六畳の和室。それが己の世界の全てだった。
和室の中心に座り込み、虚ろな目で前を見る。
四肢の自由はなく、意思もない。
空であるが故に、言葉も持たない。
ただそこにあるだけの、人形。
「よぉ、イイコにしてたか?」
目の前の障子戸が開き、男が音もなく入り込む。
俯く顔を上げ、視線を合わせられる。
「いいねぇ。ちゃんと出来上がってる。今までの中で最高の仕上がりだ」
上機嫌に男は笑う。抱き上げられ、背後の襖戸へ歩み寄るとそのまま戸に手をかけた。
静かに戸を開く。男に抱き上げられている今は見る事は叶わぬが、その先の部屋に何があるのかは知っている。
「さて、今日はどんな衣装を着て遊ぼうか。俺のお人形さん?」
衣装部屋。或いは、歪な子供部屋。
衣桁にかけられた無数の打掛や振り袖を横目に、男は足取り軽く奥へと向かう。部屋の最奥。古めかしい三面鏡の前に己を座らせ、男は再び着物の向こうへと消えていった。
今日の遊びに使う衣装を取りに行ったのだろう。
人形遊び。
煌びやかな衣を着付けられ、紅を差されて遊ばれる事を何度繰り返したのだろうか。
思考する事が許された始めの数回以降は、記憶に留めてすらいない。
当然だ。男のための人形遊びなのだから。
中身のない、人形としてある己には何度、など思考するのは無意味だ。
己は人形遊びのために、男の手によって作られたのだから。
六畳の和室で一人、男の訪れを待ち続ける。
虚ろな目が、僅かに開いた障子戸の隙間の先を見ている。
その先は己の世界の外側だ。
見る事の叶わぬ景色。今の己にはまだ遠い、かつて見ていたような。
指先が、痙攣する。
四肢の自由はない。そのはずだ。
中身のない己には、四肢を動かす事は出来ない。
だが、手が動いた。
隙間の先に誘われるように、手が、そして足が動く。
酷く緩慢な動きで、己の意思で立ち上がった。
一歩。歩き出す。
一歩。また一歩と。障子戸へと歩いて行く。
腕を伸ばし、戸に触れて。
「何、してんだ」
己が開く前に、戸が開く。
表情を削ぎ落とした男が、戸の先に立っていた。
「何で動いてんだよ。お前の中身は全部抜き取っただろう?うまくいっていたのに、また作り直しか」
感情の乗らない男の声が、鼓膜を揺する。
揺れる。男に抜かれ、僅かにしか残らない脳が、思考する事を強要する。
あぁ、そうだ。己は人形などではない。
己は。私は。男は。
恐怖が背筋を駆け上がる。
奪われる前の穏やかな日常と、今のこの牢獄に似た永遠の箱庭の中の非日常と。
記憶が巡る。じり、と足が後退する。
逃げなければ。ここから、この男から。
私は、人形ではなく、人間なのだから。
「脳幹の一部を残したのが駄目か。調整が難しいな…にしても、中身伽藍堂でも動くもんだな。気持ち悪い」
冷たく吐き捨てられた言葉に、足が止まる。
中身がない。外側しかない己は、果たしてまだ人間なのだろうか。
あぁ、私は、本当の私、は。
「もういいわ。お前、いらない」
とん、と軽い音と共に、世界が回る。
とさり、と地に落ちて、それきり体は完全に動きを止める。
呼吸も、鼓動も、最初からなく。戻ってきた思考も直ぐに止まるのだろう。
見開いたままの目だけが、嘆息しこちらに手を伸ばす男の姿を捉えていた。
「最初からやり直しか。今度こそ仕上がったと思ったのにな」
男に引き摺られ、廊下を行く。
角を曲がり、暗がりの先の戸を開けた。
狭い部屋に積み重なるのは、人の形をした抜け殻。
男がこれまで作り続け、廃棄した人形の成れの果て。
「次はどんな人形にするか。女は衣装映えするが、脆くて直ぐに壊れるからな」
部屋の中に放られる。それを冷めた目で見ながら、男は踵を返し。
男の目が何かを捉え、歪んだ笑みを浮かべた。
「あんたでもいいな。少し草臥れてはいるが、着飾れば映えそうだ。きっと今までの人形よりも美しい、まだ見た事のない姿を見せてくれる」
甘く、熱や狂気を孕んだ声音で囁いて。
「それにあんたなら、俺も大切に出来る。永遠に遊んでいられる」
これまでを見てきた彼に近づき、頬を撫で上げる。
その瞬間、込み上げる怒りと赤く染まる視界に、弾かれるようにして飛びかかり。
衝動のまま、男の喉笛に噛み付いた。
「まったく。こんな所で油を売っていていいんですかねぃ、先生」
