「旅に出よう!」
そう言って、彼に手を引かれ外へと飛び出した。
跳ねるように、夜道を駆け抜けて。当てもなく、気の向いた方へと向かう。
最初に訪れたのは、湧き出た小さな温泉のある山奥だった。
「温かい」
「気持ちがいいね」
足を温泉に浸け、その温かさに笑い合う。
温泉に浸かる動物たちの緩んだ顔を見て、いいなぁ、と呟いた。
「えいっ!」
とん、と背を押され。服を着たまま温泉へと倒れ込む。
少し遅れて、ばしゃん、と大きな水音。彼も飛び込んだようだ。
「ちょっと。急に何するの。というか、何してるの」
「折角の温泉。堪能しないとね」
「服、どうするの。びしょびしょなんだけど」
「温泉から出たら、直ぐに乾くよ。問題ない」
文句を言っても、彼は楽しそうに笑うだけ。仕方ない、と溜息を吐いた。
突然の事に距離を取っていた動物たちも、こちらの様子を伺いながら、温泉に浸かっている。
温かい。服を着たままだというのに、とても心地が良い。
少し微睡み細まる目に気づいて、彼はにこにこ笑って手を取り、立ち上がる。
「さあ。次はどこへ行こうか」
次に訪れたのは、月明かり差し込む森の広場。
手ぬぐい片手に踊る猫や、腹鼓を打って楽しそうに騒ぐ狸たちの宴会を見ていた。
「すごい、上手」
「一緒に踊ろうか。おいで」
彼に手を引かれ宴会の場に躍り出る。
突然の事に、踊り騒いでいた猫や狸の動きが止まり騒くが、直ぐに楽しそうに声を上げて、先ほど以上に盛り上がった。
彼と共に、踊り出す。踊り方など知らない。見よう見まね。腹鼓の音に合わせて、夢中になって踊る。
とても楽しい。気づけば声を上げて笑っていた。
その後も、色々な所へ訪れた。
雪山では、皆で雪合戦をして。季節外れに咲く満開の桜の木の下で、花見もした。
川や海へも訪れた。海の上を漂うたくさんの綺麗な光を、けれども彼は気に入らないようで、直ぐに別の場所へと向かってしまったけれど。
そして今、山頂で星空を見ている。
「きれい」
「今の季節は空気が澄んで、星がよく見えるからね」
両手を伸ばす。親指と人差し指で四角を作り、燦めく星を閉じ込めた。
くすくす笑う。手の中に閉じ込めた星か、ちかり、と瞬いた。
「じゃあ、そろそろ最後の旅に出ようか」
おいで、と手を差し出される。
閉じ込めた星を解き放ち、彼の手を取った。
「目を閉じていて。一気に飛ぶから、揺れるよ」
「分かった」
言われるままに目を閉じる。
離れないように彼の手を強く握り、側に寄った。
「行くよ!」
彼の言葉とほぼ同時。地面がぐにゃり、と歪んだ感覚がした。
不安になって彼にしがみつく。小さく笑う気配と、優しく頭を撫でる手の温かさに、さらに強く彼の手を握った。
「着いたよ。もう目を開けても大丈夫」
彼の言葉に、恐る恐る目を開ける。
「っ、わぁ!」
目を見張る。あまりの美しさに息を呑んだ。
一面の星の海。さっき見ていた空よりも近く、手を伸ばせば届きそうな距離で瞬いている。
白、赤、青。たくさんの色の光に囲まれて、鼓動が跳ねる。
「気に入った?」
「うん!ここはどこなの?」
「宙だよ。現世じゃなくて、ぼくたちのいる方の宙だけど」
こっち、と手を引かれ歩き出す。地面がないここでは、歩いているというよりも空中を漂っていると言った方が正しいのかもしれない。
ふわふわと、彼に手を引かれるままについていく。燦めく星が近くを通り過ぎる度に瞬いて、きん、と澄んだ音を立てた。
綺麗だ。とても。星の瞬きを、音を聞きながら、弾む気持ちで微笑んだ。
「到着」
「ここ?」
「そうだよ。ちょっと待っててね」
彼に連れられ辿り着いたのは、七つ並んだ星の場所。
手を離されて、おとなしく彼を待つ。一番端の星に手を差し入れて何かを探すように手を動かす彼は、やがて何かを手にして戻ってきた。
「はいこれ。旅の終わりの記念品」
「ありがとう」
差し出された何かを受け取る。きらきらした青くて白い光が、手のひらの中でちかり、と瞬いた。
「これって、お星様?」
「星の欠片。お守り代わりにね」
手のひらの上の星の欠片ごと手を包まれる。視線を合わせて、彼は優しく微笑んだ。
「今回の旅は、これでおしまい。また来年、迎えに行くよ」
