ぱちん、と火の爆ぜる音。
ぐつぐつと、鍋の煮える音。
美味しそうな香り。
心地の良い、温もり。
夢見心地で目を開けた。
「おやまあ、雑煮の匂いで起きっとは。食い意地さ張っとんば、昔っから変わんねな」
「ばばさま?」
囲炉裏を挟んだ向こう側。婆と呼び慕う女性が、鍋を混ぜているのが見えた。
口元が緩む。彼女がこの囲炉裏で作ってくれる料理は、どれも絶品だった。
彼女が見えなくなってしまってから、食べる事が出来なかった特別。その味を思い出しながら、背後の暖かな何かに擦り寄る。日向にいるみたいな温もりと匂いが、とても心地好い。
此処は夢の中なのだろう。懐かしく、愛おしい昔の夢の続きを見ているのだ。
「出来るまでまだかかる。それまで婆と話すっか」
「うん。ばばさまとお話する」
「そうかい。なら、何さ望んだか、婆に教えてけんねか」
「望んだ事?」
ぼんやりとする意識の中で、考える。
少し前に同じ事を誰かに言われた気もするが、心当たりはまったくない。
望み。彼女の言うそれは、妖に対するものだろう。そしてそれは、私の知る誰かに対してではなく知らない誰かに対してなのだろう。
知らない誰かに、何かを望む。皆から、してはいけない事として教えられてきた事だ。
その忠告を破ってまで、何かを誰かに望んだ記憶はなかった。
「お天道さんさ見て、何思った」
「太陽を、見て?」
考えすぎて重くなってきた瞼を擦りながら、思い出す。
太陽。初日の出。金の翼を広げた烏。
彼と一緒に日の出を待って、昇る太陽を見て。
「丸くて、欠けた所がなくて、いいなぁ、って。私、丸くもなれないし、欠けた所ばっかりだから。大人になって皆が見えなくなる事を、仕方ないって思えないし。さよならが寂しいって素直に言えないし。全部仕方ないって言う彼に、嫌だなって思ってしまうし」
嫌いな自分を指折り数える。
大人にならなければいけないのに、出てくるのは我が儘な子供の部分ばかりだ。
泣きたくなって俯くと、背後の何かが宥めるように優しく背を撫でてくる。
温かい。嫌な気持ちが溶けていって、何だか眠ってしまいそうだ。
夢の中にいるのに、さらに夢の中へと行ってしまう。
その前に答えなければと、目を擦り、閉じそうになる瞼を必死に開ける。
「私、嫌いな所ばっかりで、太陽が羨ましくなって。でも羨ましいって思う弱い私が、嫌で、嫌いで。それで、だから」
目を瞬く。
思い出した。ようやく気づいた。
「大嫌いな私なんて、このまま消えてしまえばいい、って思った」
太陽の熱で溶かされてしまえばいいと、あの時確かに思ったのだ。
それが望みになったのか、分からないけれど。
「そうかい。じゃあ今のおめは、残った一欠片の好きで出来てんだな」
「好き?」
好き、なのだろうか。
目を閉じ、背後の誰かに凭れながら思う。
温かくて、眠くて。考えがまとまらないけれど。
「うん、好き。皆が好き。大好きな皆が好きだって言ってくれる私は、好き」
それだけは、胸を張って言えた。
夢の中でしか逢えなくなってしまった彼らに微笑んで、大好きと繰り返した。
すうすう、と穏やかな寝息が聞こえ、少女を抱いた男は詰めていた息を吐き出した。
「今の話さ聞いて、どうすんだ」
婆と呼ばれた、乙女のようにも老婆のようにも見える女は、鍋を混ぜながら男に問う。
「どうするもなにも。先ずは不安定な存在を確立しなければならないだろう」
寝入る少女を見る。こうして触れていなければ揺らいでしまう程に、少女の存在は薄い。
起こしてしまわぬよう、そっと少女の頬に触れる。熱も感触も感じられぬ事が、口惜しかった。
「一欠片でも、残ってくれて良かった」
男の隣。赤い振り袖の少女が、微笑む。振り袖の少女に賛同するように、囲炉裏端に集まった妖達が、それぞれに頷いた。
「大丈夫。この子はわたしたちを好きだと言った。それなら、わたしたちで満たしてあげればいい」
「そうさな。わしらが好きな自分が好きだ言ったんだ。簡単な事さ」
「そう、か。そうだな」
満たされた少女は、人ではなくなるのだろうけれど。
このまま一人、消えてなくなるよりは、と男は哀しげに笑った。
元より、二度と現世に返さぬ覚悟で、妖の領域に少女の住み慣れた屋敷ごと隠したのだ。今更引き返せはしない。
「家族はどうだ」
男の言葉に、誰かが鼻で笑った。
「そりゃあ、血眼になって探しているよ。屋敷の方をな」
キジトラ柄の猫が、憎々しげに吐き捨てる。
思い出すだけでも忌まわしいと言わんばかりに、しなやかな尾が床を激しく打ち据えた。
「この子は死んだ事になってるよ。山神様《あんた》に娘は見初められたって嘯いて。何か残るものがあればって、屋敷に残った金目の物を探してんだから、全くもって笑える」
笑える、というが、猫の纏う気配は鋭く、冷たい。
猫の話に、周囲の妖達も騒つき、不穏な気配を漂わせていく。
実の両親に欠片も愛されていない事実に、少女が愛し、愛された妖達は、皆己の事のように怒りを露わにした。
「どうする?このまま何もしないという訳にもいかないだろ?」
したん、と激しく尾を打ち鳴らし、猫は男に問う。
だが男は緩く笑みを浮かべ。その瞳に冷たい激情を宿しながらも、否を答えた。
「何もするつもりはない」
「何故だ?あんな腐った人間でも、情がわくのか?」
誰かが、咎めるように、嘲るように問いかける。
男はそれには何も答えず。口元を歪めたまま、くつり、と喉を鳴らした。
「そうさね。なあんもせんでいいだろうよ。それが似合いだ」
ひひ、と女が嗤う。
「そう言えば、あそこは忌地ね」
振り袖の少女が、然も今気づいたとばかりに呟いた。
「そうか」
「それならば、黙するままが正解か」
「長く苦しませる事になるだろうな。末恐ろしい」
ざわり、と妖達が嗤う。
誰しもが、眠る少女の両親の先に訪れるであろう悲劇を思い、愉しみだと囁いた。
そんな周囲を、男は肩を竦めて見渡した。
「酷い言い様だ。俺はただ、人の望みに応えるまでだ。以前あれらが望んだだろう?山を切り開くのに、我らはいらぬと。手を出すなと望んだのだから」
かつては少女の望みに応えて、山が切り開かれていくのを阻んでいた。
だが少女が此方側に来たのだから、山を守り、人を守る必要はなくなった。
忌地。かつて山には深い沼地が広がるばかりであり。雨が続く度に水が村を押し流していた事を、今を生きる人は誰一人覚えていないのだろう。
「望みには応えてやるべきだ。我らは妖なのだから」
嗤う。
低く、冷たく。嘲りを孕んだ嗤い声が響く。
ただ一人。男の腕の中で眠る少女だけは、穏やかに微笑みを浮かべていた。
20250113 『あの夢のつづきを』
1/14/2025, 4:07:43 AM