帽子かぶって、どこ行こう。
当主様から頂いた、大切な帽子。引きこもってばかりの己が外へ出られるように、と思いの籠ったそれをかぶり、今日も外へ出る。
木漏れ日がきらきらと煌めいて、道の先に降り注いでいる。落ち葉を踏む時の、さくっ、と軽い音が鼓膜を揺らす。
ふふ、と笑い、くるりと回る。ふわり、と帽子のリボンが空を揺らめいて、まるで綺麗な魚が空を泳いでいるよう。
思わずリボンに手を伸ばし。
急に風が吹き抜けた。
悪戯か、それとも競い合ってでもいたのか。強い風が帽子を空高く舞い上がらせて、瞬きの間に見えなくなってしまう。
大切な帽子。外に出るために必要な。
じわり、と涙が滲む。その場に崩れ、膝を抱えて蹲る。
ぽたり、と涙が零れ落ち。しゃくり上げ、ただ泣く事しか出来なくなった。
「泣いてるの?だいじょうぶ?」
知らない声。近づく足音に、びくり、と体を震わせる。
一族以外は誰であろうと怖かった。今は、お守り代わりの帽子もない。
恐怖でさらに涙が零れる。どうしよう、と焦る思考が、判断を鈍らせた。
「おさら?」
小さな手が、頭上の皿に触れた。ぞわり、と駆け上がる、本能的な恐怖に逃げなくてはと立ち上がり。けれどその瞬間に強い目眩に襲われて、立ち上がろうとした体は、地面へと倒れ込んだ。
「だいじょうぶっ!?」
知らない誰かが、焦ったように声をかける。倒れた己の正面に回った誰かの足を歪む視界の中に捕らえて、そのまま視線を上へとあげた。
幼い人間の子供。その手には、長いリボンのついた帽子。
歪む視界の中でもはっきりと分かる己の帽子を認めて、必死に手を伸ばした。
「帽子。わたしの、帽子」
「これ?きみのだったんだ」
手にした帽子を頭に乗せてもらい、ほっと息を吐く。まだ目眩は続いているが、外でも頭の皿が乾かぬように特別な術を施された帽子が戻って来ただけで、大分体は楽になった。
ふらつく体を起こし、立ち上がる。己とさほど変わらぬ背丈の子供を前に、少し俯きながら帽子を深く被り直した。
「ありがとう。大切な帽子なの」
「どういたしまして。見つかってよかったね」
優しい声に、俯く顔を上げて子供を見る。
「その帽子。きみにとってもにあってるよ」
柔らかな、陽だまりみたいな微笑みに。
とくん、と胸の鼓動が跳ねた。
「話は大体分かった」
頬を染めて俯く妖を前にして少女は一つ頷くと、湯飲みに口をつける。
「それで、その子と恋仲になりたい、と」
「ち、違いますっ。え、と。その。帽子のお礼、が、したくて」
慌てたように両手を振り否定する妖の頬はさらに赤く。頬だけでなく、耳まで赤くなっているその様は、とても初々しい。妖に気づかれぬよう少女は密かに笑い茶を飲み干すと、湯飲みの底に残った角切りの昆布を黒文字で刺し囓る。
「以前、風の方に頼んで魚をいくつか届けてもらったんですけど、あまり嬉しそうではなくて」
「そりゃあ、急に空から魚が降ってきたら驚くと思うよ」
「魚よりも獣の肉の方が良かったでしょうか」
「いや、だからそういう問題でなくて」
少し呆れて少女は声をかけるが、妖にはその言葉は届いていない。
必死なのだろう。初めて抱いた感情に、余裕がないとも言える。
真剣に考え込む妖を微笑ましく見ながら、少女はそうだねぇ、と昆布を囓りながら妖を指さした。
「お礼とか建前抜きで、その子とどうなりたいの?」
「どうって。その。そんな、事、考えた事もない、です」
「お礼してさよなら?その後は会えなくてもいいと?」
「そ、れは…いや、です」
瞳を揺らし、妖は首を振る。
「でも、わたしは妖、だから」
泣くのを耐えるように強く目を瞑り、俯く。
人間と妖。ただ一人に深く関わる事で幸せになれた例は、ごく僅かだ。特に人間が生きる現世で穏やかな関係を築いているモノを、少女は片手で数えるくらいしか知らない。
「まあ、そうなんだけれど。でもそれだけで諦めるのは、ちょっとね」
「わたし、傷つけたくはないです。帽子、似合ってるって言ってもらえて、すごく嬉しくて。優しくされたのも、心配されたのも初めてで。だから」
「その子さ。それきり会いに来てはくれないの?」
少女の問いかけに、妖は目を開けて顔を上げる。
首を振り、穏やかに微笑んだ。
「何度か来てくれて。一緒に、遊んだりもしてます」
「それなら、今はそのままでいいんじゃないかな」
妖からではなく、相手から訪れて来てくれているのであれば、その関係を続けていればいい。人間が成長し、関係が変わっていく時に、その先を改めて悩めばいいのではないか。
最初から先ばかりを見ていては疲れてしまう、と少女は笑う。
「会いに来た、その子の望みに応えていればいい。一緒に遊んで、笑って。何だったら喧嘩もして。それを積み重ねるだけで今はいいと思うよ。駄目になりそうなら、その時はまた話くらいは聞いてあげるから」
「それで、本当に大丈夫でしょうか?」
「心配ならいつでもおいで」
少女の言葉に、妖は頷く。
ありがとうございました、と一礼し、暇を告げる妖を見送って。少女は一つ息を吐いた。
「じいちゃんめ。帽子を作るだけで終わりだと思ったのに」
引きこもっているよりはいいのだが。
それでもきらきらした話は甘すぎて、胸焼けがする。
「茶でもいれるか」
こんな時は、やはり昆布茶がいい。
誰にでもなく呟いて、少女は茶を入れるため踵を返した。
20250129 『帽子かぶって』
1/29/2025, 11:12:14 PM