよ。待ってる」
「今から待たないで。幸せになる努力をしなよ」
「気が向いたらな」

くすくすと妹は笑う。
数歩下がり、後ろを振り返った。

「おかえり。父さんと母さんが待ってるよ」

いつの間にか家についていたらしい。
門扉を抜けて振り返る妹に、馬鹿だな、と笑った。

「お前が言う言葉じゃないだろ」
「そっか。うん。そうだね」

家を見上げ。眩しそうに目を細めて。
妹は、笑いながらも静かに泣いた。

「ただいま」
「おかえり。皆、ずっとお前を待ってた」

玄関扉の向こう側へと消えていく、妹の背を見送る。
黒と白の鯨幕を視界の隅に入れ、どこからか薫る線香の匂いを取り込むように深く呼吸をする。

妹が帰ってきた。
化生と呼ばれる、妄執に狂った人ではないモノの檻の中から戻ってきた。
化生に一度でも囚われれば、その生存は絶望的だ。五体満足で戻れるだけで、奇跡と言えるだろう。
最初から覚悟はしていた。妹が行方不明になった状況が、化生の存在を示していた。
妹が帰ってきた。
もしもの希望を見出す時間は終わった。生きていなくとも帰ってきたのだから、先に進まなくてはならない。
今だけだ。今この時だけは、と誰にでもなく言い訳をして。

声を殺して、只管に泣き続けた。



20250125 『やさしい嘘』

1/26/2025, 9:18:16 AM