「うん。ありがとう」
「必ず迎えに行くから。手術、頑張って」
「知ってたんだ…ちゃんとがんばる。お星様と一緒に、待ってるから」
彼の目を真っ直ぐ見返して、告げる。
約束だ。一年、諦めないための。優しい彼との、優しい約束。
また彼に会えるように。そう願いを込めて、微笑った。
「そろそろ戻ろうか。目を瞑って」
彼に促されて、目を閉じる。地面が歪む感触は、来た時よりも怖くはなかった。
目が覚めた。
四方を覆う、白いカーテン。白のベッド。
鼻につく、薬品の匂い。
いつもと変わらない。長くいても好きにはなれない病室。
幸せな夢を見ていた。まともに動かす事も侭ならない、欠陥だらけの体で自由な旅に出る。温かくて、優しくて、残酷な夢。
はぁ、と溜息を吐く。
夢は、所詮夢だ。目が覚めてしまえば、いずれ忘れていくだけの、儚いもの。今日見た夢も、きっと直ぐに忘れてしまうのだろう。
ふと、手の中の違和感に気づく。開いてみると、手のひらの中に、小さな石が一つ。
そこらに転がっているのと差異はない、小さな石。手の中で転がしても、やはり石はただの石だった。
捨ててしまおうか。そんな思いが過る。このまま持っていても、もうすぐ検温に来る看護師に見つかれば捨てられてしまうだろう。
少し悩み、床頭台の引き出しを開けた。
中からお菓子の缶を取り出して、蓋を開ける。
中には、落ち葉や枯れた花、木の実が無造作に転がっている。まるで小さな子供が集めた宝物のように。
缶の中に石を入れる。かたん、と小さな音を立てて、また一つ不思議な宝物が増えた。
小さく笑う。鼓動が跳ねた。
「今日も、がんばろ」
呟いて、缶を閉じ。また引き出しの中にしまう。
何故か、今日はとても調子がいい気がした。
20250119 『手のひらの宇宙』
目を閉じて、風の声を聞く。
笑っている。くすくすと、きゃらきゃらと。楽しそうに。
不意に悪戯な風が頬を撫で上げ、背を押した。
空を見上げる。白く丸い月が灯りとなり、迷う事はなさそうだ。
背の翼を意識する。大きく広げ、風を纏わせて。
大きく羽ばたく。
違うよ、と声がした。
もっと力強く、と背を押された。
仕方がないなあ、と笑われて。
風が吹いた。
高く、空へと向かう風が吹き抜けた。
その風に促されるままに。
空を、飛んでいた。
「すごい。綺麗」
眼前に広がる、数多の星々に感嘆の吐息が溢れ落ちる。
これだけ高く飛んでも尚遠い。その燦めきに手を伸ばした。
翼をはためかせる。さらに高く、もっと高くと、強く羽ばたいた。
くすくすと、笑う声。伸ばした手に戯れのように風が纏わり付き。
風が、止んだ。
「え?」
慌てて翼を羽ばたかせるも、体は地へと引かれ落ちていく。
風の声が聞こえない。これ以上、飛ぶ事が出来ない。
覚悟を決めて、強く目を閉じた。
「何やってんだ。こんな夜更けに」
呆れた声と共に、足首を掴まれる感覚。がくん、と強い衝撃の後、体が大きく揺れた。
「夜中にこそこそ抜け出して、何してんのかと思えば」
深い溜息。恐る恐る目を開ければ、にたりと笑う男の逆さまの目と視線があった。
「風に遊ばれているようじゃ、まだ飛べねぇな。精々頑張るこった」
「なんで、いんだよ」
「言うに事欠いてそれか。普通は助けてくれてありがとうございます、だろ」
視線を逸らす。男に礼を言うのは癪だった。
ばさり、と男の大きな翼が羽ばたいて、ゆっくりと地に下りる。掴まれたままの足を離されて、地面に転がり頭を打って呻くのを、けたけた笑って見下ろされた。
「声は正しく聞くものだ。特にここいらの風は、じゃじゃ馬が多いからな」
「うるせ。それくらい知ってる」
「風に悪戯されてんのに気づかないで、いい気になってる餓鬼がよく言う」
男の言葉に、目を閉じて背を向ける。正論故に何も言い返せないのが悔しい。
声に耳を澄ませる。変わらずくすくす笑う風が、自由気ままに吹き抜けて行くのを聞いていた。
「そう拗ねるな。気に入られてると思えばいい」
「拗ねてない」
「まったく。いつまで経っても餓鬼だな、お前は」
どうせ半人前だよ、と小さく愚痴れば、呵々と楽しげに笑われる。
益々悔しくなり、ふらつきながらも立ち上がり、駆けだした。