「こいつらがネタをくれるというから、着いてきただけだ」
提灯を手にした子供の呆れた問いかけに、男は僅かに眉を寄せ答える。
視線は目の前の二人に向けたまま。手には黒い手帳を持ち、時折何かを書き付けている。
「何ですかい、これは。随分と大層な仕掛けですが」
「ここにいた化生の趣味。壊す前にせんせに見せてあげようと思って」
人形役の少年が起き上がり、くるり、と一回転して狐の姿になる。化生役の男も起き上がると、一度体を伸ばしてから赤く染まった喉元を撫でさすった。
「本気で噛みに来る奴があるかよ。あぶねぇな」
「せんせにちょっかいかける兄貴が悪い」
「ちょっとくらいいいじゃねぇか。アレならこれくらいはするぜ」
さする先から赤が消え、噛み痕一つそこにはない。
それを見て、先生と呼ばれた男の目元が僅かに綻ぶ。どうやら心配されていたようで、それに気づいた狐の兄は、破顔して擦り寄ろうと男に飛びついた。
最もそれは、間に入った子供と、弟である狐によって叶う事はなかったが。
「お触り禁止だよ。馬鹿兄貴」
「先生は見かけの通り、細っこくて直ぐに折れてしまいやす。お手を触れないでくだせぇ」
「さすがに抱きつかれたくらいで折れんだろう」
男の呆れた言葉に、答えるモノはない。
子供と弟、そして兄。
睨み合い、隙を窺い。けれども男へと飛びつく事が出来ぬのに焦れた兄は、狐の姿へと戻るとその場でじたじたと転がり出した。
「何だよ。少しくらいいいじゃん。アレの思考を真似るの、めんどかったんだぜ。お前はただ黙って座ってるだけだから、楽だっただろうけどさぁ」
化生の行動を再現したごっこ遊び。
たまには話を聞くのではなく、実際に見た方が面白いのではないかと、狐の兄弟が考えたものだ。
化生の姿を真似、行動を真似た二人の芝居は中々に新鮮なものであったと男は充足した気持ちで手帳をしまった。
「楽しんでたんだろ。途中までせんせで想像してたくせに、この変態兄貴」
「だって、お前で人形遊びしても楽しくねぇもん」
子供のように駄々をこね出す兄に、誰かが嘆息する。
仕方がない。楽しませてくれた対価は払わなければ。
冷めた目で見下ろす子供と弟の横を通り抜け、男は転がる兄の側で膝をついた。
「せんせ、甘やかさないで」
「話のネタをもらった礼だ。これくらいなら構わない」
「やっぱせんせぇ大好き。最高」
男の膝に乗り思う存分擦り寄る兄の背を、男は無言でなで続ける。ふん、と不機嫌に鼻を鳴らす弟に視線を向け、手招いた。
「別に、おれは甘やかさなくていいんだけど。せんせが言うなら撫でていいよ」
「じゃあ来んな。あっち行け」
「うっさい。そこどいて、我が儘兄貴」
兄を蹴り落とし、弟は空いた男の膝に乗る。
頭を撫でられ、ゆるり、と尾が揺らめいた。
「先生。前にも言いましたがね。手前共を甘やかしすぎると、欲が出て堕ちてしまいやすよ」
はぁ、と息を吐いて。子供は狐を膝から下ろし、男の手を取り立ち上がらせた。
締め切りはまっちゃあくれやせんよ、と男を急かし、歩き出す。
「堕ちた手前共の手で、こんな薄暗い所に閉じられるのは、先生も嫌でしょうに」
「お前らは堕ちんだろう。この空間はお前らには似合わん」
男の言葉に、子供は笑う。狐の兄弟もにたり、と唇を歪めた。
「先生がまだ見ていないだけで御座いますよぅ。先生が見ているのは、手前共の一部だけ。綺麗な部分だけですよ」
男の手を引く。どろり、と溶け出した空間を後に提灯の明かりだけを頼りに歩く。
ですからね、と子供は甘く優しく囁いた。
「先生は、これからも締め切りを守って、綺麗な手前共の話を書いていてくだせぇ」
そのためにも、早く戻って原稿を仕上げましょうねぇ。
くすくす笑う子供に、男は何も言わず。
ただ締め切り、原稿の言葉に、嫌そうに顔を顰めた。
20250114 『まだ見ぬ景色』
ぱちん、と火の爆ぜる音。
ぐつぐつと、鍋の煮える音。
美味しそうな香り。
心地の良い、温もり。
夢見心地で目を開けた。
「おやまあ、雑煮の匂いで起きっとは。食い意地さ張っとんば、昔っから変わんねな」
「ばばさま?」
囲炉裏を挟んだ向こう側。婆と呼び慕う女性が、鍋を混ぜているのが見えた。
口元が緩む。彼女がこの囲炉裏で作ってくれる料理は、どれも絶品だった。
