sairo

Open App

また、新しい子が来た。

「よろしくお願いします」

どこか緊張した面持ちで、頭を下げる幼い子。これから一年間、この隔離された牢獄のような場所で、後継者として相応しいか否かを見極められるのだろう。
きっとこの幼い子はまだ何も知らない。最後まで何も知る事はないのだろう。
傍らの世話役の男に連れられ、去って行くその背を見送って。
可哀想に、といつもと同じような事をぼんやり思った。



彼女は想像していたよりも優秀だった。
聡明で、両親を思って泣く事もなく。与えられる課題を、特に苦もなく熟していく。
彼女の前に来た子は彼女よりも一回り年上だと言うのに、一月も保たなかった。比較してしまうと、余計に彼女の優秀さが目立ってしまう。
ふわり、と彼女の打った式が飛ぶ。優雅に室内を巡り、彼女の手の平へと収まる式に、回りの大人達が騒めいた。

「これで、いい?」
「はい。上出来です」

彼女と世話役の男の和やかな談笑を聞きながら、目を伏せる。
彼女は優秀だ。きっと全ての課題を熟してしまうのだろう。
何も知らない彼女が憐れで、耐えきれず静かに部屋を出た。



深夜。誰もいなくなった部屋に、一人きり。
昼間の彼女がいた場所に立ち尽くし。彼女の先を思っていた。

不意に音もなく戸が開く。視線を向けると彼女が一人、静かに室内へと入り込んできた。
忘れ物でもしたのだろうか。動く事なく視線だけで彼女を追えば、彼女はこちらに歩み寄り、目の前で止まった。

「あなたも、ここにお勉強に来たの?」

真っ直ぐにこちらを見つめ、問いかける彼女に息を呑む。
彼女が自分を見て、声をかけている。想像していなかった出来事に、思考が忙しく回り出す。

「僕が、見えるの?」

彼女の問い答えず、逆に問う。
今まで自分の事が見えている者などいなかった。ここに訪れた子も、ここにいる大人達ですら、誰一人自分が見えて声をかける者はなかったというのに。

「見えるよ。見えてはいけなかった?」

問いを問いで返された事に気分を害する事なく、彼女は肯定する。
微かな希望に、思わず一歩彼女に近づいた。

「君は僕が見えて、声が聞こえるんだね」

確認のために再度問えば、彼女ははっきりと頷いた。
それならば、自分が言える事は一つだけだ。

「ねぇ、君。まだ何も知らない君。お願いだから、ここから逃げるんだ」

彼女は助かる。聡明な彼女なら、一人でも生きる術を見つけられるはずだ。

「ここを出るまでは、僕も出来る範囲で助けてあげるから。だから、逃げて」
「どうして?」

首を傾げる彼女に、伝えてもいいものか逡巡する。
幼い彼女には酷な話だ。だが彼女ならば、すべてを伝えてもいいのかもしれない。
知らないまま、は酷だろう。

「課題をこなしても、こなせなくても、ここからは出られなくなるから」
「出られないの?」
「そうだよ。皆、食べられちゃうから」

彼女の目が瞬く。意味を理解しきれていないのかもしれない。

「後継者は関係ないの?」
「後継者なんて建前だ。ここの当主がほしいのは、後継者じゃなくて式だから」

ここに呼ばれるのは後継者ではなく、当主の生きた式の候補だ。課題をすべて熟した子は最後に当主と会い、影を切り離される。
残ったもの、途中で脱落したものの行き着く先は、誰かの腹の中だ。

「あなたも、影を切られてしまったのね」
「そうだよ。だからせめて君には逃げてほしいんだ」

自分のようにならないために。
そう願いを込めて逃げて、と繰り返す。
だが彼女は、淡く微笑みを浮かべ、首を振って否を示した。

「どうしてっ!?」
「ごめんなさい。でもね」

彼女の姿が揺らぐ。幼い姿が大人になりきる前の少女の姿にまで成長していく。
何が起こっているのだろう。目の前の彼女は、誰だ。
混乱する自分の置き去りに、成長した彼女が徐に腕を上げる。それを合図に部屋が明るくなり、急な眩しさに目を細めた。

「おしごとを終わらせないと、帰れないんだよね」

勝ち気な笑みを浮かべ、ごめんね、と彼女は繰り返す。足下の影が不自然に揺れて、いくつもの小さな獣の影を作り出した。

「優しい君。何も知らないでここを訪れる子達を助けようと踠いて、一人苦しんできた君。その苦しみは終わるよ。ここから解放してあげる」
「本当に?僕は還れる、の?」
「わたしはそのために来たんだから」

真っ直ぐな、煌めく目をして彼女は頷く。そして視線を横にずらして、ある一点を指し示した。

「行って。人の影を式にしたとして、皆の方が強い」

彼女の影から分かれた獣の影が、一斉に彼女の指し示した方角へと向かって行く。壁をすり抜け、消えていく影の向かう先が何処であるのかを思い、あぁ、と吐息に似た声が漏れた。
影の向かう先、彼女の指し示す方向には当主がいるはずだ。

「他の者は、如何致しましょうか」

いつの間にか現れた世話役の男が、彼女に声をかける。
男に視線を向けず、彼女は少し悩んでこちらを見た。

「食べちゃったみたいだしね。人から外れた者はここから出さないで。いるか分からないけれど、まだ人でいる者は、記憶を抜いて外に放り出しといて」
「仰せのままに」

恭しく一礼をして、男もまた獣の影になり壁の向こうに消えていく。
夢見心地で影が消えていった壁を見ていれば、暖かな手が頭に触れた。

「もう大丈夫だからね。わたしの管がすぐに終わらせてくれるから」

優しく頭を撫でられる。その温もりに段々と力が抜けていき、耐えきれず視界が滲み出す。

「君は、誰なの?」
「通りすがりの正義の味方。なんてね」

ふふ、と彼女は笑みを浮かべる。
何も知らないと思っていた彼女の知らない姿に、つられて笑い。

「あり、が、とう」

笑った事で零れだした涙が堰を切ったように溢れだして。
彼女に頭を撫でられながら、声を上げて只管に泣いた。



20250131 『まだ知らない君』

1/31/2025, 10:32:18 PM