「おい。どこ行く、っ!」
引き止める男の声が、強く吹いた風に掻き消える。
追い風に背を押され、さらに速度を上げた。
ただ走る。悔しさなど、既になく。風の声を聞きながら、衝動のままに駆け抜ける。
翼を広げ、大きく羽ばたいて。
飛んで、と誰かの声に強く頷き。
足を踏み出し。風を纏いながら。
高く、舞い上がる。
「ありがとう」
小さく笑い、風に礼を言った。
今度は空を見上げる事はない。ただの星屑に戻るつもりはない。
それでいい、と声がする。
声を聞いてごらん、と囁かれ、耳を澄ませる。
風の声。それに混じり、微かに人の声がする。
徒競走で一番になりたい。テストで良い点がとりたい。好きな人と、両思いになりたい。
いくつもの些細な願い事に、くすりと笑う。
思い出す。最初の声を。
――パパと一緒に空を飛べますように。
幼い子供の声。空に思いを馳せる、か弱い子の小さな願い事。
あの子は空を飛べたのだろうか。その身を蝕む病は食べてしまったが、元気になっただろうか。
行こう、と風が促す。
「そうだね。行こうか。皆が待ってる」
声に頷いて、翼を羽ばたかせる。
行かなければ。彼らの願いのほんの少しの手伝いをするために。
「調子にのんな。お前にはまだ早い」
頭に軽い衝撃。振り返れば呆れて笑う男が、けれどどこか咎める目をしてこちらを見ていた。
「なんで。飛べた」
「飛ばしてもらってるだけだろうに。そんなんで現世になんぞ行けるか」
ざわり、と風が不満そうに吹き抜ける。男を押し返そうと強く渦を巻く。
「随分と風に気に入られたようだ。まあ、それはいい事だがな」
頭に置かれたままの手が、無造作に髪をかき混ぜる。風の抗議も男にとっては、些細な悪戯にしかならないのだろう。
「行きたい。行かないと。声がするのに」
「今のお前じゃ、行った所で迷子になって帰れなくなるだけだろうが。探しにいくのはごめんだぜ」
「迷子になんてならない。一人で帰れるから、迎えにこなくてもいい」
男に言い返し髪を乱す手を離そうと踠くも、男の腕はびくともしない。
にやにやと笑い反応を楽しんでいる男に、益々意地になって暴れるも、逆に腰に腕を回して引き寄せられ、そのまま俵のように担がれてしまう。
「ちょっと。止めろって」
「取りあえず、戻るぞ。良い子はもう寝る時間だからな」
「まだ眠くない。子供扱いするなって」
「しっかり寝とけ。んで起きたら、特別に俺の仕事を手伝わせてやるから」
「なんでっ!」
意味が分からない、と暴れる体を気にも留めず。男の起こした風が巻き上がった。
自分で飛んだ時よりも速く、静かに空を駆け抜ける。
「遠出するからな、荷物持ちが欲しかった所だ。その道中で応え方を学びな」
屋敷へと戻りつつ、男にしては珍しく穏やかな声音で告げる。
「なにそれ」
「俺も昔はそれで学んだからな…あの炭焼きの男は、あの後娘に赤い着物を買ってやれたのかねえ」
懐かしむような声。
男も最初は同じだったのだと知って、何だかむず痒い気持ちで身じろいだ。
「買ってやれただろ。あんたが応えたんだから」
小さな声が、男に届いたかは分からない。
けれども、男の起こす風に紛れて、くすくす笑う風の声が、頑張って、と優しく頬を撫でて去って行く。
男に身を任せ、目を閉じる。
現世の空を思いながら、楽しみだと微笑んだ。
20250118 『風のいたずら』
この子はよく泣いている。
お腹が空いては泣き。眠くなっては泣く。
粗相をして下肢を濡らしてしまった時も、泣いていた。
その度に頬を伝って流れ落ちる透明な滴は、光を透かして煌めいて。
綺麗な子だ。たくさん泣いて、笑って。必死に生きている。
憐れな子だった。小さな手を伸ばし助けを求める先が、母を奪ったモノだと気づく事はないのだろう。
また泣いている。いつもよりも力はなく、掠れた声で泣いている。
お腹が空いているのだろう。昨日より、何も口にしてはいない。
小さな体はすぐ飢えてしまう。
この子が口に出来るものを、早く探さなくては。
ああ、それにしても。
本当に腹が減った。
「無茶してる」
傷だらけで横たわる狼を見て、少女は小さく息を吐く。