彼女が見えなくなってしまってから、食べる事が出来なかった特別。その味を思い出しながら、背後の暖かな何かに擦り寄る。日向にいるみたいな温もりと匂いが、とても心地好い。
此処は夢の中なのだろう。懐かしく、愛おしい昔の夢の続きを見ているのだ。
「出来るまでまだかかる。それまで婆と話すっか」
「うん。ばばさまとお話する」
「そうかい。なら、何さ望んだか、婆に教えてけんねか」
「望んだ事?」
ぼんやりとする意識の中で、考える。
少し前に同じ事を誰かに言われた気もするが、心当たりはまったくない。
望み。彼女の言うそれは、妖に対するものだろう。そしてそれは、私の知る誰かに対してではなく知らない誰かに対してなのだろう。
知らない誰かに、何かを望む。皆から、してはいけない事として教えられてきた事だ。
その忠告を破ってまで、何かを誰かに望んだ記憶はなかった。
「お天道さんさ見て、何思った」
「太陽を、見て?」
考えすぎて重くなってきた瞼を擦りながら、思い出す。
太陽。初日の出。金の翼を広げた烏。
彼と一緒に日の出を待って、昇る太陽を見て。
「丸くて、欠けた所がなくて、いいなぁ、って。私、丸くもなれないし、欠けた所ばっかりだから。大人になって皆が見えなくなる事を、仕方ないって思えないし。さよならが寂しいって素直に言えないし。全部仕方ないって言う彼に、嫌だなって思ってしまうし」
嫌いな自分を指折り数える。
大人にならなければいけないのに、出てくるのは我が儘な子供の部分ばかりだ。
泣きたくなって俯くと、背後の何かが宥めるように優しく背を撫でてくる。
温かい。嫌な気持ちが溶けていって、何だか眠ってしまいそうだ。
夢の中にいるのに、さらに夢の中へと行ってしまう。
その前に答えなければと、目を擦り、閉じそうになる瞼を必死に開ける。
「私、嫌いな所ばっかりで、太陽が羨ましくなって。でも羨ましいって思う弱い私が、嫌で、嫌いで。それで、だから」
目を瞬く。
思い出した。ようやく気づいた。
「大嫌いな私なんて、このまま消えてしまえばいい、って思った」
太陽の熱で溶かされてしまえばいいと、あの時確かに思ったのだ。
それが望みになったのか、分からないけれど。
「そうかい。じゃあ今のおめは、残った一欠片の好きで出来てんだな」
「好き?」
好き、なのだろうか。
目を閉じ、背後の誰かに凭れながら思う。
温かくて、眠くて。考えがまとまらないけれど。
「うん、好き。皆が好き。大好きな皆が好きだって言ってくれる私は、好き」
それだけは、胸を張って言えた。
夢の中でしか逢えなくなってしまった彼らに微笑んで、大好きと繰り返した。
すうすう、と穏やかな寝息が聞こえ、少女を抱いた男は詰めていた息を吐き出した。
「今の話さ聞いて、どうすんだ」
婆と呼ばれた、乙女のようにも老婆のようにも見える女は、鍋を混ぜながら男に問う。
「どうするもなにも。先ずは不安定な存在を確立しなければならないだろう」
寝入る少女を見る。こうして触れていなければ揺らいでしまう程に、少女の存在は薄い。
起こしてしまわぬよう、そっと少女の頬に触れる。熱も感触も感じられぬ事が、口惜しかった。
「一欠片でも、残ってくれて良かった」
男の隣。赤い振り袖の少女が、微笑む。振り袖の少女に賛同するように、囲炉裏端に集まった妖達が、それぞれに頷いた。
「大丈夫。この子はわたしたちを好きだと言った。それなら、わたしたちで満たしてあげればいい」
「そうさな。わしらが好きな自分が好きだ言ったんだ。簡単な事さ」
「そう、か。そうだな」
満たされた少女は、人ではなくなるのだろうけれど。
このまま一人、消えてなくなるよりは、と男は哀しげに笑った。
元より、二度と現世に返さぬ覚悟で、妖の領域に少女の住み慣れた屋敷ごと隠したのだ。今更引き返せはしない。
「家族はどうだ」
男の言葉に、誰かが鼻で笑った。
「そりゃあ、血眼になって探しているよ。屋敷の方をな」
キジトラ柄の猫が、憎々しげに吐き捨てる。
思い出すだけでも忌まわしいと言わんばかりに、しなやかな尾が床を激しく打ち据えた。
「この子は死んだ事になってるよ。山神様《あんた》に娘は見初められたって嘯いて。何か残るものがあればって、屋敷に残った金目の物を探してんだから、全くもって笑える」
