目を閉じて、風の声を聞く。
笑っている。くすくすと、きゃらきゃらと。楽しそうに。
不意に悪戯な風が頬を撫で上げ、背を押した。
空を見上げる。白く丸い月が灯りとなり、迷う事はなさそうだ。
背の翼を意識する。大きく広げ、風を纏わせて。
大きく羽ばたく。
違うよ、と声がした。
もっと力強く、と背を押された。
仕方がないなあ、と笑われて。
風が吹いた。
高く、空へと向かう風が吹き抜けた。
その風に促されるままに。
空を、飛んでいた。
「すごい。綺麗」
眼前に広がる、数多の星々に感嘆の吐息が溢れ落ちる。
これだけ高く飛んでも尚遠い。その燦めきに手を伸ばした。
翼をはためかせる。さらに高く、もっと高くと、強く羽ばたいた。
くすくすと、笑う声。伸ばした手に戯れのように風が纏わり付き。
風が、止んだ。
「え?」
慌てて翼を羽ばたかせるも、体は地へと引かれ落ちていく。
風の声が聞こえない。これ以上、飛ぶ事が出来ない。
覚悟を決めて、強く目を閉じた。
「何やってんだ。こんな夜更けに」
呆れた声と共に、足首を掴まれる感覚。がくん、と強い衝撃の後、体が大きく揺れた。
「夜中にこそこそ抜け出して、何してんのかと思えば」
深い溜息。恐る恐る目を開ければ、にたりと笑う男の逆さまの目と視線があった。
「風に遊ばれているようじゃ、まだ飛べねぇな。精々頑張るこった」
「なんで、いんだよ」
「言うに事欠いてそれか。普通は助けてくれてありがとうございます、だろ」
視線を逸らす。男に礼を言うのは癪だった。
ばさり、と男の大きな翼が羽ばたいて、ゆっくりと地に下りる。掴まれたままの足を離されて、地面に転がり頭を打って呻くのを、けたけた笑って見下ろされた。
「声は正しく聞くものだ。特にここいらの風は、じゃじゃ馬が多いからな」
「うるせ。それくらい知ってる」
「風に悪戯されてんのに気づかないで、いい気になってる餓鬼がよく言う」
男の言葉に、目を閉じて背を向ける。正論故に何も言い返せないのが悔しい。
声に耳を澄ませる。変わらずくすくす笑う風が、自由気ままに吹き抜けて行くのを聞いていた。
「そう拗ねるな。気に入られてると思えばいい」
「拗ねてない」
「まったく。いつまで経っても餓鬼だな、お前は」
どうせ半人前だよ、と小さく愚痴れば、呵々と楽しげに笑われる。
益々悔しくなり、ふらつきながらも立ち上がり、駆けだした。
「おい。どこ行く、っ!」
引き止める男の声が、強く吹いた風に掻き消える。
追い風に背を押され、さらに速度を上げた。
ただ走る。悔しさなど、既になく。風の声を聞きながら、衝動のままに駆け抜ける。
翼を広げ、大きく羽ばたいて。
飛んで、と誰かの声に強く頷き。
足を踏み出し。風を纏いながら。
高く、舞い上がる。
「ありがとう」
小さく笑い、風に礼を言った。
今度は空を見上げる事はない。ただの星屑に戻るつもりはない。
それでいい、と声がする。
声を聞いてごらん、と囁かれ、耳を澄ませる。
風の声。それに混じり、微かに人の声がする。
徒競走で一番になりたい。テストで良い点がとりたい。好きな人と、両思いになりたい。
いくつもの些細な願い事に、くすりと笑う。
思い出す。最初の声を。
――パパと一緒に空を飛べますように。
幼い子供の声。空に思いを馳せる、か弱い子の小さな願い事。
あの子は空を飛べたのだろうか。その身を蝕む病は食べてしまったが、元気になっただろうか。
行こう、と風が促す。
「そうだね。行こうか。皆が待ってる」
声に頷いて、翼を羽ばたかせる。
行かなければ。彼らの願いのほんの少しの手伝いをするために。
「調子にのんな。お前にはまだ早い」
頭に軽い衝撃。振り返れば呆れて笑う男が、けれどどこか咎める目をしてこちらを見ていた。
「なんで。飛べた」
「飛ばしてもらってるだけだろうに。そんなんで現世になんぞ行けるか」
ざわり、と風が不満そうに吹き抜ける。男を押し返そうと強く渦を巻く。
「随分と風に気に入られたようだ。まあ、それはいい事だがな」
頭に置かれたままの手が、無造作に髪をかき混ぜる。風の抗議も男にとっては、些細な悪戯にしかならないのだろう。
「行きたい。行かないと。声がするのに」
「今のお前じゃ、行った所で迷子になって帰れなくなるだけだろうが。探しにいくのはごめんだぜ」
「迷子になんてならない。一人で帰れるから、迎えにこなくてもいい」
男に言い返し髪を乱す手を離そうと踠くも、男の腕はびくともしない。
にやにやと笑い反応を楽しんでいる男に、益々意地になって暴れるも、逆に腰に腕を回して引き寄せられ、そのまま俵のように担がれてしまう。
「ちょっと。止めろって」
「取りあえず、戻るぞ。良い子はもう寝る時間だからな」
「まだ眠くない。子供扱いするなって」
「しっかり寝とけ。んで起きたら、特別に俺の仕事を手伝わせてやるから」
「なんでっ!」
意味が分からない、と暴れる体を気にも留めず。男の起こした風が巻き上がった。
自分で飛んだ時よりも速く、静かに空を駆け抜ける。
「遠出するからな、荷物持ちが欲しかった所だ。その道中で応え方を学びな」
屋敷へと戻りつつ、男にしては珍しく穏やかな声音で告げる。
「なにそれ」
「俺も昔はそれで学んだからな…あの炭焼きの男は、あの後娘に赤い着物を買ってやれたのかねえ」
懐かしむような声。
男も最初は同じだったのだと知って、何だかむず痒い気持ちで身じろいだ。
「買ってやれただろ。あんたが応えたんだから」
小さな声が、男に届いたかは分からない。
けれども、男の起こす風に紛れて、くすくす笑う風の声が、頑張って、と優しく頬を撫でて去って行く。
男に身を任せ、目を閉じる。
現世の空を思いながら、楽しみだと微笑んだ。
20250118 『風のいたずら』
1/19/2025, 4:28:22 AM