狼の背後。か細い声で泣く声の方へ向かいたいが、狼が威嚇するためそれは叶う事はない。
「駄目だよ。あの子はお腹が空いているんだ。何か食べないと、人間の子はすぐに死んでしまうよ」
狼の頭を撫でながら、少年は囁く。その言葉に狼は迷うように瞳を揺らし、しばらくして静かに目を閉じ頭を垂れた。
「ちょっと弱っているけれど、大丈夫」
おとなしくなった狼の横を通り抜け、鳴き声の主である赤子の元へと駆け寄った少女が、安堵したように微笑んだ。
赤子を抱き上げ、けれど僅かに眉を寄せる。
「ちょっと臭う。戻ったらお風呂に入れないと」
「川の水で洗ってはいた。粗相をする度に、気持ちが悪いと泣いたから」
目を閉じ、横たわったままで狼は呟く。
酷く凪いだ声音だ。先ほどまでの勢いなど欠片もなく、全てを諦めたかのように身じろぎ一つしない。
「大丈夫だよ。ご飯を食べて、寝て。そうしたらまた、一緒にいればいい」
慰めるような少年の言葉に、けれど狼はゆるく頭を振った。
「いい。一緒にいたら、今度こそ喰ってしまうから」
傷だらけで血に染まった体を起こす。その傷はすべて、赤子を喰らいたいという衝動に抗うため、狼自らがつけたものだ。
道を歩く者を守り、道に伏せる者を喰らう。
遠い過去にいた誰かの望み。その声に応えて目覚めた狼は、誰かがいなくなった後もその望みの通りに在った。
道行く人の背後を歩き、その者が帰れるまで見守る。けれども、足を取られ地に倒れた際には、その身を余す事なく喰らい尽くす。
赤子の母もそうだった。
ふらふらと道を行く、痩せた女。当てもなく彷徨い、そして倒れた。
女の身を喰らい。けれど女の細い腕の中で泣き声を上げていた赤子は、喰らう事は出来なかった。
「この子を助けて、って女が最期に望んだ。それにこの子の涙が、透明できらきらしてて凄く綺麗だったから、応えようって思った。でも」
力なく、狼は笑う。
笑いながら、一筋涙を流した。
「赤子の育て方なんて知らなかったし、この子は弱っていって。ぐったり横になっているのを見てると、道に伏せているように見えて、駄目になりそうだった」
「それ、いつまで応えるの」
「そうだね。望んだ人間はもういないから。新しく望みに応えてもいいと思うよ」
不思議そうに首を傾げた少女が、脱脂綿に含ませた乳を赤子に吸わせながら問いかける。少女に同意するように少年も頷き、優しく狼に告げた。
そんな二人に対し、やはり首を振って狼は否を示す。
「俺はそう在るべきだから。最初の望みが在り方を定めて、人間もそうだと認識している。もう他の望みに応えられない」
たとえその望みが、己の子供をこの地に捨て、戻らなくするためのものであったとしても。
口減らしだったのだろう。歩く事すら覚束ぬ幼子が一人で帰れぬと知りながらも、強く望んでいた。
途中で倒れぬ事のない己が、無事に帰れる事を。まともに歩けぬ子が、ここで終わる事を。
尤も、望んだ者も結局は途中で足を縺れさせ、捨てた我が子と同じように狼に喰われてしまったのだが。
「今回は偶々だから。もう他に応える事はしない。もう、」
「あなたは、この子が泣いている理由が分かるの?」
狼の言葉を遮るように、少女は狼に問いかける。
問われた事の意味を分かりかね首を傾げれば、少女は例えばね、と言葉を続けた。
「さっき泣いていた理由は分かる?他にもたくさん泣いていたと思うけど、その違いは分かる?」
「分かるよ。さっきはお腹が空いていたんだ。他にも眠かったり、寂しかったり。粗相をして気持ち悪いって泣く事も、全部分かる」
少女を見据え、狼ははっきりと告げる。赤子と共にいた時間は決して長いものではなかったが、それでも赤子の事は理解していたつもりだった。
その答えに少女はふわり、と表情を綻ばせ、乳を吸い終わりぐずりだした赤子を狼の前に差し出した。
「じゃあ、あなたはこの子の望みすべてに応えた。遠い昔の誰かの望みに縛られるのではなく、あなたの意思でこの子に応えられている」
「赤子というのは、泣く事で相手に意思を伝えるんだ。それは何よりも強い望みだよ。生きるための望みに応えたのだから、最初の望みに応えなくてもキミは歪まない」
「応えた。俺、が」
呆然と呟いて。
