この子はよく泣いている。
お腹が空いては泣き。眠くなっては泣く。
粗相をして下肢を濡らしてしまった時も、泣いていた。
その度に頬を伝って流れ落ちる透明な滴は、光を透かして煌めいて。
綺麗な子だ。たくさん泣いて、笑って。必死に生きている。
憐れな子だった。小さな手を伸ばし助けを求める先が、母を奪ったモノだと気づく事はないのだろう。
また泣いている。いつもよりも力はなく、掠れた声で泣いている。
お腹が空いているのだろう。昨日より、何も口にしてはいない。
小さな体はすぐ飢えてしまう。
この子が口に出来るものを、早く探さなくては。
ああ、それにしても。
本当に腹が減った。
「無茶してる」
傷だらけで横たわる狼を見て、少女は小さく息を吐く。
狼の背後。か細い声で泣く声の方へ向かいたいが、狼が威嚇するためそれは叶う事はない。
「駄目だよ。あの子はお腹が空いているんだ。何か食べないと、人間の子はすぐに死んでしまうよ」
狼の頭を撫でながら、少年は囁く。その言葉に狼は迷うように瞳を揺らし、しばらくして静かに目を閉じ頭を垂れた。
「ちょっと弱っているけれど、大丈夫」
おとなしくなった狼の横を通り抜け、鳴き声の主である赤子の元へと駆け寄った少女が、安堵したように微笑んだ。
赤子を抱き上げ、けれど僅かに眉を寄せる。
「ちょっと臭う。戻ったらお風呂に入れないと」
「川の水で洗ってはいた。粗相をする度に、気持ちが悪いと泣いたから」
目を閉じ、横たわったままで狼は呟く。
酷く凪いだ声音だ。先ほどまでの勢いなど欠片もなく、全てを諦めたかのように身じろぎ一つしない。
「大丈夫だよ。ご飯を食べて、寝て。そうしたらまた、一緒にいればいい」
慰めるような少年の言葉に、けれど狼はゆるく頭を振った。
「いい。一緒にいたら、今度こそ喰ってしまうから」
傷だらけで血に染まった体を起こす。その傷はすべて、赤子を喰らいたいという衝動に抗うため、狼自らがつけたものだ。
道を歩く者を守り、道に伏せる者を喰らう。
遠い過去にいた誰かの望み。その声に応えて目覚めた狼は、誰かがいなくなった後もその望みの通りに在った。
道行く人の背後を歩き、その者が帰れるまで見守る。けれども、足を取られ地に倒れた際には、その身を余す事なく喰らい尽くす。
赤子の母もそうだった。
ふらふらと道を行く、痩せた女。当てもなく彷徨い、そして倒れた。
女の身を喰らい。けれど女の細い腕の中で泣き声を上げていた赤子は、喰らう事は出来なかった。
「この子を助けて、って女が最期に望んだ。それにこの子の涙が、透明できらきらしてて凄く綺麗だったから、応えようって思った。でも」
力なく、狼は笑う。
笑いながら、一筋涙を流した。
「赤子の育て方なんて知らなかったし、この子は弱っていって。ぐったり横になっているのを見てると、道に伏せているように見えて、駄目になりそうだった」
「それ、いつまで応えるの」
「そうだね。望んだ人間はもういないから。新しく望みに応えてもいいと思うよ」
不思議そうに首を傾げた少女が、脱脂綿に含ませた乳を赤子に吸わせながら問いかける。少女に同意するように少年も頷き、優しく狼に告げた。
そんな二人に対し、やはり首を振って狼は否を示す。
「俺はそう在るべきだから。最初の望みが在り方を定めて、人間もそうだと認識している。もう他の望みに応えられない」
たとえその望みが、己の子供をこの地に捨て、戻らなくするためのものであったとしても。
口減らしだったのだろう。歩く事すら覚束ぬ幼子が一人で帰れぬと知りながらも、強く望んでいた。
途中で倒れぬ事のない己が、無事に帰れる事を。まともに歩けぬ子が、ここで終わる事を。
尤も、望んだ者も結局は途中で足を縺れさせ、捨てた我が子と同じように狼に喰われてしまったのだが。
「今回は偶々だから。もう他に応える事はしない。もう、」
「あなたは、この子が泣いている理由が分かるの?」
狼の言葉を遮るように、少女は狼に問いかける。
問われた事の意味を分かりかね首を傾げれば、少女は例えばね、と言葉を続けた。
「さっき泣いていた理由は分かる?他にもたくさん泣いていたと思うけど、その違いは分かる?」
「分かるよ。さっきはお腹が空いていたんだ。他にも眠かったり、寂しかったり。粗相をして気持ち悪いって泣く事も、全部分かる」
少女を見据え、狼ははっきりと告げる。赤子と共にいた時間は決して長いものではなかったが、それでも赤子の事は理解していたつもりだった。
その答えに少女はふわり、と表情を綻ばせ、乳を吸い終わりぐずりだした赤子を狼の前に差し出した。
「じゃあ、あなたはこの子の望みすべてに応えた。遠い昔の誰かの望みに縛られるのではなく、あなたの意思でこの子に応えられている」
「赤子というのは、泣く事で相手に意思を伝えるんだ。それは何よりも強い望みだよ。生きるための望みに応えたのだから、最初の望みに応えなくてもキミは歪まない」
「応えた。俺、が」
呆然と呟いて。
泣き出してしまった赤子に、狼は慌てて人の姿を取る。少女から赤子を受け取って、慣れた手つきであやせば、泣き止みうとうとと目が閉じていく。
その頬を伝う涙は、出会った時から変わらず透明で、とても綺麗だった。
「この子のために、これからも応えてあげればいい」
「でも、俺とこの子は違う。この子は人間で、俺は妖だから」
だから、と戸惑い視線を彷徨わせる狼に、二人は微笑む。
大丈夫、と囁いて、少女の手が赤子の頬を伝う涙を、少年の手が狼の頬を伝う涙を拭った。
「人も妖も、そんなに違いはない」
「この子とキミの流した涙は、同じ透明だよ」
少女の手と、少年の手と。濡らす涙はどちらも同じ透明だ。
人と妖と。涙の色は同じ。流す涙の意味も、きっとそんなに変わりはない。
穏やかに眠る赤子を見て、狼はくしゃり、と顔を歪ませる。赤子と同じものが一つあるだけで、酷く心が満たされていた。
「同じ。同じ、だ」
「そうだよ。だからね。ここに留まるのは終わりにして、ボクらの屋敷においで」
キミの傷の手当てもしなくてはね、と優しく手を差し伸べる少年に。
蕩々と流れる涙をそのままに。狼は恐る恐るその手を取った。
20250117 『透明な涙』
1/17/2025, 4:58:48 PM