笑える、というが、猫の纏う気配は鋭く、冷たい。
猫の話に、周囲の妖達も騒つき、不穏な気配を漂わせていく。
実の両親に欠片も愛されていない事実に、少女が愛し、愛された妖達は、皆己の事のように怒りを露わにした。
「どうする?このまま何もしないという訳にもいかないだろ?」
したん、と激しく尾を打ち鳴らし、猫は男に問う。
だが男は緩く笑みを浮かべ。その瞳に冷たい激情を宿しながらも、否を答えた。
「何もするつもりはない」
「何故だ?あんな腐った人間でも、情がわくのか?」
誰かが、咎めるように、嘲るように問いかける。
男はそれには何も答えず。口元を歪めたまま、くつり、と喉を鳴らした。
「そうさね。なあんもせんでいいだろうよ。それが似合いだ」
ひひ、と女が嗤う。
「そう言えば、あそこは忌地ね」
振り袖の少女が、然も今気づいたとばかりに呟いた。
「そうか」
「それならば、黙するままが正解か」
「長く苦しませる事になるだろうな。末恐ろしい」
ざわり、と妖達が嗤う。
誰しもが、眠る少女の両親の先に訪れるであろう悲劇を思い、愉しみだと囁いた。
そんな周囲を、男は肩を竦めて見渡した。
「酷い言い様だ。俺はただ、人の望みに応えるまでだ。以前あれらが望んだだろう?山を切り開くのに、我らはいらぬと。手を出すなと望んだのだから」
かつては少女の望みに応えて、山が切り開かれていくのを阻んでいた。
だが少女が此方側に来たのだから、山を守り、人を守る必要はなくなった。
忌地。かつて山には深い沼地が広がるばかりであり。雨が続く度に水が村を押し流していた事を、今を生きる人は誰一人覚えていないのだろう。
「望みには応えてやるべきだ。我らは妖なのだから」
嗤う。
低く、冷たく。嘲りを孕んだ嗤い声が響く。
ただ一人。男の腕の中で眠る少女だけは、穏やかに微笑みを浮かべていた。
20250113 『あの夢のつづきを』
手を繋ぐ。
互いに冷え切った指は、熱の一欠片も感じられない。
それでも繋いでいれば段々に熱を持つ手に、嬉しくなって目を細めた。
「あたたかいね」
「うん。あたたかい」
噛みしめるような言葉に、笑みが浮かぶ。
「寒くない?痛くない?」
「もう寒くもないし、どこも痛い所はないよ」
「寂しくはない?」
「一緒にいてくれるから、寂しくはないよ」
確かめるように問いかければ、優しい声が返る。
もっと嬉しくなって、手は繋いだままその胸元に擦り寄った。冷たい体を温めるように、隙間なく触れる。
「嫌な所や変な所はない?」
「嫌な所はないけど…変、というか、不思議な感じはしてる」
ほんの少し、戸惑いを乗せた声。
顔を上げて視線を向ける。穏やかで優しい微笑みの中に困惑が見て取れて、手を繋いでいない方の手で頭を撫でた。
「いい子、いい子」
「くすぐったいよ」
くすくす、と笑う声が漏れる。
大丈夫だと、何度も頭を撫でていれば、同じように頭を撫でられた。
優しい手。初めて会った小さな少女の時から、変わらない。
どんな苦しい事、悲しい事があっても、最後の時まで彼女は優しいままだった。
「本当に不思議。もう外には出られないんだって思ってた。二度と会えないんだって、諦めてたのに」
「約束したもん。またね、って」
「そうだね。また逢えて、嬉しい」
ふわり、と柔らかな微笑み。
陽だまりのようで、あたたかい。
彼女は、変わらない。それが少しだけ哀しかった。
「これから、どこに行けばいいのかな」
「還り道が分からないなら、待っていれば迎えに来てくれるけど。分かるのなら、一緒に行こうか」
「いいの?」
不安が浮かぶ目を見て頷く。静かなありがとう、の言葉に、どういたしまして、と笑顔で答えた。
手だけは繋いだまま、体を離して二人、歩き出す。
幼い頃のように、ゆったりとした足取り。周囲の景色を見ながら、少しだけ寄り道をしながら歩いて行く。
それでも還る場所へ向かう足が、大きく逸れる事はない。彼女の足取りに迷いはない。
「懐かしいね。小さい頃を思い出す」
「そうだね。あの時は外に出る事も、走る事も出来たから」
「お転婆さんだったものね」
「それは忘れてよ」
笑い合う。取り留めのない話をしながら、思い出に浸る。
変わったもの、変わらないもの。一つ一つがとても愛おしい。
「ねぇ、狸さん」