泣き出してしまった赤子に、狼は慌てて人の姿を取る。少女から赤子を受け取って、慣れた手つきであやせば、泣き止みうとうとと目が閉じていく。
その頬を伝う涙は、出会った時から変わらず透明で、とても綺麗だった。
「この子のために、これからも応えてあげればいい」
「でも、俺とこの子は違う。この子は人間で、俺は妖だから」
だから、と戸惑い視線を彷徨わせる狼に、二人は微笑む。
大丈夫、と囁いて、少女の手が赤子の頬を伝う涙を、少年の手が狼の頬を伝う涙を拭った。
「人も妖も、そんなに違いはない」
「この子とキミの流した涙は、同じ透明だよ」
少女の手と、少年の手と。濡らす涙はどちらも同じ透明だ。
人と妖と。涙の色は同じ。流す涙の意味も、きっとそんなに変わりはない。
穏やかに眠る赤子を見て、狼はくしゃり、と顔を歪ませる。赤子と同じものが一つあるだけで、酷く心が満たされていた。
「同じ。同じ、だ」
「そうだよ。だからね。ここに留まるのは終わりにして、ボクらの屋敷においで」
キミの傷の手当てもしなくてはね、と優しく手を差し伸べる少年に。
蕩々と流れる涙をそのままに。狼は恐る恐るその手を取った。
20250117 『透明な涙』
「あぁ、やはりこちらにいたのですね」
柔らかな声に、俯いていた顔を上げる。
涙で滲む世界で、それでもはっきりと彼女の姿は見えていた。
「どうして、分かったの?」
「あなたはわたくしの特別だからですよ。可愛い子」
微笑んで手を差し伸べられる。白くて綺麗で、作り物のような手は、少し冷たいけれど誰よりも温かい事を知っている。
彼女の手を取り、立ち上がる。服についた埃を軽く払われて、恥ずかしくなって目を逸らした。
「さぁ、帰りましょうか」
「帰りたくない。あたし、悪くないもん」
また滲み出す涙を乱暴に拭いながら、首を振る。
悪くはない、はずだ。
幼い弟がいたずらをして雪見障子の硝子を割り、怪我をしてしまった。止めたのに、弟は止まらなかった。
それなのに、怒られたのは弟ではなかった。側にいただけ、姉だからというだけで、両親に叱られた。
「おとうさんもおかあさんも、あたしの事が嫌いなんだ。だからいつもあたしだけが叱られる。もうあんな家に帰りたくない」
「あら。それは困りましたねぇ」
困ったようには見えない微笑みを浮かべて、彼女はそっと涙を拭う。どこまでも優しく、誰かを非難する事のない彼女が、少しだけ恨めしかった。
「あたし。謝らないし、帰らないから。絶対なんだから」
「そんな事を言っていると、隠されてしまいますよ」
「いいもん。怖くなんかないんだから」
「駄目ですよ」
彼女がどこか悲しそうな顔をする。それだけで決して曲げないと思っていた決意が、簡単に揺らいでしまう。
優しい彼女を悲しませるのは嫌だった。彼女が悲しくなるのであれば、自分が我慢すればいいのではないか。
そう思ってしまうくらいには、彼女の事が大好きだった。
「本当に、帰らないと駄目なの?」
「皆さん、心配されていますから。わたくしと一緒に帰りましょう」
「…分かった。手を繋いでてくれるなら、一緒に帰る」
そっぽを向いて、小さく呟く。手を出せば、綺麗な手が包み込むようにして繋がった。
それだけで何だか嬉しくなってしまう自分は、やはりちっぽけな子供でしかないのだろう。
「覚えていて下さいね。可愛い子」
手を繋いだ、帰り道。
彼女が歌うように囁いた。
「あなたがわたくしを必要としてくれるのならば、わたくしはいつでもあなたのもとへ参りますよ」
本当に、と見上げた彼女の横顔は、とても穏やかで。
「絶対だからね」
素直に嬉しいと言えない、ひねくれた言葉しか返せない自分に、呆れてしまいながらも。
彼女の言葉がいつまでも本当でありますように、と繋いだ手を強く握った。
懐かしい夢を見た。
幼い頃。いつも側にいてくれた、優しい彼女の夢。
「嘘つき」
呟いて、起き上がる。
気分は最悪だった。
彼女はいない。声を上げて泣く事をしなくなった自分の側には来てくれなくなった。
所詮は子供だましの約束だったのだろう。我が儘な子供を宥めるための口約束など、大体がそんなものだ。
「もう、こんな時間」
時計を見る。
