当てもない旅をしていた。
一族の誰にも告げず、彼と二人。
翼を折りたたみ、地に足を付けて。気の向く方向へと歩き続けていた。
「こんな所にいたのか」
静かに凪いだ声音に、振り返り反射的に距離を取る。
「翼を捨て、地を歩く事を選択していたとはね。見つからないわけだ」
穏やかに微笑む男の視線から、怯える彼をさりげなく隠す。その目に浮かぶ、隠しきれていない激情は紛れもない怒りだ。
息を呑む。旅の終わりは覚悟していたが、まさかこの男に見つかるとは。
優美な所作とは裏腹に、苛烈な質を抱いた当主の側仕えの男。一族から離れた咎は、話し合いで許される事はないだろう。
男の威圧に震える体を叱咤して、正面から男を見据える。口元に笑みを浮かべ、せめてもの虚栄を張った。
「貴殿を出し抜けたのならば何よりだ」
「おや、威勢のいい事だ。だがその選択肢は誤りだよ」
男の笑みが消える。とん、と軽く地を蹴り一息で距離を詰められ、刹那には体は地に叩きつけられていた。
「っ!ぁ、がっ」
「やめて!」
彼の悲痛な叫び声に、身を捩り視線を向ける。
かたかたと体を震わせながらも己の前に立つ彼に、無理はするな、と痛む体を必死に起こす。
「退きなさい。勝手をしたのだから、仕置きをするのは当然だろう」
「やめて。全部おれが悪い、から。仕置きなら、おれだけにして」
「なに、を、言って。よせ」
ふらつく足に力を入れ立ち上がり、彼を抱えて背後に下がる。呼吸一つすら痛みを覚える体に鞭を打ち、改めて男と対峙した。
男に敵うはずはない。けれどもせめて彼だけは許しを得られるようにと、思考を巡らせ。
そこでようやく男の違和感に気づく。
「君。離れている間に、何があった?」
眉を寄せ、その目には困惑を乗せて。問うその言葉は、戸惑いに揺れている。
――あぁ。男も気づいたのか。
彼の変化に。永くを生かされ、擦り切れた心にほんの僅か、火が灯っている事に。
彼の目の奥に煌めく光を見たのだろう。顔を歪め、男は唇を噛みしめる。
笑みが浮かぶ。虚栄ではない微笑みを湛え、男を見据えた。
「旅の途中だ。この子には、まだ翼は必要ではない」
「っ、それは」
「今、この子を屋敷に戻したとして。それは最適解ではない。分かるだろう?空も海も、この子には鳥籠でしかない事を」
妖と心を通わせた人間が生んだ子。一族と同じ翼を有していようと、彼は人間だった。
人間は地に生きる者だ。空に在る我ら妖の元に留めておくべきではなかった。
「おれは…嫌ではなかったよ。皆といるの。でも…きっと疲れてたんだ」
「そうだな。妖と人間との差異も、永くを生きる事も。人間には重いだろう」
「…戻る気はないと、そう言いたいのか」
男の微かな呟きに、違う、と彼は声を上げる。一族の元では、遠い過去に失われた感情の乗った声音に、男が息を呑む。
「帰りたくないわけじゃない。でも、まだ歩いていたい。もう少しだけでもいいから」
「旅の途中だと言っただろう。何処が終着点かは分からないが、この先に必ずあるはずだ」
抱えたままであった彼を離し、そっと背を押す。こちらを振り返る彼に笑いかければ、小さく頷きを返して男の元へと歩み寄る。
「ちゃんと帰るから。だからこのまま、世界を見てきてもいい?」
真っ直ぐな彼の視線に、男は仕方がない、と息を吐き微笑む。
「危ない事はしないと、約束できるのならね」
「しないよ。約束できる」
「そうかい。それならば、行っておいで」
男はまだ本心では迷っているのだろう。それでも彼の変化に、その先の可能性に賭けた。
難儀なものだな、と男を見て思う。いつまで後継と、その教育役でいるつもりなのだろうか。
折角の機会なのだから、父親なのだと彼に告げてしまえばいいものを。
彼の頭を撫でている男と視線が交わる。不快に細められた目を肩を竦めて見返した。
今更、何を怖れているのか。失いたくないが故に彼に永遠を与え、側に留めおいている事を後悔しているとでもいうのだろうか。
ふっと息を吐く。子を持たない己には、理解出来ぬ感情だ。
二人の元へと歩み寄る。丁度良い刻限だ。男の気が変わらぬ内に、出立するのが賢明だろう。
「じゃあ、行ってくる」
「ああ。気をつけるんだよ」
別れを告げ、己の隣に立つ彼を見つめる男の目が己を捕らえる。
名残惜しげに揺らぐその目が、刹那に鋭さを湛え不快さを露わにする。
「この子に傷の一つでもつけたら、どうなるか分かっているだろうね」
「分かっているさ。必ず守り通そう」
あからさまな男の態度に、苦笑しながらも是を答える。
「それと、余計な事は言うんじゃないよ」
顔を顰め、黒い翼を広げ。一陣の風と共に、男は舞い上がる。
風に乗って遠くなる男の姿に、耐えきれずふふ、と笑みが溢れた。
「体、大丈夫か?」
彼の言葉に、忘れていた痛みが体を苛み出す。だが動けぬほどではない。問題ない、と首を振り、彼を促し歩き出す。
「旅、か。何も考えてなかったけど、旅をしていたんだ」
「多くを見聞きして、それを糧としてきたのだから、これは旅だろう」
行き先を決めず、気の向くままに歩みを進めながら。今更ながらの彼の認識に、呆れた笑い声を上げる。
「旅なら、もっと楽しまないと。帰って土産話を皆に聞かせられるように」
くすり、と彼は笑う。その目に燦めきを宿して、無邪気な子供のように。
「この旅が終わったら、おれも変わっているかな。あいつの事、ちゃんと呼べるように強くなってるといいな」
おや、と首を傾げ、彼を見る。道の先を見る彼の目は、とても穏やかだ。
彼の視線が己に向けられる。穏やかさの中に悪戯を思いついた子供の目をして、彼は笑う。
「そろそろさ。父さん、って呼びたいなって。帰った時に呼んだら驚くかな」
思わず空を仰ぐ。雲一つない青空に、男の姿はどこにも見えない。
「驚くだろうな。驚きすぎて、泣くかもしれない」
「あいつが泣くはずないだろ。流されるか、笑いながら怒られるかのどっちかだ」
「そこは気づいていないんだな」
男がどれほど彼を大切に思っているのか、彼は欠片も気づいていないらしい。
男の想いを告げようとして、口を噤む。余計な事を言うなと釘を刺されていた事を思い出した。
視線を空から彼へと移す。曖昧な笑みを浮かべ、話題を変える事にした。
「次は何処へ行こうか」
「どうした、急に?いつも通り、気の向いた方に行けばいいだろ?」
そうだな、と呟いて、緩く頭を振る。数歩先を行く彼を追うように、歩き出す。
本当に、難儀なものだ。父子というものは。
素直でない二人に、心の内で溜息を吐いた。
20250201 『旅の途中』
2/2/2025, 4:09:22 AM