柔らかな声。幼い頃と変わらない、その呼び名。
「なあに?」
首を傾げて見つめれば、あのね、とか細い声が、続く言葉に迷っている。
立ち止まり、彼女の目を見る。恥じらうように頬を染めて、小さく腕を広げた。
くすり、と笑う。
繋いだ手を離し人の形から、元の小さな狸の姿に戻る。彼女の腕の中に飛び込めば、そっと抱きしめられた。
「狸さんは、あたたかいね」
ほぅ、と彼女の唇から吐息が漏れる。首元に擦り寄り、頬を舐めれば、くすぐったいよ、と小さな笑う声が漏れた。
抱かれたまま、彼女の足は再び歩き出す。
「還る場所って、どんな所なんだろうね」
「暗い場所だよ。皆そこで眠るからね。暗くて静かなんだ」
「眠るの?ちゃんと眠れるかな」
微かな不安に揺れる彼女の声に、大丈夫、と頬を寄せる。
眠れなかったのは、前の話だ。もう蝕む体の痛みなどなくなってしまったのだから、気にする事はないだろうに。
「皆眠るんだよ。新しく生まれるためだから、眠れる」
「新しく、か。次は元気にいられるかな」
「元気になるよ。そして今度は、よぼよぼのおばあちゃんになるんだ」
そうであれ、と思いを込めて口にする。
そこにきっと自分はいない。寂しさはあるけれど、敢えてそれは口にせず、優しい彼女の幸せだけを思った。
「また、会えるかな」
小さな、消え入りそうなほど微かな声。
応えるべきかを迷う。過去に敢えて捕らわれる必要はないはずだ。
「どうかな。きっと新しくなったら、全部忘れてしまうから。会えても会えなくても変わらないと思うよ」
「会いたいと思っちゃ駄目なの?」
彼女の笑みが陰る。泣きそうに膜を張りだした目を見て、慌てて宥めるように頬を舐めた。
「分かった。また会おう?待っていてあげるから」
「約束、してくれる?絶対だよ」
「ん。約束」
首元に擦り寄り、忙しなく脈打つ鼓動を鎮めるように、目を閉じる。
会いたいのは同じだ。彼女がほんの少しでもここに未練を残してくれたのなら、そのまま攫ってしまいたいと思うくらいには。
あたたかい。約束一つで、心が跳ねる。幸せに緩む口で約束、と繰り返した。
「じゃあ、早く行かないと。眠って、ちゃんと起きないとね」
「そうだね。少し急ごうか」
「どこに行くの?」
不意にかけられた声。
振り返れば、首を傾げた常世の迎え。
「還るのならば、そっちは違うけれど」
無言で彼女と見つめ合う。
「てっきり知っているのかと思ってた」
「何も言わないから、合ってるのかと思ってた」
迎えを見る。
何も言わずに、首を振られた。
もう一度、彼女を見つめ合い。腕の中から飛び出して人の形を取り、手を繋いだ。
迎えの元へ歩み寄る。
「よくいる。迷子」
「迷子」
「こっち。着いてきて」
促されるまま、迎えの後について歩き出す。
冷えてしまった手を温めるように、少しだけ強く手を握り。時折視線を合わせては、笑い合った。
別れは寂しくはない。またね、の約束が、心を軽くする。
晴れやかな、まるで陽だまりのようなあたたかさで、常世への道を一緒に歩いていた。
20250112 『あたたかいね』
扉の前へ立つ。
白い大きな扉。幼い頃から見てきたそれは、成長した今でも変わらない大きさで見るものすべてを圧倒する。
手にした鍵の束に目を落とす。
この家に生まれた者に、必ず与えられる鍵束。この中の一つを使い、扉を開けなければならない。
扉に視線を向ける。開けた者の、未来へ続くと言われている扉。
早い者は五つの頃から鍵を選び、扉を開ける。
そうして、ようやくこの家に認められるのだ。
「今日もそうやって、無駄な時間を過ごしていくのか」
背後で聞こえる嘲りや侮蔑を含んだ嗤い声に、僅かに眉を潜める。
声を返す事はしない。何かを言った所で何の意味もない事は、随分と前から理解してしまっていた。
「自分で未来も決められない泣き虫に、ここに来る資格はないよ。いつまでも居座ってないで、さっさと戻んな」
「そうですね」
冷たく険を帯びた言葉に、肯定を返す。
選べぬ者がこの場にいるだけで、業腹なのだろう。幼い頃はまだ優しさのあった声は、今はもう苛立ちを隠そうともしない。冷たい言葉ばかりを吐き捨てられる。
目を伏せる。最初から選べぬ事は分かっていた。
「十五になっても選べません。資格がないからなのでしょう」