止まる事も、況してや戻る事もなく動き続ける針を睨み付け、ベッドから抜け出した。
本当に最悪だ。夢でも現実でも、悪い事しかない。
溜息を一つ溢し。準備をするために、部屋を出た。
「おはようございます。お迎えに上がりました」
「おはようございます」
微笑む男に、作った笑みを浮かべ挨拶を返す。
自分より十も年上の男。紳士的な態度を取りながらも、その目に劣情を隠す事なく浮かべた、自分の夫となる男。
「ようやく貴女と夫婦になる事ができるのですね」
頬に触れる男の手に耐えながら、笑みを貼り付ける。
下手に機嫌を損ねては、後が厄介だ。
逃げられはしない。今日の結納を済ませてしまえば、このまま妻として男と暮らす事になるのだから。
「それでは行きましょうか」
「はい」
男の後に続く。
脳裏に浮かぶ彼女を微笑みを思い出し、唇を噛んだ。
今更だ。見合いの時も、婚約の時にも彼女は来てくれなかった。
どんなに求めても彼女は来ない。助けて、なんて言えるはずがないのに。
「どうしました?」
「いえ、何でもありません」
振り返る男に、慌てて笑みを貼り付け、何でもないのだと首を振る。
諦めなければ、と気持ちを切り替えて、外に。
「わたくしの特別。悲しいのですか?」
声が、聞こえた。
「可哀想に。泣けなくなってしまったのですね」
背後から抱き竦めるように回された、白い腕。
白く、細い。血の通わぬ、冷たい手。
「ひっ!?化け物!」
男が怯えたように後退る。恐怖を強く宿した目が、自分の背後を凝視し、耐えられなくなり外へと逃げていく。
「姉ちゃん!」
弟の声が遠い。同じ家の中にいたはずなのに、何かで仕切られたように声がくぐもって聞こえる。
「どうして」
小さく零れた声に、背後の彼女は笑ったようだった。
「あなたがわたくしを必要としてくれるのならば、わたくしはいつでもあなたのもとへ参ります。今回は少しばかり遅れてしまいましたが」
申し訳ありません、と囁く彼女の声は悲しげで。
ゆっくりと振り返る。彼女の姿を確かめたくて。
「駄目だ!振り返るな!」
誰かの声が聞こえた気がした。けれどその声より早く、彼女の姿を認め。
瞬間。世界ががらりを色を変え、暗く冷たい水の底で彼女に抱かれていた。
「これで。ようやくあなたと共にいられる。永遠を共にできる」
歌うような囁きが、気泡と共に上っていく。
あぁ、そう言えば。酷く虚ろな意識で思い出す。
幼い頃住んでいた家にあった小さな井戸。水の底でこちらを見上げる彼女を見たのが始まりだった。
寂しそうな目をしていた。不思議と怖いとは感じられず、だから一人寂しそうな彼女へと向けて、手を差し出した。
あの井戸はもう、埋めてしまってなくなったのだと両親は言っていた。
「可愛い子。わたくしの愛おしい特別。あなたを愛したが故に堕ちてしまったわたくしを、決して許さないで下さいね」
彼女の泣くような声に、少し前に読んだ小説を思い出す。
――妖と深く関われば、いずれ妖は意思を持ち、望む事を知るだろう。応えるもののないそれに、妖は狂い堕ちるのだ。
思い出して、悲しくなった。優しい彼女を悲しませるのは、何よりも嫌だった。
身じろいで、振り返る。彼女と正面から向き合う形で、彼女の白い髑髏となった頬をそっと撫でた。
「約束守ってくれたから、一緒にいてあげてもいいよ。その代わりに、ずっと手を繋いでいてね」
「ありがとう。愛しい子」
頬を撫でていた手を取り、彼女はそっと手を繋ぐ。小さな頃とは違い包み込むようにではなく、指を絡めて離れないようにしっかりと。
繋いだ手を見て、笑う。嬉しくて笑い、幸せで泣いた。
あの頃のように。我慢をする事なく声を上げて笑いながら泣いていた。
20250116 『あなたのもとへ』
手を差し入れて、そっと水を掬い上げる。
手の端から溢れ落ちる水をただ眺め。少なくなってきた水を注ぎ足すように、再び水の中に手を差し入れる。
繰り返す。何度も、いつまでも。
「何をしているの?」
繰り返す少年を不思議に思い、少女が声をかける。
見かけたのは偶然だ。足腰の弱くなってきた祖母の手伝いの帰り。寄り道で訪れた小さな淵に、少年はいた。
淵の水を掬い、流れ落ちる水を眺めてまた水を掬う。
その手つきは壊れ物でも扱うかのように、優しく。それがまた少女の興味を引いて、思わず少年に声をかけた。
「別に。何かいるかなって、暇つぶしに」
そっけなく返る声に、少女はおや、と首を傾げる。
聞き覚えのある声だった。さらに興味を引かれ、少年の隣に歩み寄る。
「高遠くん」
見知った横顔に、少女が小さく名を呼んだ。同じクラスの、人気者。サッカー部のエースだとも言われている少年が、何故こんな寂れた場所にいるのだろう。
呼ばれた事で、少年は手を止め少女に視線を向ける。驚いたように目を瞬き、泉宮、と少女の名を呼んだ。
「え。何してんの、こんな所で」
最初に少女が少年にかけた言葉と同じ言葉を言われ、少女は苦笑する。
意外な場所で見知った顔に出会ったのだ。その疑問も当然ではある。けれども普段教室で見慣れている、しっかりとした印象の彼と今の彼との差異に面白くなってしまい、少女はくすくす笑いながら、少年の隣に腰を下ろした。
「おばあちゃん家の帰り。高遠くんはどうしてここにいるの?」
「興味本位、かな」
薄く笑い、少年は再び淵に視線を向け、同じように水を掬い上げる。
「前に見た雑誌で、ここの事が書いてあったから…取り替え淵。何かと何かを取り替えてくれるって書いてあった」
「この前、教室で話してた雑誌の事?」
「そう。ちょっと気になって」
掬った水が手から溢れ落ちる様を、少年は口元だけで笑いながら見つめる。
やはり今日の少年はどこか普段と違う。それとも今の彼が取り繕う事のない姿だとでも言うのだろうか。
不思議に思いながらも、少女はそれを言葉にする事なく、少年の言葉の続きを待った。
「誰が言い始めたんだろうって。最初に取り替えた誰かは、知ってて取り替えるために沈めたのかな。それとも偶然?偶然取り替えたいものがあって、ここに来て、偶然沈めたの?」
「昔話なんて、皆そんなものじゃない?」
少しばかり興が冷めたように、少女は言う。
現象が先か、物語が先かの違いなど今となっては分かりようがないからだ。どちらが先でも変わらない。
ここは何かと何かを取り替える淵であるという認識は、変わりようがない。
「泉宮って、あんまりこういう都市伝説的な話って興味ないんだ。何か意外。よく小説とか読んでるのに」
「別に。卵が先か鶏が先かの話をしても意味がないって思ってるだけだよ」
「そっか。まあ確かに、そういう事になるのか」
ぱしゃ、と掬った水を落とす。
少女に視線を向けて、少年はねぇ、と囁いた。
「取り替えるために沈められた皆は、どこにいるんだろう。まだ、この淵の底にいるのかな?もしも、一度取り替えるために沈めた誰かを、別の誰かと取り替えようとしたら、戻ってくるのかな?」
おや、と少女は僅かに眉を潜める。
何か、ではなく誰か、になっている事に違和感を覚えた。
「水の底に沈んだものは、二度と上がってこないよ。穏やかに見えるけど、水の流れは複雑だから」
「現実的。取り替えの話だよ」
くすり、と少年は笑い。少女に寄り添うようにして距離を縮めた。
楽しそうな、哀しそうな。複雑な色を乗せた目が、少女を見つめ柔らかく笑む。
「もしもの話だ。もしも、戻ってくるのなら。還ってくるためには、何と取り替えてもらえばいいんだろう?」
「戻ってこないよ。還ってくる事もない」
「本当に現実的だな。じゃあ、試してみる?」
とん、と。
優しく、そっと、少年は少女の背を押した。
強い力ではない。さほど力を入れずとも抗えるほどの、触れているといえるくらいの弱い力だった。
だが、背を押す力に抗う事なく、少女の体は淵へと倒れ込む。ぱしゃん、とやけに軽い音を立て、そのまま静かに沈んでいく。
水の中。くるり、と体を動かし水面を見る。
ゆらり揺らめく水面越しに、手を伸ばす少年の姿を認めて、少女はこぽり、と空気を吐き出した。
後悔しているのか。自分が押したというのに。
それとも、ようやく普段の少年に戻れたのか。
水の中に差し入れられる手から逃れるように、少女は静かに沈んでいく。
暗い。とても静かだ。少年の姿が見えなくなって、少女は水面から水底へと体の向きを変えた。水の流れなど気にもせず、底に向かい泳いでいく。