手にした鍵束を一度強く握り、背後を振り返る。そして声の主に鍵束を放り投げた。
「どういう、つもりだ」
「お返しします。申し訳ありませんでした」
一礼して、扉へと向き直る。
迷いなく把手を掴み、押し開けた。
選べぬのならば、ただ受け入れればいい。
「馬鹿が。止せっ」
焦りを含んだ声を背後に聞きながら、扉の向こうへ足を踏み入れる。
不安も恐怖も、何一つなく。戻らぬ意思で、扉を閉めた。
星のない夜空に、丸く浮かぶ白い月。
月の光を反射してか、きらきらと光る水面。
寄せては返す波打ち際に、小舟が一つ。
とても静かだ。
選択をしない、与えられた未来とは、こうも静かで穏やかなものなのか。
裸足の足が砂に埋まる。その感触が心地好い。
ゆっくりと歩き出す。小舟に乗って海の向こうへ向かうために。
その先のあるのだろう終を思い、長い事忘れていた笑みを浮かべた。
「やり直しだ。これ以上アレに近づくな」
腕を掴まれ、強い力で引かれる。感情を削ぎ落としたかのような低い声に、体が強張り足が縺れた。
「戻るぞ。さっさとしろ」
半ば引き摺られる形で、扉へと戻される。振り返る視線の先の小舟が波に揺れるのを見て、思わず手を伸ばした。
「この馬鹿が」
忌々しげな舌打ちが聞こえ、腕を掴む力がさらに強くなる。その痛みに顔を顰め腕を放そうと踠くが、逆に掴む力が強くなるだけで、離す事は出来なかった。
「アレが何かも知らずに求めるな。アレに喰われれば、二度と此処からは出られんぞ。還る事すら許されない」
冷たく吐き捨てる声に、逆らう事を諦め、腕を引かれるままに扉を潜り抜ける。
放り投げるようにして手を離され、耐えきれずに床に倒れ込んだ。
音を立てて扉が閉まる。倒れ込んだまま起き上がる事も出来ないでいる己の眼前に、扉を抜ける前に投げ渡した鍵束が晒される。
「選べ。いつまでも目を逸らすな」
体を引き起こされ、手に鍵束を握らされる。
首を振り、返そうとしても許されない。
「選べません。私には鍵の違いは分かりません」
「分かるはずだ。この家に生まれた者は、選べるように出来ている」
「私はこの家に相応しくありません。だから選べぬと言われています」
「何を言っているんだ」
俯く顔を無理矢理上げられ、目を合わせられる。
その表情に怒りはない。困惑を浮かべた目に、何も知らされていないのだと理解した。
「私は母を殺して生まれた忌み子です。呪われ穢れた私は、この家の障害にしかならない」
「何だ、その戯れ言は。まさかお前、それを本気にしているのか」
「未来など選ぶ権利はないと皆言っています。だから選ぶのではなく、受け入れろ、と」
「それは誰が言った」
口を閉ざす。
誰が、ではない。誰もが言っていた事だ。
それを察したのだろうか。幾分穏やかさを帯びた声が、問いかける。
「逆に、言わなかった者はいるか?お前を認めてくれる誰かはこの家にいるのか?」
目を逸らし、首を振る。
忌み子を認める者など、いるはずがない。
「鍵を使わずに扉を開ける事を教えたのは、誰か言えるか?」
「…父、が」
「そうか。あの男、贄を作り上げようとしたか」
冷たい声音に、肩が震える。
全てを知って、この家の者のように声の主も己を忌むのだろう。
忘れたと思っていたはずの悲しさや苦しさを、唇を噛む事で耐える。
少しの我慢だ。鍵を返し、もう一度扉を開ければ、それで終わる。
「選べぬ私には、鍵は不要です。ですから」
「それはお前のためだけの鍵だ。いいか、良く聞け」
逸らしていた目を、もう一度合わせられる。
「お前は忌み子ではない。呪われたというならば、それはこの家の血筋全てだ。遠き祖先の過ちから一族を守るため、私は鍵を作り、未来を選ばせる事でアレとの縁を断ち切っていた。そういう契約だ」
幼い頃に聞いていた優しい声で、言い聞かせるように言葉が紡がれていく。
知らない事、聞かされなかった事ばかりで、うまく理解が出来ない。
「契約?」
「そうだ。贄を作らぬ条件で、守り続けていた。だがお前の父は、お前を作った。何一つお前に教える事なく、お前を忌み子として扱う事で、選択を否定させた。そして扉を開けるよう、仕向けた」
混乱する己を抱き上げて、声の主は扉の前に歩み寄る。
鍵束のそれとは異なる深紅の鍵を差し込み鍵を開け、扉を開いた。