「戻った方がいいわ。彼、今にも沈んでしまいそうだから」
不意にかけられた言葉に、少女は視線を向ける。暗闇の中でもはっきりと見える、揺れる女の長い髪に、戯れるようにして手を伸ばした。
「凄く驚いている。自分が何をしたのか、その理由が分からないみたい」
目を瞬いて、上を見る。だがここからは水面は遠く、少年の姿は欠片も見えなかった。
「彼は化生になってしまったの?」
「いいえ。遠い昔の夢を見て、引き摺られてしまっただけ。ここにはもう何もないけれど、記憶はまだ焼き付いているから」
哀しげに笑い、女は少女に小さな石を手渡した。石から伝わる幻に、少女はゆるく首を振る。
水面を覗く子供の背を、そっと誰かの手が押していた。
取り替えたのだろう。だが人を取り替える事など出来るはずがない。
きっと夢を見たのだろう。取り替える事の出来ない代わりに、優しく、残酷な夢を。
「空しいね。あまりにも哀しい夢でしかない」
「ええ。だから早く戻りなさい。それから人前で沈んではいけない。妖混じりから、人混じりに認識が変われば、人間として生きて行けなくなるから」
どちらも変わらない気はするが、と少女は声に出さずに呟いて。
「分かってる。じゃあ、もう行くね」
水を強く蹴り、水面へと向かい浮上する。
水面の向こう側に、小さく少年の姿が見えた。静かに立ち上がり、その体が傾いていく。
「ちょっ、待って!」
さらに強く水を蹴り。そのまま飛び出す勢いで、淵へと倒れ込む少年の体を押し戻す。
「ぁ。なん、で。俺、俺は」
「危ないよ。一度沈んだら戻ってこれないって言ったでしょ?」
「でも、泉宮が。泉宮が、俺のせいで」
混乱し、泣く少年の背を撫でながら、大丈夫、と少女は繰り返す。驚かせてしまった事を少しばかり悔やみながら、少女は少年の手を取り、己の頬に触れさせた。
「ほら、ちゃんと生きているよ。ちょっと怖い夢を見ただけ。沈んでないよ。濡れてないでしょう?」
「ほんと、だ…あれ?でもさっき。確かに背中を押して、泉宮が水の中に落ちて」
「居眠りしてたでしょ。今日は暖かいけど、こんな所で昼寝なんかしないでよね」
次第に落ち着いてきた少年に、すべては夢だと言い聞かせる。少し無理はあるが、少女の衣服は濡れてはいない事を確かめさせれば、少年は首を傾げながらも納得し始めた。
手を離し少年に気取られぬよう、小さく息を吐く。
「私、そろそろ帰るから。また明日、学校でね」
「っ、待って!」
手を取られ、立ち上がりかけた体はバランスを崩し、少年の方へと倒れ込む。押し倒してしまった形になった事に、少女の頬は真っ赤に染まり、硬直する。
「あ、ごめん。でも、もう少しだけ一緒にいてくれない?何かよく分かんなくて。どこから夢で、どこか現実なのか。教えてほしいんだけど」
「な、に。え?何。なんで?」
「大丈夫?ちょっと落ち着いて」
宥めるように今度は少年の手が、少女の背をさする。それに頬だけでなく耳までを赤くして、少女は泣きそうに声を上げた。
「全部!全部夢だから。だから全部忘れてっ!」
「だ、大丈夫だって。ほら、深呼吸して」
暴れ出す少女を抑えながら、少年は笑みを浮かべて、次第に声を上げて笑い出す。
動きを止めて、涙目で睨む少女に、ごめん、と謝りながらも少年は笑い続ける。
「ちょっと!笑わない、で」
「ごめんって。でも何ていうか、泉宮が思っていたより可愛くて。もっと落ち着いたイメージがあったんだけど」
とんとん、と背を叩き。少年は体を起こすと、硬直する少女の隣に座り直す。
「少しだけ、話を聞いてもらえると嬉しいんだ。泉宮は夢だって言ったけど、どうしても現実にしか思えなくて」
「…今の、全部忘れてくれるなら」
視線を逸らし、小さく答える少女に笑いを堪えながら。
少女に向き合い、確かめるように、そっと少女と手を繋いだ。
「忘れるから、少しこのまま手を繋いでいていい?今、ちょっと変な感じだから、誰かに手を繋がれていたくて」
「いい、けど。本当に忘れてね!」
ありがとう、の言葉に、一つ息を吐き、少女は少年と目を合わせた。
そっと手を握り返す。少年が誰かの背を押してしまわぬように。
20250115 『そっと』