開いた先に海はない。代わりに地下へと続く長い階段が見えた。
「お前から扉を開く事で、お前の意思だとしたかったのだろうが。選択出来ぬよう作り上げたのならば、贄と変わらないからな。契約違反だ」
階段を下りていく。先の見えない恐怖に震え出す体を宥めるように、優しく背を撫でられる。
恐怖と、優しさと。相反する感情に何も考えられなくなっていく。手にしたままの鍵束が、階段を下りる度にじゃらじゃらと音を立てた。
未来を選ぶ鍵。守るための鍵。契約。
分からない。もう考えるのが苦しい。
「もう一度聞くが、この家にお前を愛した者はいないんだな?」
「分からない。愛されていたのかも、そうでないのかも。何も」
「そうか。どちらにしても、この先にあるもので分かるが…どうやら、はずれのようだな」
「何?」
立ち止まる気配に、背後を振り返る。
視界に入ったそれに、目を見開き息を呑んだ。
「…ぁ、やだ」
座敷牢。幼い頃、扉の前につれて行かれる以外に、押し込められていた場所。
体の震えが止まらない。泣いて叫んでも、誰にも届かない絶望を思い出し、涙が零れ出す。
「大丈夫だ。これはただの幻。本物は、後で私が壊しておいてやろう」
「ごめん、なさい。私、ごめんなさい。許してっ」
「聞こえていない、か。仕方がない。少し眠っているといい。その間に全て終わらせておく」
背を撫でていた手が、額に触れる。
「すまないな。気づいてやれなくて」
「待っ、て。いかない、で」
「契約違反の対価を払ってもらうだけだ。直ぐに終わる」
落ちていく意識に抗いながら、必死に声の主にしがみつく。
僅かに理解できる、契約違反と対価の言葉に、不安が募った。
「今まで与えていたものを返してもらうだけだ。選択した未来が、本来受け入れるべき未来に成り代わるだけだよ」
あの海の向こうに渡るだけ。
意識の途切れる間際に聞こえた言葉は、今まで聞いたどんな声よりも優しく、そして残酷に響いた。
20250111 『未来への鍵』
「じゃーん!はい、どうぞ」
にこにこ笑う少年が差し出した小瓶を受け取って、少女は不思議そうに首を傾げた。
「なぁに?これ」
「帚星の欠片!」
小瓶の中には、きらきらと燦めく光の粒。
宙を漂い、弾けるように点滅するそれらは、確かに星のようにも見えた。
「人間ってさ、流れる星に願いを言うんだろ?だからいつでも望めるようにって、取ってきたんだ!」
誇らしげに少年は胸を張る。そんな少年の姿に、少女は微笑んで少年の頭に手を伸ばし、いい子と撫でた。
撫でられて、少年は目を細める。もっとと強請るように、頭を撫でる手に擦り寄った。
「にひひ。喜んでもらえて良かった。頑張って一晩中、飛び回った甲斐があるってもんだな」
「無茶するのは、駄目だよ?」
心配する少女に、分かってる、と笑顔で返し。少年は小瓶を持つ少女の手を包み、引き寄せた。
間近で少女と目を合わせ、隠しきれない好奇心で問いかける。
「なぁ、何を望むんだ?」
星の欠片に。
問われた少女は、少年の目を見て、そして小瓶を見て目を瞬いた。
「望みは、特にないよ?」
その答えに、少年は分かりやすく頬を膨らませる。
「何かないの?折角取ってきたんだしさぁ」
「だって、望みはいつもあなたが応えてくれるでしょう?」
当然のように少女は告げる。
確かに、と少女の言葉に、少年は頷いた。
友達になってほしい、と望まれてからずっと、少女は少年にだけ望みを口にしている。
遊んで欲しい。側にいて欲しい。一緒に空を飛んでみたい。
今まで望まれた事を思い出す。
膨れた顔は一瞬で満面の笑顔になり、背の翼は嬉しさを表すかのように羽ばたいた。
「そっか!そうだな。俺がいるから、他に望む必要はなかったな!」
そうだった、そうだった、と少年は機嫌良く笑う。
それならば、少女に渡した星のかけらは必要ない。回収しようと少年は小瓶に手を伸ばし、だがその手を少女はするり、と躱した。
「望みはないけれど、あなたからもらったものだもん。返さないからね」
「むぅ。何か複雑。気に入ってもらえて嬉しいけど、何か思ってたのと違う」
「いつもありがとう。でもわたしばっかりが、もらってる。わたし、何もお返しが出来ていないのに」
少女の笑みに不安が混じる。与えてもらうばかりで、それが当たり前になってしまいそうになるのが怖いのだろう。
そんな少女に、少年は気にするなと笑いかける。先ほど少女が少年にしてくれたように手を伸ばし、少女の頭を優しく撫でた。
「俺があげたいからいいの!気になるなら、もっと俺に望んで。妖は人間の望みに応えて、ちゃんと正しい妖になれるんだからさ」
「よく分からない。でもこれからも一緒にいてくれると、いいな」
些細な望み。出会った時から幾度となく望まれてきたもの。
敢えて望み応える必要もないと苦笑しながら、少年は応えようと口を開き。
ちかり、と小瓶の中の欠片が瞬いた。
「あれ?何か光った?」
首を傾げ、少女は小瓶を目の前にかざす。
小瓶の中の欠片は、変わらずゆらゆら宙を漂い、燦めいている。けれども先ほどよりその煌めきは強くなっているように少女には感じられた。
「駄目。やっぱ返して」
顔を顰めた少年が、有無を言わさず少女の手から小瓶を奪う。
ちょっと、と取り返そうと手を伸ばす少女から小瓶を遠ざけながら、駄目、と少年は繰り返す。
「俺が望まれたんだ。おまえじゃない」
視線は小瓶の中の欠片に向けられ。少女には決して向けられる事のない、低く冷たい声音で欠片に告げる。
「ごめん。これ捨ててくるから、ちょっと待ってて」
「どういう事?」
「このままじゃ、妖になっちゃうから。だからその前に捨ててくる」
「待って」
翼を大きく羽ばたかせ飛ぼうとする少年の服の裾を掴み、少女はか細い声で引き止める。
その目は戸惑いと不安に揺れて。少年は眉を寄せ逡巡し、結局は留まる事を決めたのだろう。一つ息を吐いて、広げた翼を折りたたんだ。
「少しの間だけだからさ。すぐ戻って来るから、いい子に待っててよ」
「やだ。捨てないで。返してよ」
「駄目だって。こいつ、俺に望まれたものを横取りしようとしたんだから。しかもおまえの側にいるって望み。冗談じゃない」
忌々しいと小瓶の中の欠片を睨めつけた。
少女は意味が分からないまま、欠片に視線を向ける。
ちかちかと点滅を繰り返す光。ただ宙を漂っていただけの動きは今、忙しなく小瓶の中を駆け回っている。まるで外に出せと言わんばかりの激しさに、少年の表情がさらに険しくなった。
「一度個として認識すると、駄目だな。元は同じなのに、まったく違うモノだ。これは、俺じゃない」
小さな舌打ちに、少女の肩が跳ねる。
「あ。ごめん。怖がらせるつもりはなかった」
慌てて少女の背を撫でて。大丈夫、ごめんね、と繰り返す少年に、少女は緩く首を振り笑みを浮かべた。
控えめに少年の服の裾を掴み、視線は小瓶へと向けて呟いた。
「どうしても捨てに行くなら、せめて一緒に行きたい」
「そんなに気に入ったの?何か望みでも出来た?」
少年の問う言葉に、少女はだって、と口籠もる。
掴んだ裾を引いて、何かを言いかけては止める。何かを躊躇うかのように、小瓶と少年の間で視線が彷徨った。
「ん。言って。ちゃんと言葉にしてくれなきゃ、分かんない」
「だって。だってね。わたしのためだけの贈り物。捨てられるのは嫌だったの」
消え入りそうな声。
一つ瞬きをして。少年は幸せそうに微笑んだ。
裾を掴む少女の手を取り、小瓶の蓋に触れさせる。そしてそのまま蓋を開ければ、勢いよく中の星の欠片が飛び出した。
ちかちかと欠片が少女の前で燦めく。少女の周囲を飛び回り、擦り寄ろうと距離を詰める。
だが、星の欠片が少女に触れるより早く、少年は少女を抱き上げ高く飛び上がった。
「え?ちょっと」
突然の事に混乱する少女を、少年は落とさぬようにしっかりと抱え直す。
欠片から逃げるように速度を上げる少年は、とても楽しげだ。
「今から鬼ごっこをしよう!あいつが俺たちに追いついたら、あいつの勝ちで俺たちと一緒にいてもいい。でも追いつけなかったら、俺の勝ち。一緒にはいさせない」
速度が上がる。振り返り見る星の欠片は、少年に追いつく事が出来ず、遠ざかっていく。
「捨てるんじゃない。遊んでるんだから寂しくないだろ?」
悪戯が成功した時の子供の表情で少年は笑う。
追いつけるはずはない。少女以外でそこまで優しくなれはしない。
鼻歌でも歌い出しそうなほど上機嫌な少年は。
少女を抱えたまま、流れる星よりも速く夜空を駆け抜けた。
20250110 『